閑話 『周音と漢華 其の三』
警察の話によると、姉は事故死であったらしい。
目撃情報はないものの、恐らくは階段で何かの拍子に足を滑らせ、そのまま打ち所が悪く即死したのだろうということであった。
しかし、懸念もあるのだという。
その日、現場付近の住人が若い女の口論する声を聞いていたということもあり、姉は誰かに突き飛ばされるなどして殺された可能性も否定することは出来ないらしい。
全く、酷く現実感のない話であった。
まずは母親から、次いで警察の口から直接姉が死んだ旨を聞かせれても、
だって、あまりにも唐突過ぎたのだ。
毎日当たり前のように顔を合わせていた家族が、愛する人が、ある日突然死んだと言われて「ハイ、そうですか」と納得出来る方がおかしい。
少女の心に姉の死という現実は根付かず、それでも時間は人の気持ちなど置き去りにして、勝手にドンドン前へと進んでいく。
まるで世界に一人取り残されるような日々が過ぎ、気付けばもうそんな頃かという感覚であった。
そう、姉の亡骸が灰となる日が遂にやって来たのだ。
その日、両親が弔問客の対応に追われるなか、漢華は妹の
「うっ……、周音ちゃん。周音ちゃんッ……!!」
幼い妹は唇を噛み締め、そのどんぐり眼から今日も滲むような涙を零している。
周音が死んだと知ったその日から、今日まで明希はずっとこの調子であった。
未だ十歳の彼女にとって、家族を失うことがどれほどの衝撃であるか。その辛さ、悲しみを想像するのは難くない。
「明希……」
漢華は妹の小さな手を優しく握りながら、今にも消え入りそうな声で言う。
不思議と泪は出なかった。
大切な姉が死んでしまったというのに、結局今日まで一度も目を赤く腫らしたことはない。
初めは下の妹と比べ、自分は何と薄情な人間なのだとも思ったが、今となってはもう自分の気持ちすらよく分からなくなっている。
「お悔やみ申し上げます」
「なんで周音ちゃんが……」
「あんなにいい子だったのに……」
老若男女を問わず、喪服を見に纏った人々が続々と葬儀場の中へ入ってくる。
秦周音の妹である漢華と明希、そして二人の両親を除けば、そのなかに故人と血の繋がりがあるものは一人もいない。
しかし、それでも今日は驚くほどたくさんの人が集まってくれた。
高校で姉と親しくしていたであろう女学生達から、漢華は名前すらも知らない近所の人まで。
皆が皆、まるで自分の子供が死んだような面持ちで、秦周音の死を嘆き悲しんでいた。中には泣き崩れるあまり、軽いパニックに陥っている人も少なくはない。
――――流石、姉さんね。
そんな彼等の姿に、漢華は複雑な思いを感じずにはいられなかった。
自分の愛する姉が、これだけ多くの人に慕われ、好かれていたということが堪らなく嬉しい。
だだそれだけに、そんな彼女の死んでしまったことが悔しくて、そしてあまりにも悲しくて仕方がない。
姉を好いた多くの人々の力を借り、式の準備は着々と進んでいく。
しかし、気でも遣われているのか、結局最後まで自分達姉妹に声をかけようとする人は一人もいなかった。
「漢華」
ふと話しかけられ、顔を上げるとそこには父がいた。
三姉妹と同じく、父も髪と瞳との色は赤い。
しかし、その赤は周音や明希のようにくすんでいるわけでもなく、むしろ次女の漢華同様非常に鮮やかな色彩をしている。
しかし、それだけに今の父の顔は余計に老け込んでいるように感じられた。いや、実際やつれているのだろう。
「なに、父さん」
先に話しかけてきたにも関わらず、父はどこか言い辛そうに目を伏せてしまう。
そこにどのような逡巡があったのかは分からない。それでも、父はやがて押し殺すような声でこう告げた。
「お前も、周音の顔を見てあげてくれ」
返事はしなかった。
ただ黙って首を縦に振っただけであった。
父の言葉に従い、漢華は葬儀場の一番奥、そこに鎮座された白い棺の前まで出る。
棺の内部は白や紫の花で一杯に満たされており、その中には絹の如く白い服をまとった一人の女性が横たわっていた。
顔に白い布が掛かってるせいか、一瞬この女は姉ではないかもしれないという幻想が過る。
しかし、その横から垂れる燻んだ長い赤髪は、どうしようもなく漢華の知る秦周音のそれであった。
余計な思考はない。
ただ呆然と白布をめくる。
「っ」
そこでようやく露わになった姉の顔は、思っていたよりもずっと綺麗なものであった。
それどころか、まだ彼女は生きているのではないかという気さえした。
長い睫毛は今も力強いウェーブを描き、唇の色が抜けたことを除けば、生前と比べ特に変わったところもない。
本当にただ眠っているだけのようであった。
漢華は朝よく姉を起こしていたものだから、尚更そのように思われる。
――――姉さんッ……!!
