第十話 『泡沫チーレム無双』


 激動の四月九日を乗り越え、その翌日。

 春も麗と唄いたくなるポカポカ陽気の下、樋田は晴に連れ出させるがまま、自宅のある白金台しろかねだいから高輪台たかなわだいの方へと繰り出していた。


 高層ビルと飲食店が所狭しと立ち並ぶ繁華街。

 なんとなく周囲を見渡せば、数少ない休日を満喫しようと楽しげに異性の手を引くアベックの姿が多く見受けられる。

 確かに本日の気温はちょうど良く、また東京湾から吹きつける潮風も非常に心地がいい。正にデートをするには打ってつけの日であると言えるだろう。


「なんか思ってたのと違ぇ……」


「まあ良いではないか。人生最初で最後のデートだぞ。どうせならもっと楽しそうな顔をしろ」


「勝手に人を終身名誉童貞に認定するのやめてくれませんかね?」


 したり顔で軽口を叩く筆坂ふでさかはれさんに対し、童貞少年樋田可成ひだよしなりは如何にも不服そうに口元を尖らせる。


 ――――まぁ別にこんなガキ相手にウキウキしてたわけじゃねぇけどよ。


 確かに男女が二人きりで外出をしているのだから、これが俗に言うデートであることに間違いはない。

 されど実際はあまりにも外見年齢が離れすぎているせいで、妹の買い物に付き合わされてる哀れな兄(実際は晴の方が圧倒的にババア)的な気分にしかなれないのであった。


 それに、別にデートと言っても何か特段変わったことをした訳でもない。


 今のところはあの如何にもコスプレ臭い白ローブ姿で隣を歩かれるのは恥ずかしいと、彼女に人間らしいまともな服を買ってあげたことくらいである。


「ふふ〜ん。それにしても、ワタシは何故これほどまでに可憐で美しく、そして可愛らしいのだろうか。どんな服を着ても最高に似合ってしまう自分の才能が怖ろしいぞ」


 衣装を新調し、どこか機嫌の良い彼女が身に纏うのは、どこにでも売ってそうな白のワイシャツに灰色のプリーツスカートの組み合わせだ。

 そのどこか面白みに欠けるチョイスを前に、樋田は思わず溜息をつかずにはいられない。


「ったく、これじゃただの制服コスじゃねぇか。他にもテメェに似合いそうな服いくらでもあっただろ。なあ幼児服とか着てくれよ幼児服とか」


「ふん、別に理由なくこの服を選んだわけではない。これはワタシがまだ天界にいた頃に聞いた話だが、この国の男は皆こういう飾り気のない純朴な服装にこそより欲情するらしいではないか。つまり、性に溺れた雄程扱い易いモノもないというヤツだ☆」


「その認識は大方間違っちゃいねぇが、少なくとも俺はそこまで性癖歪んじゃいねぇ――――って、あぁん?」


 幼女と愉快に雑談の花を咲かせていたそんなとき、樋田はまるで誰かに見られているかのようなむず痒さをふと感じた。

 気になって周囲に視線を走らせてみると、やはり晴の方をチラチラと窺っている人影がいくらか確認出来る。

 その人数はどれだけ少なく見積もっても、とても片手では収まらない程であった。


「……まぁツラだきゃあ良いし、当たり前っちゃあ当たり前か」


「くははっ、どうしたカセイよ。さっきから忙しなくキョロキョロキョロキョロと。もしかして童貞特有の気色悪い独占欲でも暴走させているのか?」


「言ってろ。テメェみたいなペドロリはハナから攻略対象外だっつーの。俺が言いてぇのは、今日はモブ共にも普通にお前の姿見えんだなっつー話だ」


 樋田がそう不思議に思ったのも仕方はない。

 思い返せば晴と初めて出会った昨日の夜、確か彼女の姿は彼以外の誰にも見えていなかったはずなのだから。

 そんな少年の至極真っ当な疑問に対し、天使は「ああ」と今頃思い出したような声を上げると、


「まあ、あの時は一応『霊体化れいたいか』していたからな。概して言うならば存在の基準を人間界こちらではなく、天界あちらの方へと合わせていた――――まあ要するに天界の基礎たる『天骸アストラ』を認知出来ぬ者には、見ることも触れることも出来ない状態だったのだ。パンピーにもワタシ達の姿が見えたら、それこそ大騒ぎなどというレベルではすまんからな」


