第二十七話 『未練の奴隷』


 右腕を斬り飛ばされた――――その受け入れ難い事実に、樋田の頭の中は瞬間的に真っ白になる。

 断絶の僅かな一瞬はまるで無限のように感じられた。右腕が肩より転げ落ち、鮮血を噴き上げる光景が、やけにゆっくりと目の前を通り過ぎていく。


 ――――クソッタレがッ……!!


 樋田は痛みに備えて歯を食い縛るが、幸いその心配は杞憂に終わった。

 少年の神経を激痛が犯そうとした正にその刹那、晴が彼の『天骸アストラ』を操り『燭陰ヂュインの瞳』を間接的に発動。途端に右腕の時間は五秒前に遡り、元の傷一つ無い状態へと復元される。


『大丈夫かカセイッ!?』

「……あぁ助かった。愛してるぜ、晴」


 再生した右腕の感覚を確かめつつ、樋田は戦闘続行とばかりに鉄管を構える。続いて彼は簒奪王の方をギロリと睨みつけると、その口元にニヤリと意地の悪い笑みを浮かべた。


「ハッ、ようやくその気になったかよ」


 今の一撃で向こうも遂に直接対決を決意したのだろう。

 最早役目は果たしたとばかりに、こちらを取り囲んでいた首無しの群れが雪崩のように後方へと退いていく。そしてその代わりに戦場の最前線へと姿を現したのは、紛れもない簒奪王――――ワスター=ウィル=フォルカートその人であった。


「……当然であろう。其方の手の内を把握出来た以上、いたずらに兵を溶かす必要もあるまい」


「ハッ、それで王様自らタイマン張ってくれるたぁ、随分と気前がいい話じゃねえか。いいぜ、やってやるよ。テメェのその薄汚ねえツラが、胴体からおさらばすんのも――――『キサマ、『燭陰ヂュインの瞳』を手に入れて一体何をする気だ?』


 威勢の良い煽り口上を最後まで述べること叶わず。無粋にも突如割って入ってきた晴の声に、樋田は思わず舌打ちをせずにはいられない。


 たちまちに少年のすぐ隣には見覚えのある電子モニターが展開されていき、その画面上に写しだされたのは紛れもない晴の顔だ。恐らくはこれも彼女の有する術式、『顕理鏡セケル』を用いた異能の一つなのだろう。

 画面上の少女は怒りに声を張り上げて言う。


『答えろ簒奪王ッ……!!』


「良かろう。この簒奪王をここまで追い込んでみせた褒美だ。聴きたいのならば、聴かせてやる」


 対する簒奪王は意外にもあっさりと口を開くと、そのまま流れるように言葉を紡いでいく。


「余の望みは、それ即ち我が生涯のやり直しである。『燭陰ヂュインの瞳』の時間遡行能力を用いれば、この身をかつての余の治世までタイムスリップさせることも可能なはずだろう?」


『キサマ、歴史を書き換えるつもりかッ……!?』


「口を慎め下郎。余は今の歪められた史実を、本来あるべき姿に戻すだけだ」


 遂に明かされた簒奪王の野望の正体に、晴は勿論のこと、樋田も露骨に不快感を露わにする。


 かつて晴は言っていた。

 ありとあらゆる可能性を内包する力である『天骸アストラ』は、それに見合うだけのエネルギー量と適切な術式さえ用意出来れば、理論上ありとあらゆる可能性をこの力は引き出すことが出来るのだと。


 確かに『天骸アストラ』を無限に収奪、集積することが出来る『黄金の鳥籠セラーリオ』と、時を操ることが出来る『燭陰ヂュインの瞳』を併用すれば、数百年単位での時間遡行を行うこも決して不可能なことではないだろう。

 そのためにこの男が、どれだけの人間の可能性を奪い、殺してきたのかは想像もつかないことではあるが。


「……テメェ、そんなくだらねぇことのために一体何人殺しやがったッ!!」


「フッ、そう怖い顔をするな小さき者よ。確かに余は己が目的の為に幾千万の衆生の魂を贄に捧げたが……、我が覇業の行く末は卿等人類にとっても決して悪いものではない」


 その予想外な言葉に、晴は訝しげに眉を顰めて問う。


『……どういうことだ?』


「考えてもみよ。たかがで、この簒奪王の王器が満たされるはずがあるまい。異教徒を殺し、異民族を鎮め、異邦の国々を喰らい尽くす、大いに結構。だが、それは所詮ただの侵略だ。余の死後オスマントルコが凋落すれば、人類史上最悪の帝国主義者として貶められる程度の悪徳に過ぎぬ。然らば――――」


 そこで簒奪王は一度意味深に微笑むと、遂にその胸に宿りし野望の大火を露わにした。



「己が存在をへと昇華させる意外に、最早我が王器を満たす術はなし。そのために余は――――このアフメト二世は、となるのである」



 一瞬、まるで時が止まったような静寂が辺りを包み込む。

 目の前の男が一体全体何を言っているのか、樋田は微塵も理解が出来なかった。いや、恐らくは隣の晴も同じ気持ちであろう。

 そんな樋田達の疑問を知ってか知らでか、王はニヤリと勝ち誇ったような笑みを浮かべて、こう続ける。


「分からないとでも言いたげな顔であるな。あまり余を失望させるなよアロイゼ=シークレンズ。人類滅亡の引き金となりうるが、この世界に牙を剥こうとしている事実を、卿はもう忘却してしまったのか?」


