第三十一話 『スクールゲート・ハプニング』
海上に浮かぶ人工島へ直接向かうには、学園の用意した専用の交通機関を使う必要があるとのことであった。
最寄りの海岸に建てられた巨大な駅からは、無数の海上モノレールが学園の敷地内まで伸びており、当学の生徒はみな毎日これに乗って登下校をするらしい。
海上モノレール自体がかなりの高度を走っているのは、恐らく東京湾を渡るその他の船舶と接触しないための配慮であろう。
そのため窓からの景色を眺めていると、まるで海の上を飛んでいるような爽快感を味合うことが出来た。
「遠目でもなんとなく分かってたが、近づいてみると本当バカみてえにデケェな。香川県よりデカいんじゃね?」
「軽く見た感じ百六十エーカーは下らない――――おっと済まない、先進国の単位に直すと六十五ヘクタール程といったところだろうか」
私立
晴が本日より通うその学園は、戦前戦後の日本経済を牛耳る
中学校・高校・大学の学舎がそれぞれ無数に並び立つほかに、グラウンドやプール、テニスコートといった関連施設も数多く、最早それらが学園内にどれだけあるのかも分からないほどであるらしい。
「……馬鹿だのアホだのと色々言っちまったけど、マジでちゃんと頭良かったんだなお前。つーか、余計な学費かかんねえのはマジで助かるわ」
「うむうむ、そうであろう。もしワタシが仮に普通の私立に通うことになっていたら、軽く五十万近くは消し飛んでいただろうからな……おっとこれはちょっとした助言なんだが、浮いた分の諸経費はご褒美としてワタシに献上しても良いのだぞ☆」
「ざけんなクソガキ。テメェに金やるぐらいなら燃やした方がまだマシだわ。どうだ明るくなったろう?」
晴の舐め腐った発言に釘を刺す樋田ではあるが、実際彼女がこの学園に合格してくれたことに対しては大いに感謝したい。
当学は「最高級の人材へ無条件の投資」とかいう御大層なポリシーを掲げてるだけはあり、気持ち程度の受験料を除けば、なんと入学料も授業料もほぼ
よく言えば慈善的、悪く言えば金持ちの道楽になっている一面もあると思うが、仮にも学生とヒキニートの二人組でしかないヒダハレにとって、これほど都合の良い学園も他にはない。
まあそのぶん合格偏差値が軽く七十五を超える受験者大虐殺学園ではあるのだが。
「くははっ、それにしてもこういうハイテクメカはやはり良いものだな。どうだカセイ、これに毎日乗れるワタシが羨ましくてたまらんだろう?」
「ハッ、こういうのは大体最初だけだろ。テメェの性格なら一週間で飽きるに三百円かけてやってもいい」
そうして晴と和やかに談笑していると、いつの間にかモノレールは学園の敷地内に着いていたようである。
それなりに海岸からは距離があったように思えたのに、こうして実際に乗ってみるとあっという間の時間であった。
今日は本来の登校時間よりも大分早く来たためか、普段は死ぬほど混んでいるらしい駅内も割と空いている。
そうして二人が五分ほどかけて建物の外へ出ると、そこでは早々に学園への入り口が大きな口を開けて待ち構えていた。
「まさかこのワタシがオシャレすぎて気後れするとはな……なんなら家の畳が恋しいまである」
「確かに場違い感がヤベえな。なんでこんな陰キャ臭え格好で来ちまったんだろ俺……」
学園全体のイメージは十九世紀に大流行りした歴史主義建築と、ハイテクを駆使したモダニズム建築の折衷様式とでもいったところだろうか。
人の感性に豊かな影響を与える歴史的景観と、近代的な利便性を同時に内包するその見事な姿には、卑屈な樋田でも素直に拍手を送らざるを得ない。
そして何よりまず彼の注意を惹いたのは、城門かと思うほどに巨大な赤煉瓦造りの校門であった。
加えて学園の全体を覆うかのようにどこまでも連なる巨大な校壁(?)は、それこそまるでちょっとした城塞都市を彷彿とさせるレベルである。
