第九十九話『赤い夜』其の二
あの父が、どこか頼りなくとも、いつも家族のことを第一に考えてくれていたあの優しい父さんが、死んでいる。殺された。何度呼びかけたところで最早娘の声に、父は決して優しい声色で応えてはくれない。
「……うっ、ぶぐッ」
初めに湧き出たのは悲しみでも恐怖でもなく、ただ純粋な拒否反応であった。身近な人物の変わり果てた姿に、思わず口の中が不快な酸味で一杯になる。初めて姉
「ダメよ、こういうときほどしっかりしなきゃ……」
再び何が起きたのだと、今度は確かな疑問として思考を走らせる。
泣きたかった。怒りたかった。叫びたかった。それでも今は他にやるべきことがあるのだと、それら激情をなけなしの理性で無理矢理に抑え込む。
歯を食い縛り過ぎて歯茎に血が滲む。家族を失った悲しみに耐えるのはこれほどまでに辛いことなのかと、少しでも気を抜けば今にも発狂してしまいそうであった。
それでもとにかく知りたかったのだ。母と妹の生死を。
それでもとにかく縋って証明したかったのだ。父以外の家族はまだ生きているかもしれないという、そんな甘ったれたあり得るはずもない希望的観測を。
「母さんッ!!
半ば叫ぶように呼びながら、少女は同時に玄関を勢い良く開け放つ。しかし、そこには更なる絶望が広がっていた。
玄関も血塗れであった。床を覆う絨毯は真っ赤に染まり、周囲の壁にも何かを斬り飛ばした時につくような血飛沫がべっとりとこびり付いている。鼻孔を犯す濃厚な血の匂い、まだ殺されてから、そう時間は経っていないと思われる、不気味なくらいに鮮やかな赤。少女は最早この世の終わりとでも言わんばかりに顔を覆い、そして頭を抱えた。
「なんなのよ、これ……」
これではもう……恐らく父さんと同じように二人も――――いや、違う。違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違うッ!
まだ大丈夫だ。まだ希望はある!
何もこれが母さんや明希の血であると決まったわけではない。もしかしたら父が殺されたときの血か、或いはこの惨劇を引き起こした何者かが父に抵抗されて負傷したときに流れ出たものなのかもしれない……いや、かもしれないのではない。きっとそうなのだ。そうに決まっている。それ以外の事実など認められるはずがないではないか!
「ちょっと母さん明希、早く出て来てよ……イタズラにしたってタチが悪すぎるわ……」
あぁ、母さん達はいつまで隠れているのだろう。
もう悪い奴はいないのに。この秦漢華が帰ってきた以上、もう怖いことなんて一つもないんだから、早く顔を出してくれれば良いのに――――、
最早自分が何を考えているのかも、どうしてそのような思考に至っているのかも分からなかった。
それでも早く母さんと明希を見つけなくてはならない。そう信じて彼女は玄関を後にし、かつて家族の団欒が営まれていたリビングを覗き込む。
「あっ」
そこには仰向けになって息絶えている母の姿があった。
その様はまるで子供に飽きて打ち捨てられた玩具の如く。母は見たところ何か大きな刃物のようなものでズタズタに引き裂かれたようであった。玄関の血も恐らくは母さんのもの。この部屋にもあちこちに血が付いているから、きっと母は体を引き裂かれながらもすぐには殺されなかったのだろう。一思いには殺さず、逃げる相手を傷付け、また逃げては傷付け、そうやって最後飽きてきた頃に仕上げとばかりに殺した――そんな想像したくもない光景がありありと眼底に浮かんでくるほどに、それは分かりやすく残酷な血跡であった。
「……そっか、母さんもダメだったのね。残念」
頭で思ったことが声に出ていた。
更に秦はブツブツと文としては聞き取ることも出来ない雑音を呟き続ける。
なんで、なんで、分からない、どうして、こんなことに、悪いのは、誰のせい、赤い、血が、辛い、悲しい、許さない、殺したい、復讐、ネバネバとした、もう会えない、もう見えない、暗い、眠い、怖い、笑顔、思い出、不幸、天罰、人殺し、欠損、真っ赤な、なにかブヨブヨした――そう無表情のまま無感動な口調で淡々と。
「――――――明希ッ!!」
そこで急に我に返り、秦は弾け飛ぶように再びリビングから玄関へと飛び出す。
そうだまだ明希がいる。明希なら助けられるかもしれない。これで家族がみんないなくなったわけじゃないのだ。そうだ、まだ大丈夫だ、大丈夫大丈夫大丈夫!
「明希、出ておいで。私よ、アンタのお姉ちゃんの秦漢華。もう怖い人なんてどこにもいないから、いたとしても私がいるんだから安心でしょ。ほらほら、もう大丈夫だから早く出て来て頂戴」
秦の声が虚しく廊下に響く。しかし、しばらく待っても返事は返ってこなかった。
「もぉ、明希。いつまで隠れてんの……いい加減出てこないと怒るわよ。ほら、早くお姉ちゃんに顔見せなさいったら」
廊下から更に進んだ先にある部屋、そこにあったクローゼットの中を覗き込んでみる。
「ここかしら?」
ハズレだった。残念。
次は箪笥……と、こっちもハズレ、残念。
あー、お風呂場にもいないし、トイレにもいない……残念残念。ってダメダメ、自分はお姉ちゃんなんだから、早く明希のことを見つけてあげないと。
「明希……ちょっと本当どこ隠れちゃったのよ」
「ねえ、全然見つからないのだけど……もう私の負けでいいから隠れんぼはやめにしない……?」
「ねえ……明希……」
だが、秦漢華はそんな馬鹿な人間ではない。
だから、そんな自分に都合が良いだけの妄言を信じ込んで、現実から目をそらし続けられるほど愚かにはなれない。
「お願い……もう、分かっているから。私が悪いっていうのは、心の底から分かっているから」
先程までの不自然に明るい声からは一転、今にも泣き出してしまいそうな、嗚咽混じりの悲しい声であった。
「だから、お願いだから妹だけは奪わないでッ!!」
叫ぶと同時に、足下でびちゃりと湿っぽい音がした。
仄かに生暖かく、どこか粘り気のある赤い液体。そこに広がる血溜まりの中に、秦は打ち捨てられている何かの存在を認めた。
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