第一話 『高二病的英雄論』


 その日、何か特別なことがあったわけではない。


 今日も高校生活、即ち一日中机に突っ伏しているだけの退屈な時間を終えて、自分と似たような悪童に絡みもせず、ただ無心で帰路についていただけのことであった。


 本来ならば今頃自宅でくつろげていたはずだというのに、どうしてになってしまったのか。


 己の置かれたなんとも言えない状況を顧みて、天に虚しく問いかけてはみるが、淀んだ曇り空は当然のように何も答えを返してはくれない。

 いつの時代も天は人の行いを肯定も否定もしない。己が歩んでいく道は、自分自身の意志で決めなくてはならない。

 そう頭ごなしに叱りつけられている気分であった。


「チッ、この俺様につまんねぇモン見せやがって……」


 ところは左右を古びた雑居ビルによって挟まれた裏路地。今日も腐った卵のような刺激臭がツンと鼻をつき、時折足元を溝鼠が我が物顔で走り抜ける。

 そんなどことなく犯罪の香りが渦巻く空間の片隅で、少年樋田可成ひだよしなりは独り不愉快そうに顔をしかめていた。


 その背は高校生にしてはやや高く、体格もそれなりに筋肉質なのだが、そこに人を惹きつける爽やかな印象は一切ない。

 むしろ薄く短い眉と切れ長の四白眼が特徴的なその面構えは、彼の陰湿な内面が表に滲み出しているかのようですらあった。


「つーか今時女に絡むチンピラとかマジでいんだな。まあ、わざわざ学校なんかに攻め込むテロリストよりかは遥かに現実味あるけどよ」


 樋田は忌々しげに吐き捨て、背後で繰り広げられている胸糞悪い光景へと視線を走らせる。

 少年が隠れるようにその身を預けているビル壁の向こう側。そこに見えるのは一人の少女(それなりに可愛い)と、彼女を遠巻きに取り囲んでいる数人のガラの悪い男達の姿であった。


「いやいやマジで大丈夫だって。ちょっと写真撮らせてくれればそれですぐ帰れるからさ」

「怖いなら他にいる女の子も連れてこようか? その方が君も安心でしょ?」


 軽く耳を澄ませてみれば、そんなエロ漫画じみた下品な台詞がこちらへと漏れ出てくる。先程述べたとは勿論このことだ。


 チンピラに絡まれる女の子とのエンカウント。

 樋田は今正しくそんな場面テンプレと遭遇しているのであった。


 別にそれまでに何か特別な経緯があったわけではない。帰宅途中に遠目でチラリと見えた少女の怯えた顔が気になって、思わず足を止めてしまったというだけのことである。


 されど漢として現世に生を受け、このような場面に遭遇してしまったならば、樋田が取るべき選択肢なんて一つしかない。

 そもそも弱きを助け強きを挫くなんてことは、人として至極当然の行いなのだ。それでキャー樋田くん素敵っ、抱いて! となればそれもまたご愛嬌である。


 ――――さーてまだ金曜夕方だが、ちょっと早めにスーパーヒーロータイムの時間だぜ。


 そんな頼もしい軽口と共に、樋田可成生まれもっての正義感がこれでもかと熱く全身を駆け巡る。


 勇気は万全、覚悟も完了。


 少年は己が拳を固く握りしめると、目の前で繰り広げられる理不尽に対して果敢に立ち向かい――――なんてことは当然出来ず、独りで「どうしよう、どうしよう」とオロオロしているのが、ヘタレ少年樋田可成の限界であった。


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「……我ながら死ぬほど情けねぇな。この金玉実は飾りなんじゃねぇの」


 チンピラ達に聞こえないよう小声でボソボソと呟く樋田は、あまりの自己嫌悪に思わずガクリと膝をつきそうになる。

 別に善人を自称する程まともな性格をしているつもりはないが、大の男がこんな風に女の子を脅している光景と遭遇して、胸糞悪く思う事に変わりはないのだ。

 樋田にだって助けたいか助けたくないかで聞かれれば、迷いなく助けたいと答えられるくらいの良心はある。

 そう、理想を騙るだけならば、樋田のような口だけ人間にも出来るのだ。しかしそれを行動に移せるのかと聞かれれば、それはまた別の問題なのである。


 ――――つーかいくら何でも群れすぎだわ。社会の弾かれモン共が一丁前に集団行動なんかしてんじゃねぇよ。


 可憐な少女に群がる卑劣漢の数はここから見えるだけでも六人。そのうえ全員がそれなりに鍛えた立派な体格をしており、髪型だけで悪ぶっているつもりになっているファッションチンピラは一人もいない。


