第三十七話 『響き渡るは鐘の音』


『普通にボロ負けしたじゃねぇかッ!!』

『がいがぁうんたぁッ!!』


 ところはカジノと隣の店舗の間に位置する薄暗い裏路地の奥。樋田ひだは逃げようとする晴の後頭部を、彼女から貰った銃の台座でソフトにスパーキング。

 ゴッという衝撃と共に「ギャッ」と声を上げ、そのまま崩れ落ちるように座り込むアホ天使。恨めしげにこちらを振り返る大きな瞳には、うっすらと蜜のような涙が浮かんでいた。


『痛ッ、痛ったあッ!! オマエ女の子の後頭部金属で刈り取るとかマジで畜生なんじゃないのかッ!?』

『なにが女の子だこのカタツムリ野郎ッ、都合のいいときだけ幼女ぶってんじゃねぇぞこのハゲ』


 樋田は残高が三桁になってしまった通帳を握り締めながら、腹が壊れたときにしか信じない神に祈りを捧げてみる。

 『百識幻浪舞鏡ブロウズアイファンダシア』なる異能を持ち出してまで挑んだギャンブルの結果がどうなったのかというと、まあ負けた。ついでに言うと一文無しになるまで絞り尽くされた挙句、最後は惨めにカジノの中から叩き出された。


