第百三十話『秦漢華と草壁蜂湖』其の二
『……学校、か?』
此度樋田がやって来たのは、数十人の生徒で溢れる教室の中であった。
これが草壁蜂湖の過去の情景であることをふまえれば恐らくは高校。生徒の学年は樋田と同い年か、或いは一つ上か。ほとんどの生徒が帰り支度をしているのを見るに、時間帯は放課後になった直後と予想する。
草壁蜂湖の姿を探せばすぐに見つかった。
彼女がいたのは教室の前方。友人らしき二人とだらだらお喋りに耽っているところであった。
「ねぇ、
そう問いかけたのは草壁を含めた三人のうちの一人、猫なで声の茶髪女だ。
悠と呼ばれた背の高い黒髪女は、スマホから目を離さないまま適当に返事をする。
「今日ねぇ、
「えっとね、今日はわたしカラオケ行きたい!」
ぴょんと跳ねながら嬉しそうに言う茶髪であるが、それを聞いた草壁はハァと呆れた顔をする。
「今日は、ってこないだ行ったばっかじゃねえか。流石に飽きるわ」
「え〜いいじゃん。だって蜂湖の歌ってるところめっちゃかっこいいんだもん。また聞いてみたいなあ〜て」
「あっ、見て蜂湖。今日からデザパラメロン食べ放題だ」
「おっ、マジか悠。はい今日の予定決定、相談終了」
「ちょっとわたしの意見はッ――――――!?」
『……』
そんな三人のやりとりを見ているうちに、樋田はますます草壁蜂湖という人間が分からなくなる。
少し遊んでいそうな雰囲気はあるが、特徴らしい特徴と言えばその程度。普通に仲の良い友達がいて、普通に喋って、普通に笑う。彼女はそんなどこにでもいる普通の女の子でしかない。
果たして彼女は本当に秦の姉を殺したのだろうか。
殺したというのは言葉の綾で、本当は不幸な事故だったのだと言われた方が余程納得がいく――――いや、違う。樋田が本当に気にしているのは、悩んでいるのはそんなことではない。
果たして草壁蜂湖とは殺してもいい人間なのか。
あの地獄をなかったことにするため、彼女一人に全ての負債を押し付けてもいいのだろうか。
一度はそれでも構わないと思った。
一人の命で万人が救われるならば、それが正義だと信じることが出来た。
しかし、その前提が揺らぐ。一度決めたはずの殺す覚悟が、グラグラと足元から崩れていくような錯覚を覚える。
と、その人物が視界に飛び込んできたのはまさにそんなときであった。
『アイツ、は――――――――』
赤い瞳に赤い髪を持つ少女。しかし、秦漢華ではない。されど、その顔付きは明らかに彼女との類似点を有している。
赤の少女が樋田や三人の横を通り過ぎていく。そこでようやく草壁も彼女の存在に気付いたようで、
「おい、秦ッ!!」
今まさに教室から出て行くところであった少女――――秦周音は「ん、なに?」と笑顔で振り返る。対する草壁はズカズカと大股で周音のもとまで近寄り、なんなら半ば威嚇するように顔を近付けて問う。
「なあ、秦。あたしら今日三人でカラオケ行こうと思うんだけど……アンタも来ない?」
文面は普通だが、その口調はどう聞いても友人を遊びに誘うためのそれではなかった。むしろ「テメェ最近調子のってんな、あとで校舎裏来いよ」的なニュアンスが含まれているようにしか思えない。
草壁蜂湖は明らかに戯れ合いではなく、言い掛かりの意味で絡みに行っている。果たして秦姉はどう対応するのだろうか。
「おぉ、いいねえ行く行く。で、店どこにする? 私的には駅前の大通りから裏に一本入ったあたりのBangBangがオススメ。あそこ存在感なさすぎて全然客いないから、フリータイムでも無限に粘れるんだぜ」
そう、遊びの誘いと解釈して普通にのってきた。
心なしかそれまで仏頂面であった草壁の口元に喜色が浮かんだような気がする。しかし、直後秦姉は「まぁ、でも」と首を横に振ると、
「本当はそう言いたいところなんだけど、試験近いから今回はパスさせてもらうよ。いやあ、折角誘ってくれたのに悪いねえ蜂湖ちゃん」
そう秦に気安く肩をポンポンされ、直前までちょっと嬉しげであった草壁は瞬く間に機嫌が悪くなっていく。
「はあ? なにアンタ。もしかしてあたしに点数負けるの怖いの?」
「実際そうなんじゃない? だって蜂湖超うまいし」
茶髪がクスクス笑うと、草壁もまた秦に得意気な笑みを浮かべてみせる。
対する秦姉はというと、無言であった。特に反応するわけでも、何か言うわけでもない。そうして無言のままスマホを取り出し、おもむろに何かアプリを立ち上げてみせる。
後ろから覗き込んでみれば、それは確か家でも歌を歌って録音したり採点できたりする所謂カラオケアプリというヤツであった。
「えぇ〜と、蜂湖ちゃんたちが好きそうなイマドキのテンプレJPOPはっと」
「おいテメェ、今あたしたちのこと馬鹿にしただろ――――――」
そう突っかかる草壁であるが、その直後には言葉を失ってしまう。
秦のスマホから流れてきたのはバラード風でありながら割とテンポの早い曲。そして秦周音は何と、それに合わせて堂々と歌い出したのだ。