『――――キサマ、まさかッ……!!』


「無論だ。我が祖国が世界を統べた暁には、この簒奪王自ら全人類を率い、あの忌まわしき天界を滅ぼしてくれよう。地球史上初の世界征服者、允文允武にて全代無双の大賢帝。そして。それらの称号を全て兼ね備えてようやく、我が生涯の再構は果たされるのだからな」



 そのとても不可能としか思えない大望を、王はまるで実現して当然の事のように高らかに謳う。

 間違いない、この男は本気だ。この男は本気で全人類に自分を崇拝させようとしているのだ。

 傲慢な天使なり簒奪王、不遜な王なりアフメト二世。その病的と言えるまでの自尊心の高さに、気圧されなかったと言えば嘘になるだろう。


「……で、結局テメェは何がしてぇんだ?」


 しかし、それでも樋田可成は屈服しない。

 存在としての格の差をこれでもかと見せつけられて尚、彼は子供の戯言でも聞くかのように王の言葉を鼻で嘲笑う。


「貴様は何を申している、我が野望の真髄はたった今述べたばかりであろう」

「そう言う表面的なことを言ってんじゃねぇよ……。俺が聞きてぇのは、テメェの胸の奥底にあるもっと根本的なモンの方だ」


 そう試すように問いながら、樋田は既に簒奪王の本質を見抜いていた。


 世界を征服しよう、人類の救世主になろう。


 いくらそんな大仰な言葉で己を大きく見せようとも、この樋田可成の目だけは誤魔化せない。卑屈で矮小な承認欲求の塊に過ぎないからこそ、彼だけは簒奪王の本質を決して見逃さない。

 だから、樋田は続けてこの質問を王に突き付けた。



「自分という存在を誰かに認めてもらいたい――――本当はただそれだけなんだろ?」



 返事はない。

 それでも簒奪王の纏う雰囲気は、確かに刺々しいものへと変化する。やはり沈黙とは往々にして肯定を意味することが多い。

 その一瞬のやりとりをもって、樋田の疑念は遂に確信へと昇華した。


 ――――ああ、やっぱり一緒じゃねぇか。


 生まれた時代と場所、そして何より犯した罪の大きさは違くとも、この狂王と樋田は間違いなく同じタイプの人間だ。

 誰にも相手にされず、誰にも認められず、誰にも理解されず、何一つ意味のあることを成さないまま、ただ無意味に歳を重ねるだけの醜い承認欲求の塊だ。


 今思えば、最初から違和感はあったのだ。

 二日前の夜、港で簒奪王と遭遇したあの日。何故ヤツはあれほどまでに樋田を罵り、痛めつけ、必要以上に苦しめたのか。

 ヤツにとって樋田可成という男が本当にとるに足らない存在であったならば、それこそ問答無用で首を刎ねてしまえばそれで済む話なのだ。


 だが実際ヤツはそうしなかった。

 興だの何だのと無理矢理に理由を付け、ただのチンピラ少年を嬲るためだけに態々時間を割いた。

 その理由も今ならば分かる。


 ――――本質的に同質である俺を、つまりはヤツにとっての『かつての自分』を否定したかったからだ……ッ!!


 そうだ。この男は一つの信念をもって悪を貫き通すカリスマでも、ましてや真に民を想いやり王道を突き進む支配者でもない。その本質は所詮この樋田可成と変わらない『何も持たぬ者』にしか過ぎないのだ。


 目から鱗が落ちるとはまさにこのことであろう。

 その事実に気付いた途端、少年の目には不相応にも大望を語る王の姿が醜く愚かに写り、そして――――



「くっだらねぇな」



 酷く、哀れに見えた。


「なぁ簒奪王――いや、オスマン帝国第二十一代皇帝スルターンアフメト二世」


「……愚物風情が軽々しく余の名を口にするなッ」


「そう言わず最後まで聞いてくれよ。いやな、俺も俺なりにテメェの素性がそれなりに気になってな。この二日間パソコン使ったり、図書館行ったりして色々と調べてみたんだよ……」


「……だからどうしたというのだ?」


「そんで思ったことを正直に聞かせてやる」


 そこで樋田は一度言葉を区切り、大袈裟なまでに深く息を吸うと、



「――――テメェの人生、本当にスッカスカなんだなァッ!!」



 その禁断の一言を躊躇なく口にした。


「貴、様ァッ……!!」


 たちまちに簒奪王の顔が怒りに満たされていくのを気にもせず、少年はその神経を逆撫でしようと、更に罵詈雑言を紡いでいく。


「そんな怖え顔すんなよ。俺だって一応それなりに色んな文献に目を通してみたんだぜ? だっつーのにどの資料も見事なまでのスッカスカっぷりでよ。冗談抜きで『産まれたー監禁されたー皇帝になったー死んだーはいお終い』ってレベル。あんだけ偉そうに色々ほざいてた癖に、お前三秒で説明できる程度の人生しか送ってねぇのかよって、思わず笑い死にするところだったわ」


「知っ……くなッ……!!」


「で、そんな人生スカスカ野郎が一体何を言い出しやがるのかと思ったら、ドヤ顔で『人生をやり直したい』ときたもんだ。ブッ、いや別に馬鹿にしてるわけじゃあねえんだぜ。あぁ確かにこんなクソみたいな人生しか送れなかったんなら、未練タラタラになんのも仕方がねぇよなって、俺は心の底からテメェに同情してやってるつもり――――――――――――」