 言いながら楽しそうにカラカラと笑う晴に、樋田は「なるほどな」と一言だけ返し、そこでひとまず会話は終わる。


 『霊体化』、ああそれはなんと想像力をくすぐる甘美な響きであろうか。


 いずれ必ずやその素晴らしい技術を習得してみせると心に誓う。

 先に言っておくが別にエロいことのために使うわけではない。樋田はその力を困っている人々を助けるために使いたいと思っているのだ。


 もう一度言うが決してエロいことのため使うわけではない――――と、そんなくだらない下卑た妄言はさておき、樋田としてはそろそろ晴の真意を確かめておきたい頃合いであった。


 いくら彼女いない歴=人生の童貞でも、デートなどという甘言が、こちらを連れ出すための口実であることには気付いてる。


「で、まさかテメェの衣装チェンジのために、態々こんなとこまで連れ出したんじゃねぇよな?」


「フン、察しがいいな。御明察の通りここまでは言わばただの前戯、ここからようやく話の本題に入らせてもらう」


「ちょくちょく思ってたんだが、そのなりで下ネタ連呼すんのマジでやめてくれない?」


 そんな割と本気なお願い事は、此度も呆気なくスルーされた。

 黙ってりゃあ美少女なのにと愚痴をこぼしつつ、樋田はズンズン先を進む晴の後ろを黙って着いていくしかない。


 そうして一心不乱に歩を進めていくうちに、活気溢れる中心街はみるみるうちに後方へと遠ざかっていく。


 そのまま二人がひたすら歩き続けた先に到着したのは、雑草と樹木がこんもり生い茂るとある森林公園であった。

 そこから更に十分程の移動を経て、筆坂一行は漸く青葉茂る空間の最深部へと到達する。


「不気味なくらい静かだな。ここ一応東京だぞ」


 それなりに整備された居心地の良い空間なのだが、立地のせいか辺りには人っ子一人見当たらない。


 目の前には丸太を下り坂に埋め込んだだけの簡素な階段が続いており、傍らの急斜面を下った先には、釣りでもするのに丁度良さそうな池が見える。


 確かにここがお出かけスポットとして魅力的な場所であることに違いはないのだろうが、晴は態々こんなところまで来て一体何をしようというのだろうか。


「なあ晴。そんなに休憩したいなら俺もっといい場所知ってるぜ。ラブホテ――――」

「黙れゲス野郎。なんだ、もしかしてワタシがキサマを態々こんな秘境in東京まで連れ出した理由がまだ理解出来ないのか……?」


 分かるわけねぇだろと暗に顔で訴える樋田に対し、当の高慢幼女は呆れたとばかりに両手を開いて、俗に言う「Whyポーズ」を披露する。

 そしてどこか馬鹿にしたようなジト目でこちらを睨みつけると、


「キサマが言い出したヘタレ三原則、その一を早速実行してやろうと言っているのだ。具体的に言うならばキサマから『燭陰ヂュインの瞳』を取り除く方法の模索……と、確かそんなところであったな」


「ほぉ、そりゃありがてぇこった。で、何か当てはあんのか?」


「残念ながら今はない。だが手掛かりがないのならば、新たに見つけ出せば良いだけのこと。ということで、そーれ第一聖創だいいちせいそう顕理鏡セケル』発動ォッ!!」


 困惑する樋田を差し置いて、勝手に話を進めまくる傍若無人幼女こと筆坂晴。

 彼女が指揮者のように軽く右手を振ると、SFでよくある空中に投影するタイプの電子モニターが突如虚空に出現した。


 晴が操る電子モニターの数は全部で三枚。

 その全てが訳の分からない文字や数字の羅列、そして形式を問わない数多のグラフ群によって埋め尽くされている。


「分からん、説明しろ」


「『顕理鏡』と言ってな。コイツは『天骸』を機械的に観測・解析・再現するための術式で……まあ要するに、まずはキサマの『天骸アストラ』について色々と調べさせてもらう。そうすれば、『燭陰の瞳』がワタシからキサマの元に渡ってしまった原因も分かるやもしれんからな」


 そう言って、晴は改めて辺りをグルリと見渡すと、


「そして『天骸』とは人間一人一人の性質によって、簡単にその形を歪めてしまうモノ。あの人口過密なマンションでは何かしらの誤差が出そうだが、この人っ子一人いない無人地帯ならば、より確実なデータが取れるはずだ」


