第二十一話 『樋田可成は二度死ぬ』


 あの場所で気を失ってから、どれだけの時間が過ぎたのかは分からない。されど頭上は相も変わらずの星空で、時折辺りを吹き散らすビル風もまだまだ冷たく肌寒い。


 チンピラ少年にとって夜遊びは珍しいことではないが、これほどまでに長く感じる夜は生まれて初めてのことであった。


「クソッ、痛ってぇ……」


 ところは例の繁華街を東に行った先――――周囲に火力発電所が連なる工業地帯の中を、樋田可成はボロボロの体を引きずるようにして進んでいた。


 背中と鳩尾を中心とした胴の隅々、そして何よりトドメの一撃をもらった左の頬。喧嘩を騙った八つ当たりの代償は重く、時折体を劈く鈍い痛みに、少年は思わず壁に体を預けずにはいられない。


「……ったく、本当テメェでテメェが分からなくなってくるぜ」


 今のオマエだけは間違っている――――そう、明確に樋田を否定した色男の言葉がふと蘇る。


 態々他人に言われずとも、今の自分の行動と言動が矛盾している自覚はある。

 命惜しさに晴を見捨てたくせに、彼女の死を仕方がないことと諦める覚悟も無く、中途半端な未練を引きずり続けているのが現状だ。


 善人悪人の区分以前に、樋田は所詮その程度の弱い人間なのである。


 今こうして『晴と同じ時間を過ごした場所』を巡っているのも、そんな彼の脆弱さと優柔不断な本質の表らでしかないのだろう。


 初めは例の裏路地に足を運び、続いて向かったのは高輪台近くの森林公園だ。言うまでもなく前者は晴と初めて出会った場所であり、後者は彼女と実験という名のじゃれあいを繰り広げた思い出の地である。


 そんな場所に足を運んだところで、万が一にも晴に会えることはない。仮にもう一度会えたところで、最早彼女との仲を修復することは不可能であろう。

 そのことは自分自身が一番よく分かっているはずのに、それでも『もしかしたら』という甘い期待を振り払う事が出来ないのである。


「一体何がしてぇんだ俺ァ……」


 そう天へ向けて虚しく問いかけてはみても、淀んだ曇り空は当然のように何も答えを返してはくれなかった。

 いつの時代も天は人の行いを肯定も否定もしない。己が歩んでいく道は、自分自身の意志で決めなくてはならないのだから。


 そうして虚ろな目で道を進んでいくうちに、ようやく最後の目的地が視界の向こうに見えてくる。まだここからはそれなりに距離があるというのに、早くも爽やかな潮の匂いがツンと鼻をついた。


「人がいねぇのは流石に深夜だからってだけだよな……」


 そこはまるで東京湾を見下ろすように建造された巨大な港湾施設。そして二日前、樋田が簒奪王の暴虐の前に屈服し、一度抱いた理想の全てを諦めるきっかけとなった場所でもある。


 つい二日前にあれほどの戦闘が行われたとは思えないほどに、その一帯は心地の良い静けさを保っていた。海上には一隻の船舶も見当たらず、倉庫の方を見ても誰かが貨物の積み下ろしをしている様子はない。


 そうして無人の施設内をゆっくりと進んでいると、あの夜繰り広げられた戦いの痕跡――――否、その面影が目に入る。


 簒奪王の操る不可視の刃によって至るところを破壊された当施設だが、既にどこぞの建設業者の手によって粗方の復旧は済んでいるようであった。

 樋田のものを中心とする血痕の類は残らず取り除かれているし、無残に抉られたコンクリートもこれまた綺麗に埋め直されている。


 そう、暴力と破壊に塗れたあの恐ろしい時間は既に遠くへ過ぎ去ったのだ。

 これまで通りの平和な日常を見事取り戻した港湾施設に、樋田は何となく今の自らの姿を重ねてしまう。


「これで良かったって、そう割り切るべきなのかもな……」


 ここ最近の平穏な日々を思えば、あの激動の二日間がまるで幻であったかのように思えてくる。樋田可成と筆坂晴との運命的な出会いも、もしかしたらそれと大して変わらない刹那的なものでしかなかったのだろうか。


「現実の厳しさは知った、テメェの情けなさも思い知った。とっくの昔に限界なんて分かってたつーのに、何を俺は浮かれてたんだ……」


 きっと、樋田は今まで夢を見ていたのだ。

 自分でも機会さえあれば、選ばれし者としての役割を演じ切ることが出来る。自らの信念に身を任せるがまま、助けを求める誰かの声に応えることが出来る――――と、そんな甘い考えに溺れていたのだ。