「知ったような口を聞くなアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!!!!!」


 落雷を思わせる程の王の大喝に、樋田は思わず口籠る。

 こちらを睨む王の眦は裂けんばかりに見開かれ、激情に満たされるその姿は正に悪鬼羅刹の如しである。

 それはこれまでのような興を削がれたことに対する見せかけの怒りではない。己が王らしくある為の優雅や余裕、それらを全てかなぐり捨てた本気の怒りであった。


「貴様のような凡俗風情に一体何が分かるというのだッ!! 我が人生の空虚に終わりし所以は、『黄金の鳥籠』という愚劣な皇位継承システムに、この才を発揮する場を全て奪われた結果に過ぎぬ。真っ当に王として生きる機会さえあったのならば、この余がその程度の存在で終わるはずがないであろうッ!!」


「へぇ、それで『俺もやれば出来る子なんだ』って独り喚き続けて三百年ってか。いや、正直気持ちは分かるぜ。俺も将来絶対そうはならねぇと胸張って言う自信はねぇしな。テメェの背丈に合わなえモンを欲しがって、それが手に入らなければ結局全ての責任を他人に押し付けて……やっぱりな、どこか似てんだよテメェと俺は」


 その分かったような樋田の口振りが、簒奪王の怒りに油を注いだことは最早言うまでもない。


「貴様と余が似ているだとッ……!! おのれ、この簒奪王を愚弄するのも大概に――――」

「いいや、一緒だよ。もっと俺を見てくれ、もっと俺を認めてくれって、一人でバカみてぇに喚いてるクソガキと一緒じゃねぇか。なにが『何も持たない者は何も成すことは出来ない』だよ。テメェの自己紹介を人に押し付けんのはやめてくれ」


 あれほどまでに余裕を湛えていた王が、何故これほどまでに怒り狂うのか。間違いない、それは樋田の言葉が紛れもない図星であったからだ。


「ハッ、肉塊従えて王国ごっこだなんてよく虚しくならねぇもんだ。幾ら太鼓持ちを取り揃えたところで、テメェは元の『何も持たぬ者』から何も変わっちゃあいねぇのさ」


 そこまで言って樋田は傍の電子モニターの方、今この瞬間も己を見守ってくれている少女の方へチラリと視線をやった。


「だがその点、俺には晴がいる。千の臣下や万の軍勢はこの手に無くとも、テメェの全てを信じて預けられる至極の一人が俺にはいる。これは決定的な差だぜ、簒奪王。晴が隣にいりゃあ、俺はいくらでも変わることが出来る。これまでの腐った賢い自分をブッ殺して、こんなバカに生まれ変わることだって出来たんだ」


 世界の行く末、全人類の救済。そんな大仰な看板は、とてもじゃないがこの背中に背負うにはあまりに重い。

 それでも、せめて自分の手の届く範囲の人間ぐらいは、この身に変えても必ず護り切ってみせよう。そう信じて樋田可成はあの少女のためにこの握り拳を振るうのである。



「だから俺ァここでテメェを倒して、アイツの『英雄』になってやることだって出来んだよ」



 その一言が、その矮小な少年にとってはあまりにも傲慢な一言が、遂に王の逆鱗に触れた。



「……ほざけっ、此の下郎風情がアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」



 激昂と共に簒奪王の足元より飛び出すは、一本一本が軽く二十メートルを越える無数の『霊の剣エル=ミラ』。

 対する樋田は膨大な『天骸アストラ』により強化された身体能力を駆使し、刃吹き荒れる戦場を縦横無尽に駆け回る。

 首を狙う刃を躱し、足元を狙う刃を飛び越え、時には積み上がった瓦礫で身を隠しながら、簒奪王の猛攻を何とか紙一重でやり過ごしていく。


 しかし、それでも全ての刃をあしらい続けるのは流石に不可能。嵐の如く舞い上がった砂塵に紛れ、樋田は近くの廃ビルの中へ咄嗟に体を滑り込ませた。


「……クソッタレがッ。こんなギリギリの綱渡りそう長くはもたねぇぞ」


 『霊の剣エル=ミラ』の攻撃範囲は確かに広大だが、その分必ずどこかに穴が空く。自分がその隙を見つけ、攻勢の合図を出すまでは死ぬ気で生き残ってくれ――――というのが事前に示された晴の指示であるのだが、正直開戦早々雲行きが怪しいと言わざるを得ない。

 この体は既に気力だけで動いているようなものであるし、天界から天使が舞い降りてくるまでのタイムリミットも最早そう残されてはいないだろう。


「この簒奪王を愚弄した罪、万死に値するッ。態々余の前に姿を現さずともよい。貴様の身はこの一帯ごとまとめて灰燼に帰してくれようッ!! 」


 更にその勢いを増す刃の嵐に、周囲の障害物はみるみるうちに更地にされていく。今樋田が背中を預けてるこの廃ビルも、いつ斬り飛ばされるのかとても分かったものではない。


 ――――クソッ、まだか晴ッ!!