 なるほど。

 それで態々こんな辺鄙なところまでやって来たのかと樋田はようやく納得する。


「で、具体的には?」


「そうだな、まずは試しに一度『燭陰ヂュインの瞳』を実際に発動させてみようか」


 続いて晴はおもむろに少年の左目を指差して言う。


「それに折角の神権代行だからな。これを使わず持て余す手はない。もし、これから先に何かがあったときのためにも、術式を行使する感覚を覚えておいて損はないだろう」


「……おぉマジか。OK、把握した。よしやろう、全力でやろう、張り切ってやろう」


 一瞬の不自然な沈黙の後、樋田は少女の提案にブンブン首を縦に振る。

 あくまで普段通りのそっけなさを装いはしたものの、その瞬間樋田は確かにニヤけてしまっていた。

 具体的に言うならば――偶然にも手に入れる事が出来た――このいかにもなチート能力に、彼は心の底からワクワクしているのである。


 男の子ならば、いや人類ならば魔法やら超能力やらに憧れるのは至極当然のことだ。

 しかもそれが時間操作などというロマン溢れたものであれば、テンションの上がり方もまた甚だしいものがある。


「で、実際どんなもんなんだよこの『燭陰ヂュインの瞳』とやらは。二百年前に飛んで大江戸観光とかまでは期待してねぇが、時間操作っつーデカい看板しょってるなら色々できんだろ? 個人的には時止めとか出来れば胸が熱くなるな。ついでに股間も熱くなる」


 胸の中で沸き起こる好奇心と股座でいきり勃つ下心を隠そうともせずに、樋田はにやけ顔でグイグイと少女に滲みよる。が、それに対する少女の反応はあまり芳しいものではなかった。


「ううむ、悪いが時間停止とかは普通に無理だな。いくら万能の力とは言っても人間界の物理法則を大きく超越するには、それ相応の技術とソースがいる。恐らくキサマでは『特定の対象の時間を五秒程度巻き戻す』のが精一杯ってところだr」


「糞雑魚ッ!! そんなモン屁だと思ったら糞だったときぐらいしか使い道ねぇじゃねぇかッ!!」


「しっ、仕方ないだろう。いくら見えると言ってもキサマは所詮ただの人間なのだからな。使用者が劣等ならば、どんなに優れたモノもその真価を発揮することは出来ぬ。あっ、因みに私ぐらいになると軽く十二秒くらいは巻き戻せるぞ。どーだ、スゴいだろ」


 しかし、そんな天使様の愉快な自慢話も、現在進行形で失望感に包まれている樋田の耳には最早届いていなかった。


 ――――まぁ、流石にリアルはそこまで甘く出来ちゃいねぇか。


 折角こうしてチート能力を手に入れたのだから、これで自分も今流行りのチョロインハーレムとやらを築くことが出来るのでは――――と、そんな下卑た期待をこれっぽちも抱いてなかったと言えば嘘になる。

 されどやはり現実とはいつ如何なるときも厳しいもの。これでは雀の糠喜びもいいところである。


「まぁ、そうしょげるな。ほらさっさと始めるぞ」


 されどそんな重苦しい落胆は、ラブリーエンジェル晴タソの手によって即座に霧散することとなった。





 なんと晴はそんな可愛らしい声をあげながら、樋田の体にヒタリと抱きついてきたのである。


「なっ……!?」


 瞬間的に頭の中が真っ白になり、胸の鼓動もみるみるうちに加速していく。

 そんな人生初のご褒美イベントの発生に、童貞が激しく動揺したのは言うまでもない。


「おっ、おい、テメ、何して……」


「何って、そりゃキサマのような凡人に神権代行クラスの術式はとても扱えなぬからな。だからしばらくはキサマの『天骸』を使って、ワタシが代わりに術式を発動させる形をとる。そのためにはまずこうして互いの『天骸』の相性を確かめ、リンクさせる必要があってな」


 相性確かめてリンクとかそれ最早セックスじゃん……と一言口に出す余裕すら今の樋田にはなかった。


 晴の体はボンもキュもボンも一切ない断崖絶壁ではあるが、いくら幼女といえども女性特有の柔らかい感触は確かに存在する。


 背中に回された細く白い腕に、スボン越しでも感じる生足の生温かさ。

 色々未熟で危なっかしいJCボディが、樋田の胴に隈なく吸いつき、絡みつき、纏わりつき――――――世界の全てが桃色時空へと誘われるなか、樋田可成の精神は沸騰し、そして蒸発した。


