第四十一話 『伝染する理想』
その瞬間、晴は自分の背中にぞわりと悪寒が走り抜けたのを確かに感じていた。
そう一瞬混乱に陥る晴であったが、彼女もそれなりに修羅場を潜って来ただけはあり、瞬く間に元の冷静さを取り戻していく。
続いて周囲の反応を伺ってみると、生徒達のほとんどは「凄い」だの「羨ましい」だのと賞賛の声を上げており、それは晴のすぐ後ろの松下も同様であった。
――――……主に召されたとは一体何を意味している。これも例の洗脳の影響なのか?
しかし晴のそんな疑問は、彼女が壇上に視線を戻すと同時に氷解することとなった。
「それで御三方、舞台まで上がって来てください」
そんな
しかし、その表情に自殺を考えるほどに思い詰めていた面影は欠片も見えず、むしろ他の二人と変わらない爽やかな笑みを浮かべている。
「皆さんはまだ当学に入学したばかりですから、彼女達のように我等が主の理念と一体化することは難しいでしょう。しかし焦ることはありません。皆さんが友愛の力を信じ、誠の道を尽くし続ける限り、我等が主は必ず皆さんのことを導き続けてくれるのですから」
陶南がそこで一度言葉を切ると、再び舞台袖から数人の生徒が姿を現わした。彼女達はその手の中に抱えている『不定形な黒い物体』を壇上に掲げると、そのまま機械じみた動きで粛々と舞台袖へ戻っていく。
――――何だあれは……?
晴はその『不定形な黒い物体』に目を凝らすが、観測・解析・再現を司る彼女であっても、その形を上手く認識することは出来なかった。
言うなればその物体はまるで靄でもかかっているかのように、常に形を曖昧に推移させ続けているのである。色の方も便宜的に黒と述べているだけで、正確には赤や青や白や黄色ありとあらゆる色が混じり合い、それでいながらそれぞれの色が確かに個として存在している。
そしてそのあまりにも異常な物体について、晴が自信を持って確かだと言えることはただ一つ。それはあの『不定形な黒い物体』が、かなりの密度の『
先週の生徒会役員達から感じた『
そうしてより一層疑惑を深める晴の視線の先では、陶南萩乃の言葉が更なる熱を持って生徒達へと紡がれていく。
「我等が主の名を識る必要はありません。我等が主の名を唱える必要はありません。主は我等一人一人に合わせ、その名と姿を変えて現れるからです。我等が主を崇める必要はありません。我等が主を讃える必要はありません。主は我等を友道の道へと導く教師でありながら、我等の友人でもあるからです。我等が主と共に歩むにあたり、元の信仰を捨てる必要はありません。ユダヤ人もクリスチャンもブッディストも、人類の全宗教は全て我等が主の教えに通じるからです。我等が誠を尽くし、主の理念と一体化して初めて、主は我等にその姿を現してくれます。主の理念と一体化することが出来なかった者も、主の理念と一体化した伝道者を介して、その教えを授かることが出来ます。ですから、我等は決して短絡的な
その陶南萩乃の流れるような言葉に、今会場にいる全生徒が真剣な気持ちで耳を傾けていた。晴はこれも洗脳の影響によるものかと予想しながら、陶南の紡ぐ言葉から幾つかの気になるフレーズを抽出していく。
――――
かつて天界で人類の文化文明を記録・保存する職務に就いていただけはあり、晴はこの手の宗教臭い案件にはそれなりに造詣が深い。
しかしそんな彼女であっても、陶南の語る主とやらがどこの神を指すものなのかは分からなかった。陶南の言葉が何かしらの信仰に基づいているのは確かだろうが、晴の知る限り上記のような教義を持つ宗教など見たことも聞いたこともない。
「我等が主は友情と、愛と、約束、社会契約、正義を愛し、差別と虚偽を心から憎みます。西暦二千十六年。今年はそうした主の本質が世界の隅々まで行き渡り、全人類が対話によって繋がれる社会の実現が始まった年でもあります。確かに未だ欧米世界による中東の蹂躙は止まず、第一世界においては利己的な大衆迎合主義が台頭し、資本主義の暴走による労働者や社会的弱者への摩擦も増大し続けています。しかし、これら
陶南萩乃の長い長い言葉は、そこでようやく結びの時を迎えた。彼女が壇上から退くと同時に、綾媛の全生徒は深々と頭を下げてこれに応える。
そして洗脳など受けていない晴もまた、いつの間にかその言葉に聞き入っており――――しかし、それでも最後には重く長い溜息をついた。
――――哀れなものだな。この世界の本質を理解するに、人の一生はあまりにも短すぎる。
確かに陶南萩乃が語る主とやらの理想は美しい。
人外の身分で人間の総意を代表する気などないが、きっと彼女の言うような素晴らしい世界の到来を、極一部を除いたほとんどの人類も望んでいるに違いないだろう。
しかし、理想は美しいからこそ人々に軽んじられ、いつだって彼等の無責任な嘲笑の的となる。
確かに理想を叶えるためには必ず現実がその前に立ちはだかるし、現実に妥協した方が盲信的に理想を追求するよりも遥かに楽に生きられることを、この世界に生きる人間は誰もが知ってしまっている。
実際晴も彼女の理想に共感はしても、それが実現出来るとはとても思えなかった。
それだけ晴は人間を見てきたのだ。百四十五年という短い時間の中でも、彼女は人類が理想を求め、それでも最後には現実に屈し、或いは押し潰される様を腐るほど見てきた。
――――人間の、それも怠惰と豊潤に溺れた現代人風情が、そんな純粋な生き方を選べるはずがないだろう。
