第七十六話 『一を信じて千を救う』


 秦漢華はたのあやか

 かの赤い天使の登場は、絶望に満ちていたこの場の雰囲気をガラリと一変させる。

 それはまるで、酷い台風が去ったあと、久方ぶりの太陽が人々を照らしたかのようであった。


 かつての簒奪王にすら匹敵する高圧の『天骸アストラ』。数いる天使のなかでも、特に優れた術者のみが持つことを許される絶対的な力の証。


 その輝きは人々の諦念を吹き飛ばし、閉塞感を打開し、ありとあらゆる負の感情を一掃する。


「まだ状況がよく掴めていないのだけど、とりあえずアレ全部燃やせば解決ってことで良いのかしら?」


 しかし、聖なる光が祝福をもたらすは、穢れなき善良な人々に対してのみだ。

 無論、罪を犯すような悪人に対して――特に善の対立概念を自称するダエーワ達にとって、それは己が身を焼き尽くす憎き焔に他ならない。


 樋田可成の顔が光を取り戻すのと同時に、これまで余裕気であったムンヘラスの表情に初めて焦りの色が浮かぶ。


「なんでこんなに早くッ……チクショウッ、雑魚共は一体何をしているッ!? まだアレから五分も経ってないっていうのにッ……!!」


 バケモノは腹立たしげに吠える。

 それもそうであろう。先程の口ぶりを聞いた限り、ヤツは秦を足止めするために、かなりの戦力を割いたようであったのだから。


「フンッ、連中を死地に送り込んだのは自分だってのに随分と酷い言い草ね。むしろ、彼等については健闘したと褒めてあげるべきだと思うのだけど。何しろあのダエーワ達、この私を五十秒も足止めしてみせたんだから」


 しかし、数に頼るだけの肉壁など、秦漢華にとっては正に鎧袖一触。

 少なくとも卿天使クラスの強さを持つ者でなければ、分単位の足止めすら出来るはずもない。


 ――――マジで間に合っちまうとはな……。


 事実、秦はこの僅かな時間で樋田の下へと駆けつけてくれた。彼女がこれほど優れた術者でなければ、きっと樋田は今頃ムンヘラスかアジ・ダハーカに殺されていただろう。


 そんな彼の方をおもむろに振り向き、秦はその顔に決まりの悪そうな色を浮かべて言う。


「結構ギリギリだったみたいね。遅くなって本当にごめんなさい」

「いや、俺としてはまさかこんな早く来てくれるだなんて思わなかったぐらい……っと、与太話はあとだ。とにかく今は目の前の敵に集中しろ。殺せ。必ず殺すんだ。もうヤツらを殺すこと以外は考えないくらいで丁度いい」