 樋田も荒事にはそれなりに自信がある方だが、白馬の王子様よろしく華麗な救出劇なんてものを演じてみるのは、到底無理そうな話であった。


 ――――クソがッ、通行人でもなんでもいいから早く誰か来いよ。こちとら数に任せれば、いくらでも態度デカくなれるっつーのによ。


 そんないかにも小者臭いことを考えながら、縋るように辺りを見渡してみても、周囲に人の気配は無い。

 そのうえ警察を呼ぼうにも生憎携帯電話の電池は切れているし、公衆電話なんてモノも二〇一六年の東京にはもうほとんど存在していないだろう。


 最早体を張ることでしか少女を救う方法はないというのに、どうしてもその決心がつかないのである。

 決して諦めたわけではないのだが、一歩踏み出そうとしては立ち止まり、一歩踏み出してはその度に二歩下がってしまう。


 所詮樋田可成とはその程度の男なのだ。

 そもそも彼は本来チンピラだとか不良だとか呼ばれて蔑まれる側の人間であり、少なくともここで自分を犠牲にしてまで弱者に手を差し伸べられるような善人では決してない。


 ――――まぁ、しゃあねえか。そもそもこんなクソの吐きダメを女一人でブラついてる方が悪りぃんだよ。


 だから、樋田はその少女を救うことを諦めた。

 仕方ない、どうしようもない。そんな都合のいい言い訳で自分のクズさ加減を正当化し、まるで逃げるようにその場を後にしようとする。

 今思えば自分で自分が馬鹿らしい。己は一体何が悲しくて、こんな正義のヒーローの真似事じみたことをしようとしたのか。

 助けたい、救いたい。例え幾ら口でそんな綺麗事を宣おうとも、己の根っこが自分本位なクズであることに変わりはないというのに。



「はい、お兄さん達ストッープストッープ」



 そうして樋田が一人で愚かにも開き直っていたときであった。突如どこかからか湧いた男の声に、彼はおろか不良達も思わず顔を上げる。

 この張り詰めた空間に相応しくない間延びした緩い声色。それはまるでこの割と切羽詰まった危機的な状況を、大したことのない些事なのだと上から嘲笑っているかのようであった。


 ここでまさかの待ちに待った援軍の登場か。

 されど、それで樋田の暗い顔色が期待に晴れることはない。


 ――――いや、今更ヒーロー気取りが一人増えたところで無理だろこれ。


 樋田が嫌な顔をしたのも仕方がない。

 彼から見て奥の方に広がる裏路地の更に向こう側。そこから姿を現したのは、たった一人の若い男であったのだ。


 年齢は大方二十代半ばと言ったところで、下睫毛の長い垂れ目と左の泣き黒子が特徴的だ。背はモデルのようにスラリと高く、その身に纏う高級そうな黒のスーツが良く似合う。

 そして顔はどちらかと言えば中性的な方だというのに、その麗しい出で立ちからは、大人の男の色気というヤツがムンムンに漂っていた。


 最近流行りの男なのか女なのかもよくわからないイケメン(笑)なんかとは正しく美形としての格が違う。老若男女を問わない百人に聞いても、百人がまるで常識のように彼の事を美しいと答えるであろう。

 そんなまさにハンサム中のハンサムと呼ぶに相応しい色男がそこにいた。


 ――――オイオイ、男が男に見惚れるとかキモいにもほどがあんだろ。


 樋田は開きっぱなしになっていた口元を慌てて手で抑える。

 なるほど、確かに割と卑屈な樋田が、無条件にその容貌を羨んでしまうほど彼は美しい。されどそんな色男の桁外れな美貌も、腕力が全てを決める蛮族の世界ではなんの意味も持たない。


