第七十五話 『餌か、それとも人か』


 確かに、多少は驚いたと思う。


 だが、深く息を吸い、そして吐く。

 ただそれだけで、胸の動揺はすぐに消え去ってくれた。


 そうだ。コイツの正体は、人の皮を被っただけのただのバケモノに過ぎない。その事実をしっかりと頭に根付かせ、樋田は悪魔の角と尾を持つ少年をギロリと睨め付ける。 

 

 別段ショックはなかった。

 生まれてから今日までの十七年然り、二週間前のモジャモジャ然り、信じていたものに裏切られること自体には慣れている。だが――――、


 ――――んだよ。そのしてやったりみてえな舐めたツラはよッ……!!

 

 だが、ムカつくのだけはどうしようもなかった。


 樋田は元々短気なうえ、無駄に自尊心が高い。

 そんな彼が、あんなくだらない芝居にまんまと付き合わされたうえ、バケモノの掌の上で馬鹿みたいに踊らされたとなれば――――最早人としての理性など保てるはずもない。


「グッ、ギギグキュフフギグッ……!! この俺様をなめやがってええええええええええええええええええええええええええッ!!」


 殺したい。殺そうか。よし、殺そう。

 あとはもうその獣じみた本能に従った。


 樋田は少年に向かって駆け出しながら、秦から貰った術式の一つを発動させる。


 『白兵』。それは全身に『天骸アストラ』を走らせることで、 という可能性を引き出す身体強化術式だ。

 つまりは、かつて簒奪王の『天骸』を用いて行った身体能力ブーストと理屈はほぼ同じ。そして何より、これまでに繰り広げた数多の戦いの中で、樋田は喧嘩の領域を超えた高速戦闘の感覚を既に掴んでいる。


「死に晒せえええええええええええええええッ!!」


 懐に隠したナイフを引き抜きつつ、まずは首筋目掛けて横薙ぎを放つ。

 しかし、寸前で頭を後ろに振られ、かわされた。

 続けてその小さな足を上から踏みつけようとするが、それもすんでのところで避けられてしまう。


「ハハッ、面白い。劣等哺乳類にしては中々悪くない動きだねえッ!!」

「黙りやがれッ、とっととブッ殺されろッ!!」


 先の二撃から繋げる形で、此度は左の拳をダエーワの顔面目掛けて撃ち放つ。

 しかし、その一撃も両腕のガードをもって簡単に受け止められてしまった。


 。まるで岩でも相手しているかのようにビクともしない。

 そうだ。いくら見た目が細腕のクソガキであろうとも、コイツの正体はれっきとしたダエーワ。こんな利き腕ですらないジャブで、異形の怪物相手にダメージが通るはずもない。


「ハハアッ、お猿さんのへなちょこパンチなんか効くわけないじゃんッ!!」


 直後、一連の攻勢によってガラ空きとなった樋田の顎に、ドギツいアッパーが勢いよく突き刺さる。


 その凄まじい衝撃に一瞬身体は宙に浮き、続けて渾身の蹴撃が腹部に叩き込まれる。

 まるで車にはねられたような凄まじい衝撃。そのまま樋田の体は、ガラス片の散乱する床の上を跳ねるように転がっていく。


「痛ってえッ、クソがッ……!!」


 インパクトの直前、『鎧装不動がいそうふどう』を発動していなければ、間違いなく全身の骨が砕けていたであろう。

 『白兵』に『鎧装不動』。既に発動時間は切れたのか、樋田の右腕に刻まれたそれらの術式が、スーと溶けるように崩壊していく。


 ――――なに熱くなってんだ、落ち着け馬鹿野郎ッ……!!


 頭に血が上っていたからとはいえ、今のは酷い悪手であった。


 切り札となり得る『白兵』を一つ使ったにも関わらず、結局ダメージらしいダメージを何も与えられていない。

 しかしその受け入れ難い事実、そして全身を走る鈍い痛みとが、逆にヒートアップした頭を幾らか冷やしてくれた。


 ――――倒す必要はねえ、ただ時間を稼げりゃあそれでいいんだッ……!!