 樋田の物々しい物言い。

 そして周囲に散らばる血糊から、大体のことは想像がついたのだろう。


 秦は軽くこくりと頷き、その虚ろな目を更に薄く冷たく研ぎ澄ませていく――――が、ムンヘラスを一目見た途端、彼女は信じられないと言わんばかりに目を見開いた。


「はあ? なに。もしかしてあの子、人に化けたダエーワだったってわけ……?」

「察しがいいな。一つ心配事が減って良かったと思え」

「…………ごめん。ちょっとムカつきすぎて、今自分がどういう感情なのかよく分からない」

「奇遇だな。俺もだ。だが、アイツを殺せばスッキリすることだけは確かだろうよ」


 しかし、二人の物騒なお喋りはそこで中断させられた。


 ムンヘラスの指図に従い、三つ首のアジ・ダハーカが再び火炎を吹き付けてきたのだ。

 しかし、秦は即座に『殲戮』の爆撃でこれを迎撃し、フロアを埋め尽くすほどであった炎の嵐を完璧に打ち消してみせる。


「油断すんな、次来るぞッ!!」

「フンッ、アンタでも分かることがこの私に分からないわけがないでしょ」


 そして前回同様、炎の裏に隠れたムンヘラスの四腕が続けざまに迫る。

 だがしかし、秦はそれすらもお見通しであった。彼女は爆煙の中から飛び出た三腕を即座に爆破し、辛うじてこちらに届いた一本も正面から堂々と掴み取る。


「んな馬鹿なッ……!!」

「鬱陶しい」


 文字通り、赤子の手を捻るが如くであった。

 秦は掴み取った巨腕を小脇に抱え込むと、そのまま力任せにそれを素手で引きちぎったのである。


 皮が破れ、肉が避け、まるで噴水のように血が噴き出す。途端にムンヘラスの顔が憤怒と苦悶の色に満たされたのは言うまでもない。


「イギグググッ、こんのクソアマがアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」


 強い。圧倒的なり秦漢華。

 彼女の登場によって、最早向こうに勝機は無くなったと言っても嘘ではないだろう。


 しかし、ムンヘラスも然る者。山羊角のダエーワは劣勢を放置せず、すぐさま新たな一手に打って出てきた。


「ディ、アーア、ヘルモクライテッ!! ヨトゥハヌス、イェンバア、ドットビッショルティッ!!」


 聞き覚えのない言葉。

 恐らくは連中の原点であるゾロアスター教絡み、或いはダエーワ間のみで使われる特殊言語なのだろう。


 しかし、言葉は知らずとも、彼が何を言ったのかはすぐに分かった。


 まるでその怒鳴り声に急かされるが如く、アジ・ダハーカは即座にタワーから飛び立つと、その強靭な翼をもって空への逃走を開始したのである。


「逃がすか」


 しかし、秦は咄嗟に反応した。

 恐らくは、ここでヤツに逃げられる危険性を予め危惧していたのだろう。

 右腕の一振りで邪竜の右脚に爆撃陣が貼り付き、硬い鱗はおろか中の肉ごと吹き飛ぶほどの大爆発を引き起こす。


 だが、それだけだった。

 哀れ四肢の一本を失いながらも、アジ・ダハーカはその飛行速度を一切緩めず、瞬く間に東京タワーから離れていく。


「このッ……!!」


 不幸にも次の魔法陣は見当違いの空を爆破した。

 最早邪竜との距離が離れすぎて、対象の正確な座標が測れなくなってしまったのだろう。


「クソッ、これ以上はもうッ……!!」


 秦は苛立ちに任せ、傍らの柱を殴りつける。

 ここであの竜を逃したらどうなるか。その予想が何となく付いてしまっているだけに、二人の顔はたちまちに青くなっていく。



「フフ、アハッ、ハハハハハハハハハハハッ!! ざまあみろ、このクサレ劣等種族共がッ!! これで人質はこの街に住んでいる人間全員。ホラホラ早く追っかけないと、すぐに取り返しがつかなくなるぞッ!!」



 元の傲慢な態度を取り戻し、山羊角の怪物は獰猛に嗤う。

 そう、仮にアジ・ダハーカが地上に向けて火炎を吐けば、それだけで数百、下手をすれば数千人単位で人が死ぬだろう。


 そして、空を駆ける邪竜を追い、これを阻止出来るのは、天使としての飛行能力を宿す秦のみだ。

 つまり彼女は折角救援に駆けつけたにも関わらず、再び樋田をここに孤立させることを強いられているのである。


 ――――なぁに、迷ってんだこのバカはッ……!!


 だというのに、秦は明らかに動揺していた。

 瞬きが多く、意味もなくこちらをチラチラと見る。

 確かにここでアジ・ダハーカを追うことは、ここに取り残されるであろう樋田を見捨てるのと同義。しかし、ここで奴を放置して、数百数千の都民が殺されまくるよりかはよっぽどマシではないか。


