第九話 『最初の朝餐』
天使同棲生活二日目。土曜休日、その早朝。
空は未だに夜の残り香を引きずってはいるが、そろそろ可愛げな鳥の囀りが爽やかに朝の訪れを教えてくれる頃合いである。
少年はこの静かな時間帯がひとときであった。
物音一つしない完全な静寂はそれだけで心地が良いものであるし、薄ら寒いリビングの中で一人茶を啜るのもまた中々に趣深い。
しかし、そんな清々しい一日の始まりの中にあって、少年――――
ただでさえ陰気臭い目の下のクマは更に濃くなっているし、全体的に覇気というモノが枯れ果ててしまっている。
「……事実は小説よりも奇なり、ってか。こんな大根役者にそんな大役務まんのかよ」
昨日よりは幾らか冷静になった頭で、己の置かれた状況を分析しつつ、少年は一人忌々しそうに独り言つ。
態々言うまでもなく樋田可成は凡人である。
彼はちょっと性格と口と頭が悪く、ヘタレでクズでDQN臭いところを除けば、都会ならばどこにでもいる量産型の一般人に過ぎないのだ。
そんなただの不良Aが一日に何度も生死の反復横跳びを繰り広げた挙句、曰く付きのチート能力を押し付けられるだなんてあり得るはずがない。
そう、相も変わらず現実から目を逸らしまくる樋田であったが、そんな彼のネガティヴ思考は突如その幕を下ろすことになる。
「うぅ、早いなカセイ……」
「どわっつッ!!」
突然湧いた背後からの声に、思わず椅子から立ち上がる。
恐る恐る声の方を振り返ってみると、やはりそこに立っていたのは、
「おう、晴か。いきなり湧いてくんじゃねぇよ」
急な天使様の登場に思わずきょどる樋田。
やがて彼はそんな少女の姿をつむじから爪先まで一通り眺めると、
「女の子としてその見た目はどうなんですかね?」
「むうぅ……、仕方がないだろう」
樋田の口から自然と溢れた辛辣なコメントに、晴はその細い眉を不機嫌そうに釣り上げた。
彼女をこうして見ていると、容姿だけならば一級品であるのに、何とももったいないことをするなあと、思わず溜息もつきたくなる。
まずとにかく寝癖が酷い。
艶のある青みがかった黒髪は、斬新な生け花なのかと勘違いしてしまうレベルで爆発している。
ぱっちりとした二重の瞳も今は如何にも眠そうな半開きであるし、トドメとばかりに口の周りは乾いた涎のせいでカサカサになってしまっていた。
昨日までの美しく勇ましい姿はどこへやら。
こうして顔を突き合わせていると、最早ただの『ダメだけどそこがまたカワイイ妹』的な存在にしか見えなかった。
「……そんな眠いんならまだ寝てろよ。テメェもテメェで疲れてんだろ?」
「いや、実はまだこっちの世界に来てから日が浅くてな……。正直人間流の生活というモノがよくわからん。そこで本日は早めに起床し、朝のうちからキサマに色々と教えてもらおうという腹積りなのだ、フッフッフ」
頼み込む立場でありながら、なぜかドヤ顔で偉そうに腰に手を当てる天使もとい筆坂晴。彼女はふんふんと謳うように指を揺らしながら、こちらをニッコリとした素敵な笑顔で覗き込んでくる。
途端に少年の鼻腔を、女の子独特の甘酸っぱい香りがくすぐった。そのあまりの距離の近さに、童貞が童貞らしく動揺したのはいうまでもない。
「ひっ、ひっつくんじゃねぇよ鬱陶しい……っだーたよ、さっさと付いてきやがれ」
「よーし、相分かったッ!!」
一応お約束のように悪態をつきながらも、そんな安い笑顔一つで呆気なく了承しまう程度には、樋田可成という男はチョロいのであった。
何はともあれ、これから自分と彼女は同じ屋根の下で暮らすことになるのだ。
血の繋がらない者同士の同棲は何かと波乱を生むモノであるし、今のうちに人間としてのマナーを彼女にとって叩き込んでおくのも悪くないだろう。
と、そのときはまだ軽く考えていたのだが、これが思っていたように上手くはいかなかった。
流石に服の着替え方ぐらいはわかるようだったが(樋田としてはわからない方が良かった説を提唱したい)、この天使様冗談抜きで生活力が低いのである。
