閑話 『周音と漢華 其の一』


 秦家は三姉妹であった。


 ノンシャランで大胆不敵な長女の周音あまね

 クールでストイックな次女の漢華あやか

 そして、引っ込み思案で少し甘えん坊な三女の明希あき


 されども当然、同じ親の子であるからといって、生まれてもっての性格まで同じであるはずがない。

 中でも特に、上と下の姉妹と比べ、漢華は昔から無愛想で可愛げのない少女であった。


 それはその幼い肩にあまりにも多くの期待を背負わされすぎたせいか。

 あるいは周囲に敷かれたレールの上を義務的に歩かされるのが息苦しかったせいか。


 いや、何より一番心苦しかったのは、彼女のことを『一人の人間』としてではなく、ただ『の後継』としてしか認識しない人間があまりにも多すぎたせいであろう。


 何か特別な契機があったわけではない。

 それでも少女の心はいつしか少しずつ、されど確実にささくれていった。


 あらゆるものをどこか冷めた視点で眺めるようになってしまったのは何歳の頃だったか。

 媚びと打算で擦り寄ってくる者も、そうでない者も等しく遠ざけてしまうようになったのは一体いつだったか。


 だけど、それでも彼女は別に不幸な女の子というわけではなかった。

 例え多くを持っているわけでなくとも、本当に大切なものはちゃんと自分の手の中に収まっていたし、賢い彼女はそのことをよく理解していた。


 だから、あの頃、秦漢華はそれなりに笑っていたと思う。

 そのときは、まだ自分なりに笑い方というものを覚えていられたから。



 ♢



 それは確か、年明け早々のとある休日のことであった。

 その日の窓の外の寒々しさも相まって、余計にそんな取り留めのない記憶を温かいものとして認識してしまっているのかもしれない。


 ところは港区、その高級住宅街。

 とても東京住みとは思えない――アメリカの郊外にでもあった方がよっぽど自然なほどに――広い家の中で、その日、真っ赤な髪を中華風の三つ編みに結んだ少女は、荒々しく床を踏み鳴らしていた。


「漢華ちゃんッ……お願いだから怒らないで……」

「明希は黙ってなさい」

「うぅ……、喧嘩はやだよう」


 秦漢華は激怒した。

 必ず、かの邪智暴虐の姉を除かねばならぬと決意した。


 後ろを付いてくる小柄な女子小学生は妹の明希であった。

 赤薔薇のように鮮やかな次女の髪よりかは、幾らか燻んだそれをツインテールにしている。


 可愛い。正直に言って、とてもあのクソ姉や自分の妹とは思えないくらいに可愛らしい。


 そして、そんな妹がオドオドしながら自分の袖を引っ張ってきたならば、つい怒りを忘れ、足を止めたくなってしまう。

 だけども、確かに可哀想だとは思うけども、ここは心を鬼にして、妹の哀れな平和主義をスルーした。


「オイッ、クソ姉コラァァアアアアアッ!!」


 チャイナ娘は怒号と共に家のドアを蹴り開け、その先のリビングの中へと押し入っていく。

 途端に柔らかな光が視界を照らし、見慣れた一室の姿を朧げに映し出した。



「おっ、漢華じゃん。ちょうどいいとこに来た。ねぇ、アンタって杏仁豆腐とか作れたっけ?」



 デカすぎてベッド代わりにもなる我が家の巨大ソファー、その上でそいつはゴロゴロ芋虫女と化していた。


「あーまーねーッ……!!」


 秦周音。

 漢華から見れば一つ上、妹の明希にとっては八つも離れた、押しも押されもせぬ秦家の長女である。


 髪型は前髪を横に流し、後ろ髪は肩甲骨のあたりまで届くロングヘアー。

 明希と同じく、彼女の髪と瞳の赤も、漢華と比べればいくらか燻んでいる。


「あれ? もしかしてなんか怒ってる?」


 うん? と、姉が態とらしく小首を傾げる。

 ノンシャランな快楽主義者の癖に、まるでこちらの全てを見抜いているようなその流し目が、漢華は昔から得意ではない――――と、今は、そんなことは、どうでも良いのだ。


 言っても分からないバカとは関わらなければ良い。だが、同じ家族ならばそういうわけにもいかない。

 だから、漢華はキッチンの方を指差しながら、クソ姉を切れ長の瞳で睨めつけると、


「アンタッ、私が作り置きしといた酢豚食べちゃったでしょッ……?」

「えっ? あぁ、うん。食べたよ。非常に美味しゅうございました。ごっちゃんでぇす」

「あぁん?」


 秦家の次女は一見クールなようで、その実割と短気な性格であった。

 欠片も悪びれる様子のない姉に、彼女はバキバキと拳の骨を鳴らしながら、


「……勝手に冷蔵庫いじるなって、昔からよぉく言い聞かせておいたはずなのだけど。なに、口で言っても分かんないの? なら狗っころみたいに叩いて躾ければいいのかしら?」