だから、妹は手を伸ばした。
手を伸ばして、姉の頬に触れる。
そうすれば、彼女もすぐにくだらない演技をやめて、眼を覚ましてくれるような気がしたから。
「あぁ……」
しかし、周音の体はひどく冷たかった。
かつて感じた人の温もりも、絹が如き肌の滑らかさも、そこにはない。
死体なのだから当然のことであるのに、漢華はまるで後頭部を鈍器で殴られたような衝撃に襲われた。
目の前の亡骸が、これまで一緒に暮らしてきた姉とは違うのだという事実が、残酷なまでに深く意識へと刻み込まれていく。
「やだっ……違う……」
「どうした漢華」
少女は手を引っ込める。
それどころか、まるで弾かれたように棺から後退る。
そして、秦漢華のなかで何かが遂に限界を迎えた。
「――――ッ!!」
それはまるで、姉の死を受け入れることから逃げ出したかのようであった。
とにかく今この場にいることが堪らなく嫌で、少女は脇目も振らずに葬儀場の外へと走り出す。
父の声がした。母の声がした。明希の声がした。
続いて驚く参列者の声が鼓膜を打つが、それもすぐに聞こえなくなる。
「はぁ……はぁ……」
出口はすぐそこであった。
まるで疲れ切った旅人のような、トボトボとした歩みで屋根の下から外へ出る。
その日は、皮肉にも雨であった。
ザーザーと音を立てるようなものではなく、シトシトといつまでも降り続けるしつこい雨であった。
頭が濡れ、頬が湿り、黒の服に雨水がジンワリと染み込んでいく。
いつの日か姉が綺麗に乾かしてくれた髪も、すぐにびしょびしょになってしまった。
「ぅうぐッ……!!」
辛い。苦しい。悲しい。
今にも胸が張り裂けそうで、少女は鳩尾の辺りを乱暴に掻き毟る。
認めたくなかった。
受け入れたくなかった。
気休めでもいいから、嘘だと言って欲しかった。
されど、一度死んだ人間は決して生き返らない。
だから、少女は憤激した。
何故周音は死んだ。
何故死ななければならなかったのだ。
このような理不尽を受け入れられるはずがないと、今にも喉から血が滲むほどに、いっそのこと幼子の癇癪とでも言っていいほどに、少女はその遣り場のない怒りを撒き散らす。
しかし、すぐに虚しくなった。
そこでようやく秦漢華は、秦周音が死んだことを変えられようのない事実なのだと理解し――――その日、姉が死んでから初めて、彼女は声を上げて泣いた。
♢
葬儀の翌日も、漢華は普通に学園へと行った。
いつまでも過去を引きずってはいられないというのが建前で、本音は悲しみを同じくする家族と一緒に居たくはなかったから。
しかし、別にだからといって学び舎が落ち着くというわけでもない。
自分が姉を失ったという話は、一体何処から流れたのか、当然の常識のように多くの女生徒にも伝わっていた。
きっと彼女達に悪意はないだろうし、むしろ気を遣ってくれているのだということはよく分かる。
されど、嗚呼この子は不幸な人間なのだと、無駄に優しく接せられるのもそれはそれで不愉快であった。
我儘かもしれないが、漢華は普通に接して来て欲しかったし、もっと言えば一切自分に構わないで欲しかった。
無用な特別扱いをされるたびに、姉の死を無理矢理思い出させられるのが堪らなく辛かったから。
気付けば家にいても、学園の中にいても、いや、結局どこにいても息苦しさは抜けなかった。
胸に刻まれた傷は少しも癒える気配がない。
それどころか、まるで自分という存在が段々と薄くなっていくような、そんな物悲しい錯覚にすら襲われる。
――――誰とも、会いたくない……。
恐らくはそれだけが理由ではないのだろう。
それでも最近の漢華は放課後、意味もなく外をブラつくことが多くなった。
だから、その日も漢華は土手を歩きながら適当に時間を潰していた。
恐らくはこのまま日が沈むのを待って帰宅し、いつも通り一度も人と交わることなく一日を終えるのだろう――――と、彼女はそのときまでそう思っていた。
「……だから、違えって何度も言ってんだろッ!!」
ちょうどそんなときであった。
漢華の歩く土手を川に沿って北側、そこに掛かる橋の下から、怒気の混じった女の声が聞こえてきた。
秦はチッと腹立たしそうに舌を打つ。