 樋田も晴もあれだけ姑息に卑怯を塗り重ねたというのに、結局最後までお嬢様方のカード捌きを見破ることは出来なかったのである。

 今思ってみれば向こうからも何かしらの小細工を仕掛けてられていたのかもしれないが、過ぎたことは最早過ぎたこととして教訓にでもするしかないだろう。


 やはりその道のプロに専門分野でマウントをとってはいけないのである。ついでにいつの時代も正義は必ず勝つのだとも思い知らされた気分であった。


『クソッタレが。俺が万が一のことを考えてヘソクリ仕込んでなかったら、二人揃って飢え死に決定だったんだぞ』


『分かった。ワタシも今回はちゃんと反省したし、以後は自分を改めると誓おうッ!! だからバイトして金返せとか酷いことを言うのは勘弁してくれッ!!』


『テメェが気にすんのは結局そこかエンジェルクソニートッ!! どうやらまだ説教が足りねぇようだなあッ!!』


 そのまま樋田は晴が少しばかり反省の色を見せるまで、耳元に小言小言をネチネチとねじ込みまくってやった。


 そうしてようやく樋田から解放された晴が裏路地からひょっこり顔を出すと、たちまちに松下と隼志はやしが心配そうな顔で駆け寄ってくる。

 樋田が晴に説教をかますに当たって、二人には気分が悪くなったから裏路地で吐いてくると適当な嘘をついていたのだ。


「ねぇ、晴ちゃん本当に大丈夫……?」

「ああ、大丈夫だ。ゲロったら大分スッキリした……これで財布の中身もスッキリしたことであるしなッ!!」

「いやいや笑えねーですからその冗談。全く、だからよせと言ったんですよ。ここで無駄に時間食ったせいで、松下の企画した折角のプランが台無しじゃねぇですか」


 松下はそこに案内プランのメモでも書いてあるのか、スマホの画面をシュババとしながら溜息をつく。

 対する晴は「ごめん、てへぺろ☆」とか言いながら後頭部へ手を回し、



「あっ」



 ギュルルルルルルルという腹の音で応えたのであった。


 晴の名誉のために言えば、断じて下痢ではない。実際そろそろ時間も時間であるし、ただ単純に腹が減ったのだろう。

 普通なら次は「え? じゃあ何か食べに行こ!」と女の子的な会話に繋がるのだろうが、残念ながら晴にはここで一つ問題があった。


 率直に言うと今の彼女には、コンビニで賞味期限が切れそうな八十円のおにぎりを買うお金すらもないのである。


「……ねぇ、キコお姉ちゃん。だーい好き❤︎」


 晴はそこで一体何を思い立ったのか、妹キャラじみた可愛らしい上目遣いで、きゃるん☆と松下にぶりっ子アピールを決めてみせる。

 いやそういうのに騙されんのって俺みたいな馬鹿かオスだけだから――――と樋田が態々突っ込むまでもなく、対するふわふわジト目は心底嫌そうな口調でバカを突き放した。


「いや、貸しませんよ。金の切れ目が縁の切れ目とも言いますしね。胸ぐらいなら貸してやってもいいですけど、お金だけは何があっても絶対に貸しません」

「はああああぁッ!?」


 そう言って煽り気味にすしざんまいポーズを披露する松下に、晴の短気な頭はどうやらプッツンしちまったようであった。

 彼女はワッと松下に飛びかかると、その平たい胸にペチペチと張り手をくらわせ始める。


「何が胸を貸すだこの貧乳違法ロリッ!! 要らんわ要らんわッ、キサマのゴツゴツした関東平野など超絶要らんわッ!!」


「はぁ? 誰が関東平野ですか。貴方みたいな阿蘇カルデラ女と一緒にしないで下さい。松下はこれでも一応白河丘陵ぐらいはありますからねッ!!」


「ちょっと二人とも落ち着いてッ!!」


「ハッ、上から目線で仲裁とはいい身分だなサオリンヌッ!! ちょっと人より乳あるからってワタシ達を見下しおってッ……!! キサマどうせ銃で撃たれても乳の厚みで助かったりするんだろッ!!」


「別に私は平均でしょ……。そのっ、晴ちゃんと希子がちょっと普通じゃないだけで」


「うわッ、この女普段常識人ぶってるくせにシレッと暴言吐きましたよ暴言ッ!! ……って、こっそりブラ外そうとしてんじゃねぇよハレカスッ!!」


 そのまま仙台平野・太平洋と罵り合いながら、互いの薄い胸へガチ張り手をかましまくる晴と松下であったが、やがて争いが虚しすぎることにようやく気付き、双方自然に手をひいていく。


 そうしてなんとか話し合うだけの環境が整うのを見計らい、隼志紗織は注目と言わんばかりにパンと手を打つ。続けて人差し指をフリフリしながら(カワイイ)、彼女はこう提案した。


「もう希子もあんまり晴ちゃんに意地悪しないの。それにタダでお腹いっぱいにしたいなら、私たちがいつも行ってるとこ行けばいいだけでしょ」


 タダでお腹いっぱい。

 そんな素敵ワードを前に晴は「本当か!?」とキラッキラ目を輝かせる。隣の松下を見てみると、彼女もまた「ああ」と何かを思い出したような声を上げていた。



 ♢



「くははっ、世界は我が思うがままワールドイズマイン。まさかこの学園がここまで学生にとって都合のいい場所であったとはなッ!!」


 そうして隼志に言われるがまま連れて行かれたのは、『止まり木』の隅の方にある学園直営の大衆食堂であった。

 当学には人生の一発逆転を狙って進学してきた貧乏な生徒も多いらしく、彼等への救済処置としてここの食堂はタダ同然で食事を出してくれているらしい。


 メニュー自体は『止まり木』にある他の店のように豪華ではないが、確かに普通に美味しくお腹を満たすことぐらいは充分に可能だろう――――その一方樋田は今日晴を校門まで見送ったら帰るつもりだったので、当然昼飯など用意して来ているはずもない。


