第五十六話 『砕けた仮面』


「ふーん、思ったより呆気なかったですね」

「畜生……テメェ一体どこからッ……!?」


 口元からドボドボと血を零しながら、樋田は苦悶の表情で背後の少女の姿を睨む。


 刺された。

 松下に刺された。

 知らぬ間に背中から鳩尾を一突きにされた。


 しかし、それ自体は別に大したことではない。

 確かに普通の人間ならば命に関わる致命傷であるが、樋田の持つ『燭陰ヂュインの瞳』の時間遡行能力をもってすれば、ありとあらゆる負傷はすぐさまノーリスクで無かったことに出来る。


 だから、むしろ問題なのは実際に自分の体へ刃を突き立てられるまで、一切松下の接近に気付けなかったことの方であった。

 無駄な音は勿論のこと、気配や殺気すらもほぼ完璧に隠匿しきった無音殺傷法サイレントキリング――――いや、これはきっとそんな生易しい代物ではない。


 第一聖創『虚空こくう』。

 先程の樋田が予想した通り、それは線を介した高速移動ではなく、点と点の間の無時間転移――――俗に言う瞬間移動テレポーテーションを可能とする強力な術式だ。

 そのうえ松下は更に『我が神は主なりエリヤ』の力で自らから発生する凡ゆる音や振動を搔き消すことで、この回避不能かつ防御不能な暗殺術を実現させているのである。


「……この野郎、いい加減離れやがれえええええッ!!」


 しかし、これまでの戦いで致命傷に慣れまくった樋田は、最早たかが胸を串刺しにされたくらいで怯むような男ではない。

 彼はそこで体を貫かれたまま、鉄管を背後に向けて力強く振るった。対する松下はこれを真正面から堂々と受け止めようとするが、続けて得物の上から重ねるように放たれた樋田の蹴撃に、彼女は思わずバランスを崩してしまう。


「おっとッ……!!」

「ゲヒャッ、甘ェぞど素人オオオオオオオオオオオオッ!!」


 こここそが絶好の打ち込みどころだと、樋田はそのまま躊躇なく鉄管を叩きつけるように振り下ろす――――が、既にそこに松下希子の姿はない。

 彼女は樋田の鉄管が自身の頭蓋を捉えようとした正にその直前、再び先程の瞬間移動能力をもって何処へと消え失せてしまったのである。


「……チッ、ちょこまかしやがって。面倒な野郎だ」


 樋田はそこで鳩尾に開いた風穴をいつも通り『燭陰の瞳』で塞ぎつつ、ひとまずは今の打ち合いで松下から受けた印象を整理する。


 まずはじめに語弊を憚らずに言うと――あくまでチャンバラに限った話ではあるが――松下の戦闘能力はどっからどう見ても三流だ。


 確かに天使化によって身体能力やら腕力やらはかなり底上げされているようだが、彼女も所詮はろくに喧嘩をしたこともないただの女子中学生に過ぎない。

 体捌きに関しては完全な素人のそれであったし、そのうえ一撃一撃を繰り出すたびにどこか迷いがあるように感じられた。それは明らかに彼女が人体の壊し方を知らず、それどころか人を傷つけることにすら慣れていない人間であることへの証左である。


 ――――なるほど。だから、アイツはこんなクソダサいチキン戦法ばっか仕掛けてくんのか。


 瞬間移動を用いた強襲からの即時離脱を基本としたアサシネーション。センスと経験がものを言う打ち合いを避けたいならば、確かにこの戦法が最善であるに違いない。


「……だが、態々テメェの間合いに入って来てくれんなら都合がいい。次は必ずとっ捕まえてやる」


 そうして樋田は通路の中央から移動し、傍の壁に背中をぴったりと密着させる。

 確かに若干身動きが取り辛いきらいはあるが、こうすれば背後の死角を突かれる危険はほぼなくなるだろう。


 しかし、そうは言ってもいつ敵が現れるのかも分からないこの現状は、正直精神をかなり削られる。

 ドクドクという激しい胸の鼓動が、背後の壁を伝うようにして、瞬く間に全身の中を駆けずり回る。それは例えるならば、耳のすぐ隣に新たな心臓が出来たのかと思ってしまうほどで、





 その瞬間、唐突に足元から生じた松下の声に、樋田の心臓がビクリと大きく跳ねる。

 彼は半ば引き寄せられるようにそちらへと視線をやる――――が、そこに松下の姿はない。あえて無理にその状況を説明するならば、何もないはずの虚空から何故か彼女の声が聞こえてくるのである。


 ――――やっべ、コイツは音使いだったッ……!!


