第四十九話 『火の戦車』


「オラァッ!! いつまで寝てんだヒダカスこの野郎ッ!!」

「ぐはあああああああああああああああああッ!!」


 夢を見るどころか、ただ一度の寝返りすらも打たないほどの大爆睡。そこから少年の意識を見事覚醒させたのは、顔面への容赦ない一撃であった。


 重いまぶたを渋々こじ開けてみると、何だか視界の真ん中三分の一ほどが暗くて見えない。それも当然と言えば当然のことで、今の彼は晴に顔面を踏みつけられているのである。


「ふぅ、ようやく起きたか。全く、たかがヒダカスの分際でこのワタシを心配させおって」

「いや、それ心配してるヤツの顔踏み付けながら言っていいセリフじゃねぇから」


 樋田はそう言って晴の足を払いのけると、早速布団の上からその身を起こそうとする――――が、その瞬間、バチリと電撃じみた痛みが全身を突き抜けた


「……ってえな畜生。思ってた以上にボロボロじゃねえか」

「オイオイ、まだ安静にしていろ。一応ワタシと松下で応急処置は済ませておいたが、あくまで素人の仕事だからな。気を抜けばすぐに傷口がクパァと開くぞ。クパァとな」

「……あぁ、今はその言葉に甘えさせてもらうわ。つーかお前のテンション見る限り、俺達は二人共助かったってことでいいわけ?」

「うむ、そこに関しては何も心配はいらん。キコは無事だし、オマエの怪我も命に別状があるほどではないからな」


 そうして晴と話しているうちに、ボンヤリとしていた視界もようやくはっきりしてくる。樋田が今寝かされているのは松下の寮室、どうやらそのリビングの中のようであった。

 窓の外は既に暗くなりかけているので、だいたい二時間くらいは眠っていたことになるのだろう。


 樋田は今予備らしき布団の上で横になっており、晴はその隣からこちらを覗き込む形だ。そして松下の姿を探してみると、彼女は少し離れたベッドの上にちょこんと座り込んでいた。

 そんなどこか気落ちした様子の彼女に向けて、樋田はニヤリと強がりな笑みを向けてみせる。


「よぉ、モジャモジャ。折角命の恩人様が目覚ましたってのに挨拶もねえのかよ?」


 顔色はまだ幾らか悪いが、ここから見た限り何か怪我をしている様子はない。彼女がこうして生き残ってくれただけでも、今の樋田にとっては充分すぎる結果であると言えるだろう。

 しかし、当の松下はこちらと目が合うや、何故か気まずそうな表情で頭を下げた。


「すっ、すみません先輩。私のせいで、先輩はこんな目に……」


「チッ、うるせえよ、いらねえよ、どうでもいいよそういうの。別にテメェが気に病む要素なんざどこにもねぇじゃねえか。つーかそんなことより、俺が気失ったあとは一体どうなったんだよ?」


 そんな樋田のぶっきらぼうな物言いに、松下は意外そうに目を丸くする。しかし、やがて彼女は気を取り直すと、訥々とその後の顛末について語り出した。


「……いえ、特に変わったことは何もありませんでした。あのあと秦漢華はたのあやかは私達を手を出すこともなく、本当に黙って去ってしまいましたからね。あの女が去り際に生み出した出口も、きちんと外の世界まで通じていました。そのあとはすぐに筆坂さんと合流して、二人でここまで先輩を運んで来た感じです」


 そうして松下が話し終わると、次は晴がくるりとこちらに向き直る。そのいつもは凛としている面構えが、今だけはどこか柔和にほころんでいるように見えた。


「ワタシも事の顛末はキコから聞いた。色々と話し合わねばならんこともあるが、まずはよくぞキコを守りきってみせたと褒めてやろう。いや、本当によくやったなカセイ」


「……ハッ、何が守り切っただよ。たまたま見逃してもらっただけじゃねぇか。俺ァ別に何も大したことはしちゃいねえよ」


 しかし、そんな晴の温かい表情は刹那で消え失せた。

 樋田の卑屈な言い草がよっぽど不快だったのか、彼女はムスッとその整った顔をしかめてしまう。


「オイ、そうやってすぐに自分を卑下するのはやめろ。オマエの悪い癖だぞ。今までがどうだったかは知らんが、賞賛されるだけのことを成したのならば、黙って素直に誇ればいい。そんな生き方を続けていれば、いずれ心が壊れてしまうぞ」