 今の樋田の状態では、少年ダエーワと巨大竜の双方を倒すことなど不可能に等しい。

 ならば最初の方針通り、無理には攻めず、のらりくらりとやり過ごすのが最善であろう。


 ただ、樋田が頼りにするあの赤髪の少女は今も健在であるのか。それだけが少しは気掛かりであるのだが――――、


「……オイ、クソヤロウ。秦の野郎はどこいった?」


「ハハッ、哀れに騙されて、惨めにブッ飛ばされて、まず初めに聞くことがそれかよッ!! だが、残念だったね。あの赤い女なら、もうとっくにこのボクが殺して――――」


 ダエーワがその言葉を言い終えるより早く、樋田はうずくまったまま黒星ヘイシンを撃ち放つ。

 弾丸は悪魔の頬を僅かにかすめるが、その異形の体にはただ一筋の傷すらも走らない。


 しかし、それでも半グレは、獣のように獰猛な声をもって吐き捨てる。


「寝ぼけたことぬかしやがって。俺があの女倒すのにどれだけ苦労したと思ってんだ。テメェらみてえな雑魚相手に、アイツが負けるだなんてありえねえんだよッ……!!」


 樋田は痛みの走る脇腹をおさえながら、再び立ち上がる。しかし、対するダエーワはむしろ、その勇ましい姿を嘲笑うように破顔する。


「アハハハハハッ!! 大した信頼だねッ!! まぁ、そう怒んないでくれよ。お兄さんのいう通り、確かにあの女はまだ生きているかもしれないね。まあ、最低でも向こうは向こうで忙しいだろうから、お兄さんの望むような展開にはならないと思うけど」

「……」


 その言い草で、コイツがしようとしていることは大体読めた。

 弱兵の優先撃破に各個撃破。なるほど、確かにムカつくぐらい戦場のセオリーに則った戦い方だ。


 これまで樋田は今回の任務のことを、ダエーワ掃討作戦程度に考えていたが――それは違う。


 これは対等な戦い、言い換えれば戦争だ。

 ダエーワとホモ・サピエンス。そのうちのどちらかが死に絶えるまで続く異種間絶滅戦争。

 しかし、兵力が有限な人間側に対し、ダエーワ側には現状無限に戦力が補充され続けている。


 ――――確かに覚悟は決めたが……やっぱまだ驕りがあったな。


 相手はたかがバケモノ。そんな甘い認識は今ここで捨て去るべきだ。

 そうしなければ、この東京がダエーワ軍によって陥落してしまうことも――いや、それどころか人類自体がこの異形の怪物に敗北してしまうことだって充分に考えられる。


「……こりゃあ、テメェが狩る側だって認識は改めなきゃならねえな」


「ハッ、ようやく自覚したかよ腐れ下等種。だが、反省は地獄でしろ。お前にはもうここでボクのクソになる以外の選択肢は存在しないんだからさァッ!!」


 そんな挑発じみた言葉の直後、ダエーワの体に大きな変化が生じる。

 これまで少年の形を象っていた悪魔の体、それがな唐突にぐにゃりとのである。


 それはまるで人という粘土をこねて、別の新しい形を作り直しているような光景であった。

 スライム状の肉塊は、すぐさま麗しい青年の姿へと再構成され、そのまま老人、少女、果てには動物へと移り変わっていき、最終的には元の少年の姿へと戻る。


「ククッ……このムンヘラス様の権能は神話通りの『変化』でね。この見た目でお前らに接触したあと、別のダエーワが出てきたところで挟撃アンド騙し討ちにしてやろうと思ってたんだけど……」


 そこでムンヘラスを名乗る悪魔は、派手に割れたメインデッキの窓ガラス――正しくはその外の空を駆ける巨大生物に目をやり、これ以上ないまでに邪悪な笑みを浮かべて叫ぶ。


「それがまさか……よりにもよって、あの悪竜アジ・ダハーカが巣食ってるこの場所にノコノコやってきてくれるとはなァッ!! ハハッ、全くついてない。お前ら、いっそ哀れに思えるくらいついてないねッ!!」


 その威勢のいい声が引き金となった。

 三つ首の邪竜――ムンヘラス曰くアジ・ダハーカなる巨大竜が、先程の大穴からメインデッキの中に頭を突っ込んできたのだ。


 あらゆるものを引き裂きそうな鋭い歯に、まるで別の生き物のように蠢くグロテスクな舌。

 直後、同時に開かれた三つの大口から、空間を埋め尽くすほどの黒炎が怒涛の如く吐き出された。


 床も壁も天井も、全てを焼き尽くしながら炎は迫る。

 この狭いメインデッキに逃げる場所などなし。

 当然これだけの範囲攻撃を防ぎ切る術も今の樋田にはない。


 ――――畜生、結局これに頼るしかねえのかよッ……!!