 晴が突破口を見つけるのが先か、或いはこの身の八つ裂きになるのが先か。

 そんなギリギリの極限状態に樋田の精神が半ば狂いかけたその瞬間、遂に隻翼の天使より叛逆の狼煙が挙げられる。



『今だ、行けッ!!』


「っしゃらあああああああッ、遅えんだよコンチクショオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!」



 樋田は合図と同時に廃ビルの影から飛び出すと、そのまま簒奪王の懐目掛けて真っ直ぐに突っ走っていく。

 その視線の先に広がるは、不可視の刃が辺りを所狭しと吹き荒れる正にこの世の地獄であった。されど晴の言う通り、完璧に見える弾幕の中には僅かな空隙が生じている。

 その隙間になんとか体をねじ込んでしまえば、最早刃の嵐は攻略したも同然だ。あとはこのまま肉薄し、簒奪王の首を刎ねてしまえば全てが終わる。


「そこかッ」


 しかし残り十五メートル地点で、簒奪王の瞳がギョロリと此方を向いた。途端に樋田を包み込むように、四方から無数の不可視の刃が殺到する――――しかし、むしろここまでは晴の予想通りであった。

 地を駆ける少年に態々刃を避ける必要はない。この身を狙う物騒な攻撃は全て、



「げひゃひゃひゃひゃひゃッ!! ハナからテメェの術に自信持ちすぎなんだよ、このワンパターン野郎がッ!! 」



 術式起動開始。

 途端に少年の左目から、白とも白濁とも言えない妖しい光が煌煌と溢れ出した。


 『燭陰ヂュインの瞳』は観測する。その瞳に映る世界の五秒前を写しとり、今この瞬間の時間軸の中へと投影する。

 そうして空間がまるで飴細工のようにグニャリと歪んだ次の瞬間、簒奪王の振るう刃の嵐はその五秒前の状態――――即ちただの『天骸アストラ』にまで時を戻され、その全てが虚しく宙に霧散した。


「――――なッ!!」


 ありえないとばかりに白目を剥く簒奪王に、樋田は心の中で勝利を確信する。

 これでヤツの十八番は封じられた。白兵戦にさえ持ち込むことが出来れば、こちらにも充分勝機はある。そう信じて樋田は地を蹴る足の力を更に強めるが、





 これほどの窮地に追い詰められてもなお、簒奪王は尖った歯をギラリと煌かせ、その口元に不敵な笑みを浮かべていた。

 それはまるで『この程度の展開は読めていた』と、そう言わんばかりの余裕の表情であった。



『下がれッ、カセェェエエエエエエッエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエッ!!』



 このまま突っ込むのはまずい――――そう本能が認識した次の瞬間、樋田は晴の叫び声に突き動かされるがまま、反射的にバックステップをはかる。


 そして、彼は見てしまった。


 時間を巻き戻され一度は消滅したはずの『霊の剣エル=ミラ』が、再び王の手元より無数に飛び出していくその恐ろしい光景を。


「――――なッ、ふざけ」


 雪崩のように殺到する斬撃の全てをかわし切ることは当然出来ず、樋田は脇腹から肩にかけてのラインを僅かに斬り裂かれる。

 それでも何とか痛みを堪え、すんでのところで刃の射程距離から逃れられたのは、不幸中の幸いとでも言ったところだろうか。


「ってぇなクソォッ……!!」

『……すっ、すまないカセイ』

「ああん? テメェが謝ることじゃねぇよ、俺等よりも向こうの方が一枚上手だったってだけだろうが」


 簒奪王が有する五つの術式の中で、やはり最も恐れるべきはこの『霊の剣エル=ミラ』であろう。

 『燭陰ヂュインの瞳』で不可視の刃を消し飛ばし、その隙に懐へ飛び込めば何とかなると思っていたが、少々見立てが甘かったと言わざるを得ない。


 これもヤツの膨大で上質な『天骸アストラ』の為せる技なのだろう。

 晴の予想よりも、刃の弾幕が明らかに

 これでは一度全ての斬撃を打ち消したところで、すぐさま後続に全身を絡め取られてしまう。

 事実あの瞬間に晴の警告がなければ、樋田は今頃全身を細切れにされていたに違いないだろう。


「運の良い奴だ。だが、そんな偶然がいつまでも続くとは思うなよ」


 そうして次の対応に頭を捻る時間すら、最早簒奪王は与えてくれなかった。

 再び問答無用とばかりに打ち出される無数の『霊の剣エル=ミラ』。雨霰と降り注ぐ斬撃の嵐を、樋田は必死にかわしていく。それでも刃はすでに少年の体を捉え始めていた。やがて斬撃は彼の皮膚を削ぎ、肉を裂き、その真っ赤な鮮血を周囲にべチャリと撒き散らしていく。

 傷と疲労が蓄積したこの身では最早、晴の援護があろうとも王の斬撃を完全に躱し切ることは不可能だ。加えて辺り一面の瓦礫は見事なまでに均されており、一時的に身を隠すことが出来る場所すら見当たらない始末であった。


 ――――クソッタレがッ、結局雑魚がちょっと気張ったところで無駄死にしかならねぇてことかよ……。


 手詰まり。

 そんな弱気の言葉が、ほんの一瞬だけ頭をよぎる。


 『燭陰ヂュインの瞳』、『簒奪王より奪った膨大な天骸アストラ』、そして己が身に宿りし『異能を乗っ取る異能』。

 それだけの立派な戦う手段を与えられておきながら、結局樋田可成では簒奪王を打ち倒すことなど出来はしないのだろうか。


 ――――……んなわけねぇだろ、根性出せやクソ野郎ッ!!


