第七話 『可成とアロイゼ』


 太陽はとうの昔に地平線の彼方へと沈み、街もようやく夜の落ち着きを取り戻し始めたこの時刻。樋田の自室である40004号室もまたその例に漏れず、どこか重苦しい静寂によって支配されていた。


 心底不愉快そうに顔をしかめるチンピラ少年と、その正面でちんまりと正座を強いられている黒髪少女。彼女は樋田の顔を上目遣いで伺いながら、時折決まりが悪そうにそっぽを向く。


「こんのクソガキがッ……」


 理不尽極まる紆余曲折を経たのち、物語の舞台は再びリビングの中心へと舞い戻る。

 傷む頬を慰めるように撫でつけながら、樋田はただでさえ細い目を更に細めて少女の顔を睨みつける。彼の顔にはいくつか絆創膏が貼り付けられており、その体からはツンと鼻をつく消毒液の臭いが漂っていた。


「その……まぁスマン。少し取り乱した」


 天使はそう申し訳無さそうにぼそりと呟くが、そんな謝罪で許してやれるほど樋田の器は広くない。


 あのあと――――つまり樋田が少女の一撃を前に愉快に宙を舞ったあとも、しばらくその八つ当たりの嵐は止むことを知らなかった。

 しかしそれでも十分近く人をどつき回していれば、流石の天使の頭も冷えてくるというもの。自分の犯した過ちに気付いた彼女からなけなしの手当てを受け、物語はようやく現在へと至るのである。


「ハッ、本当はあっちの方が素なんじゃねぇのか。ガキみてぇに恥ずかしげもなく駄々こねやがって、もしかして飴ちゃんでも買って欲しかったのか、あぁん?」


「うぅ……」


 自らの醜態に多少の脂汗を滴らせながら、天使は悪いと言いたげにその体を小さく縮こませる。

 しかしそれもほんの一瞬のこと。彼女はすぐに尊大な態度で腕を組むと、普段通りの偉そうな口調で堂々と言い訳を始めた。


「フン、仕方ないではないか。そもそもキサマがいきなり人の『能力』を借りパクしたのが全ての元凶だろう。ワタシは悪くない。いやぁ確かにワタシも多少は悪いがヒダカスはもっと悪いのだから相対的に言って多分そんなに悪くないはずだ」


「はぁ、何言ってんだテメ――――」


 まるで自分に言い聞かせるかのように早口で都合のいいことをまくしたてる天使。そのあんまりな言い草に樋田が思わず腰を上げかけると、天使はビシリとこちらの鼻に人差し指を突きつけた。


「チッ……」


 静かにしろと言わんばかりの天使の瞳に、樋田は渋々抗議を諦める。

 こんなクソ幼女の言いなりになるのは腹立たしいが、こちらは自分の身に起きたことについてすら右も左も分からぬ身。今は黙って彼女の言うことを聞いておいた方が得策だろう。


「まぁ今更責任の押し付け合いをしていても仕方がないだろう。こうなってしまった以上、ワタシもキサマも覚悟を決めねばなるまい。多少見える程度ならこのまま見逃してやっても良かったが、『神権代行しんけんだいこう』をその身に宿してしまったとなれば流石にそうもいかん。よって――――」


 そんな樋田の心情を知ってか知らでか、天使は偉そうにこちらを指差すと、高らかにこう宣言したのであった。



「今日からこのアロイゼ=シークレンズの名をもって、キサマにはワタシの管理下に入ってもらうッ!! さあ叛逆の時は来た、立ち上がれ少年よ。共に憎き『天界』から世界を救おうではないかあッ!!」



「……」



 取り敢えず、無視しておいた。


 こういう訳のわからない電波を口走る手合いは、真面目に相手をしないでのらりくらりとかわすのに限る。それは樋田が十七年という短く浅い人生の中で学んだ処世術の一つであった。