うがいをした後そのまま水を飲んだり、服で濡れた顔を拭こうとするのはまだ大分マシな方。
歯ブラシで髪を溶かそうとした時なんかは、もう本気で頭を抱えそうになった。
「何故このハンドソープとやらで顔を洗ってはいけないのだ。無能と非効率が過ぎるぞ人間。こっちの方が汚れも綺麗に落ちやすそうだというのに……」
「だから皮脂とりすぎて肌乾燥したら元も子もねぇって説明してんだろ。さっきから文句多いぞテメェ」
しかもこの天使、自分から教えろと言ったくせに注意すると露骨に不機嫌になりやがるのだ。
無知蒙昧と天真爛漫までならまだ可愛げもある。だがそこに傍若無人が加われば、最早殴りたいとしか思えないこの笑顔。
そんなこんなでようやく朝餉の準備までこぎつけた頃には、既に時刻は八時を回ってしまっていた。
軽く四、五歳は老け込んだレベルでげんなりとうずくまる苦労少年樋田可成。
しかし、一方の晴は己の成長への喜びを胸に、キラキラとその大きな瞳を光り輝かせていた。
「ふむふむ、なるほどこれで朝の支度は大体覚えたぞ。キサマら人間は一日を朝昼夜と三分割すると言うし、これはもう人間としての生活を半分近くマスターとしたと言っても過言ではないのではないかァッ!?」
「……あぁそうだな。クソニートとしてならもう八割方出来上がってるな」
ビシリと効果音が出そうな勢いでこちらを指差すバカを適当にあしらい、樋田はそのまま崩れ落ちるようにテーブルにつく。天使も少年の悪態を気にも止めず、黙ってそれに続いた。
あとはBGMとして適当にテレビを付ければ、ようやく待ちに待った朝食の始まりである。
「我ながら本当に適当だな。栄養士さんに右ストレートでまっすぐぶっとばされるレベル」
本日の樋田家の食卓は、ほかほかの炊きたてご飯を中心に、シュウマイとコロッケが左右を固める布陣で構成されていた。
それだけ聞くと朝にしては割りかし豪華なメニューのようにも聞こえるが、残念ながら米以外はスーパーの惣菜と冷凍食品、つまりは手抜き飯なのである。
――――一人暮らしに慣れると、いきなり自炊に謎のこだわり持ちだす大学生とかいるが、結局俺にそういうムーブメントは来なかったな。
栄養素的にも気分的にも色々と問題はあるだろうが、一人暮らしの高校生の食事なんてどこもこんなモノだろうと適当に妥協して自己完結する。
そんなくだらないことを考えながら、ふと晴の反応が気になりチラリと視線をやってみる。
飯がショボいと文句をつけられることも覚悟していたのだが、幸い今回ばかりはよく当たると定評のある樋田のネガティヴも的中はしなかった。
なんと驚いたことに、天使ちゃんはそんな手抜き飯を前にしながら、その大きな丸い瞳を期待と待望に輝かせていたのである。
樋田は彼女に芽生えつつあるチョロイン属性をそこに見る。
「ごくり」
「お前食いつきすぎだろ。飯だけにってな」
「いやぁ実は食事というモノには、昔からいささか興味があってな。ほら初めてはなんでもワクワクするものだろう。なあ童貞よ」
「オイ今童貞関係ねぇだろ」
そんな樋田の虚しい恋愛事情はさておき、今晴が口にしたのは中々に驚くべき発言だ。彼女の言い草をそのまま信じるならば、恐らく天使というヤツは基本的に食事を摂らないのだろう。
加えて『昔』という曖昧なフレーズにも、個人的に興味が惹かれた。
「昔って言うけどお前って実際今幾つなんだ?」
天使というからには、当然寿命も人間と同じというわけではないのだろう。
天界とやらはもう五千年以上も人類を覗き見していると言うし、晴ももしかしたらそんな太古の時代から生きているのかもしれない。
仮にそうだとしたならば、空白の四世紀やら信長の遺体の行方なんかも含めて、色々と教えてもらいたいものである。
そんな男の子的なロマンへの期待を胸に抱く樋田。しかし流石の晴もそこまでのロリババアガチ勢ではなかったようで、
「うむそうだな、確か廃藩置県と国木田独歩が同い年だ。キサマでも分かりやすいように西暦で言うならば1871年生まれ。
「なるほど名は体を表すって奴だな」
