第三章 千年罪歌

プロローグ1『四千年ぶりの善と光と白』


 少女の名は草壁蜂湖くさかべほうこと言った。


 都内の共学校に通う花の女子高生。

 亜麻色に染められた長い髪にだらしなく着崩された制服と、学生にしてはかなりヤンチャな格好をしているが別に非行少女というわけではない。

 割とトゲトゲとした性格の負けず嫌い。

 運動神経はそれなり、一方勉強はやや苦手。

 決して交友関係は広くないが、放課後もつるむような気の合う友人が数人いる。


 そんなどこにでもいそうな普通の女子高生は、今日も仲の良い友人二人と共に、学校から帰宅の途に付いている最中であった。


「もー、蜂湖まーだイライラしてんのー? 飴ちゃんあげっからさー、いい加減機嫌なおしなってー」


「はあ? 別にイラついてなんかねえし。ただちょっとムカついているだけだわ」


「いや、それ同じだわ。嫌いなら態々絡まなきゃいいのに、ぶっちゃけ蜂湖って結構アホっしょ」


 時はかつて東京の街にも薄っすらと雪がチラついた二〇一六年の二月十五日。

 今日の正午からずっと不機嫌でいる草壁を、二人の友人は左右から面白半分に茶化してくる。


 だが、彼女はこのように常日頃からイラつきまくってるわけではない。

 確かにどちらかと言えば短気な方ではあるが、いつもはむしろこの二人と学生らしくバカなことをして、楽しんだり笑ったりしていることの方が多いくらいなのだ。


 ――――あーもう、ムカつくんだよあのクソ女ッ!!


 だがしかし、実際彼女たちが言う通り、ここ最近の草壁蜂湖は割と本気でイラついていた。


 別にこれといって特別な契機があったわけではない。

 ただ草壁達にはこれまで、気が合わなそうだからと、何となく避けていたクラスメイトが一人いた。


 しかし、つい最近ひょんなことでその女と初めて関わってみたところ――――これが思っていた以上に気に食わないヤツであったのである。


「うるせえッ、そう言うテメーらだってこそこそアイツの悪口言ってただろうがッ!!」


「そうだっけー? 別にあたしはなんとも思ってないけどー」


「まあ確かにウチもアイツのことは好きじゃないけどさ、喧嘩売んなら一人でやってよ。はたののヤツああ見えて腹黒そうだし、トバッチリはマジ勘弁だから」


 そう、そいつである。

 秦――正しくは秦周音あまね

 そのいけ好かないクソ女のこそが、ここ最近の草壁を苛立たせ続けている全ての元凶であった。


「まー、蜂湖っていつも秦さんに突っかかってはボコボコに論破されてるし、イライラしてもしょうがないよねー」


「論破なんてされてねえしッ!! あんなモンただ闇雲に正論振りかざしてるだけじゃねえか。だってのに、どいつもこいつもアイツのことバカみたいに持ち上げてて気持ち悪いったらありゃしねえ。それに先公共もアタシらの頭にはネチネチ文句言う癖に、何故かアイツのふざけた髪色だけはしれーと黙認してるっていうな。そういうところもムカつくんだよ本当ッ!!」