 だがそれは、ただの子供じみた幻想だ。


 この世界に生きる皆が皆、自分の理想を貫けるわけではない。誰も彼もがそうした現実と折り合いをつけ、常に何かを諦めながらこのクソッタレな世界を生きているのだ。


 樋田にもようやくを認めなくてはならないときが来た。筆坂晴と出会ってからの一連の出来事は、もしかしたらただそれだけのことであったのかもしれない。


「……そろそろ大人になれって、いつまでもガキみてぇに駄々こねるのはやめろって、そういうことかよ」


 それは粗暴で短気な樋田にしては珍しい、憂を含んだ物悲しい呟きであった。

 こんな最悪な結末にはとても納得出来ないが、少なくともしなくてはならないことだけは理解出来た。


 そうなれば最早こんな場所にいつまでも長居をする理由はない。決して叶わないその夢に、決して届かないその幻想にいつまでも執着する必要はない。


 そうして樋田はどこか名残惜しそうに、或いは未熟で傲慢なかつての自分に別れを告げるように、ゆっくりと踵を返そうとする――――と、ちょうどそのときであった。



「――――ハッ?」



 視界の端に写り込んだ微かな違和感に、樋田は思わずその足を止めていた。

 背中からは瞬く間に嫌な汗が吹き出し、呼吸が段々と荒くなっているのが自分でも分かる。


「オイ、ありゃまさか……ッ」


 樋田は震える体を無理矢理に抑え、違和感の元へと足早に歩み寄っていく。そして彼はその白いものを――――いや正確に言うならば、かつてものを手に取った。



「こりゃどういうことだ……」



 それは巨大なであった。


 絹のように美しい純白の羽毛に、それを穢すようにこびりつく赤黒い血痕の数々。その翼長は桁外れに大きく、平均的な成人男性の身長にも迫るほどだ。

 鮮やかな根元の切り口を見るに、この翼は恐らく何か鋭利な刃物のようなもので一思いに切断されたのだろう。


 この大都市東京の中で、これほど大きな翼を持つ生物など一匹、いや一人しかいない。間違いなくこれはあの隻翼の天使、アロイゼ=シークレンズが左肩から生やしていた純白の翼だ。


「なんで、こんなところにアイツの翼が――――」


 そう譫言のように呟きながらも、樋田はその理由を既に何となく悟っていた。


 晴と袂を分かった二日前の夜。

 あの日真っ直ぐ自宅に向かっていたはずの彼女の翼が、その反対方向にあたるこの港湾施設に落ちている。その事実の意味することが分からないほど、樋田可成は鈍い人間ではない。



「アイツは、晴は俺を助けに来ていたのか……?」



 そう考えれば全ての筋が通る。


 そもそもあの夜、この港湾施設で繰り広げられた簒奪王との死闘から、樋田が生還出来たことこそがまず不自然であるのだ。

 いくら海に落ちたとはいえ、既に気を失った人間を、あの簒奪王が取り逃すなどあるえるはずがない。


 結果的には潮の流れに任せて逃げ果せたにしろ、恐らくはそれまでの時間を稼いでくれたがいたのだろう。


 否、誰かではない。

 親も恋人も友人もいないこの哀れな少年を気にかけてくれる者など、この世界には筆坂晴を除いて他にはいないのだから。


「嘘ッ、だろ……」


 翼を抱くその両手はいつの間にか震えていた。キリキリと締め付けるように胸が痛み、たちまちに喉の奥から何か熱いモノが込み上がってくる。


 最初に晴と出会ったその瞬間から、樋田は彼女に助けられてばかりであった。


 初めはその命を怪物の魔の手から救ってくれた。


 次の日には危険な非日常を生き抜くための術を教えてくれた。


 樋田から『燭陰ヂュインの瞳』を取り除くための方法も、晴はまるで自分のことのように真摯に考えてくれた。


 確かにそれはあくまで『燭陰ヂュインの瞳』を守り抜くための行動であり、彼女が樋田に懇意に接してくれたのは、もののついでであったのかもしれない。

 だがそんなことは、最早どうでもよかった。


 親に愛されず、友人を作ることも出来ず、そうして誰とも心を通わせずに生きてきた樋田にとって、ただ気兼ねなく接してくれる晴の存在が、どれだけ嬉しく、また救われるものであったか。

