第九十九話『赤い夜』其の三


「ああっ……!!」


 それは右手であった。

 明らかに父のものでも母のものでもない、それでいて強く握ればただそれだけで折れてしまいそうな、小さな小さな幼子の手だけがそこにはあった。

 恐らくは手首の辺りで雑に引き千切られたのだろう。断面は酷く歪で、それだけでこの手の持ち主がどれだけの苦痛を受けたかは想像に難くない。


「……うぅ、ぎぐ、ぇんギッ……!!」


 頭の中が真っ白になる。

 濃厚な怒りと悲しみと憎しみが同時に押し寄せ、それでも一番強く彼女の心を犯したのはどうしようもない後悔の気持ちであった。

 この凶行を成した相手が何者かは分からない。それでも、家族が襲われた原因がどこにあるかは分かる。

 自分だ、秦漢華だ。

 秦漢華の両親で、あるいは妹だから、それだけの理由で皆は殺されたのだ。それ以外にこんな善良な一般人が襲われ殺される理由なんてどこにもない。


 死んでおくべきだった。

 こんなことになる前にさっさと自殺でもしておくべきだった!

 何故自分は今日まで生にしがみついてしまったのか。そのせいで家族が、秦漢華にとって一番大切な人たちが殺された。

 身を焦がすほどの後悔が少女の精神を打ち据える。一度だけでいい、もう一度だけでいいからチャンスが欲しい。時間を戻してやり直させて欲しい。もしそれが許されるならば、すぐにでも命を絶つから。こんな生きる価値のない女は、ちゃんと罰を受けて死んだことになるから。だから――――、


「お帰りお姉ちゃん」


 ただでさえ震えていた秦の体がビクリと跳ねる。

 お姉ちゃん、そう言いつつも明らかに明希の声ではない。ただ聞くだけで背中を虫が這いずるような最悪の気分にさせられる、不快の権化とも言うべき若い男の声であった。

 秦漢華は知っている。この声の持ち主を知っている。例え直接顔を合わせたことはなくとも、テレビの画面越しにその姿を視認したことはある。

 そして、何より――――、


「お前が欲しかったのはそんな言葉か?」


 廊下の向こうから現れた亜麻色の髪の男――草壁蟻間くさかべありまと秦漢華は、身の毛もよだつおぞましい縁によって結ばれているのだから。


「あはは……」


 その姿を一目見て、秦漢華の人格は崩壊した。

 元から有していた性格なんて丸ごと吹き飛んだ。

 人殺しを忌避する、人間として最低限の倫理さえ消し飛んだ。


「ああ、あがあああ、あああああアアアアアッ!!」


 心ではなく本能であった。目の前の男だけは絶対に許せない、絶対に殺さねばならないと、秦漢華の全身全霊がどうしようもなく猛り狂ったのだ。


「『四翼の攻ケルビムアーツツッ!!!!!!!』」


 その身に宿りし因子はウリエル。

 神の炎の名を冠し、南と地を司り、エデンの門を守る者であり、神の冒涜者を裁く者でもある懺悔の天使。

 手加減などという概念は初めから持ち合わせていなかった。

 身を守るための『盾』と『鎧』を放棄し、仮初めの体を象る『天骸アストラ』すら翼に転化した、殲滅と殺戮のみを目的とする超攻撃特化殲戮形態。それは先日弾数千の座標爆撃でアジ・ダハーカを消し炭にしてみせたほどの強大な力。この正真正銘『神の炎ウリエルアーツ』の全身全霊を以って、目の前の大悪魔だけはこの手で葬り去ってみせる!


「ううッ、あああ、がアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」


 秦の有するただでさえ膨大な『天骸』が更にその勢いを増す。彼女の背より生える四本の炎の翼は、一本一本が十メートルはくだらなく――いや更に肥大化する。十五メートル、そして遂には二十メートルの大台にと到達した。

 あまりにも巨大で高火力の翼は家の壁を容易に突き破り、沸騰直前の水面の如く危うく揺蕩う。見るものが見ればそれだけで気を失うであろう絶対的な破壊力、絶望的な蹂躙力。そして今この力を振るうことを、秦漢華は一切理性で抑えることは出来ない。否、抑えようとすることすらしない。


「消え、失せろ――――――――――――ッ!!」


 然して、秦は炎の四翼を凄まじい勢いで目の前の悪魔目掛けて叩きつける。それだけで豪邸が丸々消し飛ぶほどの大爆発が生じ、荒れ狂う光と熱と炎とが目の前の全てを洪水のように押し流す。


