第六十四話 『シークレンズ』


「こちらが我等が主の御部屋となります」


 複雑に入り込んだ『叡智の塔』の中をしばらく歩いた先、晴が陶南に連れてこられたのは意外にも極普通な扉の前であった。

 正直色々悪い想像を働かせていた身としては拍子抜けと言わざるを得ない。


 まぁ、いい。

 本当に向こうが話し合いをする気ならば、こちらもテーブルの上での戦いに気持ちを切り替えるだけだ。

 こちらの情報は出来るだけ隠しつつ、あちらの情報を出来るだけ引き出す。

 そう口で言うほど上手くいくとは思わないが、現状拳で殴り合うだけの戦いと比べればまだよっぽど勝ち目があるだろう。


「失礼します」

「どうぞ」


 部屋の中から返事が返り次第、陶南は扉を丁寧に開く。するとその向こうには、これまた大して広くもない一般的な書斎じみた空間が広がっていた。

 陶南の後ろをついていく形で部屋の中に足を踏み入れると、誰が触れるでもなく背後でガチャリと扉が止まる。


「我等が主よ。ご申し付け通りシークレンズ様をお連れしました」

「あぁ、ありがとう。手間をかけさせたね。じゃあ、もう下がってくれて構わないよ」

「は」


 書斎の中心に位置する大きな机。そこに背を向けて座る何者の言葉に従い、陶南はそのまま黙って部屋の外へと出ていってしまう。

 然して、書斎の中にはアロイゼと、陶南から主と呼ばれる謎の存在の二人のみとなった。

 さて、舌戦の相手は如何なるものか。決して表面上に出さないものの、緊張していないと言えば嘘になる。


「いやはや、なんと言葉を掛けたらいいものか」


 机に座る何者かはそう困ったように言いながら、おもむろにこちらを振り返る。

 そこにいたのは白髪混じりの髪を後ろに流し、血のように真っ赤な瞳が特徴的な中年の男であった。いや、その顔を改めてよく見ると髪色以外は驚くほどに若々しく、むしろ二〇代と言われても問題なく通じるほどである。

 悔しくも晴がその男に初めて抱いた印象は、上品だとか優雅だとかそういうプラスのイメージであった。


 ――――これは、思ったよりも面倒なことになりそうだな……。


 だがしかし、どこか危険な香りがする。

 例えばその不自然なまでに瑞々しい面構えの根拠が、毎日処女の生き血を吸っているからだと言われても何も不思議に思わないような――――そんな人間と相対しているときには決して感じない決定的な違和感がそこにはある。

 一方の白髪の男は晴を興味深そうに眺めながら、おもむろに頬杖をつくと、


「ふっ、これでも人を教え導くのは得意な方なんだが、いざ自分の気持ちを伝えようと思っても中々言葉が思い浮かばないものだ。だが、今は率直にこうして君と再び出会えた喜びを祝そう。シークレンズ、僕は君が帰ってきてくれたことに心の底から感謝する」


「……気安く我が名を呼ぶな下郎。やけに馴れ馴れしいことを抜かしおって、私は貴様の事など知らんぞ」


 先に断っておくと、晴にとってこの男は別に知り合いでもなんでもない。天界時代の記憶をあたってみても、その顔と声に一切の覚えはなかった。

 だというのにいきなり旧知の友と語り合うかのように話しかけられ、晴は思わず警戒するように一歩後ろに下がる――――と、その直後のことであった。



「確かにそれもそうだね。でも、君には本当に感謝しているんだよ。こうして本来饒舌なはずの僕が、思わず言葉を詰まらせてしまうほどにね」

「――――ッ!?」



 その瞬間、アロイゼの身に走ったのは背中にいきなり氷を入れられたような悪寒であった。

 男は晴の耳元に直接、あともう少しで呼吸音すら聞こえそうなでボソリと囁く。


 目の前の男が一体いつどのように動いたのか、観測を司る天使である晴にも全くもって分からなかった。

 気が付くと白髪の男は晴のすぐ隣に立っており、その肩に優しく右手を置いている。そうしてまるで生徒を慈しむ教師のような手付きで、晴の頭をなだらかに撫で回してくるのであった。


 ――――貴様、話し合いだのなんだと抜かしておきながら、このアロイゼ=シークレンズを愚弄する気かッ……!?