「よし、これで同期完了……って、どうしたんだカセイ。この陽気でもう熱中症か?」


「うっ、うるせぇ。こっちみんな……バカッ」


 樋田は晴から赤い顔を背け、そのままただひたすら深呼吸に徹し始める。

 すーはー、すーはー。OK、股間はこれっぽちも固くなっちゃあいない。大丈夫俺はまだロリコンなんかではない――――と、心中で何度も何度も反芻し、なんとか自我と理性とを取り戻していく。


「オイ、カセイ本当に大丈夫か……、気分が悪いならばワタシにちゃんとそう言うのだぞ」


「だっ、大丈夫だっつーの……オラ準備済んだならさっさと始めちまおうぜ」


 何はともあれ幼女相手に興奮したという後ろめたい事実を隠蔽することには成功した。

 樋田の荒い息が収まれば、今度こそ実験が開始される。そこで晴はどこぞの鬼教官ぶって偉そうに腕を背中で組むと、


「よーし、それではまず自力で『天骸』を精製してみるがいい。既にあれだけ異能の脅威に晒されたのだから、なんとなく感覚はわかるのだろう? キサマのような見える人間にとっては、そう難儀なことではないはずだ」


「ちと教え方雑すぎやしねぇか……まあ一応やってみるけどよ」


 当然生まれてから一度もそんな謎パワーを練ろうとしたことはないのだが、確かになんとなくそのやり方はわかるような気がする。

 首無しの怪物、そして晴と接触した時に感じた独特の圧迫感――――要するにあの感覚こそが、晴の言う『天骸』とやらの正体なのだろう。


 昨夜、恐怖と共に心へ刻みつけられたそのイメージを思い出しながら、樋田はゆっくりと切れ長の瞳を瞑ってみる。


 その直後であった。



「おぉ、中々筋がいいな」



 そんな晴の感心したような声に再び目を開き、そして樋田は仰天する。


 なんと驚くことに、見慣れた己の体から突然赤い光のようなものが溢れ出てきたのだ。

 神秘的な光が全身を淡く包み込むそのさまは、漫画やアニメでよく見るオーラや魔力といったモノのイメージに近い。


 晴はおろか首無しのものと比べても、その光は明らかに弱々しいものであった。

 それでも、どことなく胸焼けがするこの圧迫感は、間違いなく晴の言う『天骸』とやらのものであるに違いない。


 そしてそんななものを見せつけられて、かつての中二病少年が興奮に我を忘れないはずもなく、


「ははっ、やべえな。頭おかしくなりそうだぜ。中坊のときあんだけ憧れてた不思議パワーが、まさかマジで使えるようになっちまうとはなッ……!!」


「くははっ、鬼のようなツラをしている癖に、中々反応が幼稚で可愛らしいではないか。よし、ならばキサマの香ばしい一面にもっと強烈な一撃をお見舞いしてやろう。それ『天骸』抽出完了、神権代行術式以下略ゥッ!!」


 そのまま天使が指揮者のように右腕を振るうと、少年の体より溢れる赤い光が、ガラリと鬼火のような青白い色彩へと変化する。


 然して、神の権能にも匹敵すると称されるかの術式が、再び少年の左眼へと顕現した。


 樋田は慌ててポケットからスマートフォンを取り出し、インカメラを立ち上げると、食い入るように自分の顔面を凝視する。

 すると、これは一体どうしたことであろう。

 本来日本人らしく真っ黒な彼の左目から、クリームともベージュともつかない白濁した光が溢れ出していた。


「おっしゃあオッドアイ来たあああああああッ!! ……げふん、げふん」


 普段のあの不機嫌そうな面構えはどこへやら。

 まるで童心に帰ったかのように、その虚ろな目をキラキラ輝かせる中二病少年樋田可成。

 昨晩は混乱と恐怖のせいで、冷めた反応しか取れなかったが、落ち着いて考えてみればこれほどテンションが上がることも他にはないだろう。


 口元は愉快につり上がり、頬には微かに赤みがさす。

 果てにはあの陰キャがピョンピョンと小刻みに飛び跳ね始めたのだから、彼がどれだけ浮かれているのかがよく分かる――――――――と、そのとき樋田可成は明らかに浮かれていた。