そして、だからこそ晴は、陶南の言葉に対する生徒達の反応に違和感を覚えてしまう。
彼女達は皆年端もいかない少女であるし、それも肥大する自意識の中で自分を大きく見せることにしか興味がない中学生という時期に当たる。賢人の語る理想に欠片の敬意も払わず、集団の強みを盾に野次を飛ばすような者がいても、何もおかしくはない年代なのだ。
それでも今この場にいる綾媛女子の全生徒は、一人の例外もなしに陶南の言葉を真摯に受け止めている。これを異能の仕業と言わず、一体何と説明すればいいのだろうか。
「それではこれにて、第三十八回生徒総会を閉会します。一同礼」
なにはともあれ陶南の退場でようやく全行程となったようで、入り口に近い列から順に体育館を出ていくように指示が出されていく。
そうして会が終わると、完全な静寂であった体育館の中にも、騒がしくない程度にお喋りの声が溢れ始めていた。
「あのっ、筆坂さん……」
「あっ?」
松下に呼ばれて後ろを振り返ると、彼女はそこで何かを言いたそうに口をモゴモゴさせていた。そのどこか彼女らしくない曖昧な態度に、晴は根拠もなしに何か不穏なものを感じ取ってしまう。
「オイなんだ、言いたいことがあるならはっきり言え」
しかし結局松下は晴の問いに答えてはくれなかった。彼女は何かを諦めたように溜息をつくと、急に歩を早めて晴の隣を通り過ぎる。
そして、去り際にこちらをくるりと振り返ると、こう意味深に一言を付け足すのであった。
「……いえ、やっぱ
♢
「おぉ〜待たせて悪かったなぁカセイよ――――って、ぶっははっははははははははァッ!! なんだあその超ナチュラルな内股はッ!! 全く身も心もすっかり女の子になってしまって……、いやあ女体化とか普通にクソキモいかと思ってたが、こうして目の当たりすると普通に笑えるなぁ〜うん!」
「ちょっと、アンタ本気でぶっ飛ばすわよ……じゃねぇッ!! ぶっ飛ばすぞだぶっ飛ばすぞッ!!」
「あはははははははははッ、オイオイ完全に心のチンポまで去勢されてるではないかッ!! めんこいの〜めんこいの〜ッ!!」
生徒総会が終わったので合流しよう――――という晴のメールに従い、トテトテと集合場所までやって来た樋田なのだが、落ち合うやいなや開口一番に大爆笑されてしまった。
普段は「くはは」とか「ふはは」なのに、今回は「あはは」とかこれ完全に素で馬鹿笑いしている奴である。
「……ったくうっせねぇ、俺も俺で色々あったんだよ」
晴の言う通り実体の上から女の子の
普段通りのガニ股で歩いてたら「アイツ歩き方ビッチ臭い。絶対ヤリマンだわ」とか陰口言われたし、普段通りの口調で喋ってたら「なんだアイツサバサバ系気取りかよキッツ」とか陰口言われたし、挙げ句の果てには高いところに手が届かなくて困ってる子助けたら「ありがとうお姉ちゃん」とか言われて何かに目覚めかけたりしてしまったり――――と、まあ良いこと悪いこと含め色々あったのである。
「はぁ〜笑った笑った。まぁ、とにかくその様子ならば、今日一日大目を振って歩き回っても正体はバレなかったようだな。……一応聞くが更衣室覗きとか卑劣な真似はしていないだろうな。仮にそんなことしてたらワタシ、ええっと、オマエのこと嫌いになるぞ?」
「……んなことするわけねぇだろ。おっ、俺はお前にしか興味ねぇからな」
「うわっキモすぎ。死んで詫びろ」
とりあえずこれで一通りワイワイし終えたので、そろそろ本日の方針を決めてしまいたい。そうして樋田は本題に入ろうと、態とらしく咳払いから話に入った。
「で、結局昨日調べたなかじゃ、どこが怪しかったんだ?」
「うむ、正直言ってこの学園はほぼ全ての場所に『
そう言って晴が指差したのは、当学随一のランドマールであり、この巨大な学園を見下ろすようにそびえ立つ巨大な煉瓦造りの塔である。
都心の高層ビルに匹敵する高さを持つその塔の周囲は、これまた煉瓦造りの高い壁に囲まれており、一般の生徒は自由に出入りが出来ないようになっているらしい。
なるほど、確かに悪の本拠としての胡散臭さは及第点だ。そして、こうして敵の在り処がわかった以上、次に樋田達が取る行動はただ一つである。
「じゃあ、早速乗り込むとするか……って訳にはいかねぇよな?」
「当たり前だ。なんの対策もせずに敵の本拠地へ乗り込むバカがどこにいる。ひとまず今日は下調べとして、『
「なるほどな。で、俺は何をすりゃいい?」
「オマエには松下の言っていた例の四人の尾行を頼みたい。陶南萩乃が今回の件に関わっているのは最早確実だが、他の三人に至っては未だ何の情報も掴めてはいないからな」
「
「「――――!!!!」」
その突如降って湧いた声に、樋田と晴は慌てて背後を振り返る。するとそこにいたのは柔らかそうな長髪をポニーテールにまとめた小柄な少女、晴の数少ない友人でもある松下希子その人であった。
樋田も晴も人気のないところに来ていたので、つい周囲の警戒を怠ってしまっていた。
もしかして今の会話を聞かれてしまったのだろうかと、二人の背中には嫌な汗が流れるが、松下はそんなのお構いなしと言わんばかり晴に詰め寄り――――そして、その口からはまさかの爆弾発言が飛び出ることとなった。
「……今の話、私も混ぜてくれませんかね。
そこで彼女は「そして」と一度言葉を切り、樋田の方を振り返ると、最後に縋るような声でこう呼びかけたのであった。
「――――
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