第百三十話『秦漢華と草壁蜂湖』其の一
雲一つない、よく晴れた日のことであった。
もう六月も半ばだというのに、不思議と日差しはキツくなく、かといって当然肌寒いわけでもなく、まるで春のように過ごしやすい昼下がりであった。
本日、地元港区の大通りは人が多いわけでも少ないわけでもなし。
外回り中の会社員に、昼休みだからとコンビニへと急ぐ学生。視界の端には仲睦まじいカップルの姿が見え、その奥では子供連れが嬉しそうにファミレスへ入っていく様が映る。
当然そこには瓦礫も死体も転がってはいない。
今目の前に映っている人々のうち、本当は何人が死んでいたのだろうとふと思う。
そんな彼等の眩い笑顔や、少なくともとりあえず生きている姿を見れば、やはり自らの行いは正しかったのだと思い込みたくもなる。
これで良かったのだと、自分に言い聞かせるように微かな声で呟く。
「ッ――――――――――――――――――」
そうして一人ぶらぶらと街を歩いている最中であった。
不意に見知った顔が視界に飛び込んできた。
思わず目を奪われる。そのまま視線は釘付けとなる。
まるでガーネットをそのまま埋め込んだような瞳、薔薇ですら恥じらいを覚えるであろう鮮やかな髪。どこぞより温かなそよ風が吹いて、中華風の三つ編みが儚げに揺れる。
その少女は一人カフェの前で佇んでいた。
ツンと冷たさすら感じる表情に反し、所在なげに三つ編みを弄る手は随分と忙しない。やがて少女は周囲をきょろきょろと見渡し始める。微かながら不満の色を浮かべる二つの赤は、ここにはいない誰かを求めて彷徨い続ける。
「あっ」
そんな忙しない視線が不意に停止する。
少女はこちらを見ていた。それどころか互いの目が合っているような気さえする。
大きく目を見開いた少女は嬉しそうな、されど少しだけ呆れたような顔を浮かべていた。
そのまま彼女はこちらに向かって歩き出す。しかし、その歩みはいつのまにか小走りへと変わっていて――――、
「
そう言いながら、
一度はすぐそこまで縮まった距離が、あっという間に開いていく。
当たり前のことだ。今の彼女にとって樋田可成とは赤の他人、或いはただの風景でしかない。
そんなたまたますれ違っただけの人間を、態々気にかけることなどあり得るはずがないのだ。
「ちょっと姉さん、私もアンタがダメ人間だってことは充分理解してるつもりだけど、連絡なし三十分遅れは流石にキレるわよ」
「ごめんって。いやあ私もそろそろ行かなきゃなあとは思ってたんだけどさあ――――って、いやいやちょっと待って、なんか漢華が珍しくお洒落してるんですけどッ。うっわ、可愛い。お姉ちゃんびっくり。流石は私の妹、磨けば光ると信じていた姉は私」
「別にこれぐらい普通でしょ……って、流れるように話題を逸らすな。大体今日誘って来たのは姉さんの方なのに……」
「でさぁ、映画見終わったらそのあとどうする? ラーメンキメちゃう? それとも脳死でスタミナ次郎行っちゃう?」
「本当人の話聞かないわねコイツ……ほら、こんなところで突っ立ってないでさっさと行くわよ――――――――」
背中越しに聞こえる声だけで分かる。
首都が焼け野原と化すことも、数えきれない多くの人が死ぬこともなくなった。秦漢華が笑顔で日の下を歩けるようにするという、樋田が何より望んだ願いも達成された。
ならば、やはりこれで良かったのだ。
「――――――本当に、気持ち悪りぃな。
そう、素直に思うことが出来ない自分に吐き気を覚える。
微かに聞こえる姉妹の声も、彼女達との距離が開くにつれ段々と小さくなっていく。そうして二人の声が完全に聞こえなくなるまで、樋田可成は結局一度も後ろを振り向かなかった。
だからこそ秦漢華がこちらを一瞬振り返ったにも関わらず、彼はそのことに気付かなかった。
♢
まさか自分が墓荒らしのような真似をすることになるとは思っても見なかった。
正義のために
