第三十八話 『狂わずの狂気』


 


 その言葉自体は確かに知識として知っていても、まさか自分がその場に遭遇する羽目になるなど夢にも思うまい。

 樋田は目の前の信じがたい光景に、思わず視線を逸らしてしまいそうになり――――それでも意を決して再び屋上へと向き直る。


 女生徒が今立っているのは落下防止用の柵を越えた先、建物から僅かに突き出た淵の部分だ。

 彼女も一応後ろ手に金網を掴んではいるが、なにかの拍子でその手が離れてしまえば一体どうなるか。


 間違いなく少女は地上まで真っ逆さまらに落ちていき、その体の中身を壮大にぶちまけることになるだろう。


「……クソッ、くっだらねぇことしてんじゃねぇですよッ!!」


 晴をはじめとする三人が呆気にとられているなか、まず最初に動きだしたのは意外にも松下であった。


 彼女は今まで来た道を一気に引き返し、屋上へと続く階段を大急ぎで登っていく。確かにこの風雲急を告げる状況にあって、無駄に呆然としていられる暇なぞあるはずがない。

 そんな頼り甲斐のある背中に樋田も続こうとする――――が、突如晴に後ろから肩を掴まれてしまった。


『離しやがれッ!! 姿の見えねぇ俺なら下手に刺激せず取り押さえられるだろッ!!』


『ダメだ、今から行っても間に合わん』


『……テメェ、だからって俺にあの子を見殺しにしろって言うのかよッ!?』


『そうではない。ただ単にオマエはオマエが出来ることをしろと言っているのだ。その大層な左目は一体なんのためにある?』


『――――チッ』


 焦るあまり口調が荒くなる樋田に対し、晴が紡ぐ言葉は驚くほどに冷静なものであった。そこで樋田は彼女の言わんとするところをようやく理解し、舌打ちをしながらも大人しく引き下がる。


「なんでっ、なんでなの。入学前まではみんな普通だったのに、神様だなんてくだらない幻想に縋るような弱い子達じゃなかったのに……ここに来てからもう何もかもが滅茶苦茶じゃないッ!! 」


 改めて女生徒の悲痛な叫び声を聞くに、どうやら彼女は地上にいる他の生徒達に何かを訴えているようであった。

 いや、何かなどではない。最初の叫びを聞いた時点で、樋田の頭には既に一つの可能性が思い浮かんでいた。



『可哀想に。彼女はのだな』



 事態の核心をつく晴の一言に、樋田は黙って首肯する。


 そう、彼女は明確にこの私立綾媛女子学園を「狂っている」と明言した。

 確かに綾媛の生徒のほとんどは何かしらの洗脳を受けているようだが、樋田のように生まれつき『天骸アストラ』に適性がある者ならば、他の一般人と同じく素直に術式の影響を受けるとも限らない。


 しかし、それが果たして幸運であるのかと言えば、むしろその真逆であろう。


 明確な知識として異能を認識している樋田とは違い、あの女生徒はただ『天骸アストラ』への適性があるだけの一般人に過ぎないのだ。

 名前と顔が一致する程度の知り合いから、唯一無二の親友まで。自分を除く全ての人間が得体の知れない狂気に犯されるなか、一人正気を保ち続ける苦しみはきっと想像を絶するものであるに違いない。


 そう考えれば、彼女が自殺という最悪の選択肢を選んでしまった理由も何となく察せられる。



『――――おい、カセイ。気を引き締めろ』



 そんな樋田の思考を突如断ち切ったのは、押し殺すように紡がれた晴の低い声であった。

 少年が女生徒の境遇を分析しているうちにも、此度の飛び降り自殺事件は早くも急展開を迎えることとなる。



『――――なっ』



 それはあまりにも呆気ない一瞬であった。


 最後は悲痛な嘆きの声をあげることも、理不尽に対する怒りを叫ぶこともなく、女生徒はただ現実から逃げるように

 空かさず少女の全身は重力に搦め捕られ、十メートル下の地上へ向けて真っ直ぐに突っ込んでいった。



『カセえええええええええええええええええッ!!』



 しかしそんな突発的な状況に際しても、筆坂晴の行動は迅速であった。

 彼女は女生徒が飛び降りるのを確かめ次第、開け放たれた大窓の淵へ足を掛けると、



『着地は任せたぞッ!!』



 その小さな体を『天使化』させることもなく、生身のまま窓の外へと飛び出していったのである。



『――――ちょ、待てオイッ!!』



 その瞬間、樋田は冗談抜きで口から心臓が飛び出すかと思った。

 途端に両手の掌は嫌な汗で一杯になり、後ろからは隼志の絹を裂くような悲鳴がやけに遅れて聞こえてくる。


 ――――全く、相変わらずイかれた野郎だぜッ……!!