 そんな最早言いがかりにも等しいやっかみを、延々と友に愚痴りながら帰り道を行くことしばし。

 気付けば二人との分かれ道となる十字路はすぐ目の前であった。


「じゃー、あたしこっちだからまだ明日ー。いっぱいご飯食べていっぱい寝なねー」

「じゃあな蜂湖、ちゃんと家で頭冷やしとけよ」


 言外に「あまり気にすんなよ」と言い残し、二人はそれぞれの帰り道へと去っていく。

 そんな彼女達に軽く手を振って応え、亜麻色の少女もまた再び自宅への帰路を歩き始める――――と、草壁蜂湖という少女の日常は大体こんなものであった。


 普通だ。あまりにも普通過ぎて、いっそ退屈と言ってもいいほどに。

 何か特殊で刺激的なイベントが起きるわけでもなく、ただ平穏に時間が過ぎ去るだけのありふれた日々がそこにはある。


 彼女の送る日常は正しく一般的な女学生のそれであり、使



 だが、そんなことは関係ないのだ。



 それはこれより二ヶ月後のこと、とある半グレ少年が突然、神権代行しんけんだいこうクラスの術式をその身に背負わされるのとよく似ている。

 天使――特にその中でも天界本来の理から外れた堕天使と呼ばれる存在は、既存の法則に従って慎ましく生きる人々の営みを、自らの都合のために平気で踏み荒す。

 

 だから、草壁蜂湖が愛する平和な日常もまた、なんの前触れもなく、そしてなんの予告もなしに、その日で唐突な終焉を迎えることとなった。

 


「痛ッ……!!」



 きっかけは些細なことであった。

 突如、チクリと足首の辺りに突き刺すような痛みが走る。

 何事かと足元へ視線を落とすと、そこにいたのはクネクネと蠢く細長い筒状の黒影――正しくは一匹の黒蛇が草壁の足に噛みついていた。


「……はぁ?」


 草壁は別に爬虫類の生態について詳しいわけではない。しかし、蛇という生物の中に毒を持つ種が少なからず存在することぐらいは知っている。


 得体の知れない毒物が体の中に入ってしまったかも知れない。そう考えただけで、頭の内側からサッと血の気が引く思いであった。


「ちょ、冗談だろッ……!!」


 恐怖に駆られた草壁は、反射的にもう片方の足で蛇の胸のあたりを踏みつける。幸いそれだけで爬虫類は足首からすぐに口を離してくれた。

 そのままビックリして草陰へと逃げ出す黒蛇を尻目に、少女は思わずその場にしゃがみこんでしまう。


「……マジありえねえ」


 再びズキリと右の足首が痛んだ。

 傷口をよく見ると、ストッキングの隙間から結構な量の血が滲み出している。


 最悪の気分だ。

 ツイてない。あまりにもツイてない。

 

 どんな種類の蛇に噛まれたかが分からない以上、やはりいくら面倒臭くとも一度医者には見せておくべきであろう。

 そうして草壁は近くに病院が無いか検索しようと、制服のポケットにしまってあるスマホに手を伸ばそうとする。すると――――、



 ――――久しいな。これが、光か。



 瞬間、は突然湧いた。


 されど、別に誰か具体的な人物が現れたというわけではない。

 四方を見渡してもどこにも人の姿はないというのに、何故か低くくぐもった声だけが少女の脳内に直接響き渡る。


 それはまるで自分の精神の中に突然、別の人間の意識が入り込んできたかのようであった。


「……オイ、なんだ今の」


 草壁の精神は一瞬でパニックに陥った。

 体は恐怖に悲鳴を上げたがっているというのに、何故だか首でも絞められているような掠れ声しか出てこない。

 まず、そもそも体が動かなかった。

 一瞬金縛りかとも思ったが、そんな単純で生易しい物ではないと即座に切り捨てる。


 一体今何が起きた?

 そもそもこの声の正体は一体なんなのだ?


 分からない。何も分からない。

 そして分からないからこそ、余計に恐ろしかった。


 自らが危機的な状況に陥っていることだけは確かなのに、それに対して何も具体的対抗策を講じることが出来ないという圧倒的な絶望感。

 怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖いと、まるで脳という機械がバグでも起こしたかのように、一瞬で胸中がドス黒い恐怖に埋め尽くされていく。


 ――――クククッ、ようやく依り代になれそうな個体を見つけたから入り込んではみたが……どうやらとんだハズレを引かされたようだな。多少はこの俺の血をひいていながら何と粗末な悪性。まさか折角人の子に撒いた種が、たかが四千年経った程度でここまで落ちぶれてしまうとはッ……!!