 先程松下がベラベラと喋っていたときの内容が頭をよぎる。

 確かに自在に音を操ることが出来ると言うならば、任意の座標から自分の声を発生させる程度のことは造作もないだろう。

 恐らくこの声は樋田の意識を下に向けさせるための囮。然からば本物は当然その反対方向――――即ち上空から少年に襲いかかり、得物を持つ右腕を呆気なく斬り飛ばした。


「あははッ、予想通りッ!! 面白れえくらいに引っかかってくれますねぇ……先輩ッ!!」


「てんめえッ……!!」


 腕を斬り落とされる激痛は正に想像を絶するものだ。

 しかし、それでも樋田は意味なく痛みを嘆くことよりも、今この瞬間の危機に対処する方を優先した。

 生き残った左腕を岩のように固く握り締め、素早く背後を振り返る。そしてその勢いに更に体重を上乗せし、彼の拳は弾丸の如き鋭さをもって松下の側頭部を喰らわんとする。



「『踊り狂う音劇波ワルツァーヘルツ』」



 しかし、樋田のその一撃は松下の体に触れることすらも叶わなかった。


 彼女は迫り来る拳を防ぐどころか避けようともせず、まるで柏手でも打つかのようにパンと両手を合わせる。直後、少女の小さな体の全方向から殴りつけるような衝撃波が飛び出した。

 その正体は手を叩いた際に生じた快音を、『我が主は神なり』によって爆発的に増幅させた一種のソニックブーム。その暴風じみた勢いに樋田の拳は呆気なく弾かれ、またその体も大きく吹き飛ばされる。


「……畜生ッ、どうなったッ!!」


 そうして彼が再び起き上がったときには、既に彼女は再び瞬間移動で虚空の中へと消えていた。

 樋田はその隙に『燭陰の瞳』で斬られた右腕を再び繋ぎ合わせる。それで受けた傷は完全に再生したのであるが、しかしそれでも彼の背中は未だに恐怖による嫌な汗を流し続けていた。


「やべえな。これじゃほとんどハメ技じゃねえか……」


 そんな樋田の悪い直感は、今の彼の状況を残酷なほど正確に言い表していた。


 前述の無音殺傷法だけでも対応するのは困難だというのに、先程のように偽の声でフェイントをかけられては、最早死角からの奇襲を防ぐのはほぼ不可能。加えて、刃を体で受けてからのカウンターを狙ったところで、こちらの攻撃は全てあの衝撃波に防がれてしまう――――、


「はい隙だらけ。先輩そんなに早く死にたいんですか?」

「……ッ!!!!」


 そんなことを考えているうちにも、右からの松下の呼びかけと同時に、左の脇腹が双剣の一閃によって中の内臓ごとごっそりと抉られる。それでも樋田は痛みをなんとか抑えつけ反撃に打ってでるが、その一撃は此度もソニックブームの嵐に阻まれてしまう。


 ――――畜生、このままじゃッ……!!


 然して、樋田の悪い予想は残酷なまでに命中することとなった。

 そこから彼はもう松下に一切の反撃を行うことは出来なくなり、はじめ対等な削り合いであったはずの戦闘はただのワンサイドゲームと化した。


 例えいくら樋田が周囲を警戒したところで、最早その無音殺傷法に対応することは不可能。

 腹を裂かれ、腕を切り飛ばされ、肩口を大きく抉られて。なんとかギリギリのところで即死だけは避けているが、樋田の体には次々と致命傷が刻まれていき、それを『燭陰の瞳』で治すたびに貴重な『天骸アストラ』がごっそりと削られていく。