 しかし、それでも頭だけは比較的落ち着いていた。かつて簒奪王と演じた死闘の経験が、危ういときほど冷静になれと本能を律してくれる。


 事実、樋田には晴と少女が宙を舞う光景が、やけにスローモーションに見えていた。

 大丈夫だ、これなら間に合う――――彼はそう確信しながら、体内の『天骸アストラ』を煌々と燃え上がらせる。


 この程度のピンチで一々慌てるようでは、きっとこれから先の試練を乗り切ることは出来ないだろう。

 そしてそれ以上に、ここで瞬時に晴の意図を察することが出来ないようでは、きっとこれから彼女の相棒を務めることなど出来はしないのだから。


「――――このッ、愚か者めがあああああッ!!」


 流石はこれまで天使として自由自在に空を飛び回っていただけはある。

 晴は落ちてくる女生徒に向けて手を広げると、空中で見事にこれをキャッチした。そうして互いに抱き合う形になった二人は、そのまま地上へ向けて真っ逆さまに落ちていく。


 ――――……無茶振りしやがって、だがやるしかねぇよなァッ!!


 覚悟などもうとっくの昔に決めている。

 そう言わんばかりに樋田は勢い良く窓から身を乗り出すと、抱き合う二人の姿を魔眼の視界に余さず捉えた。


 少年の左目に宿る異能は、視界に映った対象の状態時間と座標時間を巻き戻す神権代行『燭陰ヂュインの瞳』。

 その異能の及ぶ範囲は、例え速度や運動エネルギーといった不可視の概念であっても例外ではない。


 正直、彼女達二人を助けるだけならば、いくらでも手段はあるのだ。


 一番単純な方法だと、二人の座標時間を戻して屋上にリリースすればいいだけであるし、なんなら二人が地面に激突してから状態時間を戻して生き返らせてやってもいい。


 


 いくら怪しげな術式の影響を受けているとはいえ、ここに通う女学生のほとんどは異能のことなど存在も知らないただの一般人。瞬間移動や肉体の再生といったあからさまな超常を、彼等の目の前で披露するわけにはいかない。

 そのためには出来るだけ自然な、なおかつ現実でもあり得る筋書きのなかで二人の命を救う必要がある。


 ――――考えろ。そしてなにより集中しろ。アイツら二人の命は今、この俺の手にかかってんだ。


 それが如何に困難なことであるかは、流石の樋田でもよく分かる。

 それでも彼は簒奪王との死闘を終えてから、晴と共に『燭陰ヂュインの瞳』の新たな使い方を模索し、『天骸アストラ』をコントロールするための鍛錬を常に続けて来た。


 全てはこの無力な身でも、クソッタレな理不尽に立ち向かえるようになるために。

 そして何より、これから先、自分の目の前で命を散らそうとする、誰かのことを救えるようになるためにであった。



『激突の寸前、二人の自由落下エネルギーと速度の状態時間を戻してやりゃあいい。これが今の俺が出来るなかでの最適解だあああああああああッ!!』



 樋田の獣じみた雄叫びとともに、『燭陰ヂュインの瞳』は観測を開始する。


 その瞳に映る世界の五秒前を写しとり、現在の時間軸の中へと投影する。

 そうして空間がまるで飴細工のようにぐにゃりと歪んだその直後、彼女達が内包する自由落下エネルギーと速度は五秒前の状態――――即ち飛び降りる前と同じゼロへとリセットされた。


 地表までの距離は残り僅か五十センチメートル。

 