草壁家之墓、そう刻まれた墓石と相対する。死者を騒がすならばせめてこれぐらいはと、両手を合わせ深く頭を下げる。
「なにか手違いがなければ、間違いなくここにあるはずだ」
満身創痍の樋田に代わって、人類王が墓前から香炉を除ける。
王はそのまま蓋石を持ち上げ、カロートに手を差し入れ、そうして中に納められた骨壺を取り出す。
壺を受け取って蓋を開くと、中には石灰のような白い粉が敷き詰められていた。昔は骨片をそのまま入れていたが、最近は壺が小さくて済むよう粉骨するのだと聞いたことがある。
蓋の開いた壺を丁寧に地面に置く。
「それでは始めたまえ」
人類王の声には応えず、おもむろに骨粉に触れる。
そうして、『
たちまち樋田の左目からは鈍い白の光が生じ、周囲には大小様々な時計の幻影が無数に浮かぶ。
『燭陰の瞳』は過去を現在の時間軸に上書きすることで、擬似的な時間遡行を可能とする力だ。当然そこへ至る過程として、過去を観測する力を兼ね備える。
秦の過去を知るため、樋田は既に一度同じことをしている。
その感覚を思い出し、左目に意識を集中させれば、途端に周囲の風景が下手な油絵のようにぐにゃりと歪んだ。
それまで広がっていた墓地の景色は後方へと流れていき、入れ替わるように前方から過去と思わしき光景が迫り来る。それはまるで高速で走る車の中から外の景色を眺めるような感覚。目まぐるしい景色の変化に吐き気を覚えかけるも、流れ行く景色はやがて少しずつ減速していく。
そうして景色の流れが完全に止まると、そこには見覚えのある土手が広がっていた。
『直接、過去の中に入っているのか……?』
前回は神の視点で過去の情景を観測するだけであったが、どうやら今回は仮初の肉体を以て過去の中を歩き回れるようだ。これも今回は人類王が協力しているおかげなのだろうか。
試しにそこらの草に手を通すも当たり前のように擦り抜ける。やはりあくまでこれは観測であり、過去の世界に直接干渉出来るわけではないようだ。
少し土手の先に目をやれば、川を跨ぐコンクリートの橋が見えた。
その橋を一眼見た瞬間、樋田の頭を渦巻いていた予想は確信へと変わる。
『……忘れる、はずもねえ』
足が重い。それでも意を決して橋の方へと歩み寄る。
橋の下に広がる空間には、バケツの中身を溢したように鮮やかな赤が広がっていた。
手前には下半身のない死体、その奥には顔の潰れた死体が転がっているのが見える。
『……』
驚きはしない。樋田はこの光景を一度見たことがある。
間違いない。樋田は再び、秦が姉の仇である三人を殺害したあの日へとやって来たのだ。
「――――――はぁ、はぁ、分かン、ねえよッ、そんなモンッ……!!」
血溜まりの広がる橋の下、甲高い女の声が上がる。
そちらを見れば、背中から炎の翼を噴き出す天使――――秦漢華が、草壁蜂湖の上に馬乗りになっていた。首を絞めようとする秦の手を、草壁はなんとか押し留めようとする。
『なんで、なんで殺したの、なんで私から奪ったの……教えなさい、いいから早く、私にッ』
「――――うるせえええええええッ!! 知るかそんなもん、分からねえモンは分からねえんだから仕方がねえだろガアアアアアアアアアッッ!!!!!!!」
溜まりに溜まった負の感情が爆発したのか、草壁は絹を裂くような声で絶叫する。
「畜生、畜生畜生畜生畜生ッ!! ふざけんじゃねえよッ、何なんだよこのクソみてえな人生はよッ!! あたしが何したってんだッ……あたしは普通に生きていけりゃそれで良かったのに、生まれてこの方良いことなんて一つもねえッ!! 本当に一つもねえよッ……滅茶苦茶だ、アイツのせいであたしの人生全部ダメになった。畜生ッ、何でだ、何で、よりによってあんなヤツが、あたしのッ……!!」
はじめは荒々しく怒鳴り散らしていた草壁であるが、次第にその声は小さくなっていき、そのうち泣き出しそうにすらなる。