「秦ォオッ!! なに、ぼさっとしてやがるッ!! テメェはテメェでさっさとアレを追えッ!! 」


「でっ、でもそれじゃアンタが……」


「黙りやがれッ!! ここでヤツを止めなきゃモブ共が山程殺されるかもしんねぇんだぞッ!! それと比べりゃあ、俺一人の命なんざどうでもいいだろうがッ!!」


 樋田は今にも胸倉を掴みそうな勢いで吠える。

 だが、言った直後に逆効果だと悟った。だから、彼はやけに落ち着いた口調で言い直す。


「……死ぬってのは冗談だ。だが、あんま俺を見くびんなよ。あのクソデカ爬虫類ならともかく、アイツ相手なら俺だけでも充分戦えるつーの」


 幸い、その言葉が決め手となった。

 秦も、本当はどちらの選択が正しいかを理解しているのだろう。

 そうして、遂に彼女は首を縦に振ってくれた。


「……分かったわ。でも、死なないでよ。絶対だからね」


「ああ、死なねえよ。絶対的に絶対にだ」


 最後に目配せを一つ。

 酷く心配そうな秦を安心させようと、出来る限り自然な笑顔で見送ってやる。


「……信じてるから」


 そうして、秦はメインデッキのガラスを突き破ると、その炎のような隻翼を羽ばたかせ、物凄いスピードで東京の空の中へと消えていく。


 後に残されたのは当然、残虐非道を極めるムンヘラスと、ヒーローと呼ぶにはあまりに非力な一人の少年のみであった。

 ダエーワの口元に意地汚い笑みが浮かぶ。


「アハハッ、なんだ今の青臭いやり取りはッ!! 若いねえ可成くんッ!! 大好きなあの子のためなら無駄死にだって上等ですってかッ!? あーあ、マジで笑える。悲劇のヒーローぶるのがそんなに気持ちいいのか? えぇッ!? このクソナルシストロマンチスト野郎がよオオッ!!」


 静かになったメインデッキの中に、ムンヘラスの下卑た笑い声が出て響き渡る。


 あぁ、素直に認めよう。

 秦が退場してしまった時点で、戦いの流れは完全に奴の方に傾いたと。


 今のこちらを小馬鹿にするような態度が何よりの証拠だ。

 きっとこのバケモノは今、こうして再び孤立した樋田のことを嬲り殺してやろうと、そんな舐め腐ったことを考えているのだろう。だが――――、



「はあ?」



 そこで、樋田は完璧にムンヘラスの視界から消えてみせた。

 用いた術式は『虚空こくう』。その聖創の持つ瞬間移動能力をもって、彼はダテーワの真後ろに回り込んだのである。


 反撃する暇など、いや反応する隙すら与えない。

 続けて発動するは『白兵はくへい』。『天骸』に強化された強靭な肉体が躍動し、未だ振り向いてすらいない無防備な背中に襲いかかる。


 狙うはムンヘラスの腰骨あたり。

 しかし、インパクトの直前、背中から生える巨人の腕がガードに割り込んだ。

 だか、樋田の一撃はその防備をいとも簡単に粉砕し、更にその下、ダエーワの肉体へと深く激しく突き刺さる。


「グッ、ガアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」


 先程の岩を殴ったような感覚とはまるで違う。

 そこには、こちらの一撃が相手にダメージを与えた確かな手応えがあった。


 ムンヘラスの小さな体が真横に飛ぶ。

 そこらの瓦礫に何度も激突しながら、まるで砲弾のような勢いで背後の壁へと叩きつけられる。


「ギィ、こんの劣等種がッ……!!」

「なに、ボサッとしてんだ。動物」


 まるで霧でも生じたのかと思うほど、周囲に激しく砂埃が舞い上がるなか、凶相の少年は酷く冷たい瞳をもって目の前の害獣を睨め付ける。


 秦がいなくなってしまっただとか。

 今の自分の実力では、このダエーワを倒すことは出来ないだとか。


 そんなことはどうでもいい。


 樋田は理不尽を見た。

 この畜生によって、罪なき人々が命を弄ばれる様を、これでもかというほど見せつけられた。

 ならば、自分が今ここですべきことなど、他にあるはずもないではないか。


「なに、ボサッとしてんだ。動物」


 再び、告げる。

 そして、彼は最後にこう付け加えた。


「俺ァお前を殺すって、そう言っただろ」




 ♢




 タワーに残った半グレ少年が、山羊角のダエーワと相対する一方。

 高層ビルの立ち並ぶ東京の空の中、一.七メートル程度の小さな影は、全長二十メートルに迫る巨大な影を追い回していた。


 都心の濁った空も、この高さまで来れば随分と美しい。海を連想させる鮮やかな青、手を伸ばせば下層雲がすぐそこに届く距離。


 おおよそ高度二〇〇メートルから五〇〇メートル。少女と邪竜はそんな中を、互いに時速三〇〇キロ超えの猛スピードで飛び回っていく。


 ――――これって一体どのタイミングで呼吸したらいいのかしらッ……!?