 気色が悪い。今すぐにでもこの手を振り払ってしまいたい。しかし、何故か体が言うことを聞いてくれなかった。

 なにか特殊な異能で動きを拘束されているわけではない。敢えてこの状況を説明するならば、晴の中にある本能的な何かが「この男に逆らってはいけない」と叫んでいるのである。


 そんなあからさまな子供扱いに、アロイゼの自尊心はゴリゴリと削られていき、今すぐにでも死んでしまいたいほどの怒りと恥辱に襲われる。


「よく死ななかった。よく生き残ってくれた。君が天界から『燭陰ヂュインの瞳』を持ち出してくれたからこそ、僕はベルノートに勝つことが出来るんだからね」


 そうして男がおもむろに手を離すと、晴は腰でも砕けたかのようにその場へと座り込んでしまう。

 今の一連のやりとりでこの男に対する嫌悪感が頂点に達する一方、晴はこの男が確かな強者であることも認めざるを得なかった。


 此奴は強い。未だその権能も『天骸アストラ』も見てはいないが、アロイゼにはそれが分かる。

 つい先程秦漢華はたのあやかの強大な力に恐れ慄いたばかりであるが、此奴はあの化け物と比べても正に格違いであった。かつて秦に対して感じたあの感情が恐怖ならば、今自分がこの男に感じているこの感情はきっと畏怖なのであろう。


「貴様、何者だ……?」


 それでも、晴は心が先に屈服してしまいそうになるのを何とか堪えて言う。

 折角仇敵たるこの綾媛学園の長が、馬鹿正直にも話し合いの場とやらを設けてくれたのだ。連中の目的やら、コイツの正体やら、何かしらの情報が得られなければここまで来た意味がない。

 しかし、対する白髪の天使はそんな晴の焦燥など気にもせず、まるで世間話でもするかのような軽い調子で問う。


「そうだね。そのまま名を名乗ってもいいけど、多分最近三桁に達したばかりの君ではピンとこないだろう。だから、まずは事前情報として段階を踏ませてもらう。ということで質問だけど、君も『十三王会議じゅうさんおうかいぎ』って言葉ぐらいは聞いたことがあるよね?」


 質問を質問で返され、晴は顔を顰める。


「……天界の全天使を統べる最高指導機関だろ」


「ははっ、御名答。それじゃあ君はその十三王の名を全て言い当てることが出来るかい? あぁもちろんベルノート――――いや、泰然王の変が起こる前の天界についてだけど」


「……チッ」


 知ってて当然のことを態々問いかけられ、晴は不満気に舌を打たずにはいられない。

 この男が一体何を言いたいか分からない。だが、ここはあくまでスピーカーに徹してやることとした。


「泰然王ベルノート=ジェイ=サーザック、

 豊穣王アールマティー=ジュノー、

 幽玄王エレストレミア=シークレンズ、

 落陽王ソル=ビー=カルデスティー、

 黄道王スプレンディテネンス、

 蒼穹王アトラス、

 武光王アダマス、

 秩序王レックスオノリス……あぁあと簒奪王に殺された鎮魂王グロリオスス=レックスも含めれば九人か」


 晴も当時は天界から亡命するだけで精一杯だったので、あの変によってどれだけ天界の勢力図が塗り変わってしまったのは知らない。

 されど、確か泰然王自らの手によって、落陽王を除く王の全ては殺されてしまったと聞く。


 しかし目の前の男は何故そんなことを聞いたのかと、晴は小首を傾げる。しかし対する白髪の男はその真っ赤な目を細め、どこか感慨深そうな表情を浮かべていた。


「……そうか。『十三王会議』を名乗りながら王が九人しかいないのはおかしい――――最早誰もそう違和感を覚えることもなくなるほどに、あれから長い時が経ってしまったのか」

「貴様まさかッ……!?」


 そこでようやく晴の頭に一つの可能性が思い浮かぶ。未だアロイゼが天界にいた頃、確か主人であった幽玄王が話してくれたことがあった。

 筆坂がこの世に生を受けた一八七一年よりもずっと昔、それは神の子が原罪を背負って十字架にかけられた頃よりも、或いは神武帝によって大和東征が成し遂げられた頃よりも、或いは舜帝より禅譲を受けた姒文命が夏王朝を創立した頃よりも、或いは人類が初めて歴史としてその足跡を刻み始めた頃よりも古き原初の時代――――即ち天界がこの世界に開闢された紀元前三千年代においては、今と違い『十三王会議』は文字通り十三人の王によって構成されていたと。


 ――――そんな、いや冗談だろ……?


 晴はこれまで欠番となっている四王について、何かしらの要因によって死亡したのではないかと解釈いた。実際彼女が生まれたのと同じ年には、卿天使ワスター=ウィル=フォルカートによって王の一人である鎮魂王が殺害されている。

 天界は開闢してから既に五千年以上の月日が過ぎている。それだけの長い時間があれば、いくら半永久的な寿命を持つ天使の王とはいえ、それこそ鎮魂王のように途中で何人か殺されていても不思議ではないだろう。

 そして新たに王として相応しい天使が存在しない限り欠員が補充されないのだとすれば、『十三王会議』が十三人の王によって構成されていないことにも納得がいく。実際アロイゼだけではなく天界のほとんどの天使はそう認識していた筈だ。