 天使はしばらく渾身のドヤ顔と会心のポーズを決めたまま固まっていたが、やがて興を削がれたとばかりにこちらをジト目で睨みつける。


「むうぅ……、無視はあまり頂けないな。よしッ、ならばもう一度だけ言ってやろう。今日からこのアロイゼ――――――」


「本日は糞お忙しい中、面接にお越しいただき、誠にありがとうございました。慎重なる選考を重ねましたところ、残念ながら、今回はご期待に添えない結果となりました。ご応募頂きましたことを深謝するとともに、腐れ天使様の今後一層のご活躍をお祈り致します」


「はっ、あう、へっへ? はっ、はいかいいえで言ってくれっ。小難しいこと言われてもよくわからんぞ」


「言外に出てけつってんだよ……」


「なんだとおォッ!!」


 呆れたとばかりに肩を竦める樋田に対し、天使はまるで子供のようにプンスカと地団駄を踏む。


 ――――このクソ幼女、ナチュラルに頭がイカれてやがるぜ。


 なにか突飛な事を言い出しそうな気はしていたが、まさか「世界を救おう」だなんて大それたことをほざくとは思いもしなかった。

 態々考えるまでもなく樋田の返答は当然NOである。今日一日だけでも随分酷い目にあっているというのに、これ以上理不尽に巻き込まれては堪ったものではない――――と、普段の彼ならばきっと何の躊躇いも無しに少女の頼みを突っ撥ねることが出来ただろう。

 だがしかし、今回ばかりは少々状況が違う。


 ――――コイツ、一応曲がりなりにも俺の命の恩人なんだよな……。


 そんな今更覆りようのない事実に、少年は重く長い溜息をつく。

 それはつい先程、裏路地でいきなり謎の首無し共に殺されかけた例の事件のことだ。実際あの場に彼女が乱入していなければ、自分はそのまま命を落としていたに違いない。


 別に侍を気取るわけではないが、恩があるならばそれに報いたいと思うのが世の人の情だ。そう考えてみれば、多少は話を聞いてやろうかという気分にもなってくる。


「むぅ、この人非人め……。別にちょっとぐらい協力してくれたって良いではないか。ワタシだってたった一人で世界を敵に回すのは、流石に少し心細いというか何というか……」

