第百七話『私のヒーロー』其の二
バキャアアアアアアアアアアアアアアアッ!! と、何か硬いものを力任せに砕くような、いっそ爆音と言っていいほどの破壊音が、突如壁の向こうで生じたのだ。
「なっ、なにいきなりッ!?」
「――――ッ!!」
同行の生徒達は思わず腰を抜かす。
隼志紗織もまた恐怖に顔を青くする。
一体何が起きたのかとその場にいる全員が戦慄するなか、しかし、その答えはすぐに示された。
『ヤッ、ヤダッ。なんなのあれッ――――』
少女の悲鳴は聞こえたと思った刹那に途切れた。
代わりに響くは、まるで果実をゆっくりと絞るような水っぽい音であった。その後も散発的に少女の悲鳴が上がるが、どれもすぐに掻き消されてしまう。
人の声は皆水の音へと代わり、そうしてやがて、壁の向こうからは何も聞こえなくなった。
「どっ、どうしたんですッ!? そちらで何が起きているんですかッ!?」
同行者のほとんどが突然のことに呆然とするなか、ただ一人里浦先生だけが再び壁に歩み寄った。
先生は瞳を揺らし、声を張り上げながら、何度も何度も壁を叩く。
その向こうで一体何があったかは、彼女も粗方予想がついているだろうに。
「お願いですッ!! お願いですから、返事をッ!! 誰か返事をしてくだ――――」
そうして、先生の声もまた水の音と化した。
鼓膜が破れると思うほどの破壊音、そして凄まじい衝撃と共に目先の壁が爆散したのだ。
「……先、生?」
粉塵が収まり次第、改めて壁に目を向ける。すると、そこには縦にも横にも大人二人分はありそうな大穴が穿たれていた。
しかし、隼志の目を奪ったのは大穴それ自体ではなく、むしろ穴の周りを埋め尽くすように散らばった真っ赤な瓦礫の方であった。
「……うっ、嘘」
隼志紗織は戦慄する。
確かに元々この壁は赤煉瓦だ。だがそれでも煉瓦の赤はそこまで彩度が高くはない。
しかし、それでも瓦礫は不自然までに鮮やかな赤、煉瓦本来の色ではない別の赤によって染められていた。
赤、鮮やかな赤。血。飛び散る、肉片。
寸前まで普通に言葉をかわしていた人間が、呆気なく物言わぬ肉塊と化す恐ろしさ、おぞましさ、そして、惨たらしさ。
「あぁ、ああああああああああ」
記憶が、いや、かつての悪夢が少女の脳裏をフラッシュバックする。
あぁ、知っている。そうだ、隼志紗織はこの悲劇を既に一度見たことがある。
その構図は五年前、紗織の母が瓦礫に潰された死んだ際の光景と、皮肉なまでにそっくりであった――――、
「――――ッ!!!!」
込み上げる酸味に思わず口元を押さえる。
その瞳には薄っすらと涙が浮かんでいた。
気を強く持とうと、そう意識せねば今にも心が壊れてしまいそうですらあった。
まるで時が止まったかのようであった。
何か自分達にとてつもない危険が迫りつつあることは分かっている。
それでも判断を委ねられる大人を突如失い、子供達は堪え難いショックと恐怖で影を縫われてしまったのだ。
「あァあ、なによ今のうっさい女の声。ムカつくから思わず殺しちゃったわあん」
そんなとき、大穴から何か不快な声が聞こえてきた。
しかし、果たしてそれを声と言っていいのだろうか。確かに意味は聞き取れる。それでもその声はまだ排泄音の方が優雅だと思えるほどに、醜く濁った最悪の声であったのだ。
子供たちのなかに冷んやりとした恐怖が走るなか、そんな彼女達を嘲笑うが如く、遂に大穴の向こう側から破壊の元凶が姿を現す。
「あらァ☆ さっきので全部殺したと思ったけどぉ、まだまだたくさんいるじゃなあいッ!!」
化け物であった。
こんな怪物が果たしてこの世界に存在していいのかと、そう思うほどに醜い化け物であった。
豆粒のように小さな瞳、その一方ひどく巨大な鼻と口。辛うじて人に近い顔の両脇にはそれぞれ馬と羊の顔が付いている。
直立した巨体はおよそ四メートルといったところだろう。だらしのない中年のような体の上に乗った顔は異常なまでに大きく、見た感じ五頭身ほどしかない。