 これでは完全に消耗戦だ。

 このまま何か打開策を思いつくことが出来なければ、最悪簒奪王から奪い取った莫大な『天骸』すらも使い切ってしまうだろう。

 それだけはどうにかして避けねばならない。しかし絶え間なく体に刻まれる致命傷の数々は、更に樋田から挽回の一手を思いつくべき正常な思考能力を奪っていく。



「オイ、カセイッ!! 無事かッ!?」



 しかし、そこで天から蜘蛛の糸が垂らされた。


 樋田の背後に続く通路の先、L字状になった曲がり角の向こうから、突如聞き慣れた少女の声が聞こえて来たのである。


 間違いないあの声は晴のものだ。


 詳しい状況は分からないが、恐らく彼女は秦の追撃を見事に振り切り、ここまで樋田を助けに来てくれたのだろう。そう確信した瞬間、少年の体は急に軽くなり、なんとか助かったと胸の奥から熱いものが込み上げて来る。


「ああ、大丈夫だ晴ッ!! 俺はまだ死んじゃいねえッ……!!」


 いくら体自体は完璧に再生しているとはいえ、耐え難い激痛による精神への悪影響は計り知れない。

 そのせいか樋田はまるで病人のように弱り切っていたが、自らの相棒の声が、その存在こそが、既に膝をつきかけていた彼の気力を再び燃え上がらせる。

 今は一秒でも早く晴と合流するべきだ。そうすればまだこのクソッタレな戦況を挽回出来るかもしれない。

 樋田はそう信じて、まるで晴に縋るかのように必死に声の方を目指して走っていく。そうして彼は今正に彼女の声が近くから聞こえてくる曲がり角を左に曲がり――――、



「よくやったなカセイ。よくぞこのワタシが駆けつけるまで耐えてみせた……って確かこんな感じでしたよねセ・ン・パ・イ☆」



 そこには晴と全く同じ声で口を聞く松下希子の姿があった。


「は?」


 一瞬生まれかけた希望は呆気なく霧散し、樋田の身を取り巻く状況は再び苛烈で無慈悲な地獄へと一変する。

 しかし松下は樋田に動揺を整理する時間すらも与えてはくれなかった。彼女の双剣は真っ直ぐに樋田の首元を貫き、避けた大動脈から噴水のように鮮血が吹き出る。

 彼はギリギリ皮一枚で繋がった首を即座に繋ぎ合わせると、懲りもせず彼は松下に掴みかかるが、対する彼女は樋田の手をうまく躱し、ついでにその肩を浅く切り裂いてみせる。

 そして松下は此度も仕留め損なったことを理解すると、そのまますぐにバックステップで距離を取った。思わず肩を抑えてうずくまる樋田を尻目に、彼女はどこかだるそうにポリポリと頭をかきながら言う。


「あ〜あ、理屈はよく分からねえですけど、本当めんどくせえ異能ですね……それ。殺しても殺しても再生するとかマジでチートじゃねえですか。まあ、術式使うのに必要な『天骸』に限度がある以上、完璧に不死身ってワケでもねえとは思うんですが……」


 しかし、そこで松下は不自然に一度言葉を切ると、


「――――まあいいか。死ぬまで殺せば」


 そうして再び虚空の中へと消失した。


「チッ、あの野郎性格陰湿すぎだろッ」


 しかし、此度の樋田はこれまでのように周囲を警戒しようとはしない。彼はここでようやく松下に一杯喰わせるための作戦を思いついたのである。


「……ぶっちゃけあんまやりたかねぇが、背に腹は変えられねえッ!!」


 そうして樋田は先程松下が消えた場所のすぐ前に立つと、そこで頭上高く鉄管を振り上げる。


「――――観測、完了」


 続いて少年の左目より、どこか白濁した不気味な光が溢れる。

 『燭陰の瞳』は時を操る魔眼であると同時に、時を観る観測器官でもある。現在彼の左目は今から五秒前の世界、この場から瞬間移動で消失する前の松下の姿をはっきりと捕捉している。

 ならばあとは異能の力をもって過去を今現在の時間軸へと引きずり出すのみ――――然して彼は『燭陰の瞳』の時間遡行能力を発動させ、松下の時間対座標を今から五秒前へと巻き戻した。