「……ちっ、だっーたよ。好きにしやがれ」


 いつの間にか拗ね出していた天使の弱々しい声。そこへ樋田の妙にツンデレくさい一言がぶっきらぼうに重ねられる。



「へっ……?」



 そんな予想外な言葉に、思わずキョトンとしてしまう天使もといアロイゼ=シークレンズ。

 そして次の瞬間、不安に沈んでいた彼女の表情が、瞬く間にぱぁと明るくなる。それは思わず太陽にでも例えたくなるほどに、純粋で可憐な笑みであった。


「うおおぉ、いいのかヒダカス!? 一緒に世界のために戦ってくれるのか!?」


「勝手に一人で話進めてんじゃねぇよ。あくまでも話ぐらいなら聞いてやるってだけだ。内容によっちゃあ問答無用でこの家から出て行ってもらうからな」


「ふむふむ結構、結構。なんだキサマ、話せば意外とわかるヤツではないか。くははっ、可愛いヤツめッ!!」


「たっ、だっ、しッ!」


 愉快に高笑いをキメながら、樋田の肩をバンバンと叩きまくる高慢幼女。少年はそこに釘をさすように颯爽と二本の指を突き付けると、


「仮に協力するにしても二つ条件がある。一つは俺の質問に可能な限り答えること。そしてもう一つはコッチが提示する三つの誓約を守ることだ」


「うむ、内容にもよるがまあいいだろう。今のワタシはとっても気分がいいからなっ、くははははッ!!」


 多少は反発されると思っていたのだが、天使は意外にあっさりと首を縦に振る。予想以上にスラスラと話が進み、樋田はひとまずホッと安堵の息をついた。


 ――――まあ、とりあえずは自己保身だな自己保身。俺はテメェの身可愛さのためなら、身の丈以上の力を発揮できる男だぜ。


 こんな『時間操作』なんていう訳のわからない力を手にして決まった以上、今後物騒な厄介ごとに巻き込まれることは容易に想像できる。

 漫画だとそこらへんをちゃんと考えず、見切り発車したせいで痛い目を見る主人公が多いが、樋田はそこまで馬鹿でも無謀でもないのだ。


「よし、じゃあ早速最初の質問だ。言える範囲でいい。お前の素性を教えてくれ。どうせただの人間じゃねぇんだろ。おっと安心してくれていいぜ、幸いうちのマンションはペットOKだからな」


「そんなの見れば普通に分かるだろ。私は正真正銘ただの天使……だけではいささか不親切だな。ふむどう説明するか」


 樋田のねちっこい嫌味は無視したのか、或いは気付かなかったのか。少女は何かを考えるように口元に手を添えると、やがてつらつらと己が存在について語り始める。


「そうだな。先に言っておくと天使を名乗ってはいるが、アブラハム三教と何か関わりがあるわけではない。我々は『天界』という別次元で人類のために奉仕している……まぁ言ってみれば公務員みたいなモノだな」


「なんかもう真顔で別次元とか言われても、すんなり受け入れられる体になっちまったな……で、その天界とやらはやっぱあれか。糞愚かな人間共は我々が正しい方向へ導いてやらねばならないー、みたいないけ好かねぇ独善団体ってことでいいのか?」


「……言い回しは気に食わんが、正直否定は出来ん。キサマの言う通り『天界』の第一目的は人類の管理、及びその存続保障であるからな」


「オイオイいきなりスケールデカすぎだろ……」


 人類の管理。

 そんなパワーワードの至極当然とばかりの登場に、樋田は早くもその場に伏したくなるほどの強い目眩に襲われる。

 どう考えても自分のような量産型チンピラが関わっていいレベルの案件ではない。


「うるさい黙って聞け。我ながら胡散臭いとは思うが、一応『天界』はこれまで人類の発展を促進させるため、そして平和を守るために最善を尽くしてきたつもりだ。具体的に数字で言うならば五千四百二十七年前、人類に最初の文明が起きたその瞬間から、ずっとな」


「……その理屈で言うなら世界大戦二度も起こしてる時点で、テメェら普通に無能すぎません?」


「べっ、別に我々は無能でも怠惰なわけでもない。ああは言ったが『天界』は基本的に人間界への干渉は最低限に留めようとしているのだ。我々『天界』が有する因果改変の力――――つまり『天骸アストラ』はある意味全知全能と言っても過言ではないからな。匙加減をちょいと誤っただけでも、簡単にこの世界の根本的な在り方を歪めてしまう。実際『天界』が本気で地上に干渉したのなんて、冷戦のときの一回こっきりだ」


 アロイゼは次々に小難しいことをまくしたててくるが、それで樋田の理解が滞ることは一切ない。

 かつての中二病時代がまさかこんな場で役に立つなんて、当時の自分は思ってもみなかったことであろう。


「なるほどな、テメェらの事情については大体理解出来た。だが、一つだけ解せねぇ。そんな地上の猿共を御導き下さっている天使様が、どうして態々こんなとこまで堕りて来てやがるんだ?」


 『天界』とやらは基本的に人間界との接触を避けているのだと、そう少女はまるで常識のように語っていた。だがこうして樋田という人間の前に彼女が現れている時点で、その論理は破綻していると言っていい。


 そんな非行少年の至極当然な疑問に天使は「あまり知りすぎない方がいいぞ」と一言不穏な前置きをすると、まるで何か嫌な事でも思い出すかのようにその大きな瞳を伏せる。


「……実は最近『天界』ではこちらの世界で言う政変の様なモノが起きてな。数万の全天使を統べる最高指導者十三人のうちが一人、泰然王たいぜんおうの思想に迎合しないモノは皆粛清されてしまったのだ」


