第百四話『周音と漢華』終 其の三


「はあ……、はあ……」

「――――」


 熾天使の瞳が最後の、それでいて最も憎らしい女の方を向く。その女――草壁蜂湖は友人が嬲られ、撲殺される様をただ黙って見ていた。

 例え友人を助けることは出来なくとも、天使の意識が他に向いてる隙に逃げようとしていてもおかしくはないのに、女はずっとその場に座り込んだままであったのだ。


「なんなんだよ、それ。まさか、テメェもアイツの言うダエーワってヤツになっちまったのか……?」


 鬼気迫る声色で草壁は問いかける。

 しかし、天使は答えない。そもそも今の彼女にまともな意識はない。あるのは憎しみだけだ。激情に支配されて、憎悪に全てを委ねて、ただただ怨みを果たすためだけの復讐機械と化しているのだ。


「痛ッ……!?」


 そんな炎の天使は、草壁の髪を乱暴に掴み取ると、その耳元になにかを囁き始めた。


『なんで……なんで、姉さんを殺したの……』

「ぐッ…………!!」


 まるで無意識から出た譫言のような問いかけであった。しかし、それでも草壁はその言葉に咄嗟に答えることが出来なかった。


「――――……ッ!!」


 それが更に怒りに油を注いだのか、天使は乱暴に草壁蜂湖の顔を地面に叩きつける。

 しかし、それだけで済ますはずがない。彼女は立ち上がり、草壁の後頭部を足蹴にする。踏み付けて、踏み付けて、何度も何度もその足を振り下ろす。まるでバグったロボットが決まったプログラムだけを延々繰り返すように何度も、何度も、何度も、何度も――――、


 しかし、そこで天使は一度暴力の手を止める。

 草壁蜂湖が横に転がって、杭を打ち込むが如き踏み付けを躱したからだ。女は顔を血で真っ赤にし、口に入った土を吐きながらも何とか起き上がろうとする。



「――――――はぁ、はぁ、分かン、ねえよッ、そんなモンッ……!!」



 しかし、草壁蜂湖が何とか絞り出したのはそんな無責任な言葉だった。ただでさえ憎悪に取り憑かれていた、復讐者の瞳からフッと光が消える。

 直後、赤髪の天使は草壁に飛びかかる。彼女がその首を締め付けにかかるのを、亜麻色の女はなんとかギリギリのところで食い止めようとする。


「があぁアアッッ……!!」


『なんで、なんで殺したの、なんで私から奪ったの……教えなさい、いいから早く、私にッ』


「――――うるせえええええええッ!! 知るかそんなもん、分からねえモンは分からねえんだから仕方がねえだろガアアアアアアアアアッッ!!!!!!!」


 それまで従順であった草壁が唐突に激昂する。

 草壁蜂湖もまた、秦同様に壊れたのだ。まるで物分かりの悪い幼子のように、亜麻色の女は無闇矢鱈に吠え立て始める。


「畜生、畜生畜生畜生畜生ッ!! ふざけんじゃねえよッ、何なんだよこのクソみてえな人生はよッ!! あたしが何したってんだッ……あたしは普通に生きていけりゃそれで良かったのに、生まれてこの方良いことなんて一つもねえッ!! 本当に一つもねえよッ……滅茶苦茶だ、アイツのせいであたしの人生全部ダメになった。畜生ッ、何でだ、何で、よりによってあんなヤツが、あたしのッ……!!」


 はじめは荒々しく怒鳴り散らしていた草壁であるが、次第にその声は小さくなり、泣き出しそうにすらなる。

 それに従って彼女の抗う力もみるみるうちに弱まっていく。そもそも天使の腕力にただの人間が叶うはずもなく、秦の両手は完全に草壁の首根っこを捉えた。


「ァ、アア……ガハアッ……!!」


 仮に喉を塞がれていなければ、草壁はそのとき悲鳴を上げていたかもしれない。

 秦の手を通じて、自らの首に何か黒い紋様のようなものが這い寄ってきたのだ。まるで秦漢華という少女の憎悪が形をもって自らを犯すが如く、あっという間に加害者の全身は黒く塗り潰されていく。


 神の炎、四大天使の一角であるウリエルに由来せし権能『殲戮せんりく』。その力は手で触れたありとあらゆるものの属性を爆発物へと変換する。


「ギッ、グ、ァァ、秦ッ、秦秦秦ォォッ……!!」


 最期に草壁が見せたのは苦悶の表情であるはずであった。

 なのにその頬を伝った涙から、恐怖と苦しみ以外のものを見て取ってしまったのは何故だろうか。



「っん」



 最期はあまりにも呆気ないものであった。草壁蜂湖は、体の内側から全身が弾け飛んで死んだ。

 醜い肉片と、穢れた鮮血が雨のように降り注ぐ。その中で秦漢華は独り天を仰いでいた。少女の目尻を、降り注ぐ血液が涙のように伝う。


 果たして彼女のしたことは悪だったのか。

 それとも悪を裁くための善であったのか。


 だけど、きっと他人からの評価なんて関係ない。秦漢華は自らの行いを悪だと信じて悔いるに決まっているから。彼女は憎しみを抑えられるほど善人ではないのに、それで自分は悪くないと開き直れるほど悪人でもないから、だからこそ最悪なのだ。


 その日、それまでの秦漢華は人殺しの罪に溺れて死んだ。自分は正義の味方に救われるべきではない、被害者ヅラして他者に縋ることすら許されない――――そんな文字通り救いようのない存在へと成り果てたのだ。



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