第七十七話 『裁かれるべきはどちらか?』
圧倒的な才能で勝る天才が、そのまま一〇〇パーセントその他の凡俗よりも優れているとは限らない。
才能、或いは資質。それらはあくまで、その者の強さを決定する要素のうちの一つでしかない。
むしろ一瞬の過ちが死に直結する殺し合い、特に奇々怪界な異能の力が跋扈するこの界隈においては、それまでに積み重ねた技術や経験の方がよっぽど頼りになるのだから。
――――こうして全力で飛ぶのも久しぶりだな。あの日最後に感じた天界の風が懐かしいものだ。
アロイゼ=シークレンズ。
彼女もまた天使としての階級は下級も下級だ。
誰かと誰かの愛に育まれたわけでもなく、ただ必要な数を補充するためだけに作り出された粗製乱造の人造生命体。
それが悲しくも彼女のルーツであるのだから。
だがしかし、例え天使としての質が並以下であっても、明治から今日までの永きを生きる彼女の飛行技術は本物であった。
アロイゼは初めから時速四〇〇キロの高速飛行に打って出るが、その軌道に一切のブレは生じない。
決して速度に振り回されることはなく、まるで氷上を滑るかの如く天翔ける。
左肩の隻翼を僅かに傾け、或いは体の重心を微かにズラし、ただそれだけで最良最短の方向転換を実現する。
加えて、アロイゼは身長一五〇センチにも満たない小兵だ。
その巨体が莫大な空気抵抗を生む邪竜と比べ、速度維持にかかるコストにはそれこそ天と地ほどの差がある。
――――さぁて、下手に火を吹かれる前に仕掛けるとするかッ。
乱入者が己が背に迫りつつあることに、ようやくアジ・ダハーカの方も気付いたのであろう。
邪竜はその大口を大きく開き、こちらに向けて火球やレーザーを雨霰と吐き散らす。
しかし、無意味。
押し寄せる弾幕の全てを紙一重でかわしながら、群青の天使は一挙にアジ・ダハーカのもとへと肉薄する。
「くははっ、あの若輩に丸投げというのも目覚めが悪いしなッ!! 悪いが最初から全力でいかせてもらおうッ!!」
アロイゼはよく通る声で叫びつつ、まるで指揮者の如く大仰に右手を振る。
すると、群青の天使を取り囲む形で、二〇を超える電子パネルが一挙に展開された。
第一聖創『
かの術式が有する力は『
「暴け『
然して、無数の電子パネルから瞬く間に出現したのは、軽く百を超えるアロイゼ自身の電子分身であった。
言うまでもなく、
そもそも質量が存在しないのだから、当然手で触れることすらも能わない。
しかし、物理的に攻撃をすることは出来ずとも、数が多いというのはただそれだけで武器となる。
「キサマの瞳を潰す程度、態々手で触れる必要もないッ!!」
まるでそのことを証明するかのように、いつのまにか数百を超えたアロイゼの群れは、一挙にアジ・ダハーカの巨体を丸ごと呑み込んだ。
その様、正に巨大な電灯に群がる蛾群が如し。
途端にアジ・ダハーカはまるで癇癪を起こした子供のように暴れ始める。
当然だ。例え向こうが獣であろうと、高度二〇〇メートルを時速三〇〇キロで飛び回るなか、唐突に視界を奪われて混乱しないはずがない。
そして、ホワイトアウト状態で車のアクセルを踏む馬鹿が存在しないのと同様。
アジ・ダハーカは思わずといった具合に、これまで常に全速力であった飛行速度を一挙に減速していく。
「ギギギッ、ギャガガガガガゴゴガァアアッ!!」
しかし、所詮虚像は虚像。
アジ・ダハーカが反撃に咆哮を吐いてしまえば、当然実体を持たない影法師でコレを防ぐことは出来ない。されど、
「秦ォオオオオオオオオオッ!!」
まるで晴の大喝に呼応するが如く。
そこでボガガガガガガガッ!! と、天を轟かすほどの大爆発が生じた。
無論、それは秦が遠方より撃ち放った座標爆撃だ。その強烈な一撃は正確無比に邪竜の咆哮を捉え、そして火の勢いを内側から見事に消し飛ばしてみせる。
――――ふんっ、やはり思った通りであったな。
アロイゼは額に微かな油汗を浮かべながらも、得意げにニヤリと口角をつり上げてみせる。
秦はこれまで爆撃を外し続けていたというのに、何故此度はこれほど上手く命中させることが出来たのだろうか?