 憎らしそうに、そして心の底から忌々しそうに。天使は口を真一文字に引き結ぶと、ようやくと言った具合になんとか一つの真実を口にする。


 ――――あぁ、そういうことか。


 その言葉で彼女の言っていた全ての事柄が繋がった。

 人間界への不干渉を旨とする『天界』の方針。

 思想の違いから発生したクーデター。

 そして今目の前にいるこの天使。

 そこまで把握すれば、細部は分からずとも話の筋くらいならば見えてくる。


「で、その泰然王だかの考え方が気に入らねぇからテメェはこっちに逃げてきた、ってわけか……」


「あぁ、つまりはそういうことだ。泰然王はこれまで五千年以上の長きに渡って守られ続けてきた天界の理を覆した。人類の飼い主を気取って下界へ干渉してくる未来もそう遠くはないだろう」


 『天界』とやらがどれだけの戦力を保持しているのか、そしてどのような目的を以ってこの人間界へと降り立とうとしているのか。

 どちらも樋田には全く以って分からないが、それがとてつもなく強大で、そして危険なモノであるということだけは何となく分かる。


 そう、それこそきっと「世界を救う」だなんて仰々しい看板を持ち出さねばならない程の異常事態なのだろう。しかし、そのような絶望的な現状を口にしながらも、天使の瞳が不安に曇ることはない。寧ろその凛々しい表情をより一層引き締めると、彼女は希望に満ちた瞳で樋田のことを真っ直ぐに見つめて言う。


「だからと言うわけではないが、キサマには是非ワタシに協力して欲しい。いや、してもらわねば困る。『天界』にこの世界を好き勝手にされない為にも、ワタシは奴等にわけにはいかないのだ」


 口では頼み込みながらも、あくまでその声色は尊大なまま変わらない。そんなアロイゼの高潔な態度に樋田は思わず圧倒されてしまう。


 この少女、世界を敵に回すとほざいておきながら、そのことに対して一歩も怯んではいない。


 それはまるで雨に濡らされようとも、嵐に吹かれようとも、己を曲げずに強く凛々しく咲き続ける一輪の花のようであった。


 ――――クソッ、普通にクソかっこいいじゃねぇかこのクソ幼女。


 そんな美しい生き様を正面切って見せつけられれば、流石の樋田もいつまでも臆病に徹しているわけにはいかない。

 少年は一度ゴクリと生唾を飲み込むと、そのまま黙って首を縦に振り――――そうになり、ふと違和感に気付いて慌てて顔を横に振った。


 正直この天使に協力するのもやぶさかではなくなってきたのだが、少し一つだけ無視できない文言が聞こえた気がする。


「えっ、なに。もしかしてお前、その『天界』とやらに追われてたりすんの?」


「あぁ勿論追われているとも。フフッ、実際今頃『天界』の連中は皆血眼でワタシのことを探し回っていることだろう。自慢ではないがワタシは『天界』から脱出するついでに奴等が保持する十三の神権代行権――――つまりは神の権能に匹敵する力を持つ超強力な術式の一つを正々堂々とパクってきてやったからなッ!!」


 まるで元不良が過去の武勇伝をひけらかすかの如く、アロイゼは己が犯したとびっきりの大罪を心の底から自慢げに語る。

 彼女のその大胆不敵ぶりに呆れたのはさておき、樋田の頭には一つの嫌な考えがこびりついて離れようとはしなかった。


「もしかして、それって今俺の左目で一丁前に輝いている……」


 そんな最悪な仮説を否定して欲しくて思わず口をついた弱々しい一言。されど目の前は天使はあまりにも呆気なく、そしてあまりにも嬉しそうに少年に一つの残酷な真実を伝えた。