 出来ればもう少し『天骸』を温存したかったが、背に腹は代えられない。

 樋田は『燭陰ヂュインの瞳』の時間遡行能力を用い、ゴオオオオオッ!! と押し寄せる火炎の海を即座にキャンセルする。


 しかし、それで済むほど此度の敵は甘くない。

 視界を覆うほどの炎をなかったことにすると、今度はそれまで炎の裏に隠れていたムンヘラスの攻撃が、連鎖式に樋田の体を襲ったのである。


「まずッ……!?」


 意識の外を突かれただけに、ろくに反応することも出来なかった。

 ムンヘラスの背より飛び出すは、一つ一つが十メートルはくだらない四本の巨大な人の腕。その全てが鞭のようにしなり、樋田の全身を滅茶苦茶に打ち据えた。


「ガアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」


 不動系の術式で、ダメージを軽減する暇もなかった。

 そのままノーバウンドで背後の壁に叩きつけられる樋田を見て、ムンヘラスは心底愉快そうに笑い狂う。


「アハハハハハッ!! やっぱ最高だね。世界の支配者ぶってるお前ら人間様に、ボク達ダエーワの餌としての自覚を叩き込んでやるのは……ったく、どいつもこいつも寄って集ってボク達の仲間を殺しまくりやがって、ダエーワだって生きてるんだぜ? 同じこの星に住む友達なんだぜ? 分かってんのか下等生物ッ!?」


 しかし、そう侮辱されて黙っている樋田ではない。

 彼は全身を鈍い痛みに侵されながらも、残った力を振り絞って罵声を浴びせ返す。


「……ッるせえよ動物が。テメェら畜生のクソみたいな命と、俺達人間様の命が同価値なわけねぇだろ。大体テメェらクソ害虫はな、生まれてきたっつーそれだけでクソ迷惑なんだつーの。分かったらとっとと絶滅しとけ。出版社に頼んで『ざんねんないきもの図典』の中にリストアップしといてやるからよ」


「……」


 樋田のそんな威勢のいい言葉に、ムンヘラスは一瞬黙り込む。

 目を見開き、鳩が豆鉄砲を食ったような顔で硬直する。

 そして、その直後、悪魔の頭の中で全ての理性が吹き飛んだ。


「調子にッ、のんじゃねぇぞ劣等哺乳類がアアアアアアアアアアアアッ!! 生意気ほざいた分の責任はきっちり取ってもらうぞおおおおおおおッ!!」


 恫喝めいた物言いと共に、再びムンヘラスの背中から、巨人の腕を象った四本の肉塊が飛び出す。

 上等、怒りに身を任せてくれればこちらも動きを読みやすい。しかし、その腕が伸ばされたのは樋田の方ではなく――――一般人が身を潜めている物陰の方であった。


 ――――ざッ、ざけんじゃねえッ!!


 樋田は慌てて駆け出そうとするが、最早この距離で間に合うはずもない。

 屈強な巨人の腕が振り下ろした一撃は、力無き人々の隠れ蓑となっていた内装を吹き飛ばし、


 そして、彼等の姿は悪竜アジ・ダハーカの視線に晒されることとなった。



「は?」



 樋田は目の前の光景を疑う。

 ムンヘラスが何かをしたわけではない。

 アジ・ダハーカ自体も今は人々からかなり距離を取っている。

 だというのに、それだというのに、物陰に身を潜めていた人々のうちの約三分の一が、突如パッと消え失せたのだ。


「オイッ……なんなんだよコレはアアアアアアアッ!!」


 頭上より降り注ぐ悲鳴に、樋田は慌てて窓の外を見る。

 そこではやはり、三本の頭に蛇のような姿をした邪竜が、悠々と東京の空を羽ばたいている。

 いや、違う。それだけではない。

 アジ・ダハーカの鋭い牙の間、そこに軽く十を超える人間が挟まっていたのだ。


「……嘘ッ、だろ」


 その、あまりにも現実離れした光景に思考が追いつかない。

 恐らく、今あそこにいるのは先程ここから消えた人達なのだろう。


 だが、何故だ? 一体何が起きたというのだ?