 ふと嫌な予感がして視線を戻してみれば、不良達の怒りのボルテージは当たり前のように急上昇していた。

 今だけなら彼らの気持ちも少しは理解できる。

 自分達の悪行に水を差されたのはもちろんのこと。同じ人類なのにここまで顔面レベルに差を付けられたならば、誰だって心底腹が立つことだろう。


「なんだテメェ、オスに用はねぇんだよ」

「財布置いてとっとと消えろ。今ならまだ見逃してやる」


 当然のようにチンピラ達の口からは、すぐさま下品な恫喝が飛び出した。

 その噛みつきの速さは短気を通り越して、最早脊髄反射レベルである。そのうえその中でも一番頭の悪そうな男が、色男の胸倉を掴み出したから、もう両者共に色んな意味で救いようがない。


 側から見ればそれはまさに一触即発、いやリンチ二秒前としか言えない光景であった。


 ――――アホくさ、馬鹿じゃねえのかアイツ。


 樋田と違い体を張ったのは評価できるが、それで少女を助けられなければ何の意味もないではないか。これでは犬死もいいところである。「まぁ頭はお花畑でもお前みてぇなバカは嫌いじゃねぇぜ」と、樋田は内心で無謀な勇者の心安らかな成仏を願った。


「あーあーそういうのいいから。悪いがこっちも割と多忙の身でな。お前らみたいなクソモブ共に態々時間割いてやれるほど暇じゃねーんだわ」


 されど色男は怯むどころか、チンピラ達の恫喝をこれっぽっちも気にしてはいないようであった。どれだけ余裕ぶりたいのか知らないが、その頬には涼しげな笑いすら浮かんでいる。


「分かったらガキはクソしてさっさと寝てろ」


 直後、背中に氷でも入れられたような悪寒が瞬時に樋田の全身を駆け巡る。色男の唇から紡がれたのは、まるで剥き出しの刃物を連想させる冷たい一言。

 その瞬間、彼の柔和な笑みがドス黒い敵意に染まったのを樋田は見逃さなかった。


「あぁ、テメェ何言って――――ッ!!」


 そんな変化には全くもって気付かず、お約束のようにチンピラの口から飛び出す罵詈雑言。されど次の瞬間、素早く打ち出された色男の右拳が、目の前の不良の鼻頭を容赦無く粉砕した。


 ――――……っ、マジかよ。


 あまりにも唐突に、そしてあまりにも呆気なくその場に沈む男の姿に、樋田は思わず息を呑む。

 骨が折れ肉が潰れる嫌な音が響き渡る一方、男の口から悲鳴は一切上がらなかった。恐らくは自分が殴られたことに気付くよりも先に、意識の方を刈り取られてしまったのだろう。


 樋田もチンピラ達も、そして助けられているはずの少女すらも、この場にいた人間の全てが、そのあまりにも鮮やかな一撃を前に思わず言葉を失ってしまう。



「何しやがんだテメェえええええッ!!」

「金玉潰されてぇのかコラァああああああァッ!?」



 突然我に返ったようにチンピラ達は罵声をあげると、そのまま拳を握りしめて色男のもとへと殺到する。仲間が瞬殺されたことに多少は動揺しているのだろうが、彼等の顔にはまだ数の有利からくる絶対の自信がある。


 しかし、対する色男の表情はまたもどこまでも涼しげなものであった。

 まるで蟻を踏み潰す幼な子のような余裕の笑みに、樋田も彼が負けるようなことはないだろうと、心のどこかで何故だかそう予感していた。


 次の瞬間、一人と五人とが交錯し、暴力と怒号の嵐が吹き荒れる。

 色男とチンピラ達が激突してから僅か二秒、早くも予感は確信へと昇華した。


 色男は瞬く間に二人の不良の顎を穿ち、額を叩き割ると、返す刀でもう一人の鳩尾に正拳を叩き込む。

 その動きに一切の無駄はなく、精錬された一級品の暴力は次々と不良達の急所を貫き、一撃で口から泡を吹かせていく。

 

