第四十八話 『赤い嵐』


 そのとき、樋田の体力と精神は既に限界を迎えつつあった。

 連戦に次ぐ連戦で体はボロボロ、正直こうして立っているだけでもかなり辛い。そんなところへまた新たな敵が現れるなど、絶望的すぎるにもほどがある。

 果たしてこんな傷だらけの状態で、再び松下を守りきることが出来るのだろうか。


「何、者だ。テメェ……?」


 この異界の中に姿を現したということは、きっとコイツも陶南萩乃すなみはぎのや生徒会の連中と同じ、学園側の人間であるに違いないだろう。

 しかし、それでも樋田があえてそう問うと、秦漢華はたのあやかの退廃的な顔付きに、一瞬ながら怒りの表情が浮かびあがった。


「……何者・・、ね。まぁ、いいわ。私の立ち位置については、多分そっちが想像している通りだと思う。で、こっちからも一応聞いておくけど、アンタたちこの『叡智の塔』に一体何しに来たわけ?」


 その炎のような苛烈さと、氷の如き冷たさを同時に内包する瞳に、樋田は思わず尻込みそうになる。それでも彼は彼女から決して目をそらさず、途絶え途絶えになりながらも言い返した。


「ハッ、すっとぼけやがって……。テメェも学園側の人間なら、ここで一体何が行われてんのかっ、知らねえわけじゃあるめえ……。ガキの頭いじくりまわしてるってだけても、クソ胸糞悪りぃってのに、挙げ句の果てにはモルモット感覚で人体実験と来たもんだ。そりゃあ、そんだけ後ろめたいことしてりゃあ、後ろから頭ブン殴られたって、文句は言えねえだろ」


「……へぇ、それで困った女の子助けてヒーローごっこってわけ? ハッ、アホくさ。まあ、アンタらしっちゃアンタらしいけど」


 秦はそうつまらなそうに吐き捨てると、続いて松下の方をギロリと睨みつけた。


「別にアンタらに恨みがあるわけじゃないけど、こっちもこっちで侵入者を黙って見過ごすわけにはいかないのよ。特にそっちの中等部のガキの方はね――――」


 しかし、そこで何か考えを思いついたのだろう。

 まるで抜け殻のようであった少女の表情に、僅かながら意地の悪い微笑みが浮かび上がる。


「そうね、折角だからチャンスをあげようかしら。今すぐそこのガキを置いて消えなさい。そうしたらアンタだけは見逃してあげてもいいわ。私もこの異界の構造を弄る権限は持ってるし、なんなら今すぐ外の世界に帰してあげてもいいんだけど」


「はあ、テメェは一体何言って……?」


 そう口では否定しつつも、正直魅力的な提案だと思ってしまった。

 秦が何かしらの異能を用いる存在である以上、今の樋田ではきっと彼女に勝つことは出来ないだろう。


 向こうが何故こんなことを言い出したのかは分からないが、このまま二人揃って捕まるなり殺されるなりするよりは、自分だけでも生きてここから脱出した方が良いに決まっている――――と、かつての樋田可成ならばここで喜んで首を縦に振ったに違いない。


 しかし、今の彼はもう違う。

 どこか心配そうにこちらを見上げる松下に、心配すんなと優しく声をかけると、そのまま懐に手を差し入れる。


 そうして樋田は秦の言葉には答えず、代わりに一発の銃声をもってその返答とした。乱暴に放たれた銃弾は、少女の顔ギリギリをかすめ、その頬に一筋の赤い線を走らせる。


「ッだらねぇことぬかしてんじゃねぇ。次はどたまブチ抜くぞ」

「あらっ、ヒドいことするじゃない。当たったらどうするつもりだったのかしら」

「下手くそで悪かったな。これでも額に向けて撃ったつもりだったんだよ」


 そんな物騒なやりとりのあと、樋田はその凶相を顰め、一方の秦はつまらなそうに切れ長の目を細める。

 最早話し合いは不可能。あとは互いの暴力をもって決着をつけようと、両者が言葉無しに宣戦布告しあった瞬間であった。


「まあ、別にいいわ。どうせそう言うと思ってたし。でも、大口叩いたからにはそう簡単にギブアップなんて許さないわよ」


 それまでその場に立ち止まっていた秦漢華が、再びこちらへ向けてゆっくりと歩き出す。

 そして樋田との距離が五メートルほどになったその瞬間、彼女の身体の輪郭がまるで蜃気楼のようにボンヤリと歪み――――


「なッ!?」


 一瞬何かしらの異能を用いたテレポートかと思ったが、彼女の体から『天骸アストラ』の反応は一切感じられない。

 その正体は計算し尽くされた体さばきと、自然かつ強力な視線誘導で、まるで瞬間移動でもしたかのように錯覚させる特殊体術なのだが、今の樋田の実力で見破れるような技術ではない。