 しかし、秦漢華なるこの少女、実は天使としての力に目覚めたのは割と最近のこと。つまり、卿天使を軽く凌駕する実力を持つ彼女も、ここまで激しい空中戦を行うのは初めてであったのだ。


 ――――少しでも気を抜いたら、明後日の方向に吹き飛ばされそうねッ。


 今は圧倒的な技術と経験の不足を、これまた圧倒的な才能とセンスで何とか埋め合わせていると言ったところであろうか。


 そして、更に誤算が一つ。

 所詮はデカブツと侮ったものの、アジ・ダハーカの飛行速度が想像よりもかなり速いのだ。

 秦の全速力をもっても、精々拮抗するのが精一杯で、先程からちっとも彼我の距離が縮まってくれない。


 ――――撃ち落とすのが懸命、だとは思うのだけどッ……!!


 ならばと秦は、アジ・ダハーカの進行方向にいくつかの爆撃陣を仕掛ける。

 しかし、これだけ向こうと距離が開いているうえ、互いに猛スピードで飛び回っているのだから、ろくに爆撃の狙いなど絞れるはずもない。


 ――――チッ、もどかしいッ……!!


 やはり、此度の『殲戮』も見当違いの座標を爆破した。

 周囲に無駄撃ちされる爆撃の間を縫うが如く、アジ・ダハーカは優雅に逃走を続けていく。


 しかし、今の秦が苦しんでいるのは、ただ単に攻撃が当たらないからだけではない。

 彼女にはもう一つ、この戦いにおける大きな大きなハンデが存在する。


「ギギニッ、ガギャガャギギャガガガアアアッ!!」


 そこで邪竜の三ツ首が再び、目下の首都に向けて火球を吐き出した。


 そう。現状秦が苦戦している一番の原因は、この街の人間全員という余りにも多すぎる人質であった。


「何度やっても無駄ァアアッ!!」


 自分が火球を止めることが出来なければ、その時点で地上にいる数百単位の人々の死が確定する。

 だから彼女は邪竜が火を吹くたび、飛行速度をかなり落としてから、別方向に放たれた三つの火球をそれぞれ的確に爆破し続けていた。


 確かに口で言うのは容易い。

 しかし、それには自身の座標と飛行速度、そして火球の放たれた方向などを正確に把握することが必要不可欠だ。

 しかも、それを時速三百キロを超える猛スピードで飛び回りながら行わねばならない。その難度を例えるならば、さながら下半身でフィギュアスケートのジャンプを決めながら、上半身でジャグリングをし続けるようなものである。


 だから邪竜が火を噴くたび、秦は重いプレッシャーから徐々に集中力を削がれ、更には逃走者との距離すらもかなり稼がれてしまっていた。


 ――――アイツは今どこッ……!?


 そうして、対地攻撃を処理しているうちに、いつのまにか邪竜の方を見失ってしまった。

 こちらは双方時速三百メートルを超えて飛び回る身、その場における互いの立ち位置など、瞬きをする程度の時間でガラリと切り替わってしまう。


 そして何より、この速度で飛び回っていれば、敵の姿に気付いたところで咄嗟に方向転換を行うことも出来ない。

 まるで戦闘機が相手の背後を取ることに固執するかの如く、アジ・ダハーカはその死角から秦漢華を強襲する。


「ッ」


 左斜め後方、即ち左の足裏辺りが微かに熱を感じた。

 そこで秦は反射的に『盾装不動じゅんそうふどう』を背後に展開。直後、秦の小さな体を飲み込む形で、三つ首の咆哮が第四位の背後を襲った。


 しかし、火炎は盾に防がれ、そのまま四方の彼方へと散っていく。咄嗟の判断がなければ、丸焼けにされて死ぬところであった。


 だが、炎を防げば、それで終わる話でもない。

 目の前を覆わんばかりの咆哮は、当然再び秦の視界から蛇竜の姿を見失わせる。


 ――――何処に行ったのかしらッ……?