しかし、そんな素晴らしい景観を前にして、樋田は忙しなく周囲を見渡すばかりであった。やがて彼はその陰気な顔を不満たっぷりに曇らせると、
「……まだ来てねえじゃねえか。まあ、とりあえず五分くらいは待ってみるか」
「ふんッ、このアロイゼ=シークレンズを待たせるとは、よっぽどいい度胸をしているようだな」
ヒダハレが文句たらたらなのも仕方がないことで、実は先日学園の方から「初登校日はこの校門の前で待っていてほしい」と連絡があったのだ。
本来ならば当学の教員がここに晴を迎えに来てくれているはずなのだが、待ち合わせの時刻を過ぎてもその某先生の姿がどこにも見えないのである。
「まっ、向こうにも色々事情があんだろ。鼻クソほじって待ってりゃそのうち来るさ」
「……オイ、ちょっと待てカセイ。オマエは感じないのか?」
「ああん? 適当な日本語喋ってんじゃねぇぞ。熟練夫婦じゃあるめえし、きちんと目的語つけて喋りやがれや――――」
そんなくだらないことを言いかけたところで、樋田はようやく晴の顔が不自然に強張っていることに気付いた。
そして晴がこういうシリアスな表情をし始めるのは、大抵ろくでもない事態を察知したときだと相場は決まっている。
「……んだよ、もしかしてまた天使絡みの面倒事じゃねぇだろうな?」
「残念だがその可能性も覚悟してくれ。今はまだ何とも言えぬが、どこからか『
そう晴に言われて意識を集中させてみると、確かに『
続いて樋田は怪訝そうにその薄く短い眉をしかめると、
「つまりはこの学園のどっかに天使、或いは術式を扱える人間がいるかもしれねえってことか」
「だから今は何とも言えぬと言っただろう。まあ確かに『いない』よりかは『いる』確率の方が遥かに高いだろうがな……どちらにしろ、そこに『
晴はそうどこか残念そうに呟くと、何かを調べるようにズカズカと校門の方に近付いていく――――もしかしたら、そのとき樋田は油断していたのかもしれない。
ここ一ヶ月の平穏な日常に慣れ、かつての陰惨な四日間を忘れてしまったのかもしれない。
天界の重罪人たる晴と行動を共にし、その左眼に神権代行を宿してしまった時点で、最早天使の世界と関わらずに生きていくことは不可能であるというのに。
理不尽な非日常は、あまりにも唐突に少年と少女の日常を破壊する。
そうして晴の体を突如異変が襲ったのは、彼女がふと学園の敷地内に一歩踏み込んだ――――正にその直後のことであった。
「ギッ」
とても人の声とは思えない呻きと同時に、晴の華奢な体がいきなり大地に崩れ落ちる。それはまるで雷に撃たれたのかとか思うほどに、不気味で不自然な倒れ方であった。
「なッ――――!!」
瞬時に喉が干上がる。しかし、そこからの樋田の行動は実に迅速であった。
彼は即座に晴の元へ駆け寄ると、ひとまず体を揺すって少女に意識の覚醒を促す。
「オイ、晴大丈夫かッ!? 俺の声が聞こえんならなんか言えッ!!」
「なッ、あアゥ……」
「……とりあえず一応息はしてやがるか、だがこりゃあ――――」
晴の容態は樋田が思っていた以上に深刻なものであった。
ただでさえ微かな呼吸はやたらと不安定で、大きな瞳は血管が血走って真っ赤になってしまっている。全身はまるで陸にあげた魚のようにピクピクと痙攣しているし、その肌に至っては最早白いを通り越して弱々しい紫色になっている。
晴の命に危機が迫っている。
そう確かに実感した次の瞬間、樋田は頭の血がサッとひいていくのを感じていた。
それでも混乱する頭を無理矢理に落ち着け、彼は医者を呼ぼうと自らのスマホに手を伸ばそうとする。
しかしそんな常識の範疇でしかない行動で、この異常事態に対応出来るはずもなく、
「ギッ、ガッ……、ガルァァアアアアアアアッ!!」
それはまるで怒り狂う猛獣の如き咆哮であった。
半ば意識を失いかけていた晴は、突如凄まじい力で樋田を突き飛ばし、そのまま問題無用で少年の上へ馬乗りになる。
