第百十四話『もう頑張らなくていい』其の二
最早秦は何も言わなかった。
少女は力無くその場にペタリと座り込む。
不安気に揺れていた赤の瞳は、いつのまにかはっきりと一点を見つめていた。涙に濡れた瞳は未だ曖昧に揺らめいてはいるが、その奥の赤はかつて樋田が美しいと感じた鮮やかさを取り戻していく。
いや、少女の身に起きた変化はそれだけではない。
まるで秦の心情の変化に比例するが如く、それまでホールの中を吹き荒れていた『天骸』の嵐が徐々に収まっていくのだ。
樋田には当然、彼女の身に何が起きたかなど分からない。
それでも、自分は正しい選択をしたのだということだけは分かった。間違えなかったからこそ奇跡が起きたのだと、そう確信することが出来た。
「……興醒めだな」
しかし素晴らしい奇跡も、悪を司り悪を生み悪を為す絶対悪にとっては唾棄すべき茶番に過ぎない。
「外野が知ったような顔で口を出すな。お前も今聞いただろ。コイツは俺様の妹を殺したんだぞ。だから当然、俺様にはこの女に復讐する権利がある」
「あぁん、復讐だあ……? 何言ってんだテメェ。それはテメェ本人じゃなく、あくまでガワの話だろ」
確かに秦が殺めた
だが、それは違う。
コイツの正体は全殺王アンラ=マンユ。人間草壁蟻間はあくまでこの大悪魔に肉体を依代として利用されているだけの存在に過ぎないのだから。
少なくとも樋田はそのように理解している。
「……クククッ、アハハハァアアッ!!」
されど、悪魔は嗤う。
まるで言外に少年の言葉を否定するように、嘲り笑う。
「笑わせてくれるなよクソモブ。この俺様があんな小悪党風情との綱引きに負けるはずがないだろ。逆だ。真実は逆にこの俺様があの半端者から絶対悪としての地位を奪い取ってやったのさ」
「へえ……、なるほどな」
自らの武勇伝を随分と誇らしげに語る草壁とは対照的に、樋田は悪魔の話をろくに聞いてすらいなかった。
今更コイツの正体がどうなのかだなんて正直どうでもいいのだ。ただ一つ、樋田がこのクソ野郎に対して聞きたいのは、
「で、テメェは本当に妹が殺されて悲しいのか?」
「はあ……?」
その問いかけが随分意外だったのか、草壁は一瞬呆気に取られたような表情を見せる。しかし、その直後にはニヤリと悪魔らしい下卑た笑みを浮かべて言う。
「ああ、悲しいさ。兄妹だけあって体の相性は最高だったからな。首を締めると
「……」
「あぁ、そうだな。お前を殺した後は代わりにそこの女で愉しませてもらうとするか。人としては生きる価値のないクズでも、慰み者としては案外優秀かもしれねえだろ。なあ、そこらへんどうなんだ。コレがお前の女だってんなら、使い心地ぐらい分かるだろう?」
しかし、樋田は言い返さない。
短気な彼にしては珍しく、ただ黙して拳を握りしめるだけであった。
その日、彼は初めて知った。
自分は今まで言葉や態度で表現出来るレベルの怒りしか抱いたことがなかったのだと。そして、その壁を超えた先にあるのは、ただ行動によって証明するしかない純粋で冷静な殺意なのだと。
次の瞬間、樋田は何の前触れもなく銃の引き金を引いた。
一切の躊躇なく、銃口をクソ野郎の頭に向けて。
仮に本当に頭に当たったとしても、天使ならば天使体が壊れるだけで済む。いやそんなことは関係ない。例えコイツが生身の人間だとしても、樋田は絶対に同じ行動を取っただろう。
「良い殺意だ。お前からは微かにこの俺様と同じ匂いがする」
対する全殺王は避けることすらしなかった。
先程は悪魔の側頭部を貫いた黒星の弾丸も、今度は草壁の皮膚に到達することすらない。
その瞬間、樋田には弾が消えたように見えた。
正確にはヤツの周囲に近づくや否や、黒星の鉛球は突然塵と化したのである。
確か先刻松下が言っていた。
彼女曰く、ダエーワは皆多かれ少なかれ瘴気なるものを有しているのだという。
瘴気とは即ちダエーワの司る悪性が目に見える形で具現化したものだ。その穢れはありとあらゆるものを汚し、腐らせ、朽ちさせる。それこそダエーワの王である草壁蟻間ほどになれば、その周囲に近付くだけで鉛玉を溶かすほどの凶悪さを誇るのかもしれない。
「その割にお前から大した力は感じないがな。まあいい、『鍵』が浸透するまでの余興がてら少し遊んでやる」
そう言うや否や草壁の左半身を覆う黒影が怪しく揺らめいた。悪魔はそこから噴き出した瘴気を操り、瞬く間に漆黒の球体を七つ形成する。
その瞬間、樋田の脳裏に自らの死のイメージが走った。
草壁が指揮者のように軽く腕を振る。
瘴気で象られた球体がこちら目掛けて射出される。
恐らく触れればそれだけで身体が腐り落ちるだろう。
そんな即死攻撃が百キロを超える速度で迫り来るのだ。
ただの人でしかない樋田が避け切れるはずがない。
直後に着弾。
瘴気の球は壁や床にぶつかり霧散する。
霧散し、その周囲に穢れを撒き散らす。
事実、瘴気に晒された木材は腐り、コンクリートは朽ちてボロボロと崩れていく。
「ハァ……、ハァ……」
しかし、樋田可成はその中に五体満足で立っていた。
いや違う。正確には辺り一面が瘴気に犯されていながら、彼の周囲にだけは穢れが及んでいない。
単純な話である。直前に樋田が飛び込んだその場所には、奇跡的に漆黒の球が飛んでくることも、飛び散った瘴気がかかることもなかったというだけのことだ。
それは例え空から千の矢が降り注ごうとも立ち位置によっては無傷で済むような、例え確率は低くともあり得ないとは言い切れない偶然なのかもしれない。
「随分と悪運が良いな。モブは適当にばら撒かれた流れ弾に当たって死ぬのがお約束じゃないのか」
「ハッ、相変わらず変態すぎるだろ。敵のときはクソ頭に来たが、味方になるとこうも頼もしいとはな。次もその調子で頼むぞ」
「はあ……?」
否、それは偶然ではなく必然であった。
瘴気が描く軌道、打ち出される速度、そして穢れが及ぶであろう範囲。その全ては
今この場にいるのは樋田、草壁、秦の三人だけではないことに、悪魔の王はまだ気付いていないのであろう。
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