「心が壊れるって何だよ……いや、何でもないです。すみませんでした……」


 思ってた以上に本気のトーンで説教され、さしもの樋田も素直に反省せざるを得なくなる。確かに今のは自分でも若干イキってた感が否めないことであるし。


「いや、分かればいいのだ分かれば……まあ、よい。みたところカセイの調子も落ち着いてきたようだし、そろそろこれからの話をさせてもらうとするか」


 晴はそう言って一度席を立つと、近くのテーブルの上から一編のレポートを持って来る。

 それはところどころが汚れていたり、しわくちゃになっていたりはするものの、間違いなく樋田達が『叡智の塔』から持ち出した資料の一つであった。


「おお、完全に忘れてたが一応ちゃんと持って帰れてたんだなそれ。つーか肝心の中身の方は読めたのか?」


 しかし、そう気楽な声色で問いかける樋田とは対照的に、晴は眉間に皺を寄せながら「ううむ」と唸る。

 もしかして何かまずいことでもあったのだろうか。


「オイ、どうした。黙ってちゃ何も伝わらねえぞ」


「いや、オマエが寝ているうちに中には目を通しておいたんだが……実はこのレポート、天界内でのみ用いられている特殊な言語で書かれていてな。それもとびっきりの古代言語クラシックでだ。最低でも軽く三千歳は超えるジジババ共でなければ、こんなものは書かん」


 次に晴は「そして」と、別のページを見せつけながら続ける。


「このレポートに書かれている人間を天使にするための特殊機構、確か天使創生システム『Sophiaソフィア』とか言ったか。なんとコイツの名前と構造が、天界の採用している『量産天使ホムンクルス』の生成術式とまるっきり同じだったのだ。正直ワタシもかなり驚いている」


「……オイオイ、そりゃつまりこの学園には天界の息がかかってるってことか?」


 しかし、そんな樋田の指摘に晴は首を横に振る。


「いや、それは違うだろう。この学園は数十年ほど前に設立されたものだが、その頃の天界は人間界への干渉を固く禁じていたからな。容疑者は恐らく簒奪王のように地上で己の欲望を満たそうと、天界から出奔した堕天使に違いない。ただ……」

「ただ?」


 そんな晴の煮え切らない言い方に、樋田はその薄い眉を釣り上げる。すると、晴もやがてハアと溜息をつき、ボソボソと続きを話し始めてくれた。


「いやな。このレポートが仮にその堕天使の指示によって作成されたものだとすると、先程も言ったようにソイツの年齢は軽く三千歳を超える。別に強さと年齢が綺麗に比例するわけではないが、古い天使はそれだけ多くの叡智を学び、自身の術式を改良しているぶん、強力な個体であることが多い。たかが三百年単位の簒奪王ですらあの強さだったのだ。それが三千年ともなれば、神話に登場する神々のモデルになったような連中が出てきてもおかしくはない」


「……なるほどな。で、んなこと長々と並べて結局テメェは何が言いてえ。まさかこの俺様に危ねえから大人しくお留守番してろだのとほざくつもりじゃねえよな」


「無論だ。今回に至ってはオマエに協力してもらわねば困るどころの話ではない。だが、これからワタシ達が立ち向かうのは、それだけの脅威であることだけはしっかり認識して欲しくてな」


 ああ、分かったと樋田はそこで大袈裟なまでに力強く首を縦に振る。

 恐らく晴は樋田のことを心配して言ってくれているのだろう。だがしかし、それだけの覚悟は彼女を簒奪王から救った一ヶ月前に既に出来ている。

 確かに此度立ち向かうのは簒奪王以上に厄介な相手になりそうだが、だからと言ってここまで胸糞の悪い理不尽を見せつけられて、見て見ぬふりをする選択肢など今の樋田にはない。


「ん?」


 と、そこで彼はふと一つの違和感に気が付いた。


 樋田と松下は『叡智の塔』から複数の資料を持ち出したというのに、晴が手に持っているのはそのうちのたったの一編だけ。他の数冊は一体どこに行ったのだろうか。


「オイ、そういえば俺が持ってきた紙束はどうしたんだよ?」


 そんな至極当然の疑問には、松下が指を振り振りしながら答えてくれた。


「ああ、あのときは緊急事態だったんで黙ってましたが、実は先輩あのデッカい怪獣と戦ってるときに全部落としてましたよ。今手元にあるのは松下が持ってたあの一編だけですね」