「ご察しの通り、今キサマが瞳に宿している『燭陰ヂュインの瞳』がそれだ。くははっ、残念だったなッ!! 最初からキサマはワタシと一緒に御手手繋いで頑張らなくてはならない運命に囚われていたのだ。これぞ正しく人類史上初の二世界間指名手配、いやあ天晴れと言うほかはあるまいなァッ!!」


 水を得た魚とばかりに、最終鬼畜天使は「くはは!」と愉快な高笑いをキメる。

 しかし一方の樋田には、最早理不尽を笑い飛ばす元気どころか、その濃厚な絶望を嘆く力すらも残ってはいなかった。




 ♢




「……へはっ、勘弁してくれよ」


 抑揚のない声でぼそりと呟いたきり、少年はただひたすらに絶句する。


 正直別世界まで逃げてきたアロイゼのことを態々追い回すほど、『天界』というヤツらも暇ではないだろうとタカを括っていた。しかしそんな甘い予想に反して、現状は正に最悪の状況だと言える。

 彼女の言葉を信じるならば、それこそ今この瞬間、突如どこかから追手が現れても全く不思議ではないのだ。


「だっ、大丈夫だ。万が一にも『天界』に居場所がバレることはない。奴等はまだワタシがどこにいるのか大陸単位ですら特定出来ていないのだぞ、……多分。だっ、だからそんな嫌そうな顔をするんじゃなぁいッ!!」


 少年の体から溢れ出るドス黒い絶望感を察したのか、天使は慌てて希望的観測を口にする。されどそんな曖昧な言葉を信じられるほど、樋田可成という男は馬鹿でも素直でもない。


「適当ぶっこいてんじゃねぇよクソッタレ。こっちは実際危うく殺されかけてんだぞ。つーかあれこそ正に『天界』の追っ手ってヤツじゃねぇのか?」


「あぁあの首無し共か? あれは正直ワタシもよくわからんのだが……だが、安心しろ。死人に口無しというやつだ。ワタシが綺麗さっぱり皆殺しにしてやったのだから何も問題はないということであるのだからして――――」


「ハッ、実際どーだかな」


 樋田の指摘に反論しきれず、危うくしどろもどろになりかける堕天系幼女。されど彼女は一度咳払いをし、落ち着いた口調で続きを語る。


「藤四郎が知ったような口を聞くな。これでもちゃんと天界に『天骸アストラ』を探知されないように気を遣っているのだぞ? 完全に天使化すれば流石にバレるだろうが、翼一枚の中途半端な状態までならば絶・対に見つかることはない。絶対的に絶対にだ」


 絶対に、と天使は殊更にそこを強調する。その大きな群青の瞳に一切の淀みはなく、真っ直ぐに樋田のことを見つめている。

 信じてくれと言わんばかりの少女の視線に、樋田は思わず動揺し――――そして結局素直に信じることにした。


 彼女は割と自分勝手な性格をしているが、その澄んだ瞳を見ればとても嘘をついているようには思えない。

 それに実際出ていかれて困るのは樋田の方であるし、そろそろつまらない意地を張るのは止めにするべきだろう。


「……わっーたよ、一応信じたってことにしといてやる。てか、んなことよりも三つの誓約だ三つの誓約。これ守ってもらわねぇことには何も始まらねぇからな」


「ふむ、やっとか。よし、かかってこいッ!!」


 挑発気味に手招きをする天使を無視しつつ、樋田はおもむろに自分の左目を指差す。とにもかくにも、まずは特大のイレギュラーであるこの瞳についての話だり


「よし、じゃあまず一つ。天使アロイゼ=シークレンズは出来るだけ早く俺の左目からこの訳わかんねぇ力――――『燭陰ヂュインの瞳』を取り除く方法を見つけるよう精進すること」