 彼は幼女が美味い美味い言いながら飯をかきこむさまを、恨めしそうな目で見ていることしか出来ないのであった。


『……クソッタレが。テメェが勝手に朝飯二人分食ったせいで、こっちは昨日からほぼ何も食ってねぇんだぞ』

『くははっ、哀れなものだなカセイよ。オマエがこれから学食のうどんにたかが五〇円の油揚げを追加することすら躊躇う惨めな食生活を送るのだと思うと笑いが止まらんな』

『噛まずに一息で言い切ったよ。凄えなお前』


 そう口ではウザったらしく煽り倒してくる晴であるが、樋田は彼女が本当は優しい女の子だということをよく知っている。


 実際晴はおもむろに席を立つと、空になった水筒にセルフサービスの味噌汁やら漬物やらを詰め込みまくり、樋田家の家計を救おうと涙ぐましい努力を繰り広げていた。

 そんな健気な姿を見せられると、みっともねぇからヤメろなんてひどいことはとても言えない……いや、やはり滅茶苦茶みっともないので出来ればやめて欲しい。


 まあ何はともあれ始めは飯をガッツキまくっていた晴だが、ある程度腹が膨れてくれば、それに伴って徐々に会話の方も弾んでいく。

 事実天然鬼畜ロリと、ふわふわジト目と、車椅子カチューシャの三人は、とても今日出会ったばかりとは思えないほどにペチャクチャと話し込んでいた。


「それにしても本当至れり尽くせりであるよな。ここまで扱いが良いと、なんか裏がある気がして逆に不安になる」


「ああ、それ松下も最初は思いましたよ。実はこの学園の生徒は全員、壮大な人体実験のためのモルモットにされている……みたいな?」


「ハイ、キコカス厨二病乙。授業中の妄想はその薄い胸の内にだけ閉まっておけ」


「二人称キサマのヤツに厨二病とか言われたくないんですがッ!?」


「でもっ、実際結構そういう噂してる子は多いよね。まぁほとんどは我が校にも七不思議を作りたいのです! みたいな感じらしいけど」


「あぁあの割れてもいつの間にか治ってる窓ガラスみたいなくだらねえやつですか。そりゃこれだけ湯水のように金使ってる学校なら業者呼んで即効直すってもんですよ。つーかそんだけ金あんなら何でさっさと車椅子用の階段昇降機配備してくれないんですかねぇウチのクソ生徒会は。実はもうここ入ってからウン十回は申請書提出してんですよ。だってのに毎回毎回次の総会の議題の候補にさせていただきますで華麗スルーしてくるから本当頭来る――――って、なんで二人とも人が話してんのにスマホ弄ってんですかッ!? なにいいね♡とかしちゃってるんですか、松下的にはなんも良くないんですがッ!?」


「……今まで誰も言ってくれなかっただろうから教えてやるが、正直キャラも話し方も大分クドいぞキサマ」


 スマホから一ミリも目を離さないまま放たれた晴の言葉に、松下はと割とマジでショックを受けていた。

 そうして下向いてなんかブツブツ言い始めたふわふわジト目をガン無視し、晴は改めて隼志の方へと向き直る。


「それにしてもサオリンヌはそんな格好で暑くないのか?」

「えっ、そっ、そうかな……。別に私はこれぐらいが普通だけど」


 晴が話のネタふりとばかりに言うと、当の隼志紗織は何故か大袈裟なまでに動揺していた。


 樋田も初めて見たときから厚着だなあとは思っていたのだが、改めて言われてみると確かに少々重ね着がすぎる気がする。

 特に本日は普段と比べてもお天道様が張り切ってるポカポカ日和であるというのに、ブレザーの上にコートまで着てるのは最早寒がりなんてレベルじゃない。


 そうして隼志が晴の質問に答えられずモニョモニョとしていると、いつの間にかメンタルリセットが完了したのか、隣で松下がニヤリと意地の悪い笑みを浮かべている。


「フヒッ、あれれ、紗織。なんですか〜、もしかして……肥えたりしちゃったんですか〜?」


 そう言って松下は両手を典型的なエロい手つきにすると、そのまま抱きかかえるような形で隼志の肩に手を回す。


「ちょっと、希子」


 樋田はそんな百合百合しい光景を呑気に鑑賞していたのだが、対する隼志の反応はどこか妙であった。

 その違和感を上手く言葉で言い表す事は出来ないが、彼女は何故か松下のスキンシップをように見えるのである。


 ――――なんか様子おかしいなコイツ。


 そして松下がたまたま隼志の左肩に触れたその瞬間、彼女の瞳に突如恐怖の色が浮かんだのを、樋田は目ざとくも見逃さなかった。



「――――ッ!!」



 人は見かけによらぬものとは正にこのこと。隼志は一体その細腕のどこにそんな力があるのかと言う勢いで、いきなり松下のことを拒絶するように突き飛ばしたのだ。


 絹を裂くような隼志の悲鳴に、和やかだった食堂の空気は一瞬で凍りつく。

 その反応は親友である松下にとっても意外なものだったのか、呆然と口を開いたまま目をパチクリとさせていた。



「ちっ、違うの希子ッ!! その、私今ちょっと筋肉痛だからさ――――」



 そこでようやく自分が大きな声を出してしまったことに気付いたのであろう。

 そのままどこか嘘臭く「たははっ」と笑って誤魔化そうとする隼志であったが、そんな彼女の声は更に大きな音によってかき消されることとなった。



 ――――と、それは突如どこぞより鳴り響く巨大な『鐘』の音である。



 直後、食堂にいた人々の意識は、大声を上げた隼志から瞬く間に『鐘』の音色の方へと注がれていく。

 その理由は至極単純で、食堂中を埋め尽くす『鐘』の音があまりにも異常なものであったからだ。


 鐘の音と言うと雄大や神秘的といったポジティブイメージが強いが、この『鐘』の音はむしろ真逆。まるでピアノの低音部分と断末魔を無理矢理に混ぜて凝縮させたような不協和音であった。