「マジかよ……、まあしゃあねぇったらしゃあねえが」


「だが、そう落ち込むこともない。この一冊のレポートにオマエたち二人の証言。そしてワタシが『顕理鏡』で掻き集めた『叡智の塔』のデータを合わせれば、この学園の実態はほぼ明らかになったも同然だからな」


 その晴のハキハキとしたよく通る声に、樋田も松下も自然と黙って彼女に注目する。

 晴はそこでレポートをめくる手を止めると、ここからが本題と言わんばかりに姿勢を正し――――遂に私立綾媛学園の隠されし正体を口にする。



「よし、まずは結論から言おう。オマエたちの思っているとおり、この私立綾媛女子学園は決してただの教育機関などではない。その正体は破格の待遇に引き寄せられた女学生を、天使として作り変えるための大規模なだ」



 人体実験施設、晴はそう迷いなく断定した。

 樋田や松下もなんとなく予想はついていたが、こうして改めて他人の口から聞かされると、背中にゾクリと悪寒が走る思いであった。


「そうだな。まずは情報共有も兼ねて、ワタシが突き止めたことから一つ一つ確かめていこう」


 そう言って晴は机の上にお馴染みの電子モニターを出現させた。続いてその画面上には綾媛りょうえん学園のものと思われる立体3Dモデルが映像ホロとして浮かび上がってくる。

 どうやってここまで調べたのかは謎だが、それは驚くほどに緻密で精巧な作りであった。


「まず最初にこの学園自体が巨大な一つの術式になっていることを頭に入れておいてくれ。綾媛の敷地内は常に一定の『天骸アストラ』で満たされているが、それはこの学園を丸ごと球形の結界で覆うことによって達成されている」


「確か、そこらへんは初日で大体予想がついてたんだったな。なんでここまで大掛かりな術式を仕掛けてるかは分からねえけども」


「うむ。だが、その理由も連中の目的さえ分かれば、察することそれほど難しくはない。前にも話したとおり、『天骸』が内包する可能性の力はありとあらゆる概念に影響を及ぼし、その根本的な在り方を歪めてしまう。そもそも天使の正体が『天骸』によって存在を歪められた人間であることを考えれば、答えは自然と一つに絞られるからな」


「……つまり学園に満ちている『天骸』こそが、生徒達を天使化させている要因ってことですか?」


 恐らくは樋田が気絶している間に、『天骸』やら天使やらの専門用語について色々と説明してもらったのだろう。

 控えめながらも会話に入ってきた松下に、晴はハアと溜息をつきながら答える。


「ああ、そう言うことだ。『天骸』への適正を持つ者が、長期に渡ってその影響を受け続ければ、程度に差はあれど間違いなく天使化する。恐らく例の洗脳術式はその補佐の役割を果たしていたのだろう。適性の無い者はそれで手っ取り早く掌握出来るし、ついでに適正がある者をその中から炙り出すことも出来る。カセイの言っていた建物の自己修復も、敷地内の『天骸』を使って自動に発動するタイプの術式が仕込まれていると考えれば、何も不思議なことはない。正に一石三鳥。外道を賞賛したくはないが、よく考えられているものよ」


「で、尻尾出したヤツは見つけ次第『叡智の塔』へ連行。そんであとは天使化を確実なものにするために、例の実験室にまとめてブチこまれるって寸法か……」


「ですけど、そもそもその堕天使とやらは、一体何が目的でそんなに天使を生み出しているんですか?」


「まあ、大方は使い勝手の良い駒にするためだろうな。こんな乱暴な方法で生まれた天使など、ほとんど自我を保つことは出来ないだろうし、その点でも管理するには都合が良い。きっとあの生徒会の五人組あたりも、入力された指示に従って活動しているだけのマネキン人形に過ぎないのだろう」


 そう言いながら晴が再び指を走らせると、今度は綾媛学園の3D立体モデル――――その『叡智の塔』の頂上にあたる位置が、注目しろとばかりに赤い光を放ち始めた。


「そして、ここからが今日のワタシの戦果なのだが、学園を満たす『天骸』の発生源を探ってみたところ、洗脳術式をばらまいている例の鐘と座標がほぼ一致した。塔の頂上とはベタ極まりないが、ここがこの学園のシステムを支える中枢であることは間違いないだろう」


「つまりそこさえどうにかしちまえば、とりあえず生徒達の天使化だけは阻止出来ると?」


「ああ、今はそういう理解で構わん。それで万事解決とまではいかんが、敵の本丸が判明した以上これを叩かない手はない。まずはこの頂上付近の攻略こそを第一優先に考えるのがいいだろう」