「ワタシキサマにそんなひどいことしたか!?」
晴は開口一番机に身を乗り出し、甲高い声を張り上げながら喧しく騒ぎだす。今更ながらこの天使、実年齢と比べ明らかに精神年齢が幼すぎて、割と本気で心配になる。
「ギャーギャーうるせぇな百四十五歳のくせに。百四十五歳ならもっとほら、ガキの戯言なんて聞き流せるくらいの余裕はねぇのかよ。いくらなんでもゴーイングマイウェイがすぎるぜ百四十五歳」
「ハッ、なんだキサマもしかして実年齢と精神年齢が馬鹿正直に比例するモノだとでも思っているのか。まあ、確かにワタシも昔はそれなりに殊勝な性格していたがな。確か五十を超えたあたりから根拠のない自尊心が膨張しすぎて、段々と融通が利かなくなり――――」
「要するにタダの老害じゃねぇか……」
げんなりとした口調で苦言を呈してはみるが、最早話は終わりとばかりに晴は堂々とこれを無視する。
今の彼女にとっては樋田とのつまらない会話よりも、目の前の食事という概念との邂逅の方が余程重要であるらしい。
「イタダキマス、で良いんだったか?」
「あぁ、そうだ。形だけでも人間になりてぇなら食いモンへの感謝は忘れるなよ」
「ふむふむ。よし、それではイタダキマス」
晴は辿々しい口調で感謝の言葉を述べると、早速滅茶苦茶な持ち方で箸を装備完了する。
そしてお約束と言わんばかりにブスリとシュウマイを突き刺すと、恐る恐るその口の中へと運んでいき――――不意にその手が止まる。
「……なんだか緊張してきたな。先にシャワー浴びてきてもいいか?」
「いいから黙って食いやがれ」
しかし、やがて晴もようやく心の準備ができたのか、一思いにシュウマイを頬張ると、そのままモグモグと咀嚼を開始した。
そして彼女の口の中に濃厚な肉汁が溢れたであろうその瞬間、ただでさえ感情表現豊かな天使の表情が、まるで宝石のようにキラキラと輝き始める。
「どぎゃっ!! なんだこれ、うまいぞ! もしかして人間共は毎日こんなうまいモン食っているのか!? けしからんな!」
その白い肌を紅潮させ、狂ったように己の膝を叩きまくるハイテンション天使。
なんだか喜んでいるのか怒っているのかよくわからない態度だが、何はともあれ美味しかったのは間違いないのだろう。
「ハッ、どーだびびったか。これこそ俺の体のおよそ八割を構成する日明食品様の底力だ。最早ある意味お袋の味だと宣言しても過言ではないレベル――――って、ん?」
と、そこまで軽口を叩いたところで、少年はふと一つの違和感に気付く。
先程までにこやかに微笑んでいた晴が、何故かいきなり苦虫を噛み潰したような暗い顔に変わったのである。
「オイ、どうしたポンコツ天使」
「……いや、その言い草でふと思ったんだが、キサマ
その瞳に淡い憂いの色を浮かべながら、晴は腫れ物でも扱うようにぼそりと問う。
親とその単語を殊更に強調され、樋田はようやくなるほどと納得する。恐らく彼女にしては珍しく気を遣ってくれているのだろう。
「テメェからしたら幸いなことにどっちもいねぇよ。事情はメンドクセェから省くが、チン親ともマン親とももう十年は顔合わせてねぇ」
「チン親ってキサマなぁ……。まあ、幼少期のトラウマは人間の人格形成に大きな影響を与えるモノだからな。そう考えればキサマの根性がここまで捻じ曲がってしまったのも仕方がないことだと言えよう」
「オイ、勝手に人を可哀想な子を見る目で見るのはやめろ。まぁ確かに母親は嫌いっちゃあ嫌いだが、親父は普通に大好きだぜ。寧ろ愛してると言っても過言ではない。なぜならアイツは毎月生活費を振り込んでくれるからな。金をくれる奴はいい奴だ」
「……なるほど。まだ半日も経っていないが、キサマという人間がどういうヤツなのか大体わかった気がする」
口元を底意地悪く歪め、心から嬉しそうに言う樋田を見下す晴の目は冷たい。その本気で蔑むような少女の瞳に軽い興奮を覚えながら、樋田は黙々と食事を再開する。
あれほど喧しかった晴もすっかり黙り込み、ようやく樋田家は普段通りの朝の静けさを取り戻した。そうなると、今まで気にならなかった周囲の雑音が自然と耳に入ってくるものである。
