隻翼ノ天使《エンジェラー》 〜堕天系美少女と殺伐同棲〜
深海船隻
第一章 未練の奴隷
プロローグ『隻翼の天使』
この美しい光景を己が瞳に焼き付けるのも、もしかしたら今日が最後の機会になってしまうかもしれない。
少なくとも、
視界、上下左右三六〇度全方向。
ただただ光があった。
雲は黄金で、大気は白銀。
遥か遠く地平線の彼方まで、世界の全てを眩い光が隈なく満たしている。
観る者全てを圧倒する絢爛さと、ある種の静寂性を同時に内包するその神秘的な世界は、まさにヒトの領域を超越した『
「さて、このままではそろそろ『天使体』が崩壊しそうだな。いやあ、本当にどうしたものか……」
そんな神々しい輝きが支配する天の空に、気怠けな少女の声がふと浮かぶ。
完璧に整えられた空間を掻き乱すように、荒々しく飛び回る小さな影。
れっきとした神の使いでありながら翼を一つしか持たない隻翼の天使、アロイゼ=シークレンズは、荒い息を吐きながら天界の空を逃げ回っていた。
天使と言えば純白のイメージが強いが、彼女の体は朱く、そして黒い。要するに血だらけなのである、
つむじから爪先まで、その体に最早傷の無い箇所はなく、左腕に至ってはとうの昔にどこかへと吹き飛んでしまっていた。
斬り傷に擦り傷に刺し傷、そして銃創に爆傷に熱傷。
今この瞬間もアロイゼの全身からは、おびただしい量の鮮血が噴き出している。
しかし、それでも天使の瞳が弱気に曇ることはない。
このような悲惨な状況にあってなお、更に凛々しさを増していくその面構えは、彼女が肉体的にも精神的にも強靭な存在であることを暗に物語っていた。
「まあ、仕方あるまい。ワタシもそろそろ賭けに出るとするか」
その覚悟を決めたような呟きとともに、アロイゼの飛行速度が急加速する。
進行方向に対して体を出来る限り細く鋭くするその姿は、まさしく獲物へ向けて急降下する川蝉のイメージだ。
天使は己の出せうる最高の速度をもって、聖なる光の中を切り裂いていく。
だがしかし、それでもアロイゼの背後から迫る無数の白い影――――即ち彼女の背を追う追跡者の数は一向に減る気配がない。
「……全く、うじゃうじゃと鬱陶しい連中だ。クソに集る蝿の方がまだ優雅だぞ」
アロイゼの後方遥か、空をも埋め尽くさんばかりに展開された天使の大軍。彼等は今この瞬間も、我先にとこちらへ向けて殺到して来ている。
その数は五百、いやもしかしたら千を超えるかもしれない。
正しく
「くははっ、たかが
そんな軽口を漏らしながら、天使は前方へと目を凝らす。
際限なく延々と続く光の世界の中に、ただ一つ浮かび上がる巨大な空間の裂け目。即ち、この世界からの脱出口までは、まだかなり距離がある。
普通に飛んで行けば二分以上かかるだろうが、今の速度を維持出来れば一分足らずで到達出来るだろう。
代わりに出血多量で死ぬ危険性が三割程高まるが、最早そんな危ない賭けに出るくらいしかアロイゼに残された選択肢はない。
この逃走劇こそが自分と、そして世界の命運を分ける天王山。今命を賭けずして、一体いつこれを賭けるというのだ。
「もうワタシしかいないんだ……なに、己に与えられた使命ぐらいはきっちり果たすさ」
天使はぎりりと奥歯を噛み締め、痛む身体に鞭を打ち、そのまま再び全速力で輝きの中を突き進んでいく――――と、ちょうどそんな時であった。
「んッ――?」
突然の突き刺さるような殺気に、天使は半ば反射的にその身を翻す。
次の瞬間、背後から放たれた光線が彼女のすぐ側を一閃し、腕の皮膚組織を僅かに炙った。
「がああッ……!! クソッ、もう追いついて来たか。
アロイゼは首だけを僅かに後方へ傾け、背後から迫りつつある脅威に舌を打つ。
見る限りまだ一人だけのようだが、いつの間にかもうすぐそこまで追っ手が追いついてきていた。
アロイゼから僅か後方二十メートル。
美しい青年の姿をした銀髪の天使、もとい追跡者は狂ったような叫び声をあげながら、こちら目掛けて真っ直ぐ突っ込んでくる。
「アロイゼ=シークレンズウウウウウウウウッ!!!!!!!」
彼はアロイゼのことをまるで親の仇でも見るような険しい瞳で睨みつけると、その腰に帯びたロングソードを一思いに引き抜いた。
四方からの輝きを反射して煌めくその刀身はどこまでも美しく、ただ一人の小柄な天使の体を斬り裂くには充分すぎる切れ味を持っていることが伺える。
――――戦場の理もろくに知らぬ間抜けか。一騎駆けとは随分と青臭い。
背後に感じる殺意の圧迫、そこに余計な感情な存在しない。必ず殺すという純粋な衝動だけに突き動かされたそれは、最早激情を通り越して狂気としか呼べない代物であった。
されどそのような剥き出しの敵意を前にしても、アロイゼが怯むことは一切ない。
己が身に降りかかる火の粉があるならば、できるだけ疾く、そして確実に振り払う。ただそれだけのことであった。
「ハッ、家畜の分際で随分とよく吠えることだ。狗なら狗らしく惨めに地上に這いつくばっていろ」