 これから自分の身に起こる不幸など想像もせず、ただ馬鹿みたいに浮かれていたのだ。

 だからこそ、彼は晴の怪しい動きに気付くことが出来なかったのかもしれない。


 それは少年の意識の外。

 天使はポケットに手を差し込み、そのなかからおもむろにハサミを取り出す。

 そして次の瞬間、彼女は喜悦に浸る少年の前髪へ横真っ直ぐに刃を差し入れると、



「そーれ、ぱつんっとな」



 何の躊躇もなく、そして何の慈悲もなく、ぱっつんと両断したのであった。

 それも割とばっさり、それも生え際のすぐ近くで。



「――――はぁ?」



 樋田は一瞬自分が一体何をされたのか理解することが出来なかった。

 されど、足元にパラパラと落ちていく前髪の残骸が、すぐに彼を我に返らせてくれた。


 少年の思考は一瞬困惑で埋め尽くされる。

 そしてその直後、それを遥かに上回る動揺と怒りとが、まるで嵐のように頭の中を暴れ回った。


「テメェッ……なにしてくれてんだクソヤロオオオオオッ!! 俺のツラで姫カットとか最早不審者で収まるレベルを超えてるじゃねえかアッ!!」


 樋田は生来の短気に任せるがまま、晴の胸倉を乱暴に掴みかかる。

 されど、対する彼女は怯むどころか、むしろ愉快とでも言わんばかりのしたり顔を浮かべると、


「オイオイ、いいのか? そんなくだらんことに時間をかまけていると――――手遅れになるぞ☆」


「だあああああああああ、うるせぇ黙ってさっさとなんとかしやがれ。いや、しやがってください筆坂晴様アアアアアアアアッ!!」


 お願いします。間に合ってください。

 頼むから姫カットだけは勘弁してくださいと、樋田が死ぬ気で神とやらに懇願するなか、晴の手によって再び『燭陰ヂュインの瞳』の力が発動する。


 そこからはまるっきり昨夜と同じであった。


 晴の後方に大小様々な時計の幻影が生じるとともに、視界に入る限りの空間が丸ごとグニャリと歪む。


 変化は一瞬であった。

 何度か瞬きをすれば、周囲の空間はもう普通の状態に戻っている。


 足元に散らばっていた黒髪は残らず消え去り、代わりに樋田の前髪がそのまま綺麗に復活していた。

 かなりギリギリであった気がするが、どうやら限度時間の五秒には何とか間に合ったようである。


「テメェ、マジでいつか覚えてろよ……」


「喧しい奴だな。普通にやるよりも、これぐらいの方が本気になれて愉しいだろう。くははっ、それにしてもあのキサマの慌てよう、それなりに楽しめる余興であったぞ☆」


 瞬間、樋田の脳内で毛細血管が数本まとめてブチ切れる嫌な音がした。

 今すぐこのクソ天使をブン殴ってやりたい衝動を、わずかな理性を総動員してなんとか堪える。


 そんな少年の苦労も知らず、晴は電子モニターに表示された数字を一瞥しながら、にかっと満足気な笑みを浮かべている。

 そして意気揚々とこう続けるのであった。


「うむ、ちゃんとデータは取れているな。よしっ、解析はあとでまとめてするとして、今はこの調子でドンドンいってみようではないかッ!!」


「……冗談きついぜ」




 ♢




 その後も筆坂晴主導による『ヘタレ三原則』を遂行するための謎実験は延々と続いた。


 合間に挟まれた昼食と、晴が一人でブツブツ言いながら電子モニターと睨めっこをしていた時間以外は、ほぼ休憩なしの殺人的なスケージュールであったと言っていい。


 しかし一の成功を手を入れるには、万の失敗を積み上げなくてはならないとどっかの格言にもある通り、いつの世も努力とはそう簡単には実らないモノである。


 一体何度訳のわからない実験を繰り返し、そしてあれから一体どれだけの時間が過ぎただろうか。

 気付けばとうの昔に月は顔を出し、空の向こうも暗くなり始める時間になっていた。


「何故、何故なのだ……」


 しかし、筆坂晴は現在絶賛絶望の最中にあった。

 彼女は掠れた裏声と共に膝をつき、そのまま力無く大地へと崩れ落ちていく。


「まあ、正直あんま期待しちゃいなかったがな」


 結論から言えば、何も分からなかった。


 何故『燭陰ヂュインの瞳』が晴から樋田に移ったのか。或いは樋田可成という人間に何かまだ見ぬ特性があるのか――――二人の頭を悩ます謎は数あれど、その全てにおいて全くもってこれっぽちの進歩もなかったのだ。