ただでさえ自分のことで精一杯だというのに、これ以上余計な厄介ごとに巻き込まれたくはないと、そのまま迷いなく引き返そうとする。
だが、女が次に発した言葉に、彼女は耳を疑うこととなる。
「アイツを……秦を殺したのは私じゃねえぇッ!!」
息が止まるかと思った。
心の臓が口から飛び出んばかりに跳ね、体の奥ではツーと不愉快な冷たさが滲み出す。
――――嘘ッ……?
絶対に聞き間違いなどではない。
真っ白になった頭をなんとか落ち着かせ、漢華は今聞こえた言葉を整理しようと試みる。
秦とはやはり秦周音のことなのだろうか?
それとも、同じ名字を持った別人なのだろうか?
いや、それにしてはあまりにもタイミングが良すぎるではないか。
「……姉さんが殺された」
口に出して言ってみると、異様にシックリときた。
そもそもあの姉が事故で死ぬなどおかしいと思っていたのだ。
それでも今は警察の捜査を待とうと、余計な憶測を募らせるのは控えていたのだが――――これで納得がいった。
全身がカタカタと震えていた。
拳を力強く握るあまり、ジンワリと血が滲む。
それは怒りか、武者震いか、或いはただ本当のことを知るのが怖いのか。
それでも秦漢華は秦漢華だ。
曖昧模糊など己が最も忌み嫌うもの。何が何でも真実を確かめずにはいられない。
だから、あとはもう本能の赴くがままであった。
「――――ッ」
先程声がした橋の下までやって来る。
柱の影に隠れながら様子を伺うと、そこには三人の女学生の姿があった。
パッと見の印象は恐らく漢華と同じ高校生。
一見不良学生が駄弁ってるだけのようにも見えるが、どこか様子がおかしい。
ビリビリと、肌をさすような緊張感がこちらまで伝わってくる。
一人は亜麻色の髪をした女。
さっきから叫んでいるのは恐らくコイツ。
地面に座ったそいつは下をうつむいており、一体どんな顔をしているのかは分からない。
もう一人は背の低い茶髪の女。
そいつはしきりに目を泳がせ、まるで何かに怯えているような素振りであった。
最後はスラッとした黒髪の女。
コイツは残りの二人から少し離れたところで、腹立たしそうに頭を掻きむしっている。
三人はどうやら言い争っている――――いや正しくは、亜麻色の女が他の二人から責められているようであった。
そして責める二人の中でも特に感情的になっている方、小柄な茶髪の女がヒステリーな金切り声をあげる。
「だーかーら嘘つくなってッ!! あたし、
「だから、それは違うんだよッ……!!.」
「はあ? 違うって何が違うのッ!! ふざけなきでよこの人殺しッ!! お前のせいでこっちがどんだけ迷惑してるか分かんないのッ!? さっさと一人で自首するなり自殺するなりしてくれないかなッ!?」
「蜂湖も美奈も落ち着けって……今はウチらで揉めてもいいことないでしょ」
「落ち着いてるしッ!! てか、そもそもあたし達関係ないじゃんッ!! 秦を殺したのは蜂湖でしょッ!! なのになんであたし達まで連帯責任みたいな感じになってるわけっ!?」
しかし、そこで怒り疲れたようであった。
茶髪はその場にダラリとへたれこむと、まるで寒気でもするかのように体を抱える。
「やっぱ、あたし達警察に捕まんのかな……」
「ポリ公も馬鹿じゃないし、捕まえる気ならもうとっくの昔に捕まってるだろ……多分、事故だとかそんな風に思ってくれてるんじゃないの?」
そう黒髪が思いついたようにいうと、途端に美奈と呼ばれた茶髪はキラキラと目を輝かせた。
「それだッ!! うん、確かテレビもそんなこと言ってたッ!! なんだぁ、だったら何も心配する必要ないじゃん」
一人騒ぐ茶髪を尻目に、未だ名の分からぬ黒髪は、続いて蜂湖と呼ばれた女に目を向ける。
「……確かにあそこの家族には悪いけど、何もなかったことにするのが一番いいと思う」
「そうだよ。そうしよう! 態々名乗り出たところで人生終わるだけだし、事故だって思ってくれてるならそう思わせとけばいいじゃん!」
「蜂湖、アンタもそれでいいよね。これはアンタを守るためでもあるんだからさ」
蜂湖と呼ばれた亜麻色女はどこか不服そうであった。
女は両手で頭を抱え、何度もうんうんと言葉にならない呻き声をあげる。
「……そうだな」
しかし、そいつも結局最後には首を縦に振った。
――――ハァ?