 結果、二人は平均台から落ちた程度の勢いで、背中からストンッと着地する。

 もちろん彼女達は二十メートル近い高さから飛び降りたにも関わらず、落下の衝撃で人体が爆散することも、ましてや足の骨が折れることさえなかった。



『あっ――――ぶねぇッ……!! 結構ギリギリだったじゃねぇか』



 確かに危うい綱渡りではあったが、何はともあれ二人の命を助けることには成功したのだろう。

 事実晴は五体満足の姿でムクリと起き上がると、こちらに向けてナイスとばかりにガッツポーズを見せつけてくる。


『ったく、無茶振りも大概にしてくれってんだよ』


 しかし、そんな彼女の元気な姿に、思わず微笑みを浮かべてしまう自分がいるのもまた確かであった。

 途端に全身からドッと力が抜け、そのまま近くの窓枠にダラリともたれかかってしまう。



「……なっ、なんでッ」



 と、突如耳をついたのは今にも泣き出しそうな隼志紗織の声であった。

 そのまま嗚呼良かった良かったと一人余韻に浸る樋田であったが、ここでまた一つ新たなトラブルが発生した。

 どうやら窓の外で何が起きたのかをちゃんと見てなかった車椅子カチューシャちゃんは、本当に晴が死んでしまったのだと思い込んでしまったらしく、


「あっ、あっ…晴ちゃん晴ちゃん。なんでっ、なんでそんなァアアアアアアアアアアアアッ!!」

「ちょっとちゃんと見てくださいよ紗織ッ!! 生きてますから、普通に二人とも生きてますからッ!!」


 気になって声の方を振り返ると、いつの間にかここに戻ってきていた松下が、早とちりしてガチ泣きしてる隼志を宥めているところであった。

 あんなクズが死にかけただけで泣いてくれるとかいい子すぎるなあ……と、樋田の中ではサオリンヌの好感度がグングンうなぎ登り中だったりする。


『……本当一人で無茶すんのは勝手だが、心配する側の身にもなれてってんだよ。あんのバカはッ』


 晴も女生徒もなんとか無事で済んだようだが、それでめでたしめでたしはい解散となるはずもない。


 晴達の周囲には瞬く間に野次馬が形成され、少し遅れて校舎の方から教職員が怒号混じりに飛び出して来る。

 この様子では事情聴取だのなんだので、しばらく拘束されてしまうに違いない。


 ――――ったく、面倒なことになりそうだぜ……まっ、誰も死なずに済んだんだからそんぐらいは我慢しねぇとな。


 樋田はそう思ってどこか誇らしそうにニヤつくと、クセのある後ろ髪を搔きむしりながら、近くの階段をゆっくりと降りていった。





 女生徒による飛び降り事件がまさかの死者ゼロという奇跡の結果に終わってからおよそ十分後、晴達が着地した石道の周辺は当然ながら結構な騒ぎになっていた。

 うずくまる件の女生徒の周りには、既に十を超える綾媛の先生方が駆けつけており、そこから少し離れたところでは野次馬が口々に無責任な予想を口走っている。


 当然事件の当事者たる晴も、教職員達の近くでこじんまりと座らされており――――と、ちなみに樋田はそんな光景を近くの花壇の裏からこっそりと伺っていた。


 『天骸アストラ』が認識出来る者には『霊体化』が通用しない以上、これまでのように堂々と人前に姿を晒すわけにはいかなくなったのである。


 そうして早く解放してくんねぇかなぁと一人でブツブツ文句を言っていると、丁度校舎の方から二人組の少女がやって来たところであった。


「バカなことしないでったらッ……!!」


 松下に晴の元まで車椅子を押してもらったのち、隼志紗織が最初に口にしたのはそんな言葉であった。


 折角ここまで来る間に頑張って泣き止んだだろうに、少女の大きな瞳からはまたボロボロと涙が溢れ出してしまう。

 そんな友人の真っ直ぐな気持ちに、筆坂は困ったとばかりに後頭部を掻き毟ると、


「そうは言ってもあの状況ならば仕方がないだろ。サオリンヌはワタシにあの女の子を見殺しにして欲しかったのか?」

「そっ、それでも自分の命はっ、ちゃんと、大事にしてよッ!! ええっと、晴ちゃんの……バカッ。ううっ……バカああああああああああああああッ!!」

「あっ、ハイ。すみません……」


 基本的に叱責も苦情もガン無視スタイルの傍若無人幼女でも、こういう優しい子に本気で怒られては流石に平謝りになるしかない。


「もう紗織またひっどい顔になってますよ。ほらチーンてしてください、ほらチーンて」


 未だに鼻をビスビス言わせている隼志にポケットティッシュを差し出しながら、松下は話題を変えようとそれとなく口を開く。


「つーか、貴方あの高さから落ちてなんで普通に生きてんすか? 気のせいじゃなかったら、おもっくそ頭から落ちたように見えたんですが?」


 そんな松下の至極ごもっともな指摘に、晴はおろか樋田も「むむむ」と唇を噛まずにはいられない。


 当然『燭陰ヂュインの瞳』で自由落下エネルギーを消失させたなんて言っても信じてもらえるはずがないし、そもそも一般人に異能の存在を教えること自体が論外である。