 口喧嘩ならともかく、ガチの腕力の話になったら、秦家では漢華が最強だ。

 多分、親父にも余裕で勝てる。


 コイツを反省させるには、当然こちらの得意なフィールドで勝負をするべき。

 そう、躊躇なく武力行使の態度を見せる妹に、流石の周音も少し日和始めた。


「あ〜……確かにそんなこと言われたような気もする。でもさ、なんか結構余ってたじゃん」


「明希の弁当用に残しておいたのッ!! あーもう最低ッ、当日冷めても味落ちないように、態々手間かけて作った私が馬鹿みたいじゃないッ!!」


 落ち着け落ち着けと自らを律していた漢華だが、ここで遂に持病のヒステリーが爆発した。

 だけども、当のクソ姉は何処吹く風。しまいにはドカッとソファーに座り直し、ケラケラ笑い始める始末であった。


「あははっ、なるほどね。ごめんって、だって漢華の手料理美味しいからさ」


「うるさいバカ姉クソ周音ッ!! 別にアンタのために作ってるわけじゃねえからッ!!」


「うわぁ、またチンピラ化してるよ……てか、クソ周音は酷くない? いくら一つしか違わないからって、お姉様に向かって呼び捨てはどうなのかなぁ? 昔みたいに可愛くって呼んでみてよ〜」


「だったら少しは姉らしく振舞ってみなさいよ。私の人生における唯一の汚点が何だか知ってる? アンタよ」


 思わずビクリと肩を震わせる。


 勿論脳味噌がグツグツ見え滾ってる次女ではなく、その隣でこじんまりアワアワしてる三女の方が、だ。

 彼女はツリ目の姉二人とは似ても似つかない、可愛らしいどんぐり眼を微かに潤わせながら、


「ごっ、ごめんなさい。周音ちゃん……ううん、周音お姉ちゃん……」


「なに妹虐めてんのよクソ姉」


「ははっ、何を言っている。明希は可愛いから別にいいの。でも漢華、アンタは可愛くないからダメ〜♪」


「……アンタねえ」


 なんか、最早怒るのもバカらしくなってきた。

 面倒臭いし、ムカつくけれど、コイツはもうこういう人間に育ってしまったのだから仕方がない。

 頭痛でもするのか、思わず側頭部を手で押さえる次女に、長女は拝むように手を合わせながら言う。


「ごめん、ごめんって〜。今度なんかで埋め合わせするから許してよ」


「……別にアンタ如きにしてもらいたいことなんて何もないのだけど」


 どこか自慢みたいになってしまうが、正直自分の日常の範囲において、人の助けがなければ出来ないことなどほとんどない。

 しかし、姉はそれを思いついたようであった。

 彼女は悪戯っぽい笑みを浮かべながら、両手で何かコントローラーを持つような仕草をすると、


「えぇ、ほらじゃあ。アンタが面白いって言ってたあのゲーム、私もやってあげるからさ」


「なッ……!?」


 露骨であった。

 これまで不機嫌を極めていた漢華の顔が、急に微かな喜色を帯びる。

 後はなし崩しであった。


「……ふん、仕方ないわね。今回ばかりは許してあげるわ」


「うぇーい、やったー……って、どーしたの。やけにあっさりじゃん? なに、漢華ちゃん。もしかして、そんなにお姉ちゃんと遊びたかったのかにゃーん?」


 普段とはどこか様子の違う妹に、姉はここぞとばかりに煽ってくる。しかし、漢華は別に罵詈雑言を吐き返したりはしなかった。

 ただ窓の外に視線をやり、少女は今にも魂でも飛び出そうな勢いで重いため息をつく。


「じっ、自慢じゃないけど私友達いなッ……少ないからね。自分が良いと思ったものを語り合う相手がいないってのは……そのっ、中々辛いものなのよ」


 対する姉の反応は意外なものであった。

 彼女は一度ハッと目を見開き、そして、やけにオーバーな演技で顔を覆う。

 それこそまるで、息子が致してる最中を目撃してしまった母親のようなノリで。


「……なんか、ごめんね」


「憐れみの目で見んなクソ姉ェッ!!」

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