第百三十話『秦漢華と草壁蜂湖』其の三

 

 再び『燭陰の瞳』を使うと、今度は後ろの景色が前に向かって流れていく。

 景色の動きが止まれば、そこはつい先程訪れたばかりの一人部屋――――草壁蜂湖の自室の中であった。

 部屋は暗い。灯は着いておらず、カーテンも閉められているため、今が昼なのか夜なのかも分からない。


「……めん」


 すすり泣く声が聞こえる。

 ベッドの上で一人の少女がうずくまっている。

 絶え間ない嗚咽の声に混ざって、彼女は何度も同じ言葉を呟いていた。



「ごめん、秦、うっ……ごめんッ……ごめんなさい、ごめんなさいッ……!!」

『……』



 果たして、草壁蜂湖は本当に身勝手な理由で秦周音を殺したのだろうか。

 先程と同じ疑問が頭を渦巻く。


 そもそも草壁蜂湖だけではない、秦漢華だって人を殺しているのだ。

 どちらも人を殺め、そのことを死ぬほど悔やんでいて。


 彼女達二人の違いは、単に手を差し伸べられたかどうかの違いでしかない。

 にも関わらず、一人は救われ、一人は必要な犠牲として葬られる。

 それは、酷く矛盾しているような気がした。


『今度は逆に少し進みすぎたようだね。それともこのままやめるかい?』


 王は此方の心を見透かしていた。

 されど、くだらない冗談は言うなと吐き捨てる。


 確かに、迷いはある。

 だが、ここで後戻りをするわけにはいかない。

 意を決して、樋田は再び意識を過去へと遡らせる。



 ♢



『また、ここかよ』


 景色の変化が収まる。

 そうして目の前に広がっていた光景は、先程一度訪れた例の土手であった。


 しかし、季節が違う。あたりを見れば一目で分かる。

 雪が降っているのだ。

 土の上では僅かに積もるものの、コンクリートの上ではすぐに溶けて消えてしまう。そんな儚い雪の夕暮れであった。

 二〇一六年、二月十五日。確証なんてどこにもない。されど樋田は何となく、ここが草壁蜂湖の記憶を巡る旅の終着点だと直感する。


 ややあって草壁蜂湖が姿を現した。

 今樋田の立っている方向が家の方角なのだろう。亜麻色の少女は適当にスマホを弄りながら、ゆっくりと此方に近付いてくる。


 ――――これが、草壁蜂湖か。


 本当に、普通の光景だ。

 普通の女の子が普通の道を普通に歩いているだけだ。

 その無防備な横顔は、この平和な日常が永遠に続くことを信じ切っている。

 実際下校の時間だとか、或いはどの道で家に帰るだとか、そういったものが何か一つでもズレていれば、彼女はこのまま平和な人生をおくれたのかもしれない。


 だがしかし、草壁蜂湖はこの日のこの時間、この場所へとやってきてしまった。そして一体どこから現れたのか、一匹の黒蛇が彼女の足元へと忍び寄る。

 そうしてまさに今、黒蛇は草壁蜂湖の足へと噛みついた。


『あの蛇が全殺王だ。こうして彼女の身体に取り憑いた』

『ッッ――――!!』


 人類王の言葉に樋田は思わず生唾を飲む。

 遂に、この瞬間がやって来たのだ。


『今草壁蜂湖を殺せば全殺王も死ぬ』

『分かってるッ……!!』


 それでも樋田は意を決して黒星ヘイシンを取り出した。

 球がこもっていることを確認し、銃口を草壁の頭に突き付ける。

 そのまま『燭陰の瞳』を発動し、弾丸をこの時間軸へと遡行させる準備を整える。


 そこまでは出来る。

 そこまでは出来るのに、そこからがどうしても続かない。


『ここで撃つのも撃たないのも君の自由だ。どちらを選ぼうとも、僕は君の選択を尊重する――――――――――』

『うるせえッ!!!』


 樋田は声を張り上げ怒鳴る。

 元から嗄れた声であるというのに、今は更に掠れていた。


『頼むから、少し黙っててくれッ……!!』


 いつのまにか手が震え始めていた。

 掌から嫌な汗が噴き出し、ともすれば銃を取り落としてしまいそうにすらなる。