「……なっ――――どうしてッ!!」



 作戦はうまくいった。

 樋田がその場で鉄パイプを振り下ろせば、確実に頭蓋骨を叩き割れるリーチに、松下希子の姿が再出現する。

 あまりにも突然のことに、思わず呆然となる彼女と瞳が合う。しかし、樋田はそのまま躊躇なく、少女の顔面に鉄管の一撃を叩き込んだ。


「ギッ、ぐっ……!!」


 確かな手応え。いくら天使化による身体能力強化の恩恵を得ていたとしても、やはり松下も元は小柄で華奢なただの女学生に過ぎない。

 樋田の容赦ない一撃を真っ当に浴び、彼女の体は冗談抜きで軽く五メートルは横に吹っ飛ばされた。額は砕け、頭蓋骨は僅かに陥没し、その美しい銀髪の合間からまるで霧のように鮮血が吹き出す。


「『踊り狂う音劇波』ッ……!!」


 そのまま樋田は更に追撃を仕掛けようとするが、松下が吹き飛ばされながらに放ったソニックブームに行く手を阻まれてしまう。

 そこでようやく床に叩きつけられた少女は、すぐさま地を蹴ることで体の勢いを殺し、素早くその場に立ち上がる。されど、やはり先程の一撃は大きかったのか、彼女の上半身にほとんど力はこもっておらず、下半身もなんだかフラフラと心許ない。


「ハハッ、どうだ。今のでちったあ頭は冷えたかよ」

「……」


 しかし、松下はそんな樋田の挑発など気にも留めず、頭からの出血を拭うこともせず、ただ驚いた瞳でこちらを見る。

 そんな彼女の異常な反応に少年がどこか不気味なものを覚えたその直後、松下希子は突然何かに気付いたと言わんばかりにこちらの右肩を指差した。


「……


「はあ?」


「その傷なんで治さないんですが? 細かい理屈は分かりませんが、先輩は何か治癒能力のような術式を有しているはずですよね?」


「……チッ、これは」


 松下の指摘に樋田は慌てて肩の傷を抑える。しかし対する彼女はその反応こそが予想の確信となった言わんばかりに、ニヤリと口元を歪めて続ける。


「先輩がその傷を治さない理由。それは治さないのではなく治せないから……いや、違いますね。じゃあ、致命傷ならともかくその程度の傷を治すには、術式使用時のリスクの方が勝ってしまうから……ふふっ、なるほど。どうやら正解はこちらのようですね」


 直後、樋田は驚愕と不気味な悪寒に体をブルリと震わせる。

 何故だ、何故バレた。肩の切り傷を治療していないことに気付いたのは、まだ洞察力が高いのだと説明すれば理解は出来る。だがしかし、何故この少女は次の二択をこうもあっさりと絞り込むことが出来たのだろう。

 確かに樋田はもう彼女の前で何度も『燭陰の瞳』を使用しているが、そこまで多くの判断材料はばら撒いてはいないはずなのに。


「テメェ、どんな手品を使った……?」


 しかし、松下はそうして歯噛みする樋田を嘲笑うかのように、意気揚々と自慢の推理ショーを続行する。


「はははッ、大丈夫ですよ大丈夫。もうちょっとしたらちゃんと先輩にも教えてあげますから。さて、次は具体的にその術式のリスクとやらが一体何なのか教えてもらいましょう……そうですね。じゃあその術式を使うと体に何かしらの悪影響が生じる? ……じゃないですね。なら『天骸』の消費量が大きすぎる? ……も、そうだけど理由としては二の次。なら、一度術式を発動させると、次の発動までにインターバルが存在するから――――」


 インターバルが存在する。

 松下がそう口にした正にその直後、彼女は合点がいったとばかりこちらを人差し指で差すと、



「あははッ、跳ねましたッ!! 今ドクリと跳ねましたよね先輩のッ!! 」



 そう言って愉快そうにゲラゲラと笑い出したのである。


 しまった。しかし、これはどうしようもない。

 恐らくこの少女はその異常聴覚をもって樋田の心臓の鼓動の変化を聞き分けた――――即ち、当てずっぽうで並べた仮説のうち、樋田がどれに反応するかを探っていたのであろう。


 これはマズイことになってしまった。

 ただでさえこちらの方があらゆる面で不利だというのに、これ以上コイツに情報を与えてしまっては本格的に反撃が難しくなってしまう。


「はははッ、分かりましたよ。先輩のその魔眼の弱点ッ!! 術式の発動にインターバルがあるってことは、つまりその力を使った直後に付けられた傷は再生出来ないってことですよねッ!? よーし、それならこれはどうですかッ!?」