「アッハッハ、良いわねえその怯えきった表情。やっぱ霊体化しないで正解だったわぁ。だってこの姿を実際に見せてあげた方が、貴方達人間ってずっとずーっと良い顔をするんだもの♡」
男性的な野太い声色で紡がれる女性口調がなんとも薄気味悪い。
怪物はそれはそれは随分と愉快そうに、その大きな口を歪めて嗤う。
「だーけーどぉ……」
しかしその直後、余裕げであった化け物の表情がガラリと切り替わった。
侮辱と嘲笑とを孕んだ醜い笑顔、から。
激情と殺意とを含んだ鬼の形相、へと。
「ァアアアアンもぉなんなんのよォオオオぉオこんの学園はァアッ!!?? どこ行っても女、女、女女女女女女女女女女ッ!! しかもどいつもこいつも可愛い女の子ばっかりじゃなあい、ンフヌウッ、ンハァ狂う、狂ってしまう、嫉妬で気が狂ってしまうぅうううううううッ!!」
突然の怪物の発狂に、少女たちは一人の例外なく恐怖に飲まれた。
化け物は目を血走らせ、肌を怒りに紅潮させ、体から湯気を沸かして激怒する。巨大な顔に不釣り合いな小さな瞳が、憎悪をもってギョロリと少女たちを見据えていた。
「特になんなのよおその短いスカートは、なんなのよおその艶やかな髪は、なんなのよその瑞々しい肌はァアッ!? アタシは知っている。アンタ達雌豚がそうやって自分を愛らしく見せようと努力する理由を知っているッ!! 全部全部ぜぇえええんぶ、アタシのアンラ=マンユ様に媚を売りたいからなんでしょォオオオオオッ!? あんのクソタレゴミクソカスビッチのアズみたいにィイイ、乳とケツを振ってあの人を惑わすつもりなんでしょおおおんッ!? 畜生ふざけやがって、なめやがって、殺してやるブッ殺してやる。こンんのビッチ、ビッチ、ビチビチビーーーーッチ、クソッタレのォヴィッツィどもがああああフハアアンアンアンアンアンッ!!!!」
怪物は怒り狂う。
赤い涙を流して狂乱する。
その鋭い爪を目の下に突き立し、血が出るのも構わずに顔面をこねくり回す。
「あっ、あぁッ……!!」
それまで少女たちは硬直していた。
この場から逃げ出そうとすることによって、化け物に意識を向けられることを無意識に避けようとしていたのかもしれない。
「はああああぁぁん……ヴェンディナート七大魔王が一角、狂暴のアエーシュマ。アタシより可愛い女みんな殺す。そうすればあの人もアタシを愛してくれるからァ」
されど、殺す。
その言葉でようやく皆は正気を取り戻した。正しくは動いて目立つことに対する恐怖を、この場に踏み止まる恐怖が上回ったのだ。
その後は、正に阿鼻叫喚であった。
ある者は悲鳴をあげながら、またある者は恐怖に泣き叫びながら。少女達は少しでも怪物から距離を取ろうと、蜘蛛の子を散らしたように逃げ始める。
皆が皆自分の命だけを考えていた、いや、考えずにはいられなかったのだ。だから、自力で逃げられない少女が、地獄に一人取り残されるのは至極当然の帰結であった。
「待って――――――」
誰か、待って。
私も連れていって、置いていかないで。
などと、言えるはずがなかった。
隼志の声に気付く者はいなかった。
仮にいたとしても完全に黙殺された。
いや、それどころか――――、
「うッ……!!」
突然車椅子を横から衝撃が襲った。
あの化け物に攻撃されたのではない。仮にそうだったらば、今の一瞬で自分は殺されていただろう。
それはあくまで人の乗った車椅子をなんとかひっくり返す程度の一撃。例え華奢な少女であろうとも、本気で体当たりでもすれば充分に可能な芸当。当然、隼志は車椅子の上から投げ出され、哀れに地の上を転がることとなった。
「あぅっ……、うッ……!!」
絶望感と惨めさに押し潰されそうになりつつも、隼志はなんとか顔を上げる。
するとそこには少女の姿――実際に隼志の車椅子をひっくり返した本人の姿があった。
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