理由は単純だ。
今のアジ・ダハーカは無数の電子分身に視界を塞がれ、最早自分がどこをどのように飛んでいるのかも分からない状態だ。
然らば当然、先程の火球はろくに狙いを絞ることもなく、ただ闇雲に吐き出されただけのもの。そんな粗雑極まる攻撃であれば、今の秦でも充分に迎撃することが可能である。
それからは、両者の間でしばらくいたちごっこと相成った。
例え邪竜が何度火を吐き散らそうとも、秦はその全てを完璧に打ち消し続ける。
――――まあ、肩の力を抜くにはいささか早いがなッ。
しかし、この膠着状態はあくまで一時的なものだ。
アロイゼの『天骸』ではこれだけの電子分身を長く維持は出来ないし、そもそも数百体の影法師全てに命令を出し続けるのは、脳が焼き切れると思うほどの頭脳的な消耗を要する。
遠からず、どこかで限界が訪れるはずだ。
だが、なんとか戦況を均衡にまでは持っていけた。
アロイゼに課せられた任務は、あくまで負けないようにするところまで。そこから先の勝利を掴みとることが出来るのは、やはり現状唯一の大火力持ちである秦漢華に他ならない。
――――さぁ、頭を冷やす時間は充分にくれてやったはずだ。幼子に重責を押し付けるのは些か気がひけるが……さて、一体キサマはどうでる? 秦漢華、その身にウリエルを宿す紅の天使よ。
秦ならばきっとやってくれる。
いや、むしろやってもらわなければ困る。
そう半ば祈るような思いで、アロイゼはチラリと秦の方を見やる。すると、
「ハハッ」
笑っていた。
何故か、秦漢華は笑っていた。
「アハッ、アハハハハハハハハハハハハハハッ!!」
本来氷のように冷たい印象であった少女が、まるで薬でもキマったかのように笑い狂う。
筆坂が見事時間を稼ぎ切ったことが嬉しいのか、或いは何かしら現状の打開策を思い付くことでも出来たのだろうか?
「……アレは、少々マズいかもしれんな」
いや、違う。
そう、自分の中の直感が確かに告げる。
アロイゼは、今の秦とよく似た笑い方を何度かこの目で見たことがある。
一つは泰然王による虐殺の嵐が吹き荒れた天界でのこと。そしてなにより、それは人の世における戦場の中で嫌という程目にしたものであった。
あまりにも不幸な出来事が起きたときには、もう笑うしかないという言い回しかよく使われる。
そう、人は悲しいと笑うのだ。
そう、人は絶望すると笑うのだ。
そしてなにより、人は自らの死を仕方ないことと諦めてしまうと――――どうしようもなく、笑ってしまうのである。
♢
しばらくアジ・ダハーカの注意を引きつけてみせる。
そんなふざけたことを豪語する筆坂に対し、正直秦は初めから無理だと思っていた。
所詮彼女は自身で権能すら持ちえない量産天使。思えば、お前など三秒で焼き殺されるなどと、随分と酷い言葉を吐き捨ててしまった。
しかし、実際視界の向こうでは、無数の影法師を率いる筆坂が見事にアジ・ダハーカを翻弄してみせている。
彼女はその宣言通り、囮としての役目を立派に成し遂げてくれたのだ。
全ては自分を落ち着かせ、あの邪龍の倒し方を考えるだけの余裕を与えるために。
「だからって、一体どうすれば、いいのよ……」
されど、秦漢華は逆に焦っていた。
いくら考えども考えども、命運を預けるに足る良策が思いつかない。
そうして手をこまねいているうちにも、筆坂が必死に稼いでくれた貴重な時間はあっという間に過ぎていく。