 松下はそう言って、通路の隅に飾られていた至極大きな花瓶を掴むと、これを思い切り宙高くへと放り投げた。続いて彼女がパンと手を叩くと、虚空より生じたソニックブームが花瓶を粉々に粉砕する。


 しかし、当然そこで彼女の目的は終わりではない。


 花瓶を砕いた超高圧のソニックブームは、宙を舞う花瓶の破片と中の水とを包み込むように取り囲み、それらを更なる圧力をもって瞬く間に握りこぶしサイズにまで圧縮していく。


「『濡れ湿るワルツァーヘルツ――――」


 その明らかな大技の気配に、樋田は慌てて松下から距離を取ろうとする。しかし、最早全てが手遅れであった。松下が今正に放たんとする一撃は、既に少年の姿をその射程に捉えている。

 そして次の瞬間、水と破片の圧縮体を包み込む圧力の壁に、ひび割れるように僅かな亀裂が生じ、



「――――水劇波イグラシア』」



 直後、極小の陶片を内包する高圧水流が、ウォーターカッターの要領で勢いよく噴出された。

 その射出速度はどれだけ少なく見積もっても、軽くマッハ2は超えている。まさか本来近接暗殺術を得意とする松下が、このような飛び道具を使ってくることを、樋田が想像できるはずもなく――――、



「あっ」



 ズバリと、超音速の水刃によって、少年の体は呆気なく腰のあたりで上下に分断された。そのまま少年の上半身はその鮮やかな切り口に沿い、ズルリと下半身の上から滑り落ちようとする。


 だがしかし、樋田可成はそれぐらいの致命傷でへばるような男ではない。


 彼は激痛と出血多量で今にも書き消えそうな意識をなんとか奮い立たせ、いつものように『燭陰の瞳』の時間遡行能力で二つに裂かれた体を即座に繋ぎ合わせる。


 しかし、そうして図らずも『燭陰の瞳』の利便性に頼ってしまったのが、彼の運の尽きであった。



「あははッ、今使いましたよねえええッ!?」



 樋田が身体を再生させたその直後、松下はいつのまにか彼のすぐ目前にまで迫っていた。銀髪の天使はそうして突進の速度に勢いを任せるがまま、少年とのすれ違いざまに双剣を振るう。


「ぐがあああああああああああああああッ!!」


 雑ながらも素早い動きでたちまちに切り裂かれたのは、右肩と左足と右脇腹の三箇所。それぞれの傷口をドロリと鮮血が濡らし、えも言われぬ激痛と出血による脱力感が同時に少年の体を襲う。


 ギリギリのところで急所を守り切れたのは幸いであるが、これらの傷も間違いなく重傷だ。しかも松下の狙い通り、この傷はこれまでのように『燭陰の瞳』で治すことは出来ない。


 ――――畜生、コイツ動きはド素人だが馬鹿じゃねえッ……!!


 今までなんとか無傷でやり過ごしてきた樋田であるが、これで遂に明確なダメージを受けてしまった。しかも、この出血量を見るに、どうやら二日前に鷲獅子に付けられた傷が開いてしまったようである。

 正直言ってかなりマズイ状況だ。欲を言うならばもう少し戦いを有利に進めてからに持ち込みたかったのだが、ここが樋田の体力的にも話を切り出すタイミングとしても限界であろう。