それがまあなんとも美麗であった。
音楽のことなど何も知らない樋田でも、一瞬聞いただけで上手いと感心する。
歌声は美しく、音程にもリズムにも寸の狂いすらない。そして何よりその声量に圧倒される。当然ただ声がデカいというわけではなく、その歌声からはまるで全身を音で押されるような力強い圧力を感じる。
一般人の歌声をラジカセに例えるならば、秦姉のそれは一式揃えられた高級オーディオから奏でられる音色の如くである。
ちょうど教室を出るところであった者も含め、教室の中の全員が秦の歌に聞き入っていた。しかし一番と思われる範囲を歌い切るや、秦姉は呆気なくアプリを閉じる。
「はい、美奈ちゃん。うまいのはどっち?」
「えっ、えっと……」
思わぬ指名に茶髪はあわあわせずにはいられない。
そうしてしばらくあわあわしたあと、彼女はやがて遠慮がちに草壁の方を指さそうとするが、
「……なあ、美奈。アンタあたしに恥かかせたいの?」
「ひぃッ!!」
ドスのきいた声で凄まれ、茶髪は結局正直に秦姉の方を指差す。
「はい、私の勝ち」
「チッ、この完璧超人がッ!!」
「流石にそこまでじゃないって。実際私勉強は普通だし、まあ蜂湖ちゃんたちと比べれば無敵みたいなもんだけど」
「テメェッ馬鹿にしてんのかアアアッ!?」
元気にギャーギャーと喚く草壁であるが、悲しいかな、秦姉はヘラヘラ笑うばかりで、ろくに取り合おうとはしてくれない。
「というかさ、蜂湖ちゃんたちそんな放課後遊んでばっかでいいの? 確か三人とも揃いも揃って赤点オンパレードなんでしょ。嫌だなあ私、春休み明けて学校来たら蜂湖ちゃんが後輩になってるとか」
「流石にそこまで酷くねえよッ!!」
「あっ、そうだ。なんなら一緒に勉強しようよ。四人で誰かん家泊まってパジャマパーティーとかしながらさ。いいねぇ、なんかすっごく青春って感じだ」
「ふざけんじゃねえよッ!! なんで放課後までテメェと顔付き合わさなきゃなんねえんだバァーカッ!!」
「さっきカラオケ誘ってたじゃん」
「悠は黙ってろッ!!」
そう草壁とかいう狂犬がガルルと唸っている最中であった。
その後ろで美奈とか呼ばれていた茶髪女が、遠慮がちながらも賛成の手をあげる。
「……はい、わたしは賛成です。賛成です、勉強会……」
「美奈テメェなに寝ぼけたこと――――」
「ゴメンね蜂湖、わたし実はガチでヤバいんだ……その、ガチで……」
そういう茶髪の目はガチだった。
あまりにも悲壮感が漂っているものだから、狂犬草壁も心なしか口調が優しくなってしまう。
「はぁ? じゃあなんでさっき『ねぇ、悠。今日放課後どうする?』とかほざいてたんだよ」
「いやだって、勉強したいとか言ったらサガりそうだし……ってか、なんかノリ悪いってなって、ハブられたら嫌だなあって……」
「なんであたしがそんなことすんだよ。困ってるなら困ってるってちゃんと言えよ。あたしもバカだけど、まあその、バカなりに助けてやるから」
「蜂湖……」
それきり三人はなんだか照れ臭くなったのか、しゅんと静まり返ってしまう。そんな彼女達を前に、秦周音は腕を組んでウンウン頷きながら宣言する。
「よし、これで話は決まった。安心したまえバカども、心配しなくても私が全員まとめてきっちり面倒を見てあげよう。じゃあ、早速買い出しにでも行きますか」
「おい勝手に決めんじゃねえッ!! そんなに勉強したいなら勉強したいヤツらだけでやってりゃいいだろうがッ!!」
「えっ……蜂湖、わたしのこと助けてくれるんじゃなかったの……?」
「だぁああああッ、もうどうすりゃいいんだよォオオオッ!!」
草壁は頭を掻き毟りながら叫ぶ。
秦姉はそんな草壁の肩に手を回し、そのまま力づくで教室の外まで連れて行こうとする。
「離せテメェッ、気安く触んじゃねえよッ!!」
「ほらほら既に大勢は決した。いい加減堪忍したまえ。別にいいじゃんかお泊まり会。一緒に好感度上げ合って、お互い周音ルート蜂湖ルートに突入しようぜ」
「何言ってるか一つもわかんねぇよッ!!」
負けじとギャーギャー抵抗を試みるも、草壁は結局そのまま秦に連行されていく。その後ろを他の二人が笑いながら着いて行き、やがてその姿は廊下の先へと消えて行った。
『――――ここは草壁蜂湖が全殺王に憑依される以前、つまりは草壁蟻間との再会によって人生が狂う前の時間軸だね。どうやら少し過去に戻りすぎてしまったようだ』
『……』
樋田は既に何か言葉を返す気力もなくなっていた。
草壁蜂湖は人殺しだ。漢華の過去を見て、彼女が秦周音を殺したことを知った。だからこそ、辛うじて世界のために彼女を殺すことを心は許容した。
にも関わらず、過去を遡るにつれてその前提が崩れていく。
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