 晴ちゃんどうやって言い訳すんなのかなあと樋田が内心そわそわしていると、向こうもようやく何か適当なことを思いついたのだろう。

 彼女は胡散臭く目を逸らし、眉をヒクヒクさせながら自信なさげに言う。



「……受け身をっ、受け身をとったのだ」



 うん、どう考えても言い訳が苦しすぎる。


 そんなあらゆる危機を受け身だけで乗り切っていいのは、陸自の第一狂ってる団ぐらいのものである。

 しかしそんな口から出まかせでも、樋田が思った以上には信憑性があったようで、


「へええ、やっぱ凄いんですね受け身って。確かにルーキ○ズとかで似たようシーンを見たことありましたけど、まさか現実でも可能とは……正直、目から鱗です」


 松下は普通に「ほへえ」と感心したような顔を浮かべていた。

 嗚呼こいつバカでよかったわと、樋田と晴は内心ホッと安堵の息をつく。

 しかも続いて事情聴取に来た教職員の面々も、晴が「受け身をとった」とか「実は柔道に覚えがあって」と言うと、怪訝な顔をしながらも大体納得してくれた。


 オイオイ、どいつもこいつもUKEMI盲信しすぎだろ……などと樋田が一人で唖然呆然としていると、教職員の中から知った顔が一人不意に進み出て来た。


「あっ、先生」

「んっ、先生じゃねぇですか」

「およっ、なにがし先生ではないか」


 とても女性が着るものとは思えないオンボロジャージの下から、適度に日焼けし適度に引き締まった四肢を覗かせる妙齢の体育教師。

 みっともないガニ股でグイグイ近付いてくるその女性は、紛れもなく晴達のクラスの担任でもある里浦響子さとうらきょうこであった。


 しかし彼女は筆坂・松下・隼志の三人には目もくれず、真っ直ぐ件の女生徒の元へと向かっていく。


「……さっき、飛び降りた生徒って、貴方であっていますか?」

「……えっ」


 里浦のつっかえつっかえな問いかけに、ずっと魂が抜けたようになっていた女生徒が初めて顔を上げる。


 今の里浦響子からは、初めて会ったときのような快活で軽薄な様子は微塵も感じられない。

 彼女のその柔和な顔つきは固く引き締められており、それでいて今にも泣き出してしまいそうな危うさを同時に内包していた――――そして、


「良かった、生きててくれて本当に良かった……ッ!!」


 そう震えた声で言いながら、里浦響子は女生徒の体を優しく、それでいながら力強く抱きしめる。

 それはちょうど他の教員達が此度の責任問題について、口喧しく言い争っている最中のことであった。


「ごめんなさいごめんなさい、私達は大人なのに、先生なのに、あなたの苦しみに気付いてあげることが出来なかったッ……!!」


 続いて彼女はそこで「でも」と一度を区切ると、


「でもっ、それでも自殺だなんて、そんな悲しいことだけはしないでくださいッ!! 生きていればこれから先いいことがきっとたくさんあります、美味しいものだってたくさん食べられます。貴方がもう一度心の底から生きたいと思えるまで、先生一緒に頑張りますからああああああああああッ!!」


 なんか感情が昂りすぎて何を言っているのか分からなくなっている里浦であるが、醜い自己保身よりも生徒の心を第一に優先するその姿に、樋田はこの人も一応ちゃんとした教師なんだなあと素直に感心してしまう。


 ――――この先生になら任せられる……って、言いてえところなんだけどな。


 しかし、それでも彼女が受けた苦しみはそう簡単に癒えるものではないだろう。

 いくら教職員が優しく寄り添ったところで、彼女の友人達にかかった『鐘』の洗脳が解けるわけではないのだから。


 ――――畜生ッ、胸糞悪りぃモン見せやがって。


 そして、だからこそ樋田は、未だ姿を現さない何者かの打倒を改めて決意する。

 今回の黒幕が何かしらの異能持ちである以上、このふざけた茶番を終わらせられるのは樋田と筆坂だけだ。


 彼女のことを真の意味で救うため、そして狂気に囚われた綾媛の生徒達を解放するためには、自分達が一刻も早く小賢しい術者を見つけ出し、これを徹底的に粉砕――――状況によっては殺さなくてはならない。


 そうして一人敵意を殺意へと昇華させていく樋田であったが、そんな思考は脳内で沸いた晴の声に突如掻き消されることとなる。



『オイ、カセイ気をつけろッ!! 向こうから『天骸アストラ』の気配が幾つか近付いてきている』

『――――ッ!!』



 青天の霹靂とはまさにこのことである。

 まさか遂に例の何者かが、こちらの存在に気付き、直接仕掛けてきたとでもいうのか。


 続いて晴が合図を送るように顎で指したのは、彼女達を遠巻きに見つめる野次馬の方角。

 そして次の瞬間、その分厚い人混みの中を切り開くように、突如五人の不気味な人影が姿を現したのであった。


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