それでも、本来秦漢華は冷静沈着な性分なのだ。
そんな彼女が何故今ここまで焦燥にかられているのかと言えば――――それは当然その肩に背負わされた重責のせいであろう。
秦には分かる。
むしろ彼女は賢すぎるゆえ、自分がヘマをしたときに起きるであろう悲劇が、恐ろしいくらいリアルに脳裏をよぎってしまうのだ。
早く何かを思いつけ。
そうしなければ、罪の無い人々が大勢死ぬことになる。早くしろ、早くしろ、早くしろ、早くしろ、早くしろ――――と。
「うるさい……分かってるわよ、そんなことぐらいッ」
そう思い詰めるうちに、先ほどの葛藤が再び巻き起こる。
気付けば「殺すのか? 」と、どこぞからか自分を責めるような声まで聞こえてきた。
またお前のせいで人が死ぬ。助けて。またお前は人を殺すのだ。人殺しめ。許して、お願い。血も涙もない殺人鬼め。死にたくない。自分の無能が人を殺す気分はどうだ? 嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ――――嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。
周囲には人っ子一人いるはずないのに、自らの心によって生み出された怨嗟の声が止まらない。
「いい加減黙りなさいよッオオオオオオ!!」
ヒステリックな叫びと共に、秦は自らの赤い髪を掻き毟る。
ダメだ。こんなことをしている暇はない。
悲劇のヒロイン面をしていたって、どこぞより現れたヒーローが代わりにあの竜を倒してくれるわけでもないのだから。
「私がどうにかしなきゃいけない……私がアイツを倒さなきゃいけないんだから……」
とにかくそのための手段を洗おう。
いくら視界が塞がれようとも、邪竜は未だかなりの速度で飛び回っている。目測だけで闇雲に『
ならば、直接手で触れ、あの巨体を丸ごと起爆物に変換してやるのはどうだ?
否、あれだけのサイズに術式を浸透されるには、かなり長い時間邪竜の体に触れる必要がある。それまで筆坂が影法師の群れを維持できるとも思えない。
そもそも、もし自分が策を思いつくよりも早く、筆坂が邪竜のことを抑えきれなくなったら――――自分は一体どうしたらいい?
突如湧いたそんな不安から、秦は縋るような目で彼女の方をチラリと見やり――――直後、驚愕に目を見開くこととなった。
――――……どういうこと?
上手く言えないが、何かが引っかかった。
何であろう。まるで一度見つけたコンタクトレンズを、瞬きのうちに再び見失ってしまったようなもどかしい感覚。
しかし、そこで彼女はようやく違和感の正体を突き止めた。
「アレって、やっぱ双翼よね」
そう、天を翔ける筆坂の背には、現在二枚の翼が展開されているのだ。
翼の数。それは下界に生きる天使にとって、非常に重要な意味を持つ。
そもそも反天界の天使というヤツは、天界のリサーチ網に自らの『天骸』を検出されることを恐れ、常に力をセーブするのが常道であるのだ。
それが天使化しつつも翼を一枚しか生やさない――俗に言う隻翼の状態である。
つまり異界のような一部の特殊な環境の中を除き、一度でも地上で堕天使が双翼を展開してしまえば、すぐさま天より追討の一軍からごまんと襲いかかってくるのである。
そんな常識中の常識をまさか筆坂が知らないはずはない。ならば何故、彼女はあれほど大胆に対の翼を晒しているのだろうか?