 いや、違う。例え力不足が事実であったとしても、それで全てを諦めていいわけではない。

 足らぬ足らぬは工夫が足らぬのだ。届かないのならば、それでも届くように頭を使え。考えろ、考えろ考えろ、考えろ考えろ考えろ考えろ。必ずどこかに突破口はある。


 発動条件も分からない『異能を奪う異能』に縋るのはそもそも論外だ。加えて膨大な『天骸アストラ』によって強化された身体能力でも、それだけで簒奪王の懐に潜り込むことは不可能である。

 然らばあと樋田が切れる手札なやはり、この左目に宿りし『燭陰ヂュインの瞳』しかないのだろう。


 何だ、己は一体何を見落としている。

 あの斬撃の嵐を攻略するには、ひいてはヤツとの戦いを接近戦に持ち込むには、一体なんの時間を巻き戻しせばいい。


 雨霰と降り注ぐ不可視の刃を必死に避けながら、考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考え尽くしたその先で、樋田の思考はようやくたった一つの答えにたどりついた。


「……やっぱ、もうそれしかねぇよな」


 散らばっていた点と点は繋がった。

 これまでの戦いの中に隠されていた、たった一つの打開策は見つかった。

 最早簒奪王を倒すには、この手に全身全霊を賭けるほかはなし。樋田はそう信じて傷だらけの力に鞭を打つと、


「こうなりゃ、刺し違えてでもテメェだけは殺してやらアアアアアアアアアアアッ!!」


 まるで鬼のように叫び散らしながら、簒奪王に向かってまっすぐ吶喊していった。


「ここまで来て最後は自暴自棄だとッ……くだらんッ、ならば望み通り無駄死にを晒すが良い」


 対する王は驚く程に冷たい声で吐き捨て、再びその右腕を天高くに掲げる。

 それに合わせて後方から首無し達の絶叫がまたもな響き渡り、その術式を膨大な『天骸アストラ』で満たしていく。



「臣下よ集え、凱歌を募れ。この簒奪王の名の下に、我が敢為邁往の覇道を翼賛せよ。唸れ、霊視の刃――――――『聖句サルク=イン唱歌=エフェソス』」



 そうして、王の手元よりが射出された。


 途端に世界から色は消え、爆撃じみた破壊音に全ての感覚が蹂躙される。

 これまでの攻撃を刃の嵐と呼ぶならば、こたびの一撃は正に刃の濁流とでも例えるべき代物だ。

 数百数千を優に越える斬撃の濁流。それらはその軌道上に存在する全ての物質を粉砕し、破壊し、消し飛ばし、少年の体を煤塵に化そうと一気呵成に猛進する。


 ――――大技で来やがったか、上等だコノヤロウ。


 晴の言葉を思い返してみれば、『霊の剣エル=ミラ』は聖書の文言を引用することにより、『天骸アストラ』を不可視の刃として射出する術式であるらしい。

 その変換速度は凄まじく、一度全ての刃を消失させたところで、刃の弾幕を無効化するのは実質不可能であると言っていい。


 だから、樋田はその左目でを睨みつけた。


 術式を放った簒奪王本人でも、こちらへと迫り来る刃の濁流でもなく、王の後方で醜い呻き声をあげる――――もとい『詠唱』をとり行っている首無しの群れを、彼はギロリと睨みつけたのである。


 ――――なかったことにするべきだったのは斬撃なんかじゃねぇ、あのバケモン共の汚ねぇ鳴き声の方だったんだ。


 『詠唱』とはその全てを誤りなく諳んじることで、初めて効果を発揮する代物だ。それを僅か五秒間分でもなかったことにされてしまえば、途端にその『詠唱』は破綻し、効果もまた無効化される。