「まあ当然のことと言えば当然のことだな。うむ、了解した」


 何も問題はないとばかりに、アロイゼは二つ返事で首を縦に振る。


「じゃあ続けて一つ。天界絡みのいざこざに決して俺を巻き込んではいけない。どんなトラブルが発生しても必ず自分一人で対処すること」


「むうぅ、まあ確かに見えるだけの人間にはいささか荷が重いか。よし、了解した」


 樋田の堂々としたヘタレ発言に天使は一瞬眉をひそめる。しかしそれでもまだ許容範囲だったらしく、なんとか言質を得ることには成功した。

 これで残る誓約は一つ。ここまで来たならば、最後まで条件を飲んでもらうしかあるまい。


「よし、じゃあこれで最後だ。一つ。万が一俺が危険に晒された場合は、例え己が身を盾にしてでも最優先でその命を守ること」


「うむ、わかった……って、キサマそれでも男かァッ!?」


「うるせぇ、こっちは予備知識無しでいきなりファンタジー世界に放り込まれようとしてんだぞッ。喰われるしか能が無ぇ雑魚が生き残るには、こうするしかねぇじゃねぇかッ!!」


 暗にこちらをクズだと糾弾する天使に対し、樋田は真正面から堂々と開き直りand逆ギレ芸を披露する。


 漫画やアニメならば二人で力を合わせて世界を救う方向にでも行くのだろうが、これはあくまで現実世界なのである。

 いきなり戦えなんて言われても部屋の隅でガタガタと震えてるのが関の山であるし、世界に喧嘩を売るだなんて何の力も持たない樋田にはとても無理な話である――――――されど、この人間界に一人の味方もいないであろう彼女を見捨てるのは、流石に気がひけるのもまた事実であって。


 原則として己が身に危険が及ばない範疇ならば、手を貸してやるのもやぶさかではない。それがヘタレ少年から隻翼の天使へと提示できる精一杯の譲歩であった。


「むぅ……バーカバーカ、この根性無しめ。それでも金玉ついてんのか」


「言ってろ。衣食住保証してやるだけでもありがたいと思え、クソガキ」


 樋田は吐き捨てるように呟き、続いておもむろに部屋の隅へと視線を走らせる。

 壁に掛けられた時計が指し示す時刻は午後九時半。まだまだ眠るには早すぎる時間だが、度重なる心労のせいで既に心身共に限界が近い。


 今日は正直もう嫌なことを全て忘れて、泥のように眠ってしまいたい気分であった。


「悪りぃが今日はもうしめぇだ。テメェもさっさとシャワー浴びてクソして寝ろ、ほら解散だ解散」


「あっ、じゃあ最後に一つだけいいか?」


「あァ、なんだよ?」


 樋田は苛立ちを隠そうともせずに、切れ長の瞳でギロリと少女を睨みつける。されど当の天使は彼のそんな粗暴な態度など気にも留めず、まるで太陽のような明るい笑みを浮かべると、その口元に白い歯を覗かせながらこう言ったのであった。


「ワタシに名前をつけてくれ」


「ハァ?」


 そのあまりにも予想外なお願いに、樋田は思わず間抜けな声を上げてしまう。

 何を言い出すのかと思えば、まさかの強制名付けイベント。面倒臭いし『ああああ』で良いか――――などと適当なことを考えていると、嫌がっているのが露骨に顔に出ていたのか、天使は不服そうに頬を膨らませてしまう。


「オイ、可成カセイ。なんだそのふざけた顔は。そりゃこの国で生きていく以上はそれに見合った名前が必要だろう。アロイゼ=シークレンズでは最早悪目立ちするなんてレベルではないぞ」


