第二話 『顔の無い男』


「オイ、なんだよ……これッ」


 そのあまりにも衝撃的な光景を前に、樋田は自らの思考回路が片っ端から焼き切られるような錯覚を感じていた。口の中は不自然なまでに乾き切り、寒いわけでもないのに手足の震えが止まらない。

 目の前のが何だか頭ではわかっているはずなのに、まるで体が受け入れることを拒絶しているかのようであった。


「ひっ」


 壁に寄りかかる形で座り込んでいた男の亡骸が、まさに今、ずるりと力無く大地へと崩れ落ちる。それまでよく見えていなかった死体の表情が露わになり、まるで白濁した瞳がギョロリとこちらを向いたかのようであった。


「じょっ、冗談じゃねぇッ!!」


 樋田は思い出したように死体から飛び退くが、既に靴の裏には赤とも黒ともつかないグロテスクな粘液がベットリと付着していた。


 足裏一杯に広がるその生々しい感触に、樋田は目の前の惨劇が紛れもない現実なのだと確信する。言い換えるならば受け入られるだけの心の準備がようやく整ったのだ。


「チクショウ、何がどうなってやがる……」


 ある程度の予想はついていたが、改めて見てみるとその死体の有様はなんとも酷いモノであった。


 亡骸の背中には肩から横腹にかけて一筋の大きな傷が走っており、そこから溢れ出す肉が、脂肪が、鮮血が、潰れて塗れて混ざり合い、極彩色の惨劇を描き出している。


 血溜まりに溺れているため分かり辛いが、よく見てみると傷口の断面は非常に鮮やかなモノであった。恐らくは何か鋭利な刃物ようなモノで一思いに切り裂かれたのだろう。

 少なくとも事故で負ったような傷でないことは確かだ。そう考えるならば彼は死んだのではなく、何者かによって殺されたと考えるのが自然である。


 それは計画的な殺人か、それとも突発的な通り魔か。


 殺された人間がいるということは、当然それを殺した人間もどこかにいる。血溜まりが未だ乾いていないところを見るに、彼が殺されてからまだ大した時間は経っていないのだろう。

 この平和で平穏な平成の世にあって、これ程までに悲惨な亡骸を作り出した残虐無道の殺人鬼。もしかしたらそんな危険人物がまだこの辺りに潜んでいるかもしれないのだ。


 ――――っ、どうする?


 出来れば今すぐにでもこんなところからは離れてしまいたい。されど、下手に動いてもし犯人と鉢合わせでもしたらどうする?

 そんな相反する恐怖心に翻弄されるがまま、樋田は思わず縋るように暗がりの奥へと目を細め、



「クソがッ、ふざけんなよ……!!」



 即座に己の短慮を後悔することとなった。


 視線の先に広がる光景は、正しく地獄としか言い表しようがないものであった。

 最初の亡骸のすぐ隣には胸部を何かで貫かれて絶命した中年男の死体が、その奥では身体をヘソのあたりで無残に引きちぎられた女の上半身が転がっている。

 そしてそれらの間を埋め尽くすのは、まるでボロ雑巾の様に打ち捨てられた無数の肉付き髑髏しゃれこうべ。その数は一目見ただけでもゆうに十を超えている。


 あらゆる死体がそこにあって当然とばかりに存在する。本来なら許されざるその存在を、異常な空間は許容し、そして許容してしまうほどに、破滅していた。



 ――――ヤバい、ヤバいヤバいヤバいヤバいッ。



 声にならない絶叫が、体の中を瞬時に駆け回る。

 本当なら悲鳴の一つでもあげればスッキリするんだろうが、恐怖に縛られて声の一つすらも出すことが出来ない。

 十を遥かに超える死体に辺りを囲まれて、樋田は徐々に自分の中で感覚が狂っていくのを感じていた。

 まるでこの世界では死体であることの方が当然で、こうして生きている自分の方が寧ろ不自然なのではないのかと、そんなふざけたことを思わず思ってしまうほどにこの空間は狂っている。


 なんて最悪な日だ、あまりにも最悪だと少年は嘆く。されど、それは所詮ぬるま湯に浸かり切り、平和ボケした現代人にとっての最悪だ。


 本当の意味で最も悪いと言える理不尽は、とてもこんな生易しいモノではない。そしてそんな底無しの絶望は、もう少年のすぐ側まで迫ってきていた。



「なっ……!?」



 思わず出かけた間抜けな声に、樋田は慌てて口元を抑える。初めはかとも思ったが、どうやらこの世界はそこまで樋田に優しくは作られていないらしい。


 間違いない、それはであった。


 裏路地の向こうより聞こえてくるのは、ぺたりっ、ぺたりという、大勢の人間が泥の上を歩いているような水っぽい音。しかも、その不快な音は一歩ごとに段々と大きくなっている。そう、つまりは何かがこちらに近づいて来ているのだ。