 未熟な自分にそんな細かい芸当が出来るのかどうかは分からないが、最早他のもっといい方法なんて思いつきそうにない。

 ならばその極小の可能性に、この身の全てを託してやろうではないか。



「男の子にはな、やらなきゃならねえ時があるんだよッ!!」



 そうして樋田は術式を発動した。

 『燭陰ヂュインの瞳』は観測する。その瞳に映る世界の五秒前を写しとり、現在の時間軸の中へと投影する。

 その直後、簒奪王の放った刃の濁流と共に、首無し達が唱えたはずの五秒間の詠唱――――その既成事実が、この世界よりまとめて消失した。



「詠唱破棄だとッ……!!」



 戦闘中において常に余裕を保っていた簒奪王、その顔に初めて驚きと焦りの色が浮かぶ。

 これで王を護る刃の弾幕は完全に失われた。最早その首を狩るまでの道を邪魔するものはなし。

 思わず一瞬呆気にとられる簒奪王を尻目に、樋田は瞬く間に攻撃の届く位置まで肉薄すると、そのまま一思いでその懐の中へと飛び込み、



「ふっ飛べえええええええええええええええッ!」



 怒号と共に全力で鉄管を一閃した。

 零距離で放たれたその一撃は、確かに王の顔面を捉え、その体を勢いよく吹き飛ばす結果となる――――しかし、やけに手応えが軽い。

 恐らくは衝撃の瞬間、簒奪王は咄嗟に後ろに飛んで、打撃の威力を殺してみせたのだろう。

 だがそれがどうした。次こそは必ず仕留めてみせると、樋田は更なる気迫を持ってこれを追撃する。



「簒奪王オオオオオオオオオオオオオオオオッ!!」

「キィ、サマアアアアアアアアアアアアアアッ!!」



 王は地に両の足を突き立て、即座に崩れた体勢を立て直す。その整った顔はひしゃげ、中折り帽はどこかへと吹き飛び、衝撃によって首も半ば千切れかけている。

 それでもすぐさま『覚醒細胞イモータル』による肉体の再生が始まるが、それよりも樋田が次の一撃を放つ方が圧倒的に早い。


「沈めえええええええええええええええええッ!!」


 王の脳天目掛けて全身全霊の一撃を振り下ろす。

 直後戦場を木霊したのは、ガキンッという甲高い金属音。頭上に迫り来る樋田の一撃を、簒奪王が腰元の軍刀で受け止めたのである。


「遂に抜いたなッ」

「抜かせッ……!!」


 最早小細工を弄する時間も距離も無し。

 樋田の鉄管と、簒奪王の軍刀。それらは至近距離で激しく互いを打ちつけあい、その莫大な『天骸アストラ』と剣戟による火花を、鮮やかに戦場の中へ振りまいていく。


 双方共に怒号をあげながら、切った張ったの大立ち回り。

 晴の言った言葉の通り、簒奪王の太刀筋は樋田と比べても軽く、遅く、そして何よりも拙い。

 少年の一撃は幾たびも軍刀の防御をすり抜け、王の胴に確かな衝撃を打ち込んでいく――――されど、


「ハァハァ……キリがねぇぞクソッタレッ!!」


 やはりその程度の力量差では、再生能力がある分未だ簒奪王の方が優勢だ。


 そして一度集中が切れてしまえば、逆に太刀を浴びるようになるのは寧ろこちらの方である。次々と増えていく切り傷に比例して、樋田の動きは少しずつ鈍く、そして単調なものになっていく。

 そしてそのまま必死に三十合程打ち合った頃、遂に決定的な瞬間が訪れた。


「なっ、テメェッ……!!」

「よくぞこの簒奪王をここまで追い詰めてみせたものだッ!! なれど――――」


 半ば闇雲に振り下ろされた樋田の大振り、これを簒奪王は真正面から素手で受け止めたのである。当然腕の骨は折れ、手首も歪にひしゃげたというのに、その血色の瞳だけは不気味にも快哉を叫んでいる。


「『黄金の鳥籠セラーリオ』ッ!!」


 大喝と共に王の手元で輝いたのは『人狼を模した赤き紋章』、触れた相手より『天骸アストラ』を奪い取る術式の象徴だ。

 途端に樋田はその身に宿る不相応な力をごっそりと奪い取られ、そのまま情けなく腰から崩れ落ちてしまう。

 まずい、そう頭で思ったときにはもう遅い。



「自分の思い描いた未来が必ず実現すると思うなよ、この青二才めがアアアアアアアアアアアッ!!」



 そんな明らかな隙を、かの簒奪王が見逃すはずもなかった。

 すかさず脇腹を軍刀で抉り取られ、続く蹴撃に少年の体は情けなく地を滑る。それこそが樋田可成と簒奪王、二人の戦いの幕を引くあまりにも呆気ない決着となった。


「ギッ、ウッ、ゥウウウウアアアアアアッ……!!」


 樋田は狂ったように瓦礫を引っ掻き回しながら、この世の終わりとでも言わんばかりにその上をのたうち回る。

 それは最早戦うことを忘れ、激痛に嘆くことしか出来なくなった哀れな敗者の姿である。これまで何とか気力だけで戦い続けてきた彼も、此度ばかりは最早立ち上がることが出来なかった。


「何か最後に言い残すことはあるかッ……?」


 そんな殊勝なことをほざきながら、簒奪王は頭上高くに軍刀を振り上げる。対する樋田は劈くような激痛に悶絶しながらも、こちらを冷たく見下ろす王の顔――――否、そのをキッと睨みつけ、


「へはっ……やっぱり、テメェは王様失格だよ」


 そう言って場違いにも勝ち誇ったような笑みを浮かべてみせた。



「そうか。ならば死ね」



 簒奪王は冷たく吐き捨てると、そのまま躊躇なく樋田の首元目掛けて軍刀を振り下ろす――――しかしそれでかのチンピラ少年の命が尽きることはなかった。

 むしろこの場で確かに尽きたと言えるのは、



「――――何だ、とッ……」



 


 力の抜けた右手は軍刀は取り落とし、その高貴な口元からは赤い粘着質の液体がボロボロと零れ落ちていく。

 それは正にほんの一瞬の出来事であった。

 簒奪王が樋田の首を刎ねようとしたその瞬間、突如として王の胸から赤黒い腕が飛び出した――――いや、違う。正しくは近くに潜んでいた首無しの一体が、王の心臓を背後から一突きにしたのである。


 加えて簒奪王に反旗を翻した首無しは、何もたったの一体だけではない。

 王の命に従い、一度は後方へと退いていった首無し達。その全個体はいつの間にかこちらのすぐ近くまで舞い戻ってきており、今や小さな円陣を以って樋田と簒奪王を取り囲んでいた。