 そのまま鳩尾めがけて飛んできた正拳を、樋田は咄嗟に両腕で防ぐ。しかし、それでもドスンと重い衝撃が体の中心を突き抜けた。骨は内側からビリビリと痺れ、内臓が細胞単位でジワジワと死んでいくような鈍痛が走る。


「へぇ、ほざくだけはあるようね。大抵のヤツはそれ一発でゲロ吐いて沈むんだけど」

「……テメェ、俺ァ女だからって手加減はしねぇぞ」

「ハッ、上等。いいわ、それならアンタも本気で足掻いてみなさい」


 然して、秦は再び素早く接近する。

 続けて放たれたその凄まじい攻勢の数々は、正に赤い嵐とでも呼ぶべき代物であった。


 首を刈らんと放たれた回し蹴りは、直撃の寸前フェイントへと変わり、代わりにまるで想像もつかない角度から右腕が襲いかかってくる。

 顎への掌底に樋田が思わずよろめいたその直後、何かしらの投げ技をかけられたのか、少年の体は突如宙へと浮いた。そのまま力づくで投げ飛ばれ、投げられながらに鋭い蹴りが腹部を穿つ。


 ――――畜生なんだこの女、全く動きが読めねえッ……!!


 しかし、樋田の方もやられてばかりではない。

 彼は空中で即座にバランスを取り戻すと、追撃を図る赤髪の顔に、右腕から滴る鮮血を浴びせかけた。


「チッ、小賢しいッ……!!」

「っるせぇ、勝てばいいんだよ勝てばァッ!!」


 目潰しの効果は一瞬。されど、これで反撃のきっかけは掴めた。

 それでも、速攻とばかりに打ち込んだ右ストレートは紙一重でかわされ、直後返す刀で肘打ちを放つも、此度は腕のガードに有効打を阻まれてしまう。


 しかし、流石に男女の腕力差は如何ともし難かったのか、秦漢華はそこで僅かにバランスを崩した。


 それを見た樋田はすかさず足払いをかけ、力づくで少女の上に馬乗りになる。そのまま首を万力のように絞め上げ、空いた右腕で勢いよく顔面を殴りつけようとし――――されど、彼の拳は何故かそこで


 ――――……オイ、何を躊躇ってやがるッ……!!


 樋田は別に女が相手だからと手加減をするような人間ではない。確かに男と比べれば暴力を振るうことに多少の抵抗感はあるが、そいつが自分や他人に平気で危害を加えようとする人間であれば、こちらも一切の容赦はしない。

 だと言うのに、どうしてもこの少女にだけは拳を振り下ろすことが出来ないのだ。


 別に何か異能の力が関係しているわけではない。それはただ単純に樋田自身の精神の問題だ。あえて言葉にするならば、まるで自分の知らない自分が、彼女を傷つけることを拒絶しているかのようであった。


「余裕ぶってんじゃないわよッ……!!」


 恐らく秦はその迷いを自分に対する侮りだと思ったのだろう。

 彼女は瞬く間に顔を赤くすると、力一杯に樋田の喉仏を殴りつける。続けて思わず悶絶する樋田の体を蹴り飛ばし、仕切り直しとばかりにバックステップで距離を置いた。


「ムカつくッ、本当にムカつくわアンタ。本当なんでよりにもよってこんなときにッ……!!」


「痛えな畜生。オイ、テメェは一体さっきから何ほざいて」


「うるさい黙れッ!! その顔で、その声で、私に話しかけんじゃあないわよオオオオオオオッ!!」


 そんな烈火の如き怒号と共に、秦は再び先程の特殊体術で樋田の懐へと入り込む。しかし、こたび吹き荒れた赤い嵐は、先程のものとは比べ物にならないほどに苛烈であった。


 ――――クソッ、重ッ……!!