 そこでようやく話が一区切りついたのか、晴はそのままグッタリとソファーの上に崩れ落ちる。

 彼女が優れた術者であることは疑いもないが、これほどの情報を突き止めるにはかなり骨が折れたのだろう。

 この件がしっかり片付いた暁には、それなりの労いをしてやらねばならんと、樋田はひとまず頭の片隅に置いておく。


「とまぁ、ワタシが掴んだ情報は大体こんなものだ。兎にも角にも再び『叡智の塔』へ殴りこまねばならんことに変わりはない。そうだな、決行に当たって何か他に聞きたいことはあるか?」

「ええと、じゃあちょっといいですか」

「なんだ、言ってみろ」


 晴が質問を促すとほぼ同時に、遠慮なく手を挙げたのは松下であった。

 態々口に出すまでもないが、次回の『叡智の塔』攻略作戦に彼女を連れていく予定はない。現時点で彼女の役割は既に済んでいるのだが、一体何が気になるというのだろうか。


「実験室の中で天使達が言っていた『火の戦車』ってのは一体何のことなんですか?」


「……ああ、そうだな。それについても一応話しておいた方がいいか」


 晴はそこで言葉を一度切ると、確認とばかりにこちらを見やった。えっ、俺に振るの――と、樋田は思わず目を逸らす。


「カセイ、オマエは預言者エリヤを知っているか? 」


「イリヤもエミヤも知ってるがエリヤは知らん」


「うむ、オマエに聞いたワタシが間違っていた。で、キコの方はどうだ?」


 だったら最初からそっちに振れよ、とか悪態を吐く樋田を尻目に、松下は戸惑いながらもそのエリヤさんとやらについてスラスラと言葉を述べていく。


「はい、エリヤは旧約聖書に登場する預言者の一人ですね。彼の伝説の中だとバアル崇拝者との対決なんかが有名ですが……あっ、だから『火の戦車』なんですね」

「うむ、そういうことだ。中々察しが良いではないか感心感心」

「オイ、だからお前ら勝手に二人で納得し合うのやめてくんない」


 なにオカルトキチ共は今の会話だけでなに言いたいか分かんの、と樋田が批難の視線を送ると、晴は呆れたように両手を広げながらも、『火の戦車』について懇切丁寧に説明してくれた。


「いや、エリヤは色々と特殊な人物なんだが、その逸話のなかでもきわめて特殊なのが死を経験せずに天へと昇った――つまり人の身に生まれながら天使となったことでな。彼はその最期、火の馬が曳く火の戦車に乗って天へと昇り、兄弟の名を冠するユダヤ教の大天使サンダルフォンになったと伝えられている」


 そこで再び晴が指を走らせると、電子モニター上から綾媛学園の立体映像が消失し、代わりに一枚の西洋画が表示された。

 超絶適当にその印象をまとめるならば、空飛ぶ馬車を見ている二人のおっさんの絵といったところである。恐らくこの絵はそのエリヤなる預言者が天使となった場面を描いたものなのだろう。


「即ち『火の戦車』とは人間が天使化することの象徴的な記号になっているのだ。人を天使に変える術式を組み上げるには、まずこれを組み込まないことには始まらん。まあ逆に言えば『火の戦車』の記号さえ取り除いてしまえば、その時点で天使化の術式は機能を停止する。恐らく反転記号とやらは天使化の術式に何か不具合が生じたときの安全装置なのだろうな。暴走した術式の『火の戦車』にその反転記号を入力し、これを対消滅させる。あとは調整が済んだあとに再び『火の戦車』の記号を入力すれば、簡単に術式を再起動出来るという寸法だ。実にスマートで無駄がない」


「悪りぃ、何言ってんのか全ッ然ッ分かんねえ」


「まぁ、要するにパソコンのソフトの中から必須のプログラムだけを破壊して無理矢理に稼働を止めるようなものだ」


「例え話上手いな孔子かよお前……いや、ちょっと待てよ」


 晴の小難しい話を何とか理解し、そこで樋田は一つのとある可能性に気付いた。

 人を天使に変える術式。その稼働を停止するための手段があるならば、既に天使化した生徒達を助けることも出来るのではないだろうか。


 そしてどうやら隣の松下も全く同じことを考えていたようで、樋田よりも彼女の方が先に口を開く。


「えっ、それって筆坂さんも出来たりするんですか?」

「ふん、このアロイゼ=シークレンズをなめるなよ。ワタシの『顕理鏡セケル』はそもそも天骸の観測・解析・再現を司る異能だからな。反転記号のサンプルさえ手に入れられれば、あとはどうにでもなる」