 別に足音の正体が、この惨劇を引き起こしたのモノだと決まったわけではない。それでも、ただでさえ高鳴りっぱなしだった胸の鼓動は遂に最高潮を迎えていた。


 今すぐにでも逃げ出してしまいたいのに、早く動けと思う程に体は重くなり、足は不自然に縺れていく。それはまるで何者かに追われる夢の中、何故か体の動きがスローになるのと似た感覚であった。


「へはっ、ねぇよ。流石にねぇよな。たまたま通りかかっただけの一般人に決まってるだろ……」


 樋田がそう希望的観測に縋っている間にも、時は過ぎ、足音は更にその大きさを増していく。気付いた時には最早全てが手遅れ、今更逃げ出したところでもう間に合わない。


 びちゃりっ、という一際大きな音が路地裏に響き渡った次の瞬間――――――十を超える正体不明の黒い影が、曲がり角の向こう側より姿を現した。


「なっ」


 その姿を視界に捉えた途端、樋田の口からは思わず情けない吐息が漏れ出ていた。されど彼のことを臆病だと笑える者はいないだろう。

 それほどまでに彼等は異様、いや正しく異常としか思えない形をしていたのだ。


 言うなれば、『顔の無い男フェイスレス』とでも呼称するべきであろうか。

 漆黒の衣にその身を包み込んだ彼等には、読んで字の如く。馬も鎧も持ってはいないが、そのイメージはアイルランドに伝わる妖精デュラハンになんとなく似ている。


 理屈として説明しえないその異様な姿は、正しく生きるファンタジーそのものだ。確かにシルエット自体は普通の人間に酷似しているが、頭部なしに平然と生命活動を維持している彼等を同じ生物だとは認めたくはない。


 死体も死体で恐ろしかったが、あれはまだ存在自体は理解できる代物であった。

 だがしかし、こちらは最早生物ではなく、怪物としてカテゴライズされるべき存在だ。当然身の毛をよだたせる恐怖の格が違う。


「まぁ、そうピリピリするなよ。話せばわかる、よな……?」


 今更ながらに言うことを聞き出した身体を持ち上げながら、樋田はゆっくりとその場から後ずさりだす。


 まだこの化け物達が、人類もとい樋田にとって有害なモノだと決まったわけではない。彼等は本当は人間との共存を望んでいる平和的な生物で、一面に広がるこの屍体の山とは無関係な可能性だってある。

 樋田も自分で言ってて有り得ないとは思うが、最早そんな希望的観測に縋らずにはいられないのだ。


 出来るだけ『顔の無い男』達を刺激しない様に、少しずつ、まるで這うように彼等から離れていく――――が、少年のそんな哀れな努力は全くの無駄でしかなかった。



「――――疑疑疑偽偽偽偽悲悲憎憎憎憎ッッ!!!!」



 次の瞬間、十超える影が一斉に蠢き出す。


 なけなしの十メートルなぞ何の役にも立たない。

 樋田が瞬きをした次の瞬間、『顔の無い男』達は軽くひとっ飛びで彼の目の前まで迫っていた。



「クソがァアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」



 悲鳴じみた絶叫と共に、口から飛び出さんばかりに心臓が跳ね回る。樋田は慌てて本能的に身を翻すが、あと一歩が足りなかった。

 大雑把に振るわれた『顔の無い男』の腕は、確かに少年の命には届かない。


 しかし左腕が逃げ遅れた。


 別に怪物達は刃物も鋭利な爪も持ってはいない。

 しかし、彼等の赤黒い掌が無造作に振るわれた次の瞬間、何故か樋田の左腕はズタズタに引き裂かれたのだ。

 まるで鎌鼬を思わせる不可視の斬撃の前に、少年の鮮血と脂汗が虚しく宙を舞う。



「がはああああああああああああああああッ!!」



 遅れてやって来た鋭い痛みに、樋田は傷口を抑えてそのまま後ろに倒れこむ。いくら傷は浅いとはいえ、碌に痛みを知らない現代人にとって、肉を切り裂かれる激痛はとても耐えられるものではない。