 砲撃の如く放たれた大振りの飛び回し蹴りに、一撃でガードを崩されてしまったのが運の尽き。ガラ空きになった胴に正拳や掌底を次々と打ち込まれ、樋田の口の中は瞬く間に鉄の味でいっぱいになる。


 そうして少年の意識が上体に集中したのを見計らい、秦は彼の向う脛を力一杯に蹴りつけた。

 樋田も激痛を堪え反射的に殴りかかるが、そこで秦の正拳が彼の拳とピッタリと重なり合う。結果樋田の腕には電撃じみた痛みが走り、グキリという音ともに右肩を外されてしまった。


「チッ、ありえねぇッ……!!」


 こうなっては最早まともに防御の構えを取ることも出来はしない。

 樋田はそこで懐から黒星を取り出すと、慣れない左手で牽制に鉛玉をばら撒いた。そうして秦に銃口を向けたまま、ひとまずはゆっくりと距離を取り直す。


 ――――チクショウ、この俺様が殴り合いで押し負けてるだとッ……。


 別に自惚れているわけではないが、樋田は自分の強さにそれなりの自信を持っている。


 普通のチンピラ相手なら三人くらいでも問題なく一蹴出来るし、昔は五人組に車で轢かれたこともあったが、最終的にはきっちり返り討ちにしてやった。

 例え相手が暴走族の総長だろうが、カラーギャングのボスだろうが、格闘家崩れの用心棒だろうが、気に食わないヤツは問答無用でブチのめしてきたし、何よりは彼にはそれが許されるだけの暴力の才能があった。

 これまで生きた十七年の人生の中でも、例の色男を除けばサシの喧嘩に負けたことなんて一度もなかったのである。


 それでも目の前の少女は、樋田よりも明らかに強い。


 男女の腕力差を除けば、樋田が彼女に優っているところなど一つもないだろう。例え彼が万全の状態であっても、彼女に打ち勝つことは難しいに違いない。

 そして、素人相手には負けなしの喧嘩殺法が通用しないということは、自然と少年の考えは一つの答えへ辿り着く。


「その動き……、やっぱテメェ何かやってるだろ」


「当たり前でしょ。戦うための力が無ければ、いざというときに自分の大切なものを守れないからね。それに、強いということは殺さずに済むということでもあるから」


「……ハッ、殊勝なこった。だが、解せねえな。これでも武道や格闘技の経験者とは死ぬほど殴り合ってきたんだが、テメェほど滅茶苦茶な動きするヤツは見たことがねぇぞ」


「ふーん、そうね」


 そんな樋田の問いに何か思うところがあったが、秦は小休止とばかりに一度構えを緩める。そして、唐突にこんなことを言い出した。


「アンタさ。未来は過去の完全上位互換だと思う?」

「いきなり何言ってんだテメェ」

「いいから答えなさい」

「……いや、そりゃあ思わねぇけども」


「へぇ、その心は?」

「いや、当たり前だろ。今当たり前のように持ってる大切なモンを、これから先も絶対に無くさねえつー保証はどこにもねぇんだからよ」


 秦が何故こんな質問をしたのかは分からないが、今のは間違いなく樋田の本音だ。

 現状を顧みても、仮に晴が自分の元を離れるようなことがあれば、その時点で樋田の人生の暗転は確定する。


 これ以上悪くなることはないだとか、頑張れば必ずより良い未来が待ってるだとか、そんな使い古された文言は、今まで何も失ったことがないぬるま湯野郎の戯言に過ぎないのだ。


 そして、そんな樋田のネガティヴな答えに、どうやら秦漢華の方も満足したようであった。


「フッ、正解。まあ、八十点とでも言ったところかしら。確かにアンタの言う通り、人は多くのものを手に入れて、表面的には満たされているように見えるときほど、見えないところで代わりに多くのものを忘れ、失っているものよ。もちろんこの世界もね」


 秦はその切れ長の目を細め、どこか遠くに想いを馳せながら、まるで答え合わせとでも言わんばかりに言葉を続けていく。


「この学園はつい最近まで天界と少しコネがあってね。まあ、それも泰然王のせいで全部台無しになったんだけど……って今は関係ないか。まあとにかく天界の存在意義は人間界を出来る限り良い未来へと導くことだけど、そこには人類開闢以来のありとあらゆる文化文明を保存収集することも含まれている。当然武道や武術なんかもその対象の例外じゃあないわ」