 そんな粗暴で品性の欠片もない物言いの直後であった。

 先程得体の知れない黒蛇に噛み付かれた草壁の足首、そこから突然黒い影のようなモノが這い出てきたのである。


 黒影はゆっくりと少女の皮膚を這い、その頭部を目指して上へ上へと登っていく。そのあまりのおぞましさに草壁は悲鳴を上げそうになるが、最早この身体にはその程度の自由すらも残っていない。


 やがて首元まで到達した黒影は、獲物に迫る蛇が如く怪しげな挙動を見せ――――そして、近くにあった少女の耳の穴にズルリと潜り込んだ。


「イッ、ギアッ……!!」


 最早気持ち悪いなんてものではなかった。

 酷い異物感。胸が熱い。頭が割れる。押し寄せる吐き気が止まらない。

 そのまるで頭の中をミキサーにかけられるような感覚に、草壁蜂湖の未だ幼い精神は瞬く間に消耗していく。

 しかし、そうして未知の恐怖に震える少女とは対照的に、内なる声は如何にも上機嫌な様子であった。



 ――――フンッ、驚かせるなよ。やはりいるところにはいるではないか。お前自体は期待外れもいいところだったが、これならの方はそれなりに期待出来そうだ。



 兄。

 内なる声がその単語を発した直後、草壁蜂湖の頭の中は真っ白になる。

 ろくに動かないはずの体は恐怖にヒクつき、あまりの恐怖にただ息を吸うことすらも難しくなる。


 されど、草壁蜂湖が恐怖を抱いたのは内なる声に対してではない。

 彼女は今こうして自らの体を縛っている何者かよりも、ただ話題に上がっただけの兄の方を恐れているのだ。


「……やめろ、アイツにだけは絶対に関わるなッ」


 草壁は内なる声に半ば体を乗っ取られながらも、何とかそれだけは口にする。しかし、対する黒影は海の底から湧き上がるような低い笑い声をあげると、


 ――――フフフッ、中々に痛快な表情をするな女。よし、それではお前が恐れるその兄とやらが、一体どれほどの悪性であるか……特別にこの全殺王ぜんさつおうが見定めてやることとしようッ。



 もうこちらの意思などは一切関係なかった。



 ――――やめろッ、何なんだよテメーはッ!! さっさとあたしの中から出て行きやがれええええッ!!


「粋がるなよ雌犬。他にまともな依り代さえ見つかれば、かように些末な体、今すぐにでも捨ててくれる」


 そして遂に肉声と内なる声が入れ替わった。

 全殺王を名乗る何者かは草壁蜂湖の体をもって言葉を紡ぎ、一方の少女は最早新たな体の主人に思念をもって語りかけることしか出来なくなったのだ。


 だが、たかがそんなことよりも今は兄である。


 嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。

 会いたくない、顔も見たくはない。


 あれから長い時間を経て、草壁蜂湖はようやく兄の影に怯えることも、あの忌まわしい過去に囚われることもなく、ただ普通の女の子として日々を過ごせられるようにまでなったのだ。


 しかし、ここでもう一度兄と関わるようなことがあれば、その全てが無駄になる。

 あの男を兄に持ってしまったというだけで、また深く暗い闇の中でしか生きていけなくなってしまう。


 しかし、全殺王はそんな少女の必死の訴えには耳を貸さず、黙々と兄がいるとある場所へと向かっていく。

 幾つか電車を乗り継いだ果て、辿り着いてしまった駅の名前は東池袋。そこから更に十分ほど歩くと、すぐにその忌まわしい建造物が視界内に飛び込んで来た。


 巣鴨監獄・刑務所。通称巣鴨プリズン。

 明治の後期から百年以上の時を経た本日まで、思想犯やスパイなど、多くの重罪人を収容して続けてきた死の牢獄がそこにはそびえ立っている。


 そして現在本邦に二百五十七人いる死刑囚のうちの一人であり、僅か一九歳でこの巣鴨プリズンに収容されたのが――――草壁蜂湖の兄・草壁蟻間ありまであった。

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