 これは最早喧嘩が強いとかそういうレベルではない。

 格闘家、あるいは軍人か。素人が見ても一目で分かるほどに、その体裁きは一般人のものとは隔絶された鋭さを誇っている。


 そうして思わず呆気にとられているうちに、いつの間にか全ての決着はついていた。

 最初に色男が殴りかかってから恐らく十秒も経ってはいないというのに、チンピラ達は全員仲良く泡を吹いて地を転がっている。呻き声の一つすらも聞こえないその完全な静寂が、色男の圧倒的な勝利を言外に物語っていた。


「さてとっ、まだ多少は大丈夫か」


 再び無音となった路地裏の中で、色男は一人ぼそりと呟く。

 一体何をするつもりなのかと樋田が首を傾げた次の瞬間、彼は優雅に少女の元へと振り返ると、その場に膝をつき、彼女の手を取って軽くこうべを垂れる。

 そうして呆気にとられて何も言えない少女の前で、彼は白い歯を見せながら爽やかに微笑むと、恥かしげもなくこうほざいたのであった。


「怪我はないかいお嬢さん。怖い思いをさせてしまってすまなかった。だが、もう安心していい。今、君の隣には、俺がいる」


「はっ……、はいッ!!」


 ハンサムは当然の様に声までハンサムだった。

 耳まで妊娠しそうな色男の素敵ボイスを前に、ただでさえ麗しげな少女の声が更に甲高く裏返る。ここからでも女の子の顔が見る見るうちに耳まで真っ赤になっていくのがよく分かった。


 こんなの惚れたに決まっている、と樋田は心底悔しそうにただでさえ細い目を更に細める。


 西暦二〇一六年四月八日、未来のヒロイン候補(仮)を目の前で見事に堕とされた記念するべき日として、本日のことは死ぬまで樋田の心の中に残り続けることであろう。

 そんな風に樋田が雄としての劣等感に打ちのめされていると、いつの間にか色男はおもむろにその腰を上げていた。


「なははっ。さーて、これ以上サボってると本格的に鈴久すずひさに殺されちまうな。まぁ、これからはこんな薄暗い場所を女の子一人で歩くのは控えてくれよ」


 色男は冗談めかした口調で楽しそうにそう呟くと、用は済んだとばかりにそのままどこかへと去っていってしまう。

 慌てて彼の走っていった方向へ目を凝らしてみるが、その姿はみるみるうちに小さくなり、あっという間にどこかへと消えてしまった。


「ハッ、認めたくねぇけどカッコ良すぎだろアイツ……」


 コソコソと隠れることも忘れ、樋田は独り諦めたような口調でぼそりと呟く。

 正しく嵐のように現れ、嵐のように去っていった男であった。いや、少女の救いを求める声に颯爽と駆けつけ、全ての不幸を吹き飛ばし、とびっきりのハッピーエンドを彼女にもたらしたその様は、どちらかというと流れ星に例えた方が正しいのかもしれない。

 少し気取った言い方をするならば、きっとああいう男こそが俗に言う正義のヒーローというヤツなのだろう。


「ダッセェな……本当ッ」


 そんな色男の姿を素直に格好良いと賞賛している自分がいる一方、心底憎らしく思っている自分もいる。

 あまりの器の小ささに自己嫌悪で押し潰されそうになるが、妬ましいものはやはり妬ましい。

 きっと彼の様な『選ばれし者』は、これからも当たり前のように誰からも好かれ、頼られ、そして全てを認められていくのだろう。


 樋田の様な生きていても死んでいても誰も悲しまないし喜びもしない量産型の小物とは、存在としての価値が根底から違う。そう思い知らされた気分であった。


「気に食わねぇ……」


 理想に生きることも、信念を貫き通すことも出来ない樋田のような人間に文句を言う資格など当然ない。しかし、それでも独り口を尖らさずにはいられないのだ。

 ただの八つ当たりだとは分かっていても、己の出来ない事を平然とやってのけるあの男の存在が気に障る。そしてそれ以上に、いつまで経ってもそんな憧れにちっとも近付けない惰弱な自分が、何よりも気に食わないのだ。


