第八十話 『終わらない。どちらかが滅ぶまで』
樋田が先日のムンヘラス・アジ=ダハーカ戦で負った傷はそれなりに深く、結局彼はあの日からの五日間をまるごと療養に充てさせられた。
実際、初日は少し寝返りを打つことさえも苦痛であったし、再び戦場に立つためには傷を癒さねばならないということも理解出来る。
しかし、この東京がダエーワに犯されている現状を知っているだけに、何をすることも許されず、ただベットの上で絶対安静を強いられるというのは想像以上の苦痛であった。
一体今日までに何度、こっそり煎餅布団を抜け出そうとしたところを晴に見つかり、怒りと心配の入り混じった愛の拳を浴びさせられたであろうか。
――――……だが、これでようやくだ。我ながらあれぐらいで五日もへばるたあ情けねえたらありゃしねえ。
しかし、そんな雌伏の日々も恐らくは今日で終わる。
五日目の朝を迎えた午前六時、樋田は今布団の上で胡座をかき、目の前に立つ少女を真っ直ぐに見上げていた。
当然その視線の先にあるのは筆坂晴。
仁王立ちで少年と向かい合う彼女の表情には、「ようやくこの日が来たか」と言わんばかりの感慨深い色が浮かんでいる。
「よし、それでは少し身体を動かしてみろ」
「……テメェの感覚としちゃあ問題ねえんだが」
「黙ってやれ。さもなくば、ワタシの手で療養期間を三倍に増やしてやる」
暗に半殺しにすると言われ、樋田は渋々と傷の確認を始める。
まずは先の戦闘で開いた脇腹の傷であるが、こちらはもう綺麗に塞がってくれていた。確かに腰を捻ると微かに痛みはするが……いやなんでもない。この程度のものはケガのうちには入らない。
続けて右腕をグルグル回してみるが、こちらも幸い特に大きな異常はない。(小さな異常はある)
確か先の戦いの中で骨にヒビが入るような感覚があったが、幸いなことに気のせいのようであった。心なしか前腕がズキズキ痛む気もするが、絶対に気のせいに決まっている。
――――良し。ここまで動かせんなら、あとはどうにかなるだろ。
まるで自分に言い聞かせるように心中で呟く。
正直なことを言うと、未だ樋田の体はかなり怪しい状態にある。
流石に日常生活ぐらいは普通に送れるだろうが、戦闘でどれだけ動けるかは実際に戦ってみければ分からない。
――――まぁ、ここで下手なこと言ったら、マジで入院でもさせられそうだぜ……。
だから、そこらへんの不安は、強がりと痩せ我慢で全部包み隠してしまうことにした。
樋田はニヤリと口角を上げ、如何にも自分は万全だと言わんばかりの表情を浮かべると、
「あぁ、クソ絶好調だ。この調子なら戦闘にも支障はねえだろうよ」
「そうか……まあ、ワタシとしてはオマエにはもう少しここで穀を潰していて欲しかったのだがな」
しかし、対する晴は不服な様子であった。
樋田も彼女が自分を心配してくれているのは分かるのだが――――正直、今だけはその気遣いが少し煩わしい。
「ざけんじゃねえよ。こうして動けるようになった以上、今日から俺も戦線に復帰する。いつまでもこんなとこで役立たず晒すなんざゴメンだからな」
「……まぁ、いい。オマエがこういうところで妙に頑固なのは、このワタシも流石に理解したさ」
しかし、晴は呆れたような溜息をつきつつも、あっさりと戦線復帰を許してくれた。
いざとなったらコイツが風呂にでも入ってるうちに、窓から逃げようとまで考えていたので、拍子抜けな気分になってしまう。
「どうした? 随分と物分かりがいいじゃねえか」
「どうしたと言われてもな。よしんばワタシが止めたとしても、結局オマエは行ってしまうのだろう? なら、もうはじめから好きにすればいい。ワタシとて人を叱るのはそれでそれなりに疲れるのだからな」
しかし、そこで晴は思わず吹き出すようにフッと笑う。
「冗談だ。オマエはオマエの生きたいように生きろ。度を超えん限りは、ワタシも無粋なことは言わん」
「……ありがとうな、晴」
「急に畏るな。それはそれで気色が悪いぞ」
煩わしい、などと一度でも思ったことが少し恥ずかしくなった。
然して、理解のある相棒から許可を取り付けた樋田は、そのまま早速外へ出掛ける準備を整え始める。パジャマから私服に着替え、最低限の荷物を用意し――――しかし、それでも彼の顔は未だ暗い。
確かにこれで自らの傷はある程度癒えた。
けれども、あの日共に戦った赤髪の少女、
一応例の束縛アプリを用いて、「大事ねえなら連絡しろ」的なメッセージを送ってはいるが、今日この瞬間に至るまで一切返事がない。
別にキモがられて無視されている分にはいいが、もし仮に彼女が今メールすら返せない状態に陥っているのだとしたら……。
そう、樋田が割と本気で胸をかきむしりたい衝動に襲われていると、
「はあ、あのメンヘラチャイナ娘のことだがな、どうやら最近あちらも動けるようになったらしいぞ」
なんとここで、ロリババアの口から今一番欲しい情報がベストタイミングで飛び出してきた。
樋田はオバケでも見たような表情で晴の方を振り返る。