 聞きたくない、聴きたくない、効きたくない。

 樋田にはその音色が本能に直接嫌悪感を刻み込んでいるように感じられ、思わず耳を塞いでその場にうずくまってしまう。


『畜生、なんだよいきなりッ。チャイムにしちゃ趣味が悪すぎるだろ』

『オイ、ヘタれてないでさっさと顔を上げろカセイ。周囲の様子がどこかおかしい』


 樋田はそんな晴の言葉につられて顔を上げ、



『――――なっ』



 そのまま驚きのあまり言葉を失ってしまう。


 先程まで目の前で妙なやりとりを繰り広げていた二人の少女、松下希子と隼志紗織の両名が突如能面のような無表情になっていたのである。

 続いて二人は鐘の音に合わせて目を瞑ると、頭を軽く下げながら『何か』に対して祈るように両手を合わせていく。


 否、二人だけではない。


 気付けば先程まで辺りを木霊していた談笑の声が嘘のように消えている。

 今この食堂にいる全ての人間もまた、松下達と同じように黙して『何か』に祈りを捧げていた。


 しかし何故かその形式は一人一人バラバラで、ただ手を合わせているだけの者から、五体投地の形をとっている者まで多種多様。最早何の宗教なのかも分からない異様な礼拝が、そこではまるで当然のことのように繰り広げられている。


『……もう、これは完全に黒だな』

『嗚呼、奴さんもようやっと仕掛けてきたってことかよ』


 ここまで狂った光景を見せつけられれば、流石の樋田でも分かる。

 一瞬ミッション系通り越してカルトに足突っ込んじゃった学園なのかとも思ったが、このあまりにも異様で異常な光景は、まず間違いなく異能の力によって引き起こされたものだ。


 そこにどのような目的があるのかは分からないが、一般人相手に術式が使用されているこの現状を見逃すことは出来ない。


『オイ晴、テメェの『顕理鏡セケル』で敵の異能を調べられたりしねえのか?』

『もうやっている。だが、あまり期待はするなよ。仮にこれが奇襲であるならば、こちらが後手に回っていることは確実なのだからな』


 その言葉通り、晴の掌の上には既に例の電子モニターが展開されていた。

 彼女は画面上を凄まじい勢いで流れていく数値やグラフを次々と処理していき、まだ見ぬ敵の異能の正体を暴きだそうと仮説を組み立てていく。


 ――――……相変わらず、いざとなりゃあ頼りになるヤツだぜ。


 そんな彼女の鮮やかな手並みを見ていると、このように異常な状況下でも不思議と落ち着いていられた。


 晴はきっと自らの役割を果たすだろう。

 ならば樋田可成も樋田可成の役割を果たすまでだ。

 『天骸アストラ』の解析に集中する彼女に代わり、樋田はその獣じみた勘を武器に周囲への警戒を深めていく。


 それは今の二人の力量を鑑みれば、確かに適切な対応だっただろう。樋田も晴も互いに自分が出来ないことは相手に任し、今自分が出来ることに全ての力を注いだ。

 しかし、此度の敵はそんな模範解答で打ち倒せるような惰弱なものではない。それはいくら人類文明が発展したところで、決して自然災害には勝てないのと同じこと。

 それほどまでに謎の異能は一方的に、そしてあまりにも理不尽に少女の身を襲う。



「――――ギッ」



 直後、そんな獣じみた嗚咽と共に、突如筆坂晴の全身がビクリと大きく痙攣した。

 たちまちにその白目は真っ赤に血走り、口元からは泡のようなものがボトボトと零れ落ちていく。

 それどころかあまりに激しくもがき苦しんだせいで、彼女の体は食器を道連れに、椅子から転げ落ちてしまった。


 そのどこか見覚えのある反応に、樋田の喉が瞬時に干上がったのは態々いうまでもない。



『クソッ、こんな時にまたかよッ……!! 大丈夫だ晴、今助けてやるッ!!』



 間違いない。これは晴が今日の朝、綾媛りょうえんの校門を潜ったときに起きたのと同じ現象だ。樋田はそう判断し次第、迷いなく彼女の体へ手を伸ばす。

 一体今何が起きているのかは分からないが、とにかく晴に刻まれた術式を『統天指標メルクマール』で乗っ取ってしまえば、今朝同様彼女の発狂は収まるはずなのだから。


『大ッ――丈夫だ、……問題ない』


 しかし幸か不幸か、晴は今回完全に狂気に飲まれたわけではなかったようで、半開きの目をこちらに向けながらおもむろに手を挙げてみせる。

 しかし、そんな彼女の強がりに樋田はむしろ目を釣り上げて激怒した。


『なにが大丈夫だ馬鹿野郎ッ!! こんなときぐらい俺に頼りやがれってんだッ!!』


 樋田はそう怒鳴りつけると、問答無用とばかりに晴の体へ『天骸アストラ』を流し込む。しかし対する晴の表情は苦しみに耐えながらも、してやったりとどこか満足気なものであった。