樋田は彼女を振り払おうと必死に抵抗するものの、その万力のような馬鹿力を前になされるがままになるしかない。
「オイ待て晴ッ!! 一体どうしちまったんだテメェッ!!」
「ムナユ、オンォー……ミクガ、サンノ、ヘルトスッ!!」
そのとき晴の口から飛び出たのは、遠い異国の言葉か、あるいは意味も無い獣の繰り言か。
どちらにしても今の彼女が正気でないことは、最早火を見るよりも明らかなことであった。
「ルォゴス、ザッン、イツァールキャミドッ……。ヂュリンクスッ……グイブ、グイグ、グイドゥ、リンクァー、ギビュルスッ!! グァグゥード、ウグイヴッ!! リンクス、リンゲス、ゲィヴゥレーンキェルヴィスッ!!」
晴は狂ったように叫び散らしながら、樋田の左目目掛けて真っ直ぐに腕を伸ばしてくる。彼女が口にする言葉は分からなくとも、それがこちらの目を抉るための行動であることは即座に理解出来た。
「クソッタレがッ、どいつもこいつも気軽に人の目ん玉抉りに来やがってッ……!!」
対する少年は必死に晴の手を食い止めるが、やはり天使の腕力には敵わず徐々に押し込まれていってしまう。
このままでは彼女に力負けして、失明の憂き目に合うことは必定であろう――――決断の時であった。
「いい加減に目覚ませやクソ野郎オオオオオッ!!」
そこで樋田は晴の体を足でガッチリと抑え込むと、そのまま一気に己の『
彼女のことを狂わせている原因が何かしらの異能であるならば、その術式さえ乗っ取ってしまえば彼女も正気に戻ってくれるに違いない。
そう信じて樋田は晴に『
「ヒュー……ヒィー、グォ……」
やがて晴は樋田から手を離すと、まるで空気が抜けたようにか細い悲鳴を上げる。続いて苦しそうに喉を掻き毟り、辺りをのた打ち回る姿は確かに狂人のそれであろう。
それでもその奇行は彼女の理性と狂気によるせめぎ合いの結果だったのか。その群青の瞳には光が戻り始め、土気色であった肌にも徐々に活力がみなぎっていく。
なおもしばらくもがき続ける晴であったが、やがて彼女は苦しそうに口から吐瀉物を吐き出した。どうやらそれが正気に戻るきっかけだったようで、次にこちらを見上げる少女の瞳には確かに筆坂晴の意志が宿っていた。
晴は樋田から渡されたティッシュで口元の汚物を拭うと、心の底から申し訳なそうに頭を下げて言う。
「……すまないカセイ。このワタシとしたことが、みっともない姿を晒してしまったな」
「んなどうでもいいこと気にしてんじゃねえよ。それよりテメェの体は大丈夫なのか?」
「うむ、オマエのおかげで体調も大分落ち着いてきた。なに、慣れれば大した問題ではないだろう」
「……今のもやっぱりなんかの異能なのか?」
「嗚呼、恐らくは簒奪王の用いる『
狂気に走らされた――――そう断定的に語る晴に、樋田はなぜか小さな違和感を抱いてしまう。
先程の彼女の異常な振る舞いは、確かに何者かの異能によって引き起こされたものに違いないのだろう。
だがしかし、あそこまでしつこく目玉
別に晴を疑っているわけではない。
こんな根拠のない憶測を態々口に出す意味も無いと思っている。それでもそのとき、少年が彼女に微かな違和感を抱いたのは紛れもない事実であるのだ。
「そうと決まればさっさと学園の中に溶け込んでしまおう。一度ここの関係者になってしまえば、あとからいくらでも探りは入れられるからな」
「チッ、こりゃまた面倒臭えことになりそうだぜ」
とりあえずこの件に関する対応は後々考えるとして、二人は再びここで件の教員を待つこととした。ついでに幸い先程の騒ぎのとき周囲に人はいなかったので、晴のゲロは知らんぷりして放置する方針にもした。
そのまま手持ち無沙汰な時間を過ごすこと約十分。短気な樋田が苛立ちのあまり街路樹に八つ当たりを始めようとすると、不意に門の内側から素っ頓狂な声が飛んで来た。
「ああ筆坂さん、筆坂晴さんですかああああッ!! 遅れてすみませんッ、新入りなもので少し迷子になってしまいましてッ!!」