そして――――、
「ハハッ、馬鹿ね……。ちょっと考えてみれば当たり前のことじゃない」
遂に線は繋がった。
手詰まりに陥ったときは常識を疑えとはよく言ったものである。
そうだ。本来の秦漢華にはアジ・ダハーカを圧倒出来るほどの強大な力がある。
ならば、何故それを振るわない?
慢心しているから? 違う。決して本気の力を出してはいけないと、無意識のレベルまで禁忌が刷り込まれていたからだ。
秦は天を見上げる。
筆坂が双翼を展開してかなりの時間が経つというのに、一向に天界より天軍が舞い降りてくる様子はない。
理由は単純。
恐らく今回のダエーワ発生事件は、憎き天界にとっても由々しき事態であるのだろう。
自らの守護すべき人類が、異形の怪物の餌にされているのだから、当然と言えば当然のこと。
そして、それを態々地上の霊的勢力が倒してくれるならば、天界が彼等を妨害して特になるようなことは一つもない。
反天界的な作戦や、利己的な工作。
そして他勢力との争いなどに術式が用いられれば、即座にこれを追討する。
しかし、目下の危機であるダエーワ発生事件への対処に関しては、例え反天界勢力であろうとも異能の行使を黙認する。
仮に天界がそう方針を改めたとするならば、今目の前で起きてる異様な出来事にもスッキリ説明がつく。
「ハハハッ、なーんだ、あるじゃない。打開策」
そう言って彼女はやけに乾いた笑いを浮かべ――しかし、直後にこう付け加えた。
「まぁ、下手したら死んじゃうかもしれないけれど」
だが、それは瑣末なことだ。
秦漢華が命を懸ければ、それでみんなの命が確実に救われる。
今の自分にとって、これほど都合のいい交換条件は他に存在しない――と、秦は本気でそんなことを考えていた。
余談。
恐らく先程筆坂は、樋田に対してするのと同じ感覚で発破をかけてしまったに違いない。
だが、秦漢華にとってそれはむしろ逆効果であった。
そのとき、丁度戦況が動いた。
天を翔けていた筆坂の本体が、不運にもアジ・ダハーカの咆哮をあびてしまったのである。
ここからではよく見えないが、恐らく天使体が崩壊するほどの傷ではない。だが、その激痛のせいか、これまでなんとか保たれていた無数の影法師達が一斉に消え失せていく。
どちらにしろ、これで最早動かざるを得なくなった。
「フフッ、アハハッ」
然して、秦は嗤う。
まるで自らが傷付くことなどどうでもいいと言いたげな、非常に危うい自暴の笑みが広がっていく。
「アハハハハハハハハハハハッ!! いいわ。私はこれからあなたのことを殺そうとするのだもの。なら、こっちも命を懸けなきゃ釣り合いが取れないものねッ!!」
これまである程度スピードを緩めていた秦漢華が――――一気に数倍の加速をもって前へ飛び出す。
天を裂き、疾風怒濤。先程と比べ、明らかに飛び方から迷いが消えている。
今の秦の速度は、筆坂と同じ時速四〇〇キロに迫るほどだ。秦漢華とアジ・ダハーカ、彼我の距離は瞬く間に迫っていく。
「フフフ、アハハッ!! 『
そして、いくら天使としては一級品であっても、秦はつい最近異能の力に目覚めたばかり。隻翼から本来の双翼に昇華するには、未だ経験と研鑽が圧倒的に足りない。
だから、彼女は少しズルをした。
これまで防御に使っていた二つの聖創を停止させ、その分の意識を双翼の形成の方に回したのだ。
然して、少女の背中から、もう一本の猛る焔が如し翼が生じた。
だが、それでも秦漢華はまだ満足をしない。
「……こんなんじゃ足りないわ。天使体破棄、