 その行動の意味するところを理解出来ないほど、きっとアフメト二世は鈍い人間ではないはずだ。


「何故だ、何故余の命に従わぬッ……!!」


 簒奪王もようやく事の重大性に気付いたのだろう。思わず動揺する王を更に追い詰めるかのように、首無しの包囲の輪は段々と小さくなっていく。

 彼等に仇を睨むための瞳はない。その心情を表情として出力するための顔も最早存在しない。

 それでもそこには明らかな怒りがある。その身を焦がさんばかりの確かな憎悪の色があった。



「偽偽偽偽偽偽偽偽偽ッ、悲悲悲悲悲ッ、愚愚愚愚愚愚愚愚愚愚愚愚愚愚ッ――――!!」



 その言葉自体は分からずとも、彼等が何に怒り、何に悲しみ、何を恨んでいるのかは言われずとも分かる。

 そして、遂に審判の時が訪れた。

 彼等は地に伏す樋田には目もくれず、簒奪王の方を一斉に振り向くと――――まるで獣のように荒々しくその玉体へと群がっていった。


「やめろ貴様らッ、その下賤な手で余に触れるで――――ガハァッ……!!.」


 その容赦無い暴力の嵐は、まるで屍肉を貪る禿鷹の群れの如くであった。

 首無し達の赤黒い腕が、まず初めに引きちぎったのは簒奪王の左耳だ。続いて彼等は王の軍服を引き裂くと、その下の腕の皮を無理矢理に引き剥がしていく。髪を毟り、鼻を削ぎ、舌を抜いては、歯を砕き、その高貴な肉体と王としての尊厳を滅茶苦茶に蹂躙していく。

 首無し達による人体の容赦ない破壊、そして簒奪王の術式『覚醒細胞イモータル』による肉体超再生。それらが凄まじい勢いで繰り返されるさまは何ともむごく、遠目に見ているだけで喉の奥から酸味がこみ上げてくる。



「……ほらな、やっぱり王様失格だっただろ」



 そう吐き捨てるように言いながら、樋田はまるで何事もなかったかのように立ち上がる。

 既にその体はボロボロだが、脇腹を刺されたこと自体は大した問題ではない。刃が傷口から引き抜かれた次の瞬間には、晴が『燭陰ヂュインの瞳』で状態時間を巻き戻してくれていたのだから。


 つまり、あれほどまでに樋田が痛みに悶えていたのは――――いや正しくはその振りをしていたのは、簒奪王の気をこちらへ逸らし、首無し達の変化を気取らさせないようにするための三文芝居でしかなかったのだ。


「口では王だの臣下だのと偉そうなことをほざいておきながら、結局テメェはそいつらのことを都合のいい駒としてしか扱っていなかった。それがテメェの敗因だぜ、簒奪王」


「貴様ッ……、一体我が臣下に何をしたアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!」


「悪いが俺ァ知らねぇよ。はそいつらが勝手にやったことだからな」


 首無し達が簒奪王の支配を逃れた原因自体は、きっと樋田の持つ『異能を乗っ取る異能』が何らかの拍子で彼等に影響したのだろう。

 されどその発動条件は樋田自身未だ分からずじまいであるし、チャンバラの片手間に首無し達へ指示を出せるほど、彼はこの力を使いこなせるわけでもない。


 だから首無し達がこうして簒奪王に牙を剥いたことは、樋田にとっても予想外な展開であったのだ。

 例え解放のきっかけは樋田の異能によるものだったとしても、実際に王に叛逆し、見事これを窮地に追い込んで見せたのは紛れもない首無し達の――――かつて人間であった彼等の意思であるとしか考えられないのだから。

 生前佞臣達の悪意によって傀儡であることを強いられたアフメト二世は、皮肉にも再び同じ憂き目を味わう羽目になったのである。



「……この、薄汚い奸賊共めえええええええええええええッ!! 貴様らはまたこのアフメト二世の足を引っ張るつもりかアアアアアアアアアアアアッ!!」



 そんな喉が裂けそうな絶叫と共に、王の外套の中より飛び出したのは鋭く危うい四翼の翼であった。それらは瞬く間に鋭い刃状に変化すると、王にまとわりつく首無しの体を縦横無尽に斬り飛ばしていく。


 哀れ彼等の叛逆はものの数十秒で幕を閉じた。


 その肉が潰れる音はまるで彼等の慟哭のよう、雨あられと降り注ぐ鮮血はまるで彼等の涙のようである。


「せめて、最期だけは安らかに眠ってくれ」


 だが、想いは受け取った。

 あのような醜い肉塊と成り果てながらも、最後まで人としての矜持を忘れなかったその気概は受け取った。

 ならばこの樋田可成が、死者に代わり彼等の憎悪を晴らしてくれよう。この愚かな王の存在を、思想を、その行業の全てを否定してやろう。

 そうして少年は傷だらけの体に鞭を打ち、再び力強く鉄管を上段に構える。



「認めろ簒奪王。テメェは王でも英雄でも、ましてや救世主なんかでもねえ――――」


「黙れエエエエエエエエエエエエエエッ『四翼の攻ケルビムアーツッ!!!!!』」



 憎きこちらの首を刎ね飛ばそうと、刃と化した簒奪王の四翼が瞬く間に迫り来る。

 その凶刃を思わず避けたくなってしまう、或いは思わず防ぎたくなってしまう。だがここで臆さす更に一歩を踏み込むことが出来る者こそが主人公――――即ち樋田可成の憧れる存在のあるべき姿だ。


 例え恐怖に足が震えてしまっても構わない、緊張を誤魔化そうと生唾を飲み込んでしまっても構わない。

 それでも、それでも絶対に目だけは逸らすな。目だけは逸らさずに、その一撃を全力で振り抜け。



「この俺と何も変わりゃあしない……ただのっ、小悪党だアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」