 数百の実験を経たその後も、樋田の瞳は彼女の努力を嘲笑うかのように淡く光り続けている。


「だああああああクソクソクソクソクソクソクソッ!! 分からん、さっぱり分からんッ!! 『権能けんのう』も『聖創せいそう』も一切検出されないうえに、『天骸アストラ』の数値にも特に異常はなしだと……馬鹿めそんなふざけたことがあるかァッ!! オイ責任とれヒダカスこの野郎ォォォッ!!」


 いつ間にか二十枚へとその数を増やしている滞空式電子モニターの下で、隻翼の天使は癇癪でも起こしたかのようにゴロゴロと転げ回る。


 元はと言えばこうなってしまった原因は樋田にあるからか、荒れている彼女を見ているとなんだか物凄く申し訳ない気分になってくる。


「なぁ、俺が言うのも何だが、別にそこまで根詰めなくてもいいんだぜ?」


「クソォ、斯くなる上は……!!」


 と、樋田が心配そうに天使の下へと駆け寄ったその瞬間であった。



「どわっつッ!!」


 

 晴はその場から咄嗟に跳ね起きると、何故かこちらに勢い良く体当たりをキメてきた。

 力任せに押しまくる彼女を、樋田はよろけながらもなんとかその場で受け止める。


 チラリと背後を振り返ってみれば、そこにはここへ来たときに見た急斜面が広がっており、たちまちに背中が嫌な汗で満たされた。


「バッ――――、カしてんじゃねぇよテメェ。この俺様がひ弱だったら、そのまま普通に脳天カチ割れてたところだぞッ……!!」


 何がしたいのか分からないのは、最早仕方がないと黙殺してやってもいい。

 されど、流石にやっていいことと、やってはいけないことの差ぐらいは理解しろ――――と、樋田は強い口調で責めるように言い、



「別に、落ちればいいじゃないか……」



 直後、天使のふざけた発言に思わず言葉を失ってしまう。


「昨夜キサマのパソコンを使って調べたんだが、二人の人間が共に階段から転げ落ちると人格が入れ替わることがあるらしい……最早これに賭けるしかないのではないか?」


「おばあちゃんだからって迷信信じすぎだバカッ!! んなことありえるわけねぇだろッ!!」


「うるさい黙れッ!! 何故キサマはやる前からすぐに無理だと言うのだッ!? 何事もやって見ねば最後まで分からんだろうッ!! 落下の衝撃のおかげで、あらま不思議と『燭陰ヂュインの瞳』が戻ってきた――――的なハッピーエンドをワタシは信じたいッ!!」


「んな主人公っぽいこと言えば何でも許されると思ってんのかテメェッ……!!」


 力任せにこちらを押しまくる筆坂(時折金的にジャブを入れる)と、死力を尽くしてなんとかそれに抗う樋田(プロレスごっこみたいでやや興奮気味)。

 二人はお互いを口汚く罵りながら、じゃれ合い、掴み合い、縺れ合う。しばらくの間、押しも押されもせぬ膠着状態が続き、そして、


「あっ」


 汗で手が滑りでもしたのだろうか。

 そんな二人の間抜けな声と共に、天使の体が樋田の腕よりすっぽ抜け抜ける。

 そして彼女が倒れ込んだのは背後に広がる下り階段――――ではなく、その傍らの急斜面であった。



「ぎゃああああああああああああああああッ!!」



 きっと「きゃー」と可愛らしい悲鳴をあげる余裕すらもないのだろう。

 晴は斜め四五度の上で絶叫しながら、割と凄まじい勢いで崖を転げ落ちていく。されど彼女の不幸はそこに留まらない。隻翼の天使の体は運動エネルギーを保持したまま、坂の下の溜池の中へと頭から一直線に突っ込む。



 ぼちゃんっ、と噴き上がる派手な水柱と共に、少女の小さな影は虚しく水中へと消えていった。



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