「まあ理屈は通ってるがよ……つーかどこで見知ったかは知らねぇが、俺の名前は可成よしなりだ馬鹿野郎」


「えっ? あっ、そうだったのか? まぁ別に呼び方なんてなんでもいいだろう。正直では日本語ネイティブではないワタシの舌が上手く回らぬことだし」


「テメェ人の名前なんだと思ったんだ……」


「ほう、不服か? よろしい、ならば今日からキサマの名前はだ。くはははっ、良いではないか。これほどキサマに似合う間抜けな名もそうはあるまいッ!!」


「だーもう好きにしろッ!!」


 あまりにもしつこい口撃に降参した樋田を嘲笑いながら、天使改めアロイゼはドヤ顔ピースサインをもって勝利宣言とする。


 そんな彼女のエゴイスティックぶりに思わず声を荒げそうになるが、ギリギリのところでなんとかこれを飲み込む。

 出会ってからというものやり込められてばかりで腹が立つが、こういうタイプの人間は下手に反発するよりも諦めて話を聞いてやるのが一番手っ取り早い。


「ほらほら早くしろヒダカス、キサマのなけなしのセンスを披露する絶好の機会だぞ。言っておくが、もし今流行りのDQNネームをつけようモノなら問答無用でその首を刎ねるからな」


「はいはい、アロイゼさん超怖いね。そうだなぁ……」


 そう言って、樋田は天使の整った顔をマジマジと見つめる。名は体を表すとも言うし、どうせならばこの少女に似合った名を考えるべきであろう。


 はじめ天使が天から舞い降りてきたとき、樋田はまるで小さな太陽が降ってきたかのように思った。そしてその天真爛漫な性格や、豪快な高笑いを思い返すに、彼女にはどちらかというと明るい名が似合うように感じる。そして――――、



「――――筆坂晴ふでさかはれ



 樋田はいつの間にかそんな名を口にしていた。

 どちらかというと、思いついたというよりも、自然とまろび出たといった方が正しい。


 その名を口にしたのは初めてであったはずなのに、何故か異様に懐かしい響きがあり、それでいてこの上なくしっくりくる。

 むしろこの少女が筆坂晴以外の名を名乗るなどあり得ない――――と、そんなことを思ってしまうほどに自然でぴったりな名であった。


「筆坂晴……か」


 そうして樋田が一人物思いに耽っているうちに、天使の方もネーミングセンスの判定に入っているようであった。

 彼女はまるで何かを味わうように仮の名を口にすると、


「……うむ、良い名だな。今日からワタシはその名を名乗らせてもらうとしよう」

「おっ、おう。気に入ってくれたようなら何よりだ」


 そう言ってにっこりと満足気な笑みを浮かべたのである。

 先程から小生意気な姿しか見てなかっただけに、その笑顔は反則であった。気恥ずかしくなって思わず目を逸らしてしまう樋田に、天使改め筆坂晴は握手を求めるようにすっと右手を差し出す。



「うむ。それでは、これからよろしくなカセイ」



 その手は白く、そして当たり前ながらひどく小さい。軽く力を込めればたちまちに折れてしまいそうなその儚さに、一瞬驚かなかったと言えば嘘になる。


 ――――……俺しかいねぇのか、少なくとも今は。


 その天真爛漫な姿を見ているとつい忘れそうになるが、この天使は右も左も分からない未知の世界にたった一人で投げ出された身だとも言える。

 親しい人間どころか、己を知るものすらどこにもいない圧倒的な孤独。そんな彼女の境遇を鑑みれば、その力になりたいと思うのは当然のことだ。例えそれが自分の身の丈も知らない馬鹿の戯言でしかないとしてもである。


「けっ、さっさと独り立ちしろよエンジェルクソニート」


 樋田は彼らしく最後まで悪態をつきながらも、最後は力強く少女の手を握り返す。随分と久々に感じた人の肌の温もり、その温かさに思わず頬が緩みかけるのをなんとか堪えながら。


 ――――――けっ、やっぱ馬鹿だわ、俺って。


 たとえ一瞬でもその手を離したくないと思ってしまったのが、彼女にやり込められたようでなんだか少し悔しい。

 面倒事に巻き込まれるのも、そのせいで痛い目を見るのも当然御免被りたい。されど彼女との生活に多少の楽しみを見出してしまっている自分がいるのも、また疑いようのない事実であった。


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