『本日未明、東京都港区の住宅街で、住民から「死体を発見した」との通報があり、警視庁によると同地にて三〇代前後と見られる男性の遺体が発見されました』
「オイ、マジかよ」
BGM代わりのニュース番組をなんとなく聞き流していたそんなとき、『港区』という聞き捨てならないワードに樋田は思わず箸を止めてしまう。
「どうした? いくら日本でも殺人ぐらい驚くことでもないだろ」
「殺人じゃなくて連続殺人なんだよ。六十人超えとか充分異常だろ。しかも、この事件は色々と気味の悪いとこがあってな……」
そう語る樋田の顔は暗い。
ここ最近メディアの関心を独占している連続殺人事件――――通称「吸魂事件」の被害が、どうやら遂に我が地元にも及んでしまったらしい。
この平和な日本で数十人単位の連続殺人が起きているというだけで充分異常な出来事なのだが、何よりこの事件の存在を悪目立ちさせているのは、その
これまで発見された約六十人分の亡骸には、何と死因の形跡が一切認められないらしい。
遺体のどこにも外傷らしい外傷はなく、司法解剖に回したところで何の異常も見つからない。つまり彼等が何故死んだのか、その原因が全くもってわからないのである。
それこそまるで魂を抜かれたとしか考えられないほどに、それらの死体は自然に、いやある意味不自然にその命を失っているのだという。
「……一応聞くが、これも『天界』ってヤツの仕業じゃねぇよな?」
当然考えはそこに行き着いた。
されどそんな樋田の鋭い指摘に対し、晴はつまらなそうに首を横に振る。
「……んー、いや流石にないだろう。第一あまりに無意味すぎる。確かに泰然王はイかれた男だが、その目的が人類の平和と繁栄であることに変わりはない。例え崇高なお題目が有ったとしても、無垢な一般人を虐殺などするとは思えない――――ただ」
「ただ……?」
「何も
それだけ一思いに言い切ると、今度こそ話は終わりとばかりに晴は食事に集中する。
樋田も最早余計な口を挟むことはないが、こうして当事者の口から直接話を聞くと、世界の危機という曖昧な概念が急に身に迫った脅威のように思えてくる。
いや、
当然樋田のような弱者に出来ることなど何もない。
だというのに、それでも自身への無力感や失望感やらは勝手に溢れてくるのだから、人の感情というヤツは本当に
バンッ、という乾いた音が、突如樋田家のリビングの中に響き渡る。
まるで己に刮目しろとばかりに、晴が手に持っていた箸を机の上に叩きつけたのである。
いくらなんでも行儀が悪すぎる気がするのだが、樋田がそれを注意するよりも早く晴の方が先に口を開いた。
「なあ、カセイ」
「あぁ? 唐突になんだよ」
樋田は食事の手を止めようともせず、適当にその場で相槌を打つ。
どんな用事がなのかはわからないが、晴ならばどうせまたくだらないことを言い出すに違いない。気分が落ち込んでいるのも相まって、話を聴く前からげんなりとした気分になってしまう。
そうして樋田が味噌汁を口に含もうとしたその瞬間、晴は唐突にこう切り出したのであった。
「ワタシと
「どわっつッ!!」
直後、口から盛大に吹き出した味噌汁が、間抜けな樋田の二の腕に怒涛の如く襲いかかった。
慌てて台布巾で体を拭きながら、少年は思わずと言った具合に天使の方をちらりと見遣る。きっと傍から見れば、今の自分は鳩が豆鉄砲を食ったような間抜けな顔をしていることであろう。
持ち前のネガティヴがそんな都合の良いことはありえないと叫ぶが、二つの群青――――即ち天使の清らかな両瞳は、とても嘘を言っているようには見えない。
「マヂですかフデサカさん……?」
言葉をぶつ切りにしながら恐る恐る聞き返してみる樋田。されど晴はそう簡単に「うん」とは答えてくれない。彼女はただ悪戯っぽい表現で、にししと笑っているだけであった。
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