第九十九話『赤い夜』其の一
これで良かったのだ。きっとこれが正しい選択だったのだ。
雨の降りしきる中を少女は進む。水溜りを踏んづけようが御構い無し、一秒でも早く彼の元から距離を取ろうと、休みなく両足を前後する。
途中で何度も足を止めたくなった。幾度となく後ろを振り返りそうになった。けれども、それだけは絶対に許されないことだと分かっていたから、いくら後ろ髪を引かれようとも、決して少女は立ち止まらなかった。
耐えて、歩いて、進んで、そのうち気付けば駆け出していて。バシャバシャと音を立てながら、まるで何かから逃げるかのように走り続けて。
そうしてしばらく駆けた後、息が辛くなって思わず立ち止まる。荒い呼吸を吐きながら、そこでついに彼女は後ろを振り返ってしまう。
「はぁ……はぁ……」
だけども、誰もいなかった。
この世界にいるありとあらゆる人間の中で、唯一秦漢華を救うことが出来るかもしれない彼女だけのヒーロー――
ただそれだけのことなのに、そもそも自分でそうなるように仕向けたくせに、秦はまるで親に見捨てられた幼子のような気分になってしまう。思わずこめかみの辺りに力が籠る。だが、それで安心したのもまた事実であった。
これでもう秦漢華が樋田可成に縋ることは絶対にない。
そもそも二度と会うこともないのだから、そんなことはやりたくても出来なくなった。きっと、はじめからこうしていれば良かったのだ。
思えばはじめて学園で彼を見かけたとき、何故あんな風に声をかけてしまったのか。秦が自ら関わろうとしなければ、向こうはこちらを認識することすらなかっただろうに。
だから、やはりあれは甘えだったのだろう。無意識のうちに甘えて、縋ろうとしていたのだろう。
かつて秦漢華を救ってくれた彼ならば、今の自分のことも救ってくれるかもしれないと、そんな自分勝手で一方的な期待と責任を押し付けて。
彼は嫌だっただろう。こんな女にしつこく付きまとわれて。
彼は迷惑に思っただろう。こんな女のために身に覚えのない義務感を背負わされて。
だから、ここで終わりにする。
例えこれまでの過去をなかったことにすることは出来なくとも、これからするかもしれなかった恥の上塗りを回避することぐらいは出来る。
もう彼には頼らない。もう誰の力も借りはしない。
元から身から出た錆なのだ。ならば、その罪と責任は秦漢華一人で背負わなくてはならない。その覚悟をより確実なものとするため、少女は――
「……じゃあね、可成くん」
この世界にヒーローなんていない。少なくとも秦漢華を助けてくれる英雄だけはいない。
だって正義の味方は良い人を、これまで罪なく日常を送り続けた常善の人々を救うものだから。例え外面だけは善人を装っていようとも、皮一枚隔てた下はドス黒い、そんな最低な人間が彼に救われていいはずがないのだ。
「……助けてなんて、言えるわけないじゃない」
感情が昂り、そのまま少女は膝をついて泣き崩れる。
もういいだろう。別に今ぐらいいいだろう。もう彼はいないのだ。ここで秦漢華が泣いていたって、それで樋田可成が気付くことは決してありえないのだから。
♢
たとえどんなに悲しくとも、たとえどんなに辛くとも、いつまでも外で雨水に晒され続けるわけにはいかない。
「……誰かは居るわよね。今日日曜だし」
正直今は誰とも会いたくない気分であった。だが、家に帰れば家族がいる。きっと彼等はずぶ濡れになって帰ってきた自分を、一体何があったのかと心配して問い質してくるだろう。
それは嬉しいのだけど、まだこんな自分を気にしてくれる人がいるというのは途轍もなく幸せなことなのだけど、それでも今の秦はとかく一人になりたかった。
家に帰ったらとりあえずシャワーだけ浴びて、さっさと自室に閉じこもろう。それでこれから先のことは――――いや、きっと今の頭では考えられない。その後でも果たして分かるかどうか。
何しろ自分はもう同じ問答を二ヶ月は行い続け、それでも未だ結局なんの答えも出せてはいないのだから。
それでもとにかく行動に移そうと、秦はそこで思考を打ち切り、車庫から程近い玄関へと向かう。そしてドアを開けるためにポケットから鍵を取り出そうとして――――しかし、彼女はそこで鍵を取り落としてしまう。手が滑ったわけではない。強いて言うならば、あまりの衝撃に自然とそうなった。そこで彼女はようやく、今この家で起きている特大の異常に気付いたのだ。
「――――――――父さん?」
背中が、凍り付く。
血液が、凝結する。
まるで後頭部をいきなり殴られたような衝撃が、全身を一気に走り抜ける。
目を見開き、口も開き、数秒の間身動きの一つすらも取ることが出来なかった。
これは何だろう? 何故? どうしてこうなった? 分からない分からない分からない――――両瞳は目の前の光景をしっかりと捉えているはずなのに、まるで少女の未熟な心がその事実を受け入れることを拒絶しているかのようであった。
「父さんッ……!!」
それでも現実はやがて認識に浸透する。
少女がそこで見たのは、五寸釘のようなもので家の壁に打ち付けられた――――自分の父、
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