瞬間、身を焼くような黒い衝動が漢華を襲う。
もしかしたら、とは思っていたのだ。
姉が殺されたのには何かしらの事情があったのではないかと。
或いは殺したというのはあくまで言葉の綾で、彼女達にとっても周音の死は予想出来なかった事故であったかもしれないと。
そして何より、姉を殺したことを本当に心の底から悔いているかもしれないと。
もし仮にそうであれば、決して許さないことに変わりはなくとも、こちらの心の持ちようも幾らか変わっただろうに。
けれども、そんなものはまやかしだった。
我ながら随分と甘いことを考えていた
当然だ。この世界には人の形を象ったゴミが、それこそ殺されるべき悪人がゴミ山のようにのさばっている。
だがら、漢華は彼等に見切りをつけた。コイツらは裁くべき悪だと確信した。
そして何より、もう黙って聞いているのは限界だった。
「……なんなのよ、アンタら」
気付けば、漢華は柱の陰から飛び出ていた。
途端に三人がビクリと全身を震わせる。
そして、ゆっくりこちらを振り返った女達の顔には、まるで幽霊でも見たような恐怖の色が浮かんでいた。
「秦……いや、違う。お前は……」
亜麻色の女が譫言のように呟く。
そうだ。向こうもすぐにわかったであろう。
この燃える炎のように赤い髪と瞳を見れば、目の前に立っている自分が、間違いなく秦周音の親族であるのだということを。
――――コイツらのせいで姉さんはッ……!!
三人をズラリと一瞥し、漢華は心の底から忌々しそうに唾を吐き捨てる。
こんなヤツらのせいで、姉さんは死んだのか?
こんなクソみたいな、生まれてきたことそのものが罪みたいな連中に殺されたのか?
腸が裂けるほどの怒りを何とか抑え、赤髪の少女は最後にもう一度確かめるように問う。
「……ねえ、本当にアンタたちが姉さんを殺したの?」
黒髪の女は何も言わなかった。
茶髪の女は何も言えなかった。
しかしそれでも、最後に残された亜麻色の女だけはしばし逡巡し、
「あぁ、そうだよ。アタシがお前の姉ちゃんを殺した」
呆気なくそう答えた。
途端に他の二人が慌てたように目を見開くが、漢華の目に最早そんな様は欠片も写っていなかった。
――――へぇ、そうなんだ。
まるで、素手で心臓を鷲掴みにされたような感覚であった。
胸の奥が急速に熱を帯び、最早まともに呼吸すら出来なくなる。
漢華は自分で自分の感情が分からなかった。
だって、あまりにも多くのものが押し寄せてきたから。
どうしようもなく辛くて、どうしようもなく苦しくて悲しくて、そして何より――――どうしようもなくコイツらが憎い。
その黒い気持ちを受け入れると、何故か心がひどくスッキリとした。
憎い。許せない。コイツらだけは、絶対に裁いてやらねば気が済まない。
きっかけは憎悪であった。
それでも天から救いの手は差し伸べられた。
その日、少女の心に神の炎が揺らめいた。
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