なんと彼女は此度、飛行に用いる翼のみを残し、本体の身代わりとなる偽りの体を棄てたのだ。
それで浮いた『天骸』、意識、集中力を掻き集め、二枚であった秦の翼は一挙に四枚まで増える。それに比例するかの如く、ただでさえ膨大であった秦の『天骸』が更に数倍となる。
明らかに、諸刃の剣であった。
確かに秦も風圧やGに耐えられる程度には、肉体を『天骸』で補強している。
だが、今の秦の状態は、翼が生えていること以外、ただの人間のそれに近い。受けた傷は本体に刻まれるし、当然殺されればそのまま死ぬ。これまでのように天使体が崩壊するだけでは済まされないのだ。
――――だから、それがなんだっていうのかしらッ。
しかし、秦の顔に一切の躊躇はない。
それこそが、彼女の覚悟を真実たらしめる何よりの証なのであろう。
既に筆坂の戦線離脱は確認済み。何かを巻き込むのではと気を揉む必要はない。
秦はガラス細工のように脆い少女の肉体をもって、神話の再現に匹敵するほどの力を存分に振るう。
「もうただの一人たりとも傷つけさせはしないわ」
その身に宿るはウリエル。
神の炎の名を冠し、南と地を司り、エデンの門を守る者であり、神の冒涜者を裁く者でもある懺悔の天使。
然して、悪の権化を自称する異形の怪物に向けて、万物を焼き尽くす裁きの炎が下された。
「フフッ、蹂躙の時間よ。喰らえ『
その瞬間、東京の空の色が青から赤へと変わる。
これまでの爆撃とは桁が違う。火力もさることながら、何よりその範囲が馬鹿げていた。
天を埋め尽くす数百、いや下手をしたら千に届くほどの無限爆撃陣。
しかもその一つ一つが約半径五メートルを塵と化すほどの威力を誇る。幾百の爆炎が所狭しと咲き乱れるそのさまは、まるでクラスター爆弾による対地爆撃をこの大空にて再現したかのようであった。
「ウガァアアアアアオオオオオォォォンッ!!」
しかし、当のアジ・ダハーカも伊達に神話にその名を刻んでいるわけではない。
かの邪竜は辺りを埋め尽くす爆撃の隙間を縫うように、懸命に必死の回避を続ける。
しかも一瞬の隙をついて、ギュイイイイイイイイインッ!! と、こちらにレーザーまで吐きかけてきた。
その閃攻は秦の肩を僅かに掠め、脆い少女の柔肌を黒く染める。
「グギュギィ……うっ、ハハッ。やるわね。でもアンタはもう終わりよッ!!」
だがしかし、そこで決定的な瞬間が訪れた。
そもそも三千夾叉は、別にアジ・ダハーカを仕留めようとして放ったものではない。
弾数千を誇る絨毯爆撃も、所詮は向こうの機動力を奪うための――言わば牽制。こうして速度を落とさざるを得なくなった邪竜を、手製の鳥籠に閉じ込めるための一過程に過ぎない。
そして、続けて秦が仕掛けた本命とは、
「
まるでダエーワを巨大な円の中に閉じ込めるかの如く、無数の爆撃を用いた包囲陣の構築であった。
突然これでは円の外に逃げだす手段などない。精々この檻の中で逃げ回るのが精一杯で――――、
「塵芥と化しなさいッ……!! 『
無論、檻に閉じ込めただけで終わるはずがなかった。僅かに残された生存領域を埋め尽くす形で、次々と内側に向けて爆撃が迫ってくる。
「ギィ……ガアッ」
最早アジ・ダハーカは逃げることをやめた。
そうして今度こそ完全に逃げ道を失った邪竜の身体を、これまでのなかで最も苛烈な連鎖爆撃がひたすらに襲う。
まるで一度踏み潰した蟻を、執拗に靴裏ですり潰し続けるかのよう。
いっそ、非情とも言うべきほど徹底的に。
それでも、いつかは秦も攻撃をやめる。