 泥と汗に塗れながら、樋田可成は確信する。

 『顔のない男』達は平和を好む優しい怪物なんかじゃない。あの陰惨な死体の山を作り出したのは、間違いなくコイツらだ。

 何が理由かはわからないが、向こうは明らかにこちらを殺す気だ。このままうかうかしていては、樋田もきっとあの死体の山の一部にされてしまうだろう。


「クッソ、痛ってぇ……。ふざけんじゃねぇ、こんなくだらねぇところで死んでたまるかっつーんだよッ!!」


 死にたくない、死にたくないと、大声を出して何とか恐怖を紛らわす。

 樋田は気力を振り絞って立ち上がると、一目散に逃走を開始しようもするが、それでも『顔の無い男』達の追撃の方が明らかに早い。

 黒衣の怪物からの蹴撃が腹部を襲い、少年の体はまるで車にでも轢かれたかのように勢い良く横へと吹き飛ばされた。



「――――――――ッ……!!」



 内臓が捩れんばかりの衝撃に、ほんの一瞬冗談抜きに呼吸が止まりかける。

 刹那の浮遊感の後、樋田の背中を容赦無く襲ったのは重力と剥き出しのアスファルトであった。服が破れ、皮膚が捲れ、肉が擦れる激痛の中で、少年の体はまるでボロ雑巾のように暗い路地裏の中を無残に滑っていく。


「アっ、がッ……」


 たった一瞬の油断、そして腹を穿った一発の蹴り。ただそれだけで全てが決まってしまった。


 別に動けなくなる程の傷を負った訳ではない。それでも今の一撃で樋田は気付いてしまったのだ。

 それは己の弱さであり、また怪物の強さでもあり、そして何よりも自分はここで死ぬのだという残酷な事実であった。

 無理だ。人数も、速度も、腕力も凡ゆる面で『顔の無い男』達の方が樋田よりも上。彼等を鷹に例えるならば、きっとこちらも一方的に狩られるだけの兎のような存在でしかないのだろう。


 ――――嘘っ、だろ……殺っ、されるのか。


 樋田が情けなくうずくまっている間にも、べちゃり、べちゃりと血溜まりを踏み越えながら『顔の無い男』達は瞬く間にこちらへと忍び寄ってくる。

 『顔の無い男』達が一歩近づいて来るたびに、心が恐怖で泡立っていく思いであった。嫌だ、嫌だと、引き裂かれんばかりに胸が苦しい。

 そして彼等の忌まわしい赤黒い掌がチラリとこちらを覗いたその瞬間、樋田の心の中でが無残に崩れ落ちる音がした。



「くっ、来るんじゃねぇえええええええッ!!」



 先程まではまだなんとか逃げ切れると、そう勘違いしていた。この平和な現代社会でまさか自分が殺されるなんてありえない、そう鷹をくくっていた。

 だがこれはもう無理だ。確実に殺される。

 現実となって迫り来る死の恐怖に、樋田の精神は瞬く間に堰を切ったように崩壊した。



「ざけんじゃねぇよクソッタレがアアアアッ!! 一体俺が何したっつーんだ……なんでこの俺様がこんな訳の分からねぇ死に方をしなきゃならねぇんだよッ!! オイ、答えろよテメェら。答えろつってんのが聞こえねえのかアアアアッ!?」



 死にたくない、死にたくない。こんなところで何の意味も無く死にたくない。消えたくない。軽く半泣きになりながら、恥も外聞も忘れて、樋田は喉が裂けんばかりに叫び狂う。


 だがしかし、いくら醜態を晒したところで、樋田可成の運命が変わることはない。こうなることは最初から決まっていたのだ。

 『顔の無い男』達はゆっくりと一歩前に出ると、容赦無くその赤黒い掌を少年の首根っこに突きつける――――と、その直後のことであった。



「――――、っはぁ?」



 樋田が思わず間抜けな声を漏らしたのも無理はない。

 機械的な動きで樋田に手を伸ばそうとした『顔の無い男』達。その動きが何故か唐突に止まったのである。続いてまるで何かに吸い寄せられるように、彼等は一斉に背後を振り返る。

 そんな化け物達の不可解な行動につられるように、樋田もまたゆっくりと前方に視線をやり、



「なんだっ、ありゃ……?」



 そのあまりの眩しさに目を細め、思わず意味のない言葉が口をついて出る。


 樋田達が立つ裏路地の遥か上方、視界の端に見える雑居ビルの屋上のあたりに、いつの間にかは降り立っていた。


 小さな太陽が墜ちてきた――――と、そんな詩的なことを考えてしまう程に鮮やかで美しい光の宝玉。その輝きはまるで、樋田の消えかかった命の焔を、再び明るく照らしだしているかのようであった。

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