 塵も残らないはずだった。草壁蟻間はその細胞を一つ残らず焼かれ、この世界から完全に消失するはずであった。


「……な、なんで」


 だが、そうはならなかった。

 今にも消え入りそうな少女の声が虚しく響く。


 背後の玄関を除く、秦邸のほとんどは灰燼と化したにも関わらず、それでも草壁蟻間は五体満足でそこに立っていた。

 体が焼き尽くされるどころか火傷すらしていない。精々服の一部が煤で汚れた程度である。


「何だその意外そうな表情は。何故お前の炎で俺が焼かれないのか、その理由がまだ理解出来ないのか?」


 草壁蟻間は下卑た笑みを浮かべながら、挑発的な口調で更に続ける。


「神の冒涜者を裁く懺悔の大天使ウリエル。嗚呼、実に御大層な肩書きだ。罪人を裁く権限が与えられている以上、その因子を宿した女もさぞかし清廉潔白な聖人君子であるのだろうな」


 ポケットに手を入れたまま、悪魔はゆっくりと秦に接近する。そして最後にチンピラがメンチを切るかのように、少女の顔を至近距離で覗き込む。


「だが、そもそも裁かれるべき罪人はお前の方だろ。そんな女が裁きの炎を振るうなど片腹痛いにも程がある」

「――――――――ッ!!」


 その鋭い言葉から、本能が危機を察知した。背中を這いずる死の予感。少女はマズいと思って反射的に後ろに下がろうとする。

 しかし、そう思ったときには既に手遅れであった。


暴発と安定エステラーネ


 草壁は言葉を紡ぐ。

 本当にただ言葉を紡いだだけだ。

 しかし、それだけで何故か秦の宿す『天骸』が滅茶苦茶な流れで体の中を暴れ回り始める。


 それはまるで錆び切った鉄の棒が、その一番脆いところから自然にへし折れたかのようであった。

 行き場を失った膨大な『天骸』は最終的に少女の右肩へと集約され、そしてパァンという呆気ない音と共に右腕が丸ごと弾け飛ぶ。

 今の秦は天使体をまとっているわけではない。これは正真正銘の自分の体、一度失った肉体は常人同様二度と戻ることはない。


 欠損に対する絶望、そしてたかが十六の子供が耐えられる筈もない、文字通り身を焦がす程の激痛。それらは彼女を絶叫させるに充分すぎる衝撃であった。


「ん、ぐああああああああああああああああッ!!」


「ハハハ、確かに暴力は万能足り得るが、あまり強すぎるというのも悩みどころだな。歩行中に転んでも膝を擦りむく程度で済むだろうが、高速鉄道から放り出されれば、それだけで肉が弾けて人は死ぬ」


 草壁蟻間は傷口を抑えてうずくまる秦を愉快そうに一瞥し、


「『破壊と創造パス・ウィーブ』」


 『破壊』の概念を付与した蹴撃をもって、秦の腹部を力任せに蹴り上げる。

 今の彼女には『盾』がなければ『鎧』もない。そもそも天使体ですらないのだから、その体の強度はそこらの女子高生よりは多少マシな程度でしかない。

 そんな脆い肉体に、異能者の肉弾が、そして『破壊』の概念が直接捩じ込まれる。


 悲鳴すらあげられなかった。

 口からドポリと大量の血を吐く。いや、更には目から鼻から、体にあるありとあらゆる穴という穴から噴血した。

 今の攻撃で体の中がどうなってしまったかは分からない。ともすれば内蔵の一つや二つ潰れてしまったかもしれない。


 ――――これはダメッ、本当にまずいッ……!!


 途端にクラリと視界は揺れ、そして段々と狭まっていく。手足の感覚が曖昧になり、それでも残った体だけが酷く重く感じられる。


 このまま気を失ってはいけない。それではこの大悪魔を打ち倒することが出来なってしまう。しかし、そういくら願っても最早気力だけではどうにもならないところまで来てしまった。


 ――――カ、セイくん…………。


 そのまま少女の世界は暗転する。

 されど、終わるはずがない。ありとあらゆる悪の権化、絶対悪である草壁蟻間がこの程度で済ませてくれるはずがない。


「精々最後の安寧を貪れよ秦漢華。次に目を覚ました時には、もっと愉しい良い思いをさせてやる」


 肉体への苦痛だけなど生温いにも程がある。

 肉体も精神も、この女の全てを冒涜して蹂躙してやる。この草壁蟻間はかのアンラ=マンユから絶対悪の地位を継承したのだから、その格に見合うだけの悪性を披露してやらねばならない。


 そうして、亜麻色の男は少女の鮮やかな紅髪を乱暴に掴み上げ、そのままその場所から姿を消した。

 

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