 その怒号こそが、人間樋田可成と天使ワスター=ウィル=フォルカート。己が執念を刃に換え争う、未練の奴隷同士の決着となった。


 持ち得る『天骸アストラ』の全てを込めた樋田の一撃は、簒奪王の四翼を見事粉砕し、その頭部へと真っ直ぐに突き刺さる。

 直後、爆撃じみた衝撃と共に王の頭部は滅茶苦茶に歪められ――――遂に胴より首を完全に引き千切ることに成功した。


 憐れ生首は宙を舞い、残された体はそのまま近くの廃ビルへと激突。その側面には巨大なクレーターが穿たれ、周囲に降り注ぐ瓦礫の山がいつまでも大量の砂煙を巻き上げていく。


「やったかッ……、――――ッ!?」


 それから三十秒もすれば廃ビルの崩壊は収まり、視界を包む砂煙もだんだんと晴れていく。少年はその視界の先、瓦礫の中で惨めに沈む簒奪王の――――いや正しくは人間アフメト二世の姿に思わず息を呑んだ。


「それが、アンタの本当の姿か……」


 まるで枯れ木のような細腕に、生気の欠片もない皺だらけの面構え。頭髪は既にまだらで、病と加齢に犯されているせいか、その瞳は泥のように酷く淀んでいる。

 『天使体』を身に纏っていたときのような、威厳と気品に満ち溢れる王の姿は最早面影もなし。瓦礫の中で惨めに伏せるその男は王でもましてや天使でもなく、ただのみすぼらしい一人の老人でしかなかった。


「――――ハハッ」


 途端に緊張の糸がプツリと切れ、樋田は思わずその場に座り込んでしまう。


 己は勝ったのだ。最早この場から一歩も動ける気はしないが、それでも確かにこの手に勝利を掴みとったのだ。

 そして何よりも晴を守り切ることが出来た。こんな愚かで矮小な自分でも、己が胸に抱いた理想を貫徹することが出来た。

 その事実がたまらなく嬉しい。

 自分の在り方を変えられたという確かな実感と、これで晴のことを救うことが出来たのだという確かな希望に、胸が奥底から瞬く間に熱くなっていく。



「――――見事だ樋田可成。斯くなる上は地獄にて余に仕え給るが良い」



 しかし、そんな安堵は刹那に崩れ去った。

 突如湧いた嗄れた声に、樋田の心臓はびくりと大きく跳ね上がる。


 震える手で老人が懐より取り出したのは一丁の古式拳銃であった。それは見るからに小型で古臭いが、最早一歩も動けない人間の頭を吹き飛ばすのには充分すぎる代物であろう。


 ――――畜生ッ、こんなところでッ……!!


 そうだ、かつて晴が言っていたではないか。

 いくら『天使体』が死に至るほどの傷を負ったところで、その生身に一切の傷は生じないのだと。


 最早簒奪王として天使の力を振るうことは叶わずとも、人間アフメト二世の体は未だ健在。例えその身が病に犯された老人のものであろうと、動けない人間を殺す手段などそれこそ山のようにある。


 窮鼠猫を噛むとは正にこのこと。

 王は樋田の額に銃口を向けると、迷う事なく引き金を引いた。



「……よくやったな、カセイ」



 されど、その凶弾が樋田のこめかみを撃ち抜くことはなかった。


 ダンッ――――という銃声の直前、弾丸の軌道上に突如少女の細腕が割り込んだのである。

 既に『天使化』も解け、生身となった彼女の小さな掌に突き刺さる鉛玉。たちまちに肉が裂け、銃痕より鮮血が噴き出すその様は何とも痛ましく、樋田は今にも胸が張り裂けそうになる。

 しかし当の晴は彼の不安を掻き消せようと、



「あとはワタシに任せろ」



 そう言って頼もしく、そしてどこか嬉しそうに力強く微笑んでみせた。

 本来ならば彼女にそんな危険な役目を押し付けたくはない。されどここで意地を張ったところで、今の自分が足手まといでしかないことは自明のことだ。

 だから今回ばかりは、その言葉に素直に甘えることにした。


「……あぁ、頼むぜ」


 何とかそれだけ言い残し、樋田は気絶するように瓦礫の上へと倒れこむ。

 あまりにも体を酷使しすぎた。

 あまりにも痛みを負いすぎた。

 あまりにも血を失いすぎた。

 それまでの緊張状態からいきなり解放されたこともあり、少年の意識は瞬く間に朧げなものになっていく。


 ――――クソッタレがッ、結局俺はどこまでいってもこういう役回りかよ。


 これ以上ないまでに完璧に晴を救ってみせるつもりだったというのに、最後の最後でヒロインに丸投げして途中退場だなんてダサいにも程がある。


 やはりこの樋田可成に『正義の味方』、そして『選ばれし者』の真似などは到底不可能なのだと、そう神様というヤツに思い知らされた気分であった。


 ――――だが、悪くはねぇな。嗚呼、決して悪いもんじゃあなかったさ。


 されど、今この胸を満たしているのは紛れもない爽涼感と充足感だ。多分これまでの人生の中で、自分がここまで何かのために頑張った経験など一度も無かったと思う。


 そうして『英雄』は柄にもなく唇を噛みしめると、そのまま眠るように気を失った。



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