 小さい、あまりにも全てが小さすぎる。

 本日は生憎の曇り空だというのに、何故だか空が酷く高く感じた。




 ♢




 樋田がそんな噛ませにすらなれない醜態を晒してから既に早十分。

 最早あの場に残っている理由もなく、無心でひたすらに歩を進めていると、辺りは本格的に繁華街の様相を呈し始めていた。


 左右に立ち並ぶのはどこもかしこも居酒屋とカラオケと風俗店ばかり。社会倫理的に大いに歪んだ表通りは、今日も会社帰りのサラリーマン(目が死んでる)と如何にも偏差値が低そうなチンピラ達(目が死んでる)でごった返している。


 樋田の行動範囲でもあるここら一帯は、狭く、汚く、そして臭い。地べたの染みとなった黒いガムは視界に入るだけでなんとも言えない気分にさせられるし、何処からともなく流れてくるゲロと糞を混ぜたような悪臭に吐き気を催すこともしばしばだ。


 そしてそんな繁華害を避けるかのように、樋田の足は自然と表通りを少し外れた裏路地の方へと吸い込まれていく。

 確かに人混みとそれに付属する不衛生が嫌いなのも理由の一つではあるが、何より自宅へ帰るにはここを通るのが一番の近道なのである。


 例によって雑居ビルに左右を挟まれたこの裏路地には、表の喧騒はおろか頭上からの月明かりもあまり届きはしない。

 足下には粉々に砕け散ったガラス片や、適度に血痕が付着した鉄パイプなんかがそこら中に転がっており、ここら一帯が現代日本にあるまじき治安の悪さを誇っていることがよく分かる。


「……っと、なんだよ。ウンコじゃねぇよな」


 そこで不意に何かにつまずき、樋田は思わず立ち止まってしまう。足裏に広がるのは、どこか柔らかい肉のような感触であった。恐らくは道端で潰れている酔っ払いでも蹴飛ばしてしまったのだろう。


 ここは天下の一千万都市東京だ。

 左を見ても右を見ても人人、人人人と人ばかりの人間祭りである。こんな汚い路地裏で寝ている汚っさんがいたって何の不思議もないし、実際樋田もこれまでの日々の中で幾度となく遭遇している。


 あたりが暗くて見えなかったからと言い訳もしたくなったが、それは樋田の事情であり相手には関係のないことである。

 泥酔してるからか特に抗議の声は上がらないが、気持ちよく爆睡してるとこをいきなり踏んづけられて気分が悪くならない人間はいないだろう。形だけでも一応謝っておくに越した事はない。


「ありゃりゃ、こりゃすいませんね」


 外面は謙虚に、されど心中は心底気怠けに。

 樋田はその凶相にお得意の営業スマイルを貼り付け、足下で転がっている誰かへ向けて軽く頭を下げる――――――その日、その瞬間まで、樋田可成は己の憎らしくも愛おしい日常が崩壊するとはこれっぽちも考えてはいなかった。


 このまま特に山も谷もなく、下り坂だけが延々と続く毎日の中で、己を軽蔑し続けるだけの人生が続くのだと、そう信じていた。


 されど陰謀渦巻く時代の流れはそんな惰弱を少年に許してはくれない。あまりにも唐突に、そしてあまりにも残酷に、運命は樋田可成をそのうねりの中へと巻き込んだ。



「は?」



 暗がりでよく見えなかったを認識した次の瞬間、樋田は思わず間抜けな声を上げていた。

 それ自体があまりにも濃密で、鼻腔が溺れそうになるほどの鉄の匂い。足裏に広がるぬちゃりという水っぽい独特の感触は、本能的に嫌悪感を覚えざるを得ない代物であった。


 目の前のを冷静に分析する余裕などどこにもない。

 たちまちに手足は震え、不自然に呼吸は荒くなる。思考が数多の空隙で埋め尽くされるなか、少年の心はただひたすらに現実逃避を叫んでいた。


 おかしい、あり得ない、この平和な現代社会にこんなモノが存在していいはずがない、と。


 視界一面に広がる赤の惨劇を前に、少年はただただ呆然と立ち竦すことしか出来なかった。どこまでも醜く、どこまでも赤黒い血溜まりの中で沈むそれは、人は人でも最早ではない。


「オイ、なんだよ……これっ」


 全身の肉という肉を無残に引き裂かれた物言わぬ亡骸――――それが少年の日常に突如割り込んだ非日常イレギュラーの正体であった。

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