『くはっ、またみっともないところを見せてしまったなカセイ……、しかし今回は『顕理鏡セケル』でしっかり『天骸アストラ』の波長を観測してやったぞ。これならばこのあと対呪術式を組むことも決して難しくは』

『うるせぇそれ以上喋んなッ!! テメェは黙って寝てりゃいいんだよッ!!』


 不快な『鐘』の音が鳴り続けるなか、それでも必死に『天骸アストラ』を流し込み続けた甲斐があったのだろう。しばらくすると充血していた晴の瞳からは微かに赤色が引き始め、樋田もようやく少しばかり気を緩めることが出来た。


『よし、これならなんとか――――って』


 僅かながら余裕が出来た彼は、思い出したように再び周囲を警戒し、そこでようやく三つ目の異変に気付くこととなる。


 先程晴がもがき苦しみだしても一切の反応を示さず、ただひたすら自らの祈りに熱中していた周囲の人間達――――



「――――ねぇ、晴ちゃんはしないの?」



 そんな突き刺さるような視線のなか、まず始めに声を上げたのは目の前の茶髪の少女、隼志紗織であった。

 抑揚のない声色に、ピクリとも動かない表情筋。今の彼女に先程までの人懐っこさは欠片も感じられず、その冷たく排他的な様はまるで別人のようであった。


「ねぇ、なんで?」


 こちらの困惑を気にもかけず、隼志はまるで集団の意見を代表するかのように問いかける。いや、正しくは問い詰めると言ったほうが正しいのだろう。

 例えあれだけ仲睦まじそうに晴と話していた彼女であっても、今だけは周囲の人間達と変わらない静かな敵意をじっとりと向けてくる。


「……何のッ、ことだ?」

「何のことって、そんなの決まってるでしょ。何でしないの?」

「……いや、だからキサマは一体なんのことを」

「だからさっ、なんでしないのって聞いてるの」


 そう言って隼志は晴に詰め寄るように一歩前へと踏み出した。

 車椅子に乗っていることから歩行能力が皆無なのは明らかだろうに、それでも隼志紗織は躊躇なく前へ倒れかかり、そして当然その自重を支えきれずに床へと崩れ落ちる。


 しかし、隼志は惨めに床に這いつくばりながら、それでもなお晴のことを真っ直ぐ見つめていた。まるで芋虫のようにゆっくりと地面を這って、晴の顔のすぐ近くまで顔を寄せてくる。