 そんな頼もしい言葉に、松下もにわかに顔を明るくする。しかし、当の晴はそこで「だが」と言葉を切ると、


「あまり過度の期待はするなよ。この方法はあくまで発動途中の天使化術式を停止させるだけで、完全に天使化してしまった者を元に戻すことは出来ないからな」


「……じゃあ、助けられんのは現在進行形で身体いじられてるあの三人だけってことか」


「うむ、だが今最優先にすべきは、やはり『叡智の塔』中枢部の攻略だろう。その三人を助けるのは本丸を片付けたあとにゆっくりやればいい」


「まぁ、それもそうだな。で、決行はいつにすんだよ――――」


 と、樋田が晴の意見に納得しかけたその瞬間であった。



!!」



 いきなりヒステリックな叫び声をあげたのは松下であった。

 普段のダウナーな印象はどこへやら。バンッと机を強く叩き、興奮気味に身を乗り出すその姿は、まるで別人のようであった。


「いっ、いえ、その……」


 自分が思っていた以上に大きな声を出してしまったことに、そこでようやく気付いたのであろう。

 松下は最初焦ったように視線を泳がせるが、それでもすぐに晴のことを真正面から見返した。


「……完全に天使化してしまった子は、もう元には戻せない。そう言ったのは筆坂さんですよね。あの三人はもういつそうなってしまうかも分からないんですよ。なら彼女達の救出を最優先にするべきじゃないんですか?」


「出来るならワタシもそうしたいところだが、こちらは時間も戦力もまるっきり足りないのだ。合理的に考えろ。一にこだわって十を失うようなことがあっては元も子もない」


「で、ですがッ!!」


 しかし、松下のそんな必死の主張にも、リアリストを自認する晴はどこ吹く風である。

 そうして自分では彼女を丸め込むことは出来ないと思ったのか、松下はどこか縋るような視線をこちらに向けてきた。


 ――――いや、俺を巻き込まないでくれよ……。


 しかし、なんでコイツがこれほど女生徒の救出にこだわるかは分からないが、ただの思いつきで言っているわけではなさそうである。

 その瞳に宿る光は正に真剣。先日この学園を救って欲しいと頼み込んだときのものに、勝らずとも劣らない熱をはらんでいた。


 別に松下の肩を持ちたいわけではない。晴が言っていることの方が筋が通っているのも分かる。


 それでも、樋田は次の瞬間、反射的に馬鹿げた理想を口走っていた。


「なあ、別にいいんじゃねえか。言うてそこまで余計に時間がかかるわけでもねぇんだろ」


 途端に晴は苛立ちげに舌を打った。ギロリとこちらを睨め付ける群青には、明らかな怒りの色が浮かんでいる。


「……オイ、カセイ。オマエまで一体何を言いだすのだ。別にあの三人を見捨てるわけではないのだぞ。大体ワタシ達がここで失敗したら、あとは誰がこの学園を救うというのだ」


「それを言うならその三人を助けられんのも俺達しかいねえじゃねえか。たかが十数分のロスで無理だってんなら、ハナから塔の攻略なんざ出来はしねえよ。俺だってどっちかつーと合理的な方だが、手が届く範囲なら最善の結果を目指した方がいいんじゃねぇのか」


「何が最善だッ……!! 小賢しいことをぬかしおって。キサマ、簒奪王を倒せたからと少し自惚れているのではないか。思い上がるのも大概にしろよ。キサマのような惰弱な凡俗風情が、そう何でもかんでも完璧に救えるほど、この世界は甘く出来てなどおらんわ――――」


 樋田の分かったような物言いに遂に堪忍袋の尾が切れたのだろう。

 晴は思わず声に怒気をはらめるが、しかしそれもほんの一瞬のことであった。彼女はそこで大きなため息をつくと、頭を腹立たしそうにかきむしり、そのままソファーの上にドカリと倒れこむ。