結果は一目瞭然。軽く十秒以上連鎖爆撃を浴び続けたアジ・ダハーカの巨体は、そのまま全長二十メートルの巨大な炭と化していた。
「フフッ、ありがと。素直に死んでくれて感謝するわ」
しかし、敵を焼き殺せばそれで終わりという話ではない。この高さからこれだけの大質量が落ちれば、当然東京の街は滅茶苦茶になってしまうことだろう。
だから秦は最後の仕上げをしようと、垂直に堕ちていく巨大な炭の塊を追いかける。しかし、そうして彼女がその巨体に手を触れようとした正にそのとき、
「――――――――冗談ッ」
驚愕。
既に炭と化した鱗の下から、邪竜の瞳がギョロリとこちらを向く。
あれだけ執拗な爆撃を浴びたにも関わらず、有翼の龍蛇アジ・ダハーカはまだ生きていたのだ。
咄嗟に身を引こうとするが間に合わない。
巨大爬虫類は最後に残った僅かな力を振り絞り、秦めがけてその猛爪を振るう。その一撃は確かに秦の柔肌を捉え、そのままその表面に決して浅くはない傷を刻み込んだ。
「うぅぐッ……!!」
死ぬほど痛い。出血の激しい傷口は熱を持ち、怒りも相まって頭がなんだか呆然としてくる。
だが、あともう少し爪が深く刺さっていれば、間違いなく肋骨を引きずりだされていたはずだ。
「ハハハッ、トカゲの癖に狸寝入りたぁやってくれるわねッ……!! 」
だが、不幸中の幸い。或いは九死に一生。
今の一撃で秦を仕留められなかった時点で、邪竜の命運は今度こそ尽きたッ!!
赤髪の天使はズイと手を伸ばし、炭と化したダエーワの身体を掴み取る。そこから『殲戮』の術式をこれでもかと浸透させ、全長二十メートルの巨体をそのまま巨大な爆発物へと変換する。
それで、全ての準備は整った。
「さよなら」
最後はそんな冷たい一言だった。
アジ・ダハーカの巨体に足を添え、半ば蹴落とすように踏みつける。
その場に滞空し続ける秦に反して、全身を爆発物に変換された竜は真っ直ぐ堕ちていき――――、
そして、いっそ清々しいほどの大爆発を引き起こし、その肉片は残らず空の塵と化した。
♢
「……危ういな」
一連の戦いを見ていた筆坂晴は語る。
確かに秦漢華は強い。そして彼女がどちらかといえば善人側の人間であることも理解した。
だがそれを踏まえたうえで、敢えて言わせてもらおう。
アレは脆い。
やることなすこと危なっかしすぎて、とても見てはいられないと。
カセイもカセイで似たような傾向を拗らせてはいるが、秦のそれはヤツのそれよりも大分酷い。
確証はない。だが、今まで多くの人間を見てきた経験と、豊富な人生経験によって研ぎ澄まされた勘がそう確信していた。
まるで己を無価値な人間のように扱い、それどころか自分が死んで誰かのためになればそれで満足とすら考える。
執拗に弱者を救うことを求め、その過程で傷付き苦しむことを渇望する。
間違いない。それは何か罪を犯した者、特にその罪を罪だときちんと認識出来る善人が陥る歪みだ。
秦漢華は弱者を救いたいから、困ってる人に手を差し伸ばすのではない。その本質は自らに罰を与えたいから、敢えて危険に飛び込もうとする。そんな稚拙極まる衝動の表れにすぎない。
「……危ういな」
そんなヤツはこれまで腐るほど見てきたからよく分かる。
そして、筆坂にはもう一つ知っていることがあった。
あの手の人種はもう二度と救われない。そのままどんどん暗い谷底へと落ちていき、必ず悲惨な破滅を迎えることとなる。
晴の覚えている限り、そこにただ一人たりとも例外は存在しなかった。
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