それに従って彼女の抗う力もみるみるうちに弱まっていく。そもそも天使の腕力にただの人間が叶うはずもなく、秦の両手は完全に草壁の首根っこを捉える。
「ァ、アア……ガハアッ……!!」
仮に喉を塞がれていなければ、草壁はそのとき悲鳴を上げていたかもしれない。
秦の手を通じて、草壁の首に何か黒い紋様のようなものが這い寄っていく。まるで秦漢華という少女の憎悪が形をもって浸透するが如く、あっという間に加害者の全身は黒く塗り潰されていく。
神の炎、四大天使の一角であるウリエルに由来せし権能『
「ギッ、グ、ァァ、秦ッ、秦秦秦ォォッ……!!」
最期に草壁が見せたのは苦悶の表情であるはずであった。
なのにその頬を伝う涙から、恐怖と苦しみ以外のものを見て取ってしまったのは何故だろうか。
「っん」
最期はあまりにも呆気ないものであった。
草壁蜂湖は、体の内側から全身が弾け飛んで死んだ。
醜い肉片と、穢れた鮮血が雨のように降り注ぐ。その中で秦漢華は独り天を仰いでいた。少女の目尻を、降り注ぐ血液が涙のように伝っていた。
「……」
以前一度見た光景ではあるが、とても慣れるようなものではない。
やるせない思いに拳を握っていると、どこからか人類王の声が耳を打つ。
『うん、どうやら草壁蜂湖の過去を覗くことには成功したようだね。だが、見るべき場面はもっと先だ。次に行くよ』
『――――あぁ、そうだな』
再び樋田は意識を左目に集中させる。すると再び周囲の景色が凄まじい速度で変化を始めた。そうして、またしばらくすると変化は止まり、周囲の世界も次第に安定していく。
今はまだここが薄暗い部屋の中ということしか分からない。
やがて世界の輪郭が明確になるにつれ、樋田はそこが誰かの一人部屋であることを確信する。インテリアを見ても性別は絞り込めないが、見たところ部屋の主人は樋田と年の近い学生であるような気がする。
視界がハッキリすると同時に、聴覚も正常となる。
背後から突如聞こえてきた
「ッ」
その光景を目にした瞬間、樋田は後頭部を鈍器で殴られたような衝撃に襲われた。
意味のない言葉が口から漏れる。驚愕のあまり、もう少しで『燭陰の瞳』を解除してしまうところであった。
一瞬頭の中は真っ白になり、次の瞬間にはドス黒い殺意が溢れ出す。
今までほとんど経験したことがないほどの怒りであった。
彼はまるで獣のように叫び狂うが、それしか出来ない。
目の前の男をこれほど殺してやりたいと思っているのに、仮初の体では過去に干渉することは許されない。
「おい、やめろッ……触るなぁあああああああああああああああああッ!!」
絹を裂くような少女の悲鳴。しかし、男の卑劣は止まらない。
本気で泣き叫ばれているにも関わらず、其奴は少しも怯まないどころか、その口元に嗜虐的な笑みを浮かべてすらいた。
「うるせえなあ。俺はな、やりたいことを我慢するのが一番嫌いなんだよ。俺達家族だろ。ならいい加減理解してくれよ」
「あっ、イッ…………!!」
男は両手で少女の首を締め付ける。
最早彼女は悲鳴を上げることすら許されず、出来ることといえば力なく足をバタつかせる程度だ。
「大人しくしろ。黙って自分の役割を果たせよ蜂湖――――あぁ、そうだ。いい子だ。やればできるじゃねえか。最初からそうしとけよ、馬鹿だなあお前」
しかし、そんな悪あがきもすぐに止む。
少女の瞳から光が消える。もう、こんなのどうしようもない。この瞬間きっと彼女はそうやって全てを受け入れ、そして全てを諦めたのだろう。
『ここも違うね』
また頭の中で人類王の声がする。
それはそれは随分と冷静な声色であった。
此奴も今自分と同じ光景を見ているとはとても思えない。
「……分かってるッ。さっさと次行くぞ」
まるで目の前の地獄から目を背けむように、樋田は再び過去の観測を開始した。前から後ろへ景色が次々と流れていくのを、虚な目で見送り続ける。
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