「……チッ、このクソガキ共が。まあ良い、今回ばかりはキサマらの青臭い妄言に従ってやる」


 そんな予想外な展開に、松下は思わず目を見開いた。


「……えっ、本当にそれで良いんですか?」


「はぁ? そうしろと言い出したのはキサマの方だろう。確かにワタシも出来れば、その最善の結果とやらで事を収めたいと思っているしな。それとオイ、カセイ。キサマもデカい口を叩いたからには死ぬ気で踊れよ。仮に不甲斐ない姿を見せれば、指の一、二本引き千切られても文句は言わせぬからな」


「ああ、分かってる。俺も男だ。やるからには最後まできっちり役目を果たすさ」


 そう樋田が怯まずに答えると、晴は再び魂が飛び出そうな勢いでため息をつく。

 やはりこの幼女普段は可愛いらしいのに、素でキレるとマジで危ないヤツすぎる。しかし、それでもあの晴にしてはよく折れてくれたというものだ。正直彼女の意見を翻すことが出来るとは思ってなかっただけに拍子抜けの気分である。


「さて、これで方針も定まったことだし、最後にもう一度当日の流れを簡単にまとめておくか」


 そんな樋田の困惑を知ってか知らでか、もう晴は普段の調子に戻っていた。

 未だなんとなくそわそわしている二人を尻目に、彼女は机の上の電子モニターを再び綾媛学園の立体モデルへと切り替える。


「『叡智の塔』内は非常に広大で、その探索は困難を極めるだろうが、実際にやること自体は単純だ。まずは例の実験室で『火の戦車』の反転記号をインストールし、そのまま囚われている三人の天使化を阻止する。その後は最上階を攻略し、洗脳術式と学園への『天骸』の供給を遮断。それで最後にこの計画の首謀者たる堕天使を殺してしまえばそれで事は済むのだが……」

「だが、それには当然邪魔が入る」

「そうだな。オマエたちの話が本当ならば、『叡智の塔』内は手駒にされた隻翼と霊獣で溢れかえっているだろうし、中には秦漢華のような強力な個体も存在する」


 そこで晴は一度「だが」と言葉を区切り、


「こちらの存在は既に学園側に露見した。うかうかはしていては先に向こうの方から刺客を差し向けられることだろう。人数で圧倒的に劣っている以上、一度後手に回れば劣勢を挽回することは厳しい。学園側が何か対策を講じるよりも早く、こちらが先に『叡智の塔』を攻略せねばならん」


「決行は?」


「二日後だ。その日はちょうど開校記念日で、多少学園の中で暴れても、一般の生徒を巻き込まずに済みそうだからな。本当はオマエの傷がしっかり治るのを待ちたいが、事は急を要する。それ以上は待てん」


 そんな晴の言葉に残りの二人も黙って頷き、それでようやくその日のミーティングはお開きとなった。

 時刻はそのときちょうど午後八時を回った頃。まだ帰ろうと思えば十分帰れる時間だが、樋田の体の状態を気遣い、二人は決行日まで松下の寮室に泊めさせてもらうことにした。


「それじゃあ失礼します。朝は松下達で用意しちまうんで、先輩はゆっくり眠ってて下さい」

「それじゃあなカセイ。夜更かしせずにさっさと寝ろよ。明日は今日以上に肉を食わせまくるからな」


「あぁ、また明日な」


 食事やら入浴やら諸々の事を済ませたあと、晴と松下は二人で寝室に向かい、残された樋田は再びリビングに敷かれた布団の上に横になる。


「チクショウ、これ本当にあと二日で治んのかよ……」


 大分長い時間身を休めたというのに、まだ体中がズキズキと痛むし、血を流しすぎたせいか頭の方もなんだかボンヤリとする。

 思えばこの学園に初めて来たからというものの、それはもう災難の連続であった。晴がいきなり発狂しだすは、イかれた宗教儀式を見せつけられるは、ぶっつけ本番で投身自殺を阻止させられるは、今日ズタボロにされたことを除いても大方ろくな目に遭っていない。

 敵の目的どころかその正体すらも分からない状況が続き、底知れぬ不安感に睡眠を妨げられたことも少なくはなかった。


 しかし、結果はどうあれ、あと二日でそんな毎日もようやく終わりを告げる。

 この学園に通う生徒の全員を、陰湿な洗脳や非道な人体実験から救い出す。そして何より、友達思いのあの少女を、何も心配をする必要のない平穏な日常の中へと戻してやる。


 そんなハッピーエンドを引き寄せることが出来るのは自分達しかいないのだ。


 決して失敗は許されない。

 決して敗北は許されない。


 そう己の心に深く刻み込みながら、樋田はゆっくりと目を閉じた。


 

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