 そして単純に意味がわからないと、純粋な子供のような声色でこう問うのだ。



「……ねぇ、?」



 そうして不気味に伸ばされる隼志の右腕に、晴が「チッ」と思わず飛び退こうとする――――まさにその瞬間のことであった。



「ぐっ……!?」



 あれだけ長かった『鐘』の音色が唐突に静まり、それに比例して晴の体の震えも急速に収まっていく。

 そうして再び開かれた彼女の瞳は鮮やかな群青で、土気色になりかけていた肌にもいつの間にか活気が戻り始めていた。


 もしやと思って辺りを見渡してみても、食堂にいる面々は既に友人との食事や談笑に戻っており、最早あの爬虫類のような目で晴を睨んでくる者は一人もいない。


「ねぇ希子。悪いけど起こしてくれるかな?」

「全く……本当紗織はそそっかしいですね」


 その変化は目の前の二人においても同様であった。松下が文句を言いながらも隼志に手を貸すと、隼志はありがとう希子とニッコリ優しく微笑んでみせる。

 何かしらの洗脳がようやく解除されたのか、彼女達二人もまたそれぞれの人間性と日常を取り戻したようであった。


「で、晴ちゃんはこのあとどこへ行きたい?」


 そう言いながら楽しそうに話しかけてくる隼志の笑顔は、作りものでも演技でもない本物の彼女の笑顔だ。

 そのあまりにも目まぐるしい状況の変化に、樋田の頭は現状を整理するだけでパンクしそうになる。


 洗脳、いや晴の言葉を借りれば呪術タイプの術式か。

 樋田に効果がないのは当然としても、恐らく晴が突如理性を失ったことと、女生徒達の異常行動には何かしらの繋がりがあるのだろう。

 むしろ逆に言えばそれ以外のことは、未だに何も分からないままであるのだが。


『畜生、一体何がどうなってやがんだ……』


『悪いがワタシにもさっぱりだ。だが、今はとりあえず二人に話を合わせておく。今日一日を費やせば学園中に『顕理鏡セケル』を仕掛けられるだろうし、今の観測データを解析すれば対呪術式の方も問題なく仕込めそうだからな。本格的な調査と反撃は明日からでいいだろう』


 スラスラとこれからの方針を述べる晴に、樋田も黙ってこれに首肯する。晴は樋田が同意したのを確めると、気持ち半分に適当な返事を返すのをやめ、ようやく隼志との会話に集中しだす。


「どこにと言われても正直何も分からんからな。サオリンヌの行きたいところへついでに連れていっててくれればそれでいい」

「えっ、いいの? じゃあもう一回中心の方に戻って猫カフェ行かない!? 私脚がこんなんだから人が多いところはあんまり行けなくて」


 そう手を叩いて楽しそうに言う隼志であったが、一方隣の松下は不服そうにジト目をカパッと見開いてみせると、


「はあああ? なんでそういうこと口に出して言ってくれないんですかね。紗織が行きたいってんなら毎日だって連れて行きますのに」

「でもあそこ階段結構急だし、そんな頻繁にお願いするのはなんだか申し訳ないっていうか……」

「……今更そんなこと気にしないで下さいよ。松下が紗織にしてあげられることはこれぐらいしかないんですから」


 いつの間にか晴そっちのけで惚気始める二人であったが、何はともあれ猫カフェでにゃんにゃんする方向で話はまとまったようである。

 樋田と晴は心に若干の、いやかなりのモヤモヤを残しながらも食堂をあとにする。


 ――――畜生、前にも増してめんどくせえことになりそうだな。


 どこかに敵がいることだけは確かなのに、その正体も力量も目的も全く不明というのはかなりストレスが溜まる。

 最早いつどこからまだ見ぬ誰かが襲ってきてもおかしくはないのだ。ここからはこれまで以上に気持ちを引き締めなければならないだろう。


 樋田はそう決意を新たにしながら、三人娘の後に続いて校舎の中を進んでいく。



「むっ」



 しかしそうして廊下をテクテク歩いていると、何故か晴が不意に立ち止まった。彼女はクイっと小首を傾げると、怪訝そうに眉をひそめてしまう。


 これまでの経験則から言うと、晴がこの仕草をするのは大抵ろくでもない何かの予感を察したときだ。

 どうやらついさっき怪奇現象に巻き込まれたばかりだというのに、この私立綾媛女子学園は樋田と晴を一時も休ませてはくれないようである。


「……なにやら騒がしいな」

「そうですね。音の出所的に屋上の方でしょうか」

「えっ、どうしたの?」


 晴がふと思い出したように呟くと、隣にいた松下もやはりと首肯する。

 どうやら今回トラブルの予兆に気付けなかったのは、樋田と隼志だけのようであった。しかしそう言われて耳を澄ませてみると、確かに上階から何か人の声らしきものが聞こえてくる。


 それは酷く甲高いヒステリックな声色で、その声の持ち主がひどく取り乱していることは容易に想像出来る。

 イキリギャルが教師と揉めてんのかなあ――――と、樋田は初め呑気なことを考えていたが、直後その認識を改めざるを得なくなった。



「なんでよッ!! どうしてアンタたちはこんなイカれた場所で平然としてられんのよッ!!」



 瞬間、樋田の背筋にブルリと寒気が走る。


 ここからは大分距離があるだろうに、その絶叫じみた声ははっきりと彼の耳にも届いた。

 トラブルはトラブルでもこれはただごとでない。現場を目にせずとも思わずそう確信してしまうほどに、それは悲痛な声であった。


「やはり上階、いやほぼ真上だな」


 そう晴が低い声で呟くよりも早く、松下は近くの窓を即座に開けて放つと、身を乗り出して声のする方を見上げる。

 樋田達も彼女に続いて窓の外へ顔を出すと、そこには身の毛もよだつ光景が広がっていた。


 こちらから見てL字型の校舎のちょうど対角線上、何とその屋上で一人の女生徒が


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