学園の方からえっちらおっちら走ってくるのは、彼氏の有無を生徒に弄られていそうな若い女教師であった。
走り方は何だかコミカルで、その身にまとう雰囲気もまた活発的。見るからに社交的な女性だと樋田は勝手に想像してみるのだが、ようやく双方の目鼻立ちが見えたあたりで、彼女の表情に突如恐怖の色が浮かんだ。
「げっ、怖ッ!! ちょっと待って、そんな転校生がヤクザのお嬢だったなんて……わっ、私聞いてないんですがッ!!」
「聞こえる声でそれ言うかよ……」
「ヒダカスどうどう、はいどうどう」
「るっせえな、んなことぐらい分かってるわ。別にこんな反応されんのは、そう珍しいことじゃねえし」
背中をポンポン叩きながら宥めてくる幼女をキッと睨みながら、樋田は腹立たしそうに頭を掻き毟る。
自分はピアスなんてしていないし、眉毛も弄っていないし、髪も染めてないどころか整髪料すらろくにつけてないというのに、何故ヤンキーだのヤクザだのと罵らなければならないのだろう。
それもこれも母親の遺伝子をほぼ駆逐した親父のせいだと、少年は心の中で独り毒吐く。
「……保護者の代理で来た樋田可成です。確かに顔はこんなんですが、これでも真面目に学生やってんで安心して下さい。今日はウチの子がお世話になりますが、どうぞよろしくお願い致します」
あからさまにビクビクしている女教師に対し、樋田はそう言って恭しく頭を下げた。
別に彼は誰彼構わず噛み付くような狂犬ではない。目上や店員には当然敬語を使うし、金持ちや権力者に対しての媚売りはむしろ周到なまでに徹底的。それこそが長いものには巻かれろを地で行く、卑屈少年ヒダカスの賢い処世術であった。
「おぉこれは意外、まさかの保護者様でしたかッ!! なるほど怖い顔のおじさんに
「別にいいっすよ。割と慣れてんで」
「あははっ、そう言ってくださると助かりますッ!! あっ、わたくし当学新米体育教師の
いや、コイツ全体的に失礼すぎだろ――――と、心の中で毒吐く樋田に対し、かたわらの晴は「あの、先生ッ!!」と一歩前に進み出ると、
「ふっ、筆坂晴と言いますッ!! ふっ、不束者ですがっ、今日はどうかよろしくお願いしますッ!!」
そんな普段よりもふた回りほど高い声で、キャピキャピと点数を稼ぎ始めたのであった。
「まぁ、なんて可愛らしい子ッ!! うんうん、これなら私も頑張り確定ですよッ!! さて、それでは先生と一緒にみんなが待つ教室へ向かいましょう筆坂さんッ!!」
「あっ、その前にちょっとだけ
「勿論ですとも。ささ、お別れの挨拶は御綿密にッ!!」
晴が
彼女はやけにテンションの高い日本語不自由教師に送り出されると、樋田の耳元にそっと口を近づけてこう囁いた。
「……一応言っておくが、まさかこのまま帰るわけではないだろうな?」
「……ったりねぇだろ。こんな胡散臭えとこにテメェ一人置いていけるわけねぇつーの」
「……うむ、分かっているならば良い。オマエは一度帰る振りをして物陰に隠れたら、こっそり『霊体化』してワタシの後ろをついてこい。『
「……んあ、了解了解。んじゃそういうことで」
先程のようなことがあった以上、当然樋田も初めから晴に同行するつもりであった。そうして二人はこれからの方針を手早く共有すると、一度ここで別れようとする。
と、ちょうどそんなときであった。
「ねぇ、ちょっとそこのアンタ」
いきなり誰かに話しかけられ、樋田は慌てて背後を振り返る。するといつの間に現れたのか、そこには一人の少女が立っていた。
「は?」
樋田が思わず変な声を出してしまったのは、別にその女の子が少年の知り合いであったからではない。
それはただ単に彼女がなかなかに面妖な容姿――――即ち鮮血のように紅い瞳と髪をしていたからであった。
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