「お前、心が読めるのか……?」
「いや、あんなまるで妻が分娩中の夫が如く毎日ソワソワしまくってたら誰でも気付くわ。難聴系鈍感ハーレム主人公でも指差して指摘するレベルだったぞ」
「そうか……。だが、別に心配してたわけじゃねぇ。あれだけの戦力をいつまでもベッドの上で遊ばせるわきゃいかねぇってだけの話だ」
「はいはい、テンプレツンデレ乙……って、なんかオマエ最近クッソテンション低いのな。まあ、とにかく幸いその点に関して心配は要らん。松下の話だと、確かあの女はもう対ダエーワ戦争に復帰しているらしいからな」
晴としては、聞かれたことにちょっと補足したぐらいのつもりであったのだろう。
しかし、その何気ない一言で、樋田の短気な頭は一瞬で沸騰する。ダンと畳に拳を力一杯叩きつけ、彼は気付けば懐かしの路地裏テンションと化していた。
「ッざけんじゃねえッ!! なにしてんだあのバカ女ァッ、テメェの方が俺なんかよりよっぽど重傷だっただろうがよッ!!」
「オマエ、さっき言ったことと二秒で矛盾した自覚はあるか……?」
晴の指摘はごもっともが過ぎた。
だから、樋田も今ここで焦っても仕方ないと頭を冷やす。
別にメッセージの返答がなくても問題ない。折角こうして再び動けるようになった以上は、陶南萩乃あたりから秦の住所を聞き出し、直接問い質しに行ってやればいいだけの話であるのだから。
そう心中で決すると、多少はイライラも収まってくれた。そこで樋田はようやく、今一番気にしなくてはならない事柄に話題を移すことにする。
「で、ダエーワ共との戦いは今どうなってやがる?」
対する晴は「うむ」と口元に手を当てると、
「うむ、そうだな。この一週間良くも悪くも膠着状態が続いていると言ったところであろうか。四勢力とも必死こいて攻勢を続けてはいるが、如何せんいくら殺しても無限にウジャウジャと湧いてくるからな……ということだから、ダエーワの発生源に関してもまだサッパリだ。いやあ、面目ない」
「まあ、大体そんな感じだとは思ってたがな……そんでパンピーは?」
「そちらも大して変わらん。これだけ市中にダエーワが溢れている割に、随分と一般人への被害は少ない。ここに関してだけは唯一マシな話が出来る。まあ、個人的にはなんだか嵐の前の静けさのようで気味が悪いのだがな」
「……そうか」
ある程度覚悟はしていたが、やはり気の滅入る話であった。
まだ数で押し切られていないのは幸いであるし、何故か一般人への被害が少ないことも嬉しい誤算だ。
だが、恐らくこの膠着状態は近いうちに崩壊する。それについては晴も承知のことであろう。
先日東京タワーの中で思い至った通りだ。
無限に戦力が供給され続けるダエーワサイドと違い、四勢力が抱える戦闘員の数は有限である。
きっと今この瞬間も、ダエーワに殺されるなり、負傷して戦線を離脱するなりして、戦える人間の数はどんどん減っているはずだ。
果たして四勢力による防衛線が決壊するのが先か。それとも人類がダエーワの発生源を突き止める方が先か。
やはり、今すぐにでも戦場に復帰するべきであろう。
仮に連合軍が悪魔の大軍に数で押し切られるような事態に陥れば――――いや、それ以上は口に出しても縁起が悪いだけだ。
兎にも角にもこれで外に出る準備も整った。
そうして彼はそのまま家を出ようとし、最後に釘をさすように背後の天使を振り返る。
「てかマジで頼むぜ晴。いくら俺らが粘ったところで、テメェら解析班が結果出さなきゃ、結局のところは袋小路なんだからよ」
「正直返す言葉がないな。これでも一応あのヘアヌード女と一緒に毎日脳味噌を擦り減らしてはいるのだが……何故だろう。何か至極単純なことを見逃しているような気がしてならん」
いきなり晴の口から最早名誉毀損レベルの蔑称が飛び出し、樋田は思わず眉間に皺を寄せる。
「ヘアヌード女って誰だよ。いや、多分松下だとは思うけども」
「御明察。そりゃあ、あの小娘は常時頭に生えた陰毛を世間に露出してるからな。定義的には何も間違ってはいない」
「なるほど、確かにごもっともだな。だが、流石に本人の前では言ってやるなよ」
先程晴にクッソテンションが低い言われたばかりであるが、やはり最近はいつものくだらないやりとりにもキレがない。
晴は既に気付いているが、樋田がそのことを自認するのは一体いつになるであろうか。
「で、テメェは今日もアイツと一緒に学園で元気に解析ってわけか?」
家のドアを開きながら、最後になんとなく聞いてみる。
しかし、晴はすぐに首を横に振った。
「いや、今日松下は来ない。どうやらあの人型カリフラワー、学園の意向を受けてどこぞの戦場に飛ばされたらしくてな。きっとヤツは名誉の戦死を遂げ、ワタシ達の元には遺髪らしき陰毛しか返ってこないだろう……」
「そうか。悲しいな。俺、アイツの分まで一生懸命生きようと思う」
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