「オイ、テメェまさかッ……?」


 ここまで丁寧にヒントを出されて、彼女の言いたいことが分からないほど、樋田は鈍い人間ではない。

 その最悪な予想に顔を歪める彼とは対照的に、秦漢華は嬉しそうに嗜虐的な笑みを浮かべていた。


「フッ、ようやく理解してくれたかしら。文革で失われた民国以前の殺人拳に、白人に文化ごと根絶やしにされた南米由来の密林闘法。そして未だ文字のない時代の日の本で生まれ、一度も紙に記録されることなく人々の記憶から消え去った古武術の原始大系。わざわざそんな例を挙げるまでもなく、天界のアーカイブにはありとあらゆる武道武芸武術の知識と記録が蓄積されている。なら、それら全てを習得しようとする人間がいたって何も不思議ではないでしょ」


「チッ、ざけやがって。それがテメェのふざけた体術の秘密ってわけか」


「ふっ、御理解いただけたようで何よりだわ。私の闘法には決まった型も流派もない。この体に刻まれた数千数万の技術の中から、そのときそのときに最も適したものを引き出しているようなものだからね。アンタと私に何か決定的な差があるとするならば、それは知識と技術、そして何より拳に積み重ねられた歴史の差よ」


 そうして彼女はこれが結論だと言わんばかりに、深く腰を落としていく。


「だから、さっさと諦めなさい。アンタじゃ絶対私には勝てないわ。無駄に抗ったって余計に痛い思いをするだけ。あまりに無意味が過ぎるんじゃないの?」


「黙りやがれ。勝ち負けだの、意味があるだのないだの、これはもうそんなくだらねえレベルの話じゃねぇんだよッ……!!」


「ハッ、アンタもしかしなくても頭のおかしいメサコンクソ野郎? 全く馬鹿馬鹿しいわね。命懸けで女の子守ってる自分に酔ってたりするのかしら。本当に気持ち悪い、この上なく不愉快だわ」


「言ってろ。コイツは俺に助けを求めた。俺はコイツを助けたいと思った。俺にとっちゃ戦う理由なんざそれだけ揃えば十分なんだよッ!!」


 樋田は最早枯れかけている気力をなんとか振り絞り、再び秦漢華という巨大な壁へと真正面から立ち向かう。

 だが、いくら大きな口を叩いたところで、気合がその圧倒的な実力差を埋めてくれるわけではない。


 片腕のみとなったガードは呆気なく崩れ刺さり、秦の鋭い連打が樋田の急所へ次々と突き刺さる。しかし、それでも中々膝をつこうとしない彼に、秦漢華の方も遂に痺れを切らしたようであった。


「ハッ、しぶといわね。いいわ、その諦めの悪さだけは認めてあげる。だけど、これを見てもまだ同じことがほざけるかしらッ!?」


 その瞬間、樋田は場の空気がガラリと変わるのを確かに感じていた。


 肌の表面がビリビリ痺れ、周囲の空気がドッと重くなるこの感覚は、間違いなく『天骸アストラ』がこの場に生じた証拠だ。少女の体より可能性の力が溢れ出し、その体をみるみるうちに尋常ならざるものへと変異させていく。


 ただでさえ紅い髪と瞳は更に熱く燃え上がり、頭上には銀河の如き天輪が浮かぶ。そして最後には、その右肩から炎を象った巨大なが飛び出したのであった。


「チクショウ、やっぱテメェも天使かッ……!!」

「テメェも、とは一体どういう意味かしら? 先に言っておくけど、この私があんな自力で自我も保てない量産型共と同じだと思っていると――――本気で死ぬわよ、アンタ」


 そんなことは態々言われずとも分かる。

 先程の天使達や鷲獅子は勿論のこと、晴と比べても秦漢華の『天骸』は圧倒的だ。むしろ天使本体の力量だけならば、あの簒奪王をも超えるかもしれない。

 かつて樋田は晴が人間界に降り立った際の姿を、小さな太陽が降って来たようだと称したが、秦漢華の天使化は正に地獄の具現化とでも呼ぶべき代物だ。

 その禍々しい紅黑の『天骸』と、背後で揺らめく灼熱の隻翼が、二人の侵入者を断罪せんと唸りを上げる。


「この俺様が死ぬだって……ハッ、ほざきやがって。殺せるもんなら殺してみやがれってんだよオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!」