 あまりにも突拍子のない考えだが、樋田には人々が竜の口の中へとようにしか考えられなかった。


「なにしてんだテメェッ!! とっとと離しやがれええええええッ!!」


 窓から顔を出して、そう叫ぶことしか出来ない。

 あんな高いところを飛ばれてしまっては、彼等を助けるどころか、アジ・ダハーカを攻撃することすらも不可能だ。


 その瞬間、竜に咥えられた哀れな人々と目が合った。

 この距離で声が聞こえるはずもない。

 だというのに、助けてくれと、死にたくないと、そんな幻聴が確かに耳をこだましたその直後、


「オイッ、ヤメロ――――」



 三ツ首の蛇竜は、その大口を勢いよく噛み締めた。



 それは、まるでギロチン刑が執行される様によく似ていた。

 鋭く重い爬虫類の牙が、人の体をいとも簡単に切り裂き、突き刺し、押し潰す。歯の隙間からは食い損ねた四肢や頭部がボロボロと溢れ落ち、ゴミのように東京の街の中へと消えていく。


「あッ………………」


 空に伸ばしかけた手を引き戻すことすらも出来なかった。

 救えなかった。助けられなかった。その事実が重く肩にのしかかり、気付けば床に膝をついてしまう。


「一体、何がッ……?」


「ククッ、ありゃあだよ。可成くん」


 魂でも抜けたかのように呆然とする樋田とは対照的に、ムンヘラスは随分と楽しげな様子であった。

 山羊の角を持つ化け物は、まるで手品のネタバラシでもするような軽い口調で続ける。


「あのトカゲはあれで中々哀れな宿命を背負っていてね。世界が終末を迎えるとき、アンラ・マンユ率いる悪の軍勢は、アフラ=マズダ率いる善の軍勢と雌雄を決することになるんだけど……有翼の竜蛇アジ・ダハーカは、この世界に存在する全生物の三分の一を食い殺したあと、最後にはとある大英雄の手によってブチ殺されることが、もう運命として決まっちゃってるんだよね」


 しかし、そこで「だけど」と一度言葉を切る。


「逆に言えば、全生物の三分の一がアイツに食い殺されるってことも今から決まっている。要するに、あのトカゲはその宿命を背負う生物を、ただ見ただけで喰うことが出来るんだよ。ソイツがいつか喰われる『未来』を観測し、今喰われたという『現在』に書き換えることでね」


 邪竜の持つ力の正体を知り、樋田の背中にはゾワリと悪寒が走る。

 理不尽だ。そんなのあまりにも、理不尽すぎるではないか。もし仮に、自分がその三分の一に含まれていたらと思うと、心の底からゾッとする。


 いや、違う。目の前であれだけの人が殺されたというのに、自分は何をホッとしているというのだ。


 マズい。この状況は非常にマズい。

 秦が来るまでの時間稼ぎなどとは、もう言っていられない。ここで樋田が全力で戦わなければ、ヤツラの意識を自分に釘付けにすることが出来なければ、また多くの人間が自分のせいで死ぬことになる。


 ――――ムンヘラスは『虚空』からの『白兵』で殺し切るッ!! アジ・ダハーカは『破滅の枝レーヴァテイン』で焼き殺すッ!! もう他に方法はねえッ!!


 だから、少年は覚悟を決めた。

 上手くいく可能性など、無に等しいことは分かっている。だがそれでも、自分の身可愛さに他人を危険に晒すことなど出来るはずもない。


 しかし、それでも彼がその決心をするのは


 不幸にもこのメインデッキに居合わせてしまった多くの人々。

 彼らはこれまで上からの恐怖に縛られるがまま、大人しく物陰に身を潜めていてくれた。それは当然、樋田の(あくまで演技ではあるが)「大人しくしていれば殺さない」という言葉を信じてのことであろう。

 しかし、ムンヘラスの猛攻は彼等の隠れ蓑を破壊し、何よりアジ・ダハーカの力によって、彼等の三分の一が突如姿を消した。


 ある者は恋人を、またある者は親や子供を失ったかもしれない。


 動かなければ殺されない。

 彼等はその言葉が嘘偽りであることを理解しただろう。そして。そこに早くこの場から逃げ出したいという欲望が加われば、

 