 しかし目の前の男は晴のそんな常識を、当然だと思っていた共通認識を、あまりにも呆気なく覆していく。


「その反応を見るにようやく分かってくれたようだね。君達が四桁を超える天界の重鎮達から聞かされたように、確かに天界は本来人類種の存続、及びその発展促進のために開闢された」


 しかし、そこで白髪の男は「されど」と言葉を切ると、


「それが人の手によって運営されているものである以上、国家と同じように彼等が過ちを犯す可能性は否定出来ない。つまり天界が未来永劫人類存続のための機関として機能し続ける保証はないんだ。初めは相互繁栄のために生み出されたはずの組織システムが、いつしか一部の上位者による搾取のための構造システムへと変わってしまうようにね。だから君もそうして天界に抗おうと身を粉にしているんだろう? 実際天界が本気で地上へ干渉しようとすれば、人類はたちまちにその支配下に落ちてしまうだろう」


「……ペラペラペラペラとよく口の回るやつだ。で、貴様はそれで一体この私に何が言いたい」


「そう急かさないでくれ。まずは事前情報だと言っただろう。心配しなくても、そろそろ君が知りたい話に入るはずだ」


 男はそう言って晴に背を向けると、パチリと何気なく指を鳴らす。

 すると男の全身から非常に純度の高い濃厚な『天骸』が溢れ出し――――続いてその背から左右に三本ずつ計が飛び出したのである。


「『六翼の攻セラフィムアーツ』ッ……!!」


 晴が絶句したのも無理はない。

 普通の天使ならば良くても翼は二本が限界、卿天使においても四本出せれば十分一流の域と称される。即ち翼を六本展開出来るということは、そのままその天使が十三王か、或いはそれに匹敵するレベルの存在であることの証左となるのだ。


「話を戻すけど、もし天界が下界に過剰干渉を行うようになっても、地上人類がそれに抗う術はない。だから天界が開闢された五千三百六十五年前、僕達四人の王は、天に対する抑止力としてこの地上に残ったんだよ。そのときベルノートは僕にこう言った。オマエが人類に仇を成したときには、オレがオマエを殺してやると。そして僕もベルノートにこう言った。嗚呼君が人類に仇を成したときには、僕が君のことを殺してやろうと」


 気付けば晴の小さな体は震えていた。

 確かにこれほど大規模な計画の黒幕ともなれば、それ相応の実力者が出てくるとは思っていた。しかし、こうして改めて自分が何に喧嘩を売ったのかを思い知らされると、思わずゾッとせずにはいられない。

 アロイゼは今年でもう百四十五歳になる。最早並大抵のことで動じるような歳ではない。ましてやこの自分が恐怖を覚えるなど、これから先もうないと思っていたというのに。


 ――――落ち着け。目の前の現実から目を逸らすな……ッ!!


 敢えて何かに例えるならば古い歴史書に出てくる顔も分からない偉人か、或いはおばあちゃんの昔話に出てくるような、本当に実在したかも分からない寓話の登場人物がいきなり目の前に現れたような感覚であった。

 軽く齢百を超える晴もその存在を実際に目の当たりにしたことはない。だがそれでも、名前だけは知っていた。いや、恐らく一度でも天界に籍を置いた者ならば、何かしらの形でその名を知っているはずであろう。



「貴様、もしやか……?」



 晴は問う。

 対する男の反応は微々たるものであり、しかし不気味なほどに顕著のものであった。

 それまで柔和な神父じみた表情をしていた男が、ほんの一瞬呆れるようにハアと溜息をついたのである。


「……?」

「へ?」


 、男の口から飛び出した思いがけない名前に、晴は思わず間抜けな声を上げていた。

 幽玄王エレストレミア=シークレンズ。それはかつてアロイゼが天界にいた際――直接の面識は少なくとも――彼女の主人であった天使の名だ。


 何故だ。何故今ここであの王の名が出てくる。

 そう晴が本能的に警戒心を高めたその直後――――まるで脳の中をムカデが這い回るような激痛が頭に生じた。



「ギガグツァアアアゲギュアイアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」



 あまりの激痛に言葉にならない叫びが漏れる。

 いや、この感覚には覚えがある。これは確か六日前、晴が初めて学園に足を踏み入れた際の異常の酷似している。


 ダメだ、もう意識が――もたない。暗い。目の前が、黒く染まる。まるで、自分が自分では、なくなるようであった――自分の中にいる何かが、筆坂晴を押しのけていく、そんな堪らなく不快で、屈辱的な感覚――――――――、





 そしてその一言が、決定的な瞬間となった。

 今の声は間違いなく晴の声帯が発したものであった。つまり、晴の体をもって晴以外の何かが言葉を紡いだのである。


 音が消え、色が消え、然してアロイゼ=シークレンズの意識は完全に断絶した。


 そのあとこの書斎の中で一体何が行われたのか、最早彼女が知る余地はない。



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