 しかし、そんな猛々しい虚勢とは裏腹に、樋田の心は既に屈服しかかっていた。

 無理だ。どう考えたってこんなバケモノに勝てるはずがない。そうして彼が思わず天使から目を背けかけたその瞬間、



「ええ、そうさせてもらうわ」



 秦漢華は既にこちらの懐へ入り込んでいた。


「え」


 樋田が何か具体的な対策をとるよりも早く、彼の腹部へ強烈な蹴撃が突き刺さった。

 まるで車にでも轢かれたような凄まじい衝撃に、思考と呼吸とはまとめて刈り取られ、そのまま少年の体はノーバウンドで壁に叩きつけられる。


 それでも骨にヒビが入らなかったのは奇跡であったが、最早起き上がろうとしても思うように体が言うことを聞いてはくれない。

 戦いの中で負った傷と痛みの全ては、これまで気力だけで押さえつけてきたが、遂に肉体の方が先に根を上げてしまったのである。


「『神の炎ウリエルアーツ』」


 しかし、そうして惨めにうずくまる樋田に対しても、秦漢華が容赦することはなかった。


 少女の天使体からは簒奪王に匹敵する濃度の『天骸』が噴き出し、瞬く間に何かしらの術式が組み上げられていく。

 その卓越した体術ばかりに気を奪われがちになるが、コイツも天使である以上は何かしらの権能を有しているに違いない。


 果たして鬼が出るか、それとも蛇が出るか。



「いい加減目を覚ましなさい。もう、くだらない夢を見る時間は終わりよ」



 然して、秦のそんな冷たい声とともに、樋田の目の前に出現したのは、何か術式がびっしりと敷き詰められた魔法陣のようなものであった。


 その謎の紋様は瞬く間に不気味な妖光を放ち出し、それにつられて無数の赤黒い稲妻がバチバチと周囲を走り回る――――そしてその直後、そこには何もないはずの虚空が、突如前代未聞の大爆発を引き起こした。


 怖いだとか、逃げなければならないだとか、そんな思考を思い浮かべていられる余裕もない。

 着火と同時に樋田の世界からは、色も音も全ての感覚が消し飛んだ。彼の体はそのまま爆風に吹き飛ばされ、ボロ雑巾のように床の上を転がっていく。


「ガッ――――アッ――――」

 

 別に爆発自体が直撃したわけではない。ただ爆風に煽られただけでこの威力。そこにどんな理由があるのかは分からないが、秦が樋田を殺すまいと手を抜いたのを明らかなことであった。


 それでも爆発の余波はなおも止まらない。

 狭い通路は瞬く間に爆炎が埋め尽くし、天井や壁も脆いところからボロボロと崩れ落ちていく。


 ――――アイツは、松下はまだ大丈夫か……?


 樋田はその小さな少女の姿を探して、目を覆いたくなるような大惨劇の中へと目を凝らす。すると、幸い松下希子の背中はすぐに見つけられた。そしてこれまた幸いなことに、爆心地から離れていたおかげか特に負傷した様子も見えない。


「うっ……。なんで、なんでまたこんなッ……!?」


 しかし、それでも心の方は無事ではすまなかったようであった。彼女は何かしらのトラウマを刺激されたのか、体をくの字に曲げて腹の中身を盛大にブチまけている。


「ふーん、見たことない顔ね。まぁ、アンタが誰かなんて別にどうでもいいんだけど」


 そこへ秦漢華の冷たい声が響き渡った。

 彼女は盛り狂う爆炎の間から姿を現わすと、ゆったりとした動作で松下の元に近付いていく。そして彼女の首を鷲掴みにすると、そのまま力任せに頭上まで持ち上げた。


「ガッ――――た、センッ、輩……」


 少女の細い首は必要以上に締め付けられ、今にも根元から呆気なくへし折れてしまいそうである。その口から漏れる弱々しい声に、樋田の頭の中で何かが壊滅的にブチ切れた。


「オイ、やめろテメェエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエッ!!」


「……うるさいわね。いいでしょ、別に殺すわけじゃあないんだし。それよりもアンタは自分の心配をしたらどうかしら」


 直後、秦のフィンガースナップと共に、今度は樋田の頭上で爆発が巻き起こる。上からの殴りつけるような爆風に、立ち上がりかけていた彼の体は再び下に叩きつけられてしまう。