「黙れこの天に仇なす逆賊めええええええええええええッ!!」
直後、二人の天使の軌跡が大空のど真ん中で交錯する。
しかし、煽り口上に逆上した銀髪がこちらに飛びかかろうとした正にその瞬間、アロイゼは飛行速度を緩め、次いで進行方向を僅かに左へと調整した。
「なっ――――――!?」
結果、突如として彼女を右から追い抜く形となった追跡者の一撃は、風切り音と共に虚しく宙を舞う。そしてそんな明らかな隙を、かのアロイゼ=シークレンズが見逃すはずもなかった。
「堕ちろ」
きっかけはそんな冷たい一言であった。
アロイゼの隻翼を構成する羽根の一枚一枚、その全てが瞬く間に剣のように硬く、そして鋭く変化していく。
無数の羽という刃に埋め尽くされたその翼は、最早翼というよりも剣と呼ぶ方が相応しい代物であろう。
「ぁ」
一閃。
少女はすれ違いざまに追跡者の首を刎ね飛ばすと、そのまま一気に戦場からの離脱を図る。血飛沫を撒き散らしながら惨めに墜落していく敗者の姿など、最早彼女の瞳には映っていない。
「クソッ。一、二秒無駄にしたな……」
しかし、銀髪の天使を難無く退けたにも関わらず、アロイゼの顔色が余裕に晴れることはない。
刹那の遅れが死に直結する今この瞬間において、僅かな時間でも足止めを食らったのは致命的な損失であった。
悪い予想は当たり、再び追跡者がこちらに追いつき始めるが、その数は先程の比ではない。集団から突出した二十人ほどの小部隊が、既に後方百メートルまで迫りつつある。
例え追い付かれなかったとしても、彼等の攻撃の射程圏内に入ってしまえば、その時点でアロイゼの死は確定する。
当然下っ端天使である彼女に、数十の光線の雨霰を掻い潜りながら飛び続ける技術など備わっているはずもないのだ。
「まあ、このままならなんとか……というのは希望的観測がすぎるか?」
逃げ切れるかどうかは未だ五分五分だが、ゴールはもうすぐそこである。あの空間の切れ目に飛び込んでさえしまえば、こちらの勝ちなのだ。
出血多量のせいで段々と意識が朦朧としてくるが、ここで諦めるわけにはいかない。
「ぐっ……!!」
肉が裂ける生々しい痛みに、アロイゼは思わずその眉を顰めた。風圧がかかり過ぎたせいか、皮一枚で繋がっていた右腕が、千切れて空の彼方へと消えていく。
正直そろそろ心身ともに限界が近い。
翼はあとどれだけ保つかもわからないし、身体の方も少しでも気を緩めてしまえば、傷口に沿ってバラバラに空中分解してしまいそうであった。
だがしかし、それでもアロイゼは歯を食い縛って、一心不乱に飛び続ける。それは己のためであり、人類のためであり、世界のためであり、そして何よりも自分に全てを託してくれた人の想いを無駄にしないためであった。
――――クソッ、届けっ、届けっ、届けえええええええええええッ!!
霞む視界の向こうにようやく世界の裂け目が迫る。
あと少し、あと少しで逃げ切れる。あとほんの数秒頑張りさえすれば、この苦痛からアロイゼは解放されるのだ。
最後に遺された叛逆の火種を、こんなところで絶やす訳には絶対いかない。
その手にまだ見ぬ可能性を掴みとろうと、天使は何かを求めるように手を伸ばす――――と、その瞬間であった。
「がああああああああああああッ!?」
そんな彼女の淡い希望は、背後からの流れ弾によって突如打ち砕かれることとなった。
アロイゼの顔のすぐ側を一閃した熱線が、天使の右肩を根元から消し飛ばしたのである。その途方もない激痛の前に、みるみるうちに意識が薄らいでいく。
「あっ、れ……?」
最早気力だけではどうにもならないところまで来てしまった。
とても自分のモノとは思えない弱々しい声とともに、視界がぐるりと一回転する。先程まで見ていた辺りの景色が、肩口より吹き出す鮮血と一緒にどんどん上空へと遠ざかっていく。
「あぁ……」
そんな現実は到底受け入れられないというのに、体はこれっぽちも言うことを聞いてはくれない。いくら誇りと信念を燃え上がらせても、それを遥かに上回る倦怠感と激痛が全身を隈なく絡め取るのだ。
霞む視界の向こう側に、こちらを憎悪の表情で睨みつける天使達の顔が映る。その数はすぐさま十を超え、瞬く間に百に迫る。
「ハッ」
そんな絶望的な光景を前にして、隻翼の天使は思わず曖昧に微笑んでしまう。しかし、されどそれは諦めを伴う乾いた笑いではない。
自分がこれから立ち向かわなくてはいけない者達のあまりの強大さに、彼女は心底
「結局、
そんな少女の感慨深げな呟きが、天の空にどこか虚しく響いていく。
次の瞬間、滞りなく神罰は執行された。
千の天使からほぼ同時に放たれた閃光は、正しく神の雷と呼ぶに遜色のない代物。艶金の雲も白銀の大気も、天界の憎悪の結晶は、世界の全てを呑み込み、そして押し潰す。
アロイゼがその瞳で最後に見たのは、視界一杯に満たされた無数の光の雨であった。
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