「畜生ッ、容赦ねえな……血出過ぎて頭がおかしくなりそうだぜ……」


「そりゃあこちらも殺すつもりでやっていますからね。先輩が無駄な抵抗をやめれば、すぐに楽にしてあげられるんですが」


 あいも変わらず松下希子は呆気からんに言う。

 しかし、樋田はその無機質な瞳の下に隠されたを見逃しはしない。


「ハッ、無駄な抵抗上等。例えいくらこの体を八つ裂きにされようが、テメェを人殺しなんかにしちまうよりかはよっぽどマシだっつーの……」


「……フンッ、何を寝ぼけたことを。余計な心配はいりません。私は紗織を救うためなら、人殺しぐらい仕方ないことだって割り切れますから」


「ハッ、そうかよ。そいつぁいい性格してやがんな」


 樋田の体はもうボロボロだ。

 皮膚を破かれ、肉を裂かれ、やけに熱かった傷口も今度は不気味なくらいに冷たくなっている。


 だが、それでも彼の瞳からまだ光は消えていない。

 綾媛学園の走狗たる松下希子を倒すのではなく、袋小路に追いやられ、道を踏み外してしまった一人のか弱い少女を救い出す。

 そんな誰もが完璧に救われる最高のハッピーエンドを、樋田可成はまだ諦めていないのだ。



「じゃあ、そのはなんなんだよ……?」



 だから、彼はそう指摘する。


「……なんの話ですか」


「だーから、寝ぼけてんのはテメェの方だっつってんだよ。何が割り切れるだ。ふざけたこと抜かしやがって。人を殺してもなんとも思わねえような畜生が、ちょっと人を傷付けたくらいでそんな顔になるわけがねぇだろうがよ……」


「チッ、知ったような口をきかないでくれますかね……!! 私はそんな――――――――」


 そんな樋田のごもっともな指摘に、松下は慌てて手で顔を覆い、続いて傍の窓に反射する自分の姿を横目でチラリと見る。


「えっ……嘘ッ。これが……」


 そこで彼女は初めて、今自分がどのような顔をしてるかを知ったのだろう。


 窓枠の中に写る少女の姿はまるで末期の病人か、それとも心を修復不可能なまでに破壊された廃人のようであった。

 大きな瞳はまるで骸骨のように落ち窪み、ただでさえ白い肌は最早白を通り越して土気色になっている。

 そして何より異常なのは体の震えだ。樋田の鮮血がたっぷりと付着している両腕を中心に、異常な寒気がその全身を隈なく犯しつくしていた。


「……違う、嘘です。そんなはずは」


「嘘じゃねえさ」


「私はそんなに弱くない、私はそんなに甘い人間じゃありませんッ!! 私は紗織を助けるためなら、彼女の笑顔を守るためならばッ……、人殺しだってなんだって平気な顔で出来るんですよッ!!」


「んなわけねえだろッ!! いくら表面だけ悪ぶって見せたところで、テメェの根っからの本性まで変えることは出来やしねぇさ」


 そこで、樋田は一度言葉を切り、改めて松下の瞳を真っ直ぐと見つめ直す。


「目え覚ませ松下。確かにテメェは弱くねえ。だがな、それはそこでまだ一線越えるのを踏み止まれる心の強さの方だ。そんな風にテメェの感情を殺してまで、無理矢理したくねえことをしようとするのは絶対に強さなんかじゃ――――――」


「うるせええええええええええ、そんなこたぁ分かってんですよオオオオオオオオオオオオッ!!」


 しかし、そこで何かを堪えるようであった少女の心の中で、何かが遂に音を立てて大きく弾けた。


「でも、他に方法がないんだから仕方がないじゃないですか……他にどうしろって言うんですかッ……!? 私だって嫌ですよ。筆坂さんのことも先輩のことも、こんな私に笑って手を差し伸べてくれた優しい人達を……殺したいだなんて、そんなことッ、そんなこと思うわけがないじゃないですかああああッ!!」


 そうまるで子供のように叫び散らす少女の目元には、うっすらキラリと光るものが浮かんでいた。


「お前……」


 松下の心は初めからずっと声無き悲鳴をあげ続けていたのだ。恐らくは先程実際に樋田を傷つけてしまったことで、その罪悪感が遂に限界を迎えてしまったのだろう。

 だがしかし、これで彼女もようやく自分の本当の気持ちを認めてくれた。


 きっと、今の松下希子は揺れている。

 やはり樋田達を殺す以外に道はないのだという意思の貫徹と、どうしても他に方法はないのだろうかという希望への逃走の狭間で、彼女は心は大きく揺れ動いているはずだ。


 然らば、ここまで隠してきたを切るには、今こそが最高のタイミングであろう。


「――――いや、方法ならあるさ」


 だから、樋田は遂にその言葉を口にした。

 


「例えお前じゃ無理でも、俺ならあの子を完璧に救うことが出来る」




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る