「……畜生、がああああああああああああッ!!」


 ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな。

 もう終わりなのか、ここが諦めどきなのか。

 自分は最早こうして惨めにはいつくばったまま、松下が殺されるなり連れて行かれるなりする様を黙って見ているしかないというのか。


 いや、それは違う。


 確かに体はもう動かないし、『天骸』の方もほとんど使い切ってしまった。だが、それでもまだ何か手があるはずだ。考えろ、諦めるな。

 しかし、今まで多くの危機を機転で乗り越えてきた樋田の頭も、此度ばかりは逆転の一手を導き出すことが出来ない。


「最後にもう一度だけチャンスをあげるわ」


 そんなところへ再び蜜のように甘い誘惑の言葉が囁かれた。

 樋田が思わず顔を上げてみると、秦は松下の体をゴミのように放り捨て、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。


「チャンスっ、だと……」

「だから、もうあんなクソガキ見捨てて逃げなさいって言ってんのよ。もうアンタじゃ私に勝てないことはよく分かったでしょ。なら、さっさと諦めなさい。いい加減見苦しいわよアンタ」


「……………本当に、アイツを見捨てたら、俺のことは助けてくれんのか?」


 そんな樋田の返答に秦は満足そうな、それでいてどこか失望したような嘲笑を浮かべる――――しかし、そうして秦が油断したその一瞬、樋田はなけなしの力で彼女の体を突き飛ばし、すかさず顔面に向けて銃弾を放つ。

 卑怯極まりない騙し討ちだと言いたいのならば言えばいい。それでもこれが今の樋田が思いつく限り精一杯の抵抗であったのだ。


「最低ね。でも、そういう必死なところは嫌いじゃないわ」


 しかし、そんな最後の悪あがきも秦漢華には一切通用しなかった。

 樋田が起死回生にと放った鉛玉は、秦の上下の歯に挟まれる形で、いとも簡単に受け止められてしまったのである。


「っるせぇ……、次はドタマブチ抜くって言っただろ……ガハアアアアアッ!?」


 なおも軽口を叩き続ける樋田の脳天に、鋭い踵落としが振り落とされる。その強烈な一撃こそが、今度こそ少年の敗北を完全に決定付けた。


 力の抜けた左手からは黒星がこぼれ落ち、何とか保っていた意識も段々と暗く遠のいていく。ダメだ、まだ倒れてはいけない。自分が倒されてしまったら、一体誰が松下を守ってくれるというのだ。

 しかし、いくら自分にそう言い聞かせても、最早世界の暗転を食い止めることは出来なかった。


「……はあ、やっぱりそういうところは全然変わってないのね。本当にやめて欲しいわ。そんな姿見せられたら、アンタならもしかしてって、私もそう思っちゃうじゃない」


 しかし、そこで秦は何故か急にハッと目を見開いた。

 そうして彼女は苦虫を噛み潰したような暗い表情を浮かべると、親指の爪をおもむろに噛み、そのまま勢いよく引き剥がした。ブチブチという肉の千切れる音と共に、その手は瞬く間に朱に染まる。


「ハはッ……、私は一体何を考えてんのかしら。ダメよ、私にそんな資格があるわけないじゃない」


 そんな見ているこちらの方が痛くなりそうな自傷行為と共に、気丈であった秦の顔が弱々しく歪んでいく。しかし、それもほんの一瞬のこと。次に彼女が顔を上げると、そこには再び先程のような仏頂面が貼り付けられていた。


「……これに懲りたなら、もう余計な詮索はしないことね。今度こそ本当に次はないわ」


 秦漢華は最後にそれだけ言い残すと、呆気なく通路の反対側へと引き返していった。

 半ば気を失いかけている樋田や、あれほど目の敵にしていた松下に手をかけることもせず、それどころかその去り際には、御親切にも外界への出口のようなものをしっかりと拵えて。


 ――――見逃して、もらえたのか……?


 秦漢華が黙って去っていった理由は分からないし、あまりにも自分たちにとって都合が良すぎるが、何はともあれこれで二人揃って外の世界へ帰れるはずだ。


 そして、そこで緊張の糸がプツンと切れてしまったのか、樋田の意識は完全に暗闇の中へと沈み込んでしまう。


 世界が漆黒に包まれるその直前、涙目の松下が駆け寄って来たのは、果たして夢だったのかそれとも現実であったのか。それすらも今の彼には分からない。



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