 この引き金を引きさえすれば、あの悲劇は全て無かったことになる。

 東京の街が壊滅したことも、数万人単位で人が死んだことも、全部全部全部無かったことになるのだ。


 何より、そうすれば秦漢華が死なずに済む。

 当然彼女の両親や妹が殺されることもない。

 むしろ、ここで事前に草壁蜂湖を殺してしまえば、秦周音の死が覆る可能性すらあるのだ。

 秦姉が死なないということは即ち、秦漢華が草壁蜂湖を殺さないということ。姉を失った悲しみに、人殺しの罪悪感。そのどちらからも解放された漢華は、きっと日の下で屈託なく笑ってくれるに違いない。

 

 それはなんと素敵で優しい世界であろうか。


 頭は撃つべきだと理解している。

 たった一人の犠牲で、その世界は現実のものとなるのだから。


 だが、本当にそれでいいのか。

 草壁蜂湖の記憶を巡る旅の中、何度も浮かんだ葛藤が樋田の決意を鈍らせる。



 ――――……お願い。私を、助けて。


 ――――……ああ、そこで待ってろ。


「ッッ――――――――――――――――!!!!」



 先刻、秦と交わしたやりとりが脳裏をよぎる。

 助けを求める秦。それに答えた樋田。

 仮初の希望。守れなかった約束。


 助けてと、秦の声が頭の中で何度も響き渡る。

 だからこそ樋田はなんとか引き金に指をかけるが、



 ――――ごめん、秦、うっ……ごめんッ……ごめんなさい、ごめんなさいッ……!!


「あぁッ――――――――――――――――――」



 秦の声と入れ替わる形で、今度は草壁蜂湖が涙を流す。

 彼女とは別に一度も会話を交わしたことはない。

 それでも、彼女から助けてと言われているような気がした。


『どうすりゃ、いいんだよ。俺は……』


 誰か彼女の声に応えるものはいたのか。

 いや、誰もいなかったのだろう。

 或いは秦のように彼女自身が声を上げることを拒んだのかもしれない。


 だからこそ、草壁蜂湖の悲鳴を聞いていたのは樋田なのだけだ。

 だが、最早彼女に手を差し伸べることは叶わない。


 ここで樋田が引き金を引かなくとも、どうせ彼女は秦に殺される。

 ならば、その死が二ヶ月早まっても大した違いはあるない。むしろ、ここで殺してやれば、この後彼女が草壁蟻間に嬲られることも、秦姉を殺した罪悪感に苦しめられることもなくなるのだ。


『そうだ、間違ってねえ。俺は今からでもまだ此奴を救ってやれんだ』


 そうやって自分を無理矢理納得させていく。

 釣り合っていた両天秤が、次第に片方へ偏っていく。



『畜生ッ……!!』



 それでも震える右手を、樋田は左手で重ねるように押さえ込む。


 殺すべきだ。殺すことが正義だ。殺してやることこそが救いだ。

 助けてと言われて、それでも守れなくて。

 泣いている女の子がいて、そのくせ見て見ない振りをして。


 そこには善があって、悪があって。


 何が正しいのかなんて分からない。

 自分の中でもまだ答えが出ていない。


 一秒前の自分が正しいと言えば、一秒後の自分が間違っていると言う。


 もう、正しく生きることは諦めた。

 救うべきものを全て余さず救うなど傲慢でしかない。

 それでも、今自分が取れる行動の中でこれこそが最善なのだと信じる。


 結局最後まで手の震えが止まることはなかった。

 息が荒い。上下の歯が上手く噛み合わない。


 秦漢華が強さを押し付けられた弱い女の子であったように、

 樋田可成もまた強い人間などではなかったのだ。







=======================================























「はい、よく出来ました」


 そう、王は少年に囁いた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る