第九十六話『浮き上がる黒点』其の一


 自分達の進む先にろくでもない空間が広がっているであろうことは、陶南すなみが指定した集合場所に着く前から分かっていた。

 東京湾から吹き込む潮風、幼い頃から慣れ親しんできた海の香り。それら海沿いの清涼な雰囲気を台無しにする、ただただ不快な焦げ臭さが鼻をつく。

 バイクで樋田ひだはたのが目指すは、品川埠頭の近くにある元工業地帯である。そちらの方角に目を凝らすと、空に向かって数十本の黒い煙が立ち上っているのがよく見えた。


「……こりゃ覚悟しといた方がいいかもな」

「……そうね」


 陶南の話によれば今からおよそ二時間前。

 あの場所で魔王インドラ率いるダエーワの大群と人類王勢力じんるいおうせいりょくの一団が激突し、結果後者が全滅に等しい多大なる損害を被ったのだという。

 空間全体を曖昧に包み込む嫌な臭い、ところどころから散発的に立ち上る黒い煙。それらが少年少女につい先程までこの場が戦いの舞台、いや紛れもない殺し合いをするための戦場であったことを殊更に意識させる。


「もう道が無いわ」


 キッカケは秦のそんな呟きだった。

 近くの丁度良い場所にバイクを止め、そこから樋田と秦は徒歩で戦場の跡地へと向かう。その間二人の間に一切の会話はなかった。


 一歩進むごとに段々と焦げ臭さが強くなっていく。ただその場所に近づいているという事実だけで胸の奥底が何だか息苦しくなっていく。

 それからしばらく倉庫が立ち並ぶ一角を歩いて歩いて、樋田と秦はついに建物の少ない開けた空間へと出た。



「……」

「ッ――――!!」



 二人は言葉を失う。そこはまさに地獄であった。

 倉庫の森を抜けた先、少し広場のようになっているその一帯は物言わぬ屍体に埋め尽くされていたのだ。

 樋田のすぐ足下には、首から上だけを綺麗に失った悪魔の死骸が転がっている。その隣にはダエーワに食い散らかされたのか、最早人としての原型を留めていない肉塊すらあった。

 それら屍体のほとんどは人類王勢力に狩られたであろうダエーワのものだが、それでも多くの人間がここで命を落としたことは見ただけで分かる。


 ――――何が起きやがった、一体ここで……?


 時折ブーンと小さな虫の飛ぶ音が聞こえる。

 鼻孔を犯す濃厚な血の臭い、人の肉が焼けたであろう最悪な匂い。樋田は不快そうに顔をしかめ、思わず口と鼻を手で覆う。

 最悪の気分である。だが彼は一応それだけで済んだ。出来れば慣れるような環境に身を置きたくはなかったが、ある程度屍体と血を見ることへの耐性はある。

 しかし、彼の後ろにいる赤毛の少女は別であった。


「なによっ、これッ……」


 今にも吐きそうな声に慌てて後ろを振り向く。

 少女――秦漢華はたのあやかは明らかに動揺していた。自分の体を抱き寄せるように抱え、真っ赤な瞳は忙しなく震えている。終いにはまともに立つことすら辛いのか、傍の壁に寄りかかり始める始末であった。


 樋田はそこでしまったと舌打ちをする。

 自分は簒奪王さんだつおうやムンヘラスとの戦いの中で、この手の残虐には幾らか耐性が付いた。だが秦は違う。彼女は確かに強力な天使ではあるが、それ以前に未だ高校二年生の女の子でしかないのだ。

 そんな子がいきなりこんなものを見せられて、平静を保っていられるはずがない。


「オイ、見るなッ」


 秦の腕を引っ張り、半ば力付くで後ろを向かせる。それでも彼女はなお辛そうなままであったが、時間が経つにつれて徐々に落ち着きを取り戻してくれた。

 震えは収まり、俯きがちだった視線も少しずつ上に上がっていく。しかし彼女の顔色は先程と比べて明らかに悪くなってしまっていた。


「……ごめんなさい、急に取り乱したりして」

「謝ることじゃねえよ。むしろあんなもん見て平然としてる方がどうかしてるだろうが」


 弱った様子の秦に、樋田は知らず知らずのうちに調子を合わせていた。いつのまにか普段の吐き捨てるような物言いは鳴りを潜め、低く刺々しい声色も幾らか柔らかくなっている。


「お前、いいからちょっと座ってろ。つーか一旦戻れ。陶南の話は俺が聞いておく」


 しかし秦は力なく、それでもしっかりと首を横に振った。


「……それは出来ないわ。アイツが呼んだのは私だもの。一度引き受けたことを途中で投げ出すなんて真っ平ゴメンよ」


「相変わらず頑固な野郎だな……」


 まだ秦とは短い付き合いだが、彼女がこういう性格だということは理解した。きっと樋田が何を言ったところで彼女はテコでも動かないだろう。


樋田可成ひだよしなりさんでしたね」

「……あぁ?」


 そんなとき背後から突然名前を呼ばれた。聞き覚えのある平坦な声に振り返ると、やはりそこにいたのは陶南萩乃すなみはぎのであった。


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