 答えは死角でありながら、背後と比べ警戒が薄くなりがちな――――真下。その位置から竜がこちらへ放つは、炎を線状に圧縮したようなレーザーじみた閃光であった。


 ギュイイイイィィンッ!! と、甲高い音を立てながら殺到。

 しかし、『盾装不動』は間に合わない。閃光は咄嗟に張られた『鎧装不動がいそうふどう』を容赦なく貫通し、少女の柔肌に確かな抉り傷を刻み込む。


我操クソッ、小賢しいッ……!!」


 その後も、狩る方が追い立てられる歪な鬼ごっこは続いた。


 こちらの爆撃陣は全く当たらず、むしろ悪竜による対地攻撃を相殺するので手一杯。

 そしてその度、火球へと対処する隙を突かれ、ヒットアンドアウェイの要領でレーザーを浴びせかけられる。


 肉を光が貫き、高熱が肌を炙る。

 いくら『天骸』で象られた天使体であるとはいえ、弱冠十七歳の少女にとって、それは耐え難い苦しみであった。

 初めは僅かであった負傷も、こうして積み重なればかなりの痛手となる。加えて時速三〇〇キロの向かい風が、傷だらけとなった全身に酷く染みる。


 ――――……マズい。このままじゃ、こちらが一方的に削られるッ……!!


 そして何より、集中力が低下したせいで、火球への対処が大分甘くなってきた。


 最早正確に狙いを絞ることは出来ず、無駄に広範囲な弾幕で何とか火球を吹き飛ばしているのが現状。

 しかも、それすらまだマシな方で、酷いときには完璧に初撃を外し、慌てて第二弾第三弾を放つことすら珍しくなくなっている。


 体力の消耗。全身を走る鈍痛。

 そして、未だ慣れぬ三次元高速戦闘。

 その全てが秦の集中力をみるみる削り、火球への対応を加速度的に危ういものとしていく。



「あっ」

 


 そして、遂に決定的な瞬間が訪れた。


 アジ・ダハーカの放った火球への爆撃が外れる。それは、最早珍しくもないこと。しかし、此度は慌てて放った広範囲の第二弾第三弾、それすらも邪竜の咆哮を搔き消すことが出来なかったのである。


 飛ぶ矢のような勢いで地上へと落ちていく巨大な火の玉。それはあっという間に秦と距離を引き離していき――――そして、遂に『殲戮』の有効射程から飛び出してしまった。


「イ、ヤッ」


 理論上『殲戮』は、地球上のありとあらゆる座標を爆破することが可能だ。しかし、あそこまで距離を空けられてしまっては、最早ろくに狙いを定めることも出来ない。


「やめてッ」


 たちまちに頭の中が真っ白になる。

 やってしまった。失敗してしまった。


 あの火球はきっと、このまま真っ直ぐ東京の街へと降り注ぐだろう。そして、何の罪もない人達が大勢死ぬことになるのだ。


 秦のせいで。

 秦漢華の無能のせいで、多くの人が死ぬ。

 それは最早、自分が彼等を殺したと言っても間違いではないだろう。


 そして、心の中にいるもう一人の自分が、決定的な言葉を口にする。


 、お前は人を殺すのか? ――――と。



「やめてえええええええええええええええええええええええええええええええええええええええッ!!」



 半狂乱になりながら、落ち行く火球に手を伸ばす。そんな行動に、何の意味もないことは分かっているのに。


 取り返しのつかないところまで落ちていった炎を一瞥し、秦は覚悟を決める。

 正しくは覚悟を決めたと言い張って、思わず目を逸らそうとする無責任な自分を殺したのだ。



「『踊り狂う音劇波ワルツァーヘルツ』ッ!!」



 しかし、突如聞き覚えのある声が聞こえた。

 その幼い声が上がったのは直下、正に例の火球が落ちていっている方向であった。


 そして、都民幾百人の命を奪うはずであったそれは、唐突に呆気なく霧散する。


 咆哮を相殺したのは、度を越した轟音が内包する一種の衝撃波――――そう、つまりはソニックブーム。

 そして、ありとあらゆる音を自在に操ることが出来る、銀髪碧眼の天使がそこにはいた。


「松下ッ……!!」


 二週間前の借りは返しましたよ。


 例え声は聞こえずとも、彼女がそんなことを言っているであろうことは何となく分かる。

 これだけ切羽詰まった状況であるにも関わらず、そんな松下の様子に、秦は思わずクスリと吹き出してしまった。


「随分と苦戦しているようだな。メンヘラチャイナよ」

「ちょ」


 いきなり耳元で囁かれ、赤髪の天使はビクリと体を震わせる。

 声の方を振り返ると、いつのまにか金髪碧眼の小柄な羽虫――――もといアロイゼ=シークレンズが、秦と並走する形で空を翔けていた。


 彼女はどこか感心するような顔をこちらに向けて見せると、


「ほほう。未だ小便臭いクソガキでありながら、この速さで天を翔られるとは感心感心。無論、松下とかいう才能もセンスも経験も何もない陰毛女はもうついて来れんぞ。アヤツ、精々二〇〇いくかいかないかくらいが限界っぽかったからな」