「嫌ァ……、もう嫌ァァアアアアアアアアッ!!」



 その瞬間、大人数で固まっていた集団の中から、一人の若い女性が出口を目指して飛び出した。


「バッ、馬鹿野郎ッ……!!」


 樋田は慌てて彼女を止めようとするが、それよりも速く動く者がある。


 ムンヘラス。

 獰猛なヤギの頭に、筋骨隆々を誇る人の体。これまでの少年を象った姿から一変、軽く三メートルを超えるダエーワ本来の肉体が姿を現わす。


 あまりにも一瞬の出来事であった。

 悪魔は凄まじい速度で女性を捕えると、その体を迷いなく口の中へと運び、


「なによコレエエエエッ、ィギグッ」


 その臼のような歯で、彼女の上半身を滅茶苦茶に磨り潰した。


 肉が潰れる水っぽい音、骨が砕ける乾いた音。

 グチュグチュという咀嚼音と共に、かつて人であった肉塊は悪魔の胃袋の中へと消える。


「ヒヒヒッ、ギャハハハハハハハハハハッ!!」


 樋田の目の前で人を殺せたのがよっぽど嬉しいのか、ムンヘラスは狂ったように笑い散らす。

 しかし、その陵辱はそれだけに止まらない。


「それ、ご開帳オオオオオオオオオオオオオッ!!」


 元の少年体に戻った悪魔は、残った下半身から衣服を剥ぎ取り、そのかつて人であった肉塊を樋田に向けて投げつけたのだ。

 ゴロゴロとゴミのように転がるそれを一目見て、樋田の中で心と思考とが一瞬空っぽになる。対するダエーワは、ニタニタと吐き気がするほどに下卑た笑みを浮かべると、


「ほらッ、どうだ下等生物ッ!! 使いたいなら使ってもいいんだよ。お前みたいなケツの青いガキなら、そんなんでも充分イケるだろうからね……ブッ、ブフッ、ウグハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハッ!!」


「…………………………………………殺す」


 怒りと殺意以外の感情は全て消えた。


 樋田は狂った獣のように駆け、一気に悪魔達との距離を詰めていく。

 殺す。必ず殺す。例えどんな手を使ってでも、例え自分が今ここで死んだとしても、コイツらだけは絶対に殺してやるッ!!


「オラッ、クソトカゲッ!! 火吐け火ィッ!!」


 しかし、樋田がここで仕掛けようとしていることを、ムンヘラスは既に予測していた。

 悪魔の声と共に、邪竜が顔を覗かせ、絶妙のタイミングで黒炎の嵐を撒き散らす。


「畜、生ッ……!!」


 一度、前に踏み出しかけた足がつい止まる。


 無力だ。

 あまりの無力さに自分で自分が嫌になる。

 あれだけの悪を前にして、嫌というほど理不尽なものを見せつけられて、それでも自分はあのバケモノ共に一矢報いることすらも出来ないのだから。


 確かに『燭陰の瞳』で炎を打ち消してしまえば、ここで焼け死ぬことはない。

 だが、樋田に残る『天骸』はあと約三割。そのあとはもう、ろくに術式を使うことも出来なくなるだろう。


 虚しかった。悔しかった。苦しかった。

 なにが俺が守ってみせるだ。あれだけ威勢のいいことをほざいておきながら、もう既に何人も殺されてしまっているではないか。


 結局自分はこのまま、一人の人間救えないままただ惨めに殺されるのだろうか。


 そんな諦念が微かに頭を過る。

 直後に諦めるなと否定するが、一度思ってしまったことを無かったことになど出来るはずもない。


 その間にも炎は迫る。

 力無き人々の盾となることも出来なかった、彼の無力という罪を断罪するかの如く。

 漆黒の炎は迫り、殺到し、やがて少年の視界一杯を埋め尽くし、



「『神の炎ウリエルアーツ』」

 


 しかし、炎が正に樋田を飲み込もうとしたその刹那、どこぞより湧いた爆発が突如黒炎に襲いかかった。


 連鎖的に、そして多重的に。

 軽く二十を超える凄まじい爆撃の嵐によって、あれだけの勢いを誇っていた炎は見事に霧散する。


「コイツァ……」


 樋田はこの炎をよく知っている。

 六大天使が一柱ウリエルを再現した権能。或いは神の冒涜者を焼き尽くす裁き炎。


 二週間前、あれだけ苦しめられたあの炎が、味方に回るとこうも頼もしいとは。心なしかその鮮やかな赤に、樋田は一種の温かみさえ感じてしまっている。


「……良かった。生きてた」


 そんな素っ気ない声に、樋田はゆっくりとそちらを振り返る。

 その隻翼は炎を象り、頭上の天輪は聖火の如く熱く燃え上がる。ガーネットを埋め組まれた瞳に、薔薇すら恥じらうほどに鮮やかな炎髪。その手にこのクソッタレな状況をひっくり返す強力な力を携え、紛れもない綾媛百羽第四位――秦漢華がそこには立っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る