第百二十三話『陽桜』其の一
樋田可成は遂に草壁蟻間の魔の手から秦漢華を救い出した。
とても完璧とは言えないが、彼女にこれからを生きる希望を与えることも出来た。
そのはずであった。
まるで樋田の献身を鼻で笑うような、あまりにも理不尽な展開。
あれだけ力を尽くして、あれだけ言葉を尽くして、それでも秦漢華はまだ救われてなどいなかった。
何が起きたかなんて分からない。
途中で何を間違えたのかすら分からない。
ただ一つ分かるのは、秦が人でも天使でもない『何か』別の存在へと変わってしまったということだけ。
それでも、樋田可成は屈しない。
たとえこの世界がどれだけ秦を不幸にしようと目論もうとも、絶対に自分だけは彼女を見捨てはしない。
そう決心したはずだった。
にも関わらず、そんな樋田の覚悟は秒で蒸発した。
「先輩無理ですッ!! これ以上近付いたら本当に死にますよッ!!」
後方からの鬼気迫る叫び声は松下のものだ。
暴走する秦の絨毯爆撃から一度逃れた後、再び天使化した樋田はなんとか彼女に接触しようと試みる。
しかし、実際は秦に接近するどころか、彼女に殺されないようにするだけで精一杯であった。
「畜生がッ」
それほどまでに新たな位階に足を踏み入れた秦の力は圧倒的であった。
樋田が秦に迫ろうとするや否や、押し寄せる敵を退ける弾幕が如く、彼女の周囲を無数の爆発が絶え間なく埋め尽くす。こんな爆発の嵐の中へ突撃しようものなら、秦のもとへ辿り着くまでに十回は全身をバラバラにされるだろう。
――――来るッ。
そこで秦ははじめて具体的なアクションをとった。
非常にゆったりと仕草で、おもむろに右手を前に突き出す。
直後、彼女の右掌が真っ赤に光り輝いた。
そこへ桁外れの『天骸』が瞬間的に集約されていく。
身が竦むほどの威圧に樋田は思わず息を飲む。
『天骸』は膨大であればあるほど強い光を放つものだが、樋田は今までこれほど莫大な『天骸』を、それこそ視界に入れるだけで目が焼けるほどの輝きを目にしたことはない。
少年が本能的に命の危機を感じるのとほぼ同時、緋色の神はその極大の暴力を一切の躊躇なく東京の街へと撃ち放った。
神の掌から射出される赤の光線攻撃。
いや、最早そのさまは線というよりも円柱と表現するべきか。
何しろその閃撃の太さはどれだけ少なく見つもっても半径三十メートル、照射距離に至ってはどこまでが限界なのかすらも分からない。
人々が長い時間と労力を費やして作り上げた世界一の大都会、首都東京がこの星の上から消えていく。
横薙ぎに振るわれた凶悪な光線が、高層ビルやタワーマンション数十棟の中腹をまとめて消し飛ばす。
支えを失った上層部分が地上へと滑り落ち、その下にあったありとあらゆるものを例外なく押し潰す。
綺麗に整備されていたはずのアスファルトは、圧倒的な火力に尽く掘り返され、無様な土肌を晒す。
光線の数は一本に留まらない。
秦の周囲から次から次へと何本も射出されていく。
絶え間なく宙を埋め尽くす爆発の弾幕。
形あるもの全てを融解させる光線の乱射乱撃。
更には地上を隈なく焼き払う、クラスター爆弾の如き絨毯爆撃。
鉄とコンクリートの世界は燃やされ、壊され、吹き飛ばされ、瞬く間に炭と灰塵だけの世界へと作り替えられていく。
そのあまりにも圧倒的な力に、恐怖を通り越して畏怖すら覚える。
今の秦はまるでこの世界を滅ぼす悪魔のようでありながら、樋田はそこに一種の神を見出さずにはいられなかった。
「秦――――――」
瞬間、一瞬秦と目が合ったような気がした。
その直後、樋田のすぐ傍らを何かが凄まじい勢いで走り抜けた。
何かとしか言えないのは、音速を超える攻撃速度に全く反応出来なかったから。それどころかその何かを目で捉えることすら叶わなかった。
「ッ……!!」
心臓が冷たく跳ねる。
もし今の攻撃が直撃していれば、間違いなく一撃で天使体を破壊されていただろう。
そこで樋田をようやく気付く。
秦を救うなど夢のまた夢の話。今こうして彼女の周りを飛び回れていることすら、ものすごい偶然の積み重ねの中で辛うじて成り立っている奇跡に過ぎないのだと。
瞬きの後、遙か西方で轟音が鳴り響く。
ここからはとても遠くて見えないが、彼の隣を走り抜けた何か――――音速を超える速度で射出された炎弾が、その軌跡上にあった東京タワーをへし折ったのだ。
近年更なる高さを誇るスカイツリーが建造されてなお、東京の象徴として人々の心にあり続けた赤の鉄塔。そんなこの街随一のランドマークも、ただの一撃で跡形もなく消え去ってしまった。
「いい加減にしやがれッ!! この命知らずッ!!」
「松、し――――」
思わず呆気に取られていた最中、突如傍らに松下が出現した。
少女に胸倉を掴まれるや否や、急に周囲の景色が変わる。
はじめの大爆発を避けたときと同様、松下は樋田を連れて何度も瞬間移動を繰り返す。
どこまでも炎だけが続く地獄の顕現から、未だ街が街としての形を保っている安全地帯へ。
最終的に松下が腰を落ち着けたのは、とある大型ショッピングモールの屋上であった。ここから秦の姿はビルの隙間を縫って辛うじて見える程度、それほどまでに二人は戦場から遠くまで逃げて来たのだ。
「はは、はははは……ふざけやがって。どうすりゃいいんだよ、あんなモン」
一瞬で命を奪われるかもしれない緊張感から解放され、かわりにそれまで無視していた自らに対する怒りと無力感が沸沸と湧き出す。
例え失ったものは元に戻らなくとも、辛うじて最悪の結末だけは避けられたはずだった。
例えこれから長く悩み苦しむことになったとしても、いずれ彼女は再び笑って陽の下を歩けるようになるはず……いや、してみせるはずだったのだ。それなのに、それ、なのに――――、
「先、輩……?」
最早変えられない過去をウジウジと嘆くのはそれでやめにした。
後悔なんてする暇があるならば、一秒でも早く秦を救うために何が出来るか考えろ。
だからこそ、樋田は極めて冷静を装って問いかける。
「……なあ松下、今アイツの身には一体なにが起きてる。そもそも、アレはなんだ。アレは、本当に秦なのか?」
しかし、松下の表情は芳しくない。
「いや、私にも全くもって分かりません……確かに秦先輩は元から優れた天使ですが、アレは明らかにそういうレベルを超えています。正直人間だとか天使だとか、そんな既存の概念で定義出来る存在とはとても思えません」
「そうか……」
気のない返事であった。
樋田から問いかけたにも関わらず、彼は松下の言葉を茫然と聞き流していた。
「オイ松下。さっさと戻るぞ」
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