「……松下の話なんてどうでもいいわ。てか、なんでアンタらこんなとこにいんのよ」


「ハッ、助けて貰ったくせに礼儀がなってないなぁ、このクソツンデレメンヘラ姑娘グーニャンめ。それに、今はくだらん経緯の話より、あのクソ爬虫類をどうにかする方が先だと思うぞ」


 ハッと我に返る。

 そうだ。増援の到着で少し気が抜けたが、今は邪竜との戦いの真っ最中。先程のようなことが起きてしまった以上、もう一秒たりとも油断など出来るはずもない。


「顔が固いぞ。笑っておけ」

「うぐッ……!?」


 衝撃の一撃であった。


 今秦と筆坂の二人は、互いに時速三百キロで並走している身――――にも関わらず、なんとこのクソ羽虫はいきなりちょこんと脇腹を突いてきたのだ。

 しかも、ワザとか神の悪戯かは知らないが、先程レーザーで開けられた穴にピンポイントである。


「んあっ、ズッポリ……」

「……いーきーなーり、何すんのよオオオオオッ!! マジで一回殺されたいのかしらッ!? こんのクソ羽虫イイイイッ!!」

「そっ、そう怒るな。ただ肩の力抜いてやろうとしただけじゃからッ!! 本当、マジでッ!!」


 そこで、筆坂はわざとらしく咳払いをすると、


「先程少しキサマの戦いっぷりを見物させてもらったが、また同じことを繰り返しても状況は悪くなるばかりだと思うぞ」


「そんなこと分かってるわよッ。だから今こうしてアイデア出そうと――――」


「いや、無理だろ。そんな簡単に打開策が見つかるなら、そもそもここまで追い込まれているはずがない。それに、そうカッカしていては思いつくものも思いつかなくなるぞ」


「じゃあ、どうしろって――――」


「私に任せろ」


 そう、羽虫はまるで当然のことのように言い切る。一瞬期待してしまう。しかし、秦はその言葉を信じ、首を縦に振ることは出来なかった。


「……虚勢はよしなさい。先日の戦いでアンタの低レベル極まる戦闘スペックはよく知ってるわ」


 そうだ。コイツはたかが量産天使ホムンクルス。権能すらもたない雑魚中の雑魚に、一体何が出来ると言うのだ。

 しかし、対する筆坂は何がおかしいのかカラカラと笑いながら言う。


「当たり前だ。こんなか弱い女の子であるワタシが、あんなバカデカいバケモノと戦えるはずがないであろう。無論、バケモノの相手はバケモノに任す。その代わり、キサマが何か打開策を思いつくまでの間、こちらでヤツの注意を引きつけてやると言っているのだ」


 ありがたい申し出であることは確かだが、この雑魚羽虫にそんな大役がこなせるかというと、無論否である。


「……無理よ。アンタなんかでアレを止められると本気で思ってるのかしら? きっと開始三秒で燃やし尽くされて、季節外れの黄砂になるのが関の山でしょうね」


「ハッ、クソガキが。あまりこのアロイゼ=シークレンズを見くびるなよ。これでもワタシは、あの天軍九隊の追跡を振り切り、天界から見事脱出してみせた女だぞ。逃げることと小細工には一家言ある。キサマのような処女とは年季が違うのだ年季がな」


 しかし、そこで筆坂の態度がガラリと変わった。

 これまでのおちゃらけた一面は鳴りを潜め、群青の天使はやけによく通る声をもって告げる。


「時間ならくれてやる。ある程度ならば隙も作ってやろう。だから、落ち着いて考えろ。アレを殺せるのはキサマしかいない。キサマ自身がアレの殺し方を選ぶのだ。なに、キサマにはこの街を救うに充分過ぎるほどの力がある。少し頭をひねれば打開策の一つや二つ、すぐに湧き出てくるだろうさ」


 恐らく秦への発破はこれで充分と判断したのだろう。

 最早筆坂晴は何も言わない。

 彼女は速度を緩めつつある秦を一気に置き去りにすると、その芸術的なまでに精錬された動きをもって、真っ直ぐ邪竜の方へと突っ込んでいった。


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