 それはとてもただの言葉だけで、言い尽くせるようなものではない。


「クソッタレが、だから何だってんだよ」


 このまま何もしなければ、晴は間違いなく簒奪王に殺されるだろう。


「どうせ何も出来やしねぇよ。ただ殺されるに行くようなもんじゃねぇか」


 樋田が晴から『燭陰ヂュインの瞳』を奪わなければ、こんなことにはならなかったかもしれないのに。樋田が彼女と共に戦う決意をしていれば、もっとマシな結末を引き寄せることが出来たかもしれないのに。


 確かに痛みを負うのは厭だし、死ぬのは当然もっと怖い。

 されど、それ以上にと――――そう、樋田は気付いてしまったのだ。


「クソッタレがッ、どっちにしろ地獄じゃねぇか。笑えねぇよ本当」


 何をすべきか、そう己に問いかける。


 またこれまでのように諦めるのか。そうしてこの先の人生何もかも諦めて、妥協して、『何も持たぬ者』としてただただ空虚に生きていくのか。


 人間の本質はそう簡単に変えることなど出来ない。 

 きっとここで立ち上がらなければ、樋田は一生自分を嫌ったまま歳を重ねていき、そして己の存在に何の価値も見出せないままただ虚しく死ぬのだろう。


 今まではそれでもいいと思っていた。いや、違う。それでも仕方ないと諦めていたのだ。だが、そんなつまらない強がりでは、最早自分の気持ちを騙し切ることは出来ない。


 少年は知ってしまったのだ。

 他者と繋がりを持つことの幸せを、そして人に存在を認めてもらうことの喜びを、樋田可成は知ってしまったのだ。


「オイオイどうした……、自分見失うにも限度ってモンがあるぜ」


 もう一度だけでいい。晴の言葉が聞きたい、あの聞く人を惹きつける力強い言葉を。

 もう一度だけでいい。晴の笑顔が見たい、あの飾り気のない太陽のような笑顔を。


 それが筆坂晴を救うためならば、それでもう一度彼女の隣に笑って立つことが出来るならば、少年は、樋田可成は、



「へははっ、本当に馬鹿だな俺ァ……」



 |。



 ふと頭をよぎった己らしくない考えに、今度は別の意味で手足が震えてくる。

 樋田可成は、自他共に認める紛うことなきクズだ。弱者を虐げ、強者に媚び、声はやたらと大きい癖に、自ら行動を起こすことはほとんどない。

 口では耳触りのいい綺麗事をほざきつつも、結局は自分の身が一番可愛くて、そのためならば平気で他者を見殺しにすることも出来る最低の人間である。


 そんな卑屈で卑怯で卑劣な彼では、晴のような高潔な生き方は出来ないし、あの色男のように完璧な正義の味方になることも出来ないだろう。


「……だからって、それが何もかも諦めていい言い訳にはならねぇよな」


 こんな自分でも一度くらいは本気で夢を見てもいいではないか。小さな頃から憧れ続けてきた夢と理想に対して、一度くらいは真摯になってみてもいいではないか。


「まあ、いい加減テメェに失望すんのも飽きてきたところだしな」


 そんな馬鹿げた欲望を自らに許したその瞬間、胸の中にこびりついていた憂鬱がたちまちに消えていく。仰々しい言葉を使えば「生まれ変わった」と、そう感じるほどの劇的な変化であった。


「ありえねぇ、ありえねぇぜ本当。俺はまともな人間だったんだ。生まれてからこの瞬間まで、ずっと巧く賢く生きてきたんだ。叶いもしねぇ理想に命賭けるような馬鹿じゃあなかったんだよ。それがどうして、こんな……ははっ、なぁ晴。テメェのせいで俺はイかれちまったよ。ぎひひっ、げひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃッ!! 」


 ただでさえ陰気臭いその凶相を、更に醜く歪めながら樋田はひたすらに笑い狂う。それは正義の味方と呼ぶには、あまりにも相応しくない滑稽な姿であろう。


 だが、確かに殻は破れた。

 十七年もの長い間、足踏みを続けた彼の人生にとって、それは大きな一歩であった。


「……やってやる、やってやるぜ俺ァッ!! 天使が何だ、天界なんざ糞食らえってんだよ。待ってろ晴、お前はこの俺が必ず運命から救い出してやる。待ってろ簒奪王、テメェはこの俺様が必ず地獄に叩き落としてやるからよオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!」


 犬歯を剥き出しに、そして細い目を力の限り見開きながら、樋田は高らかに己が理想を宣言する。

 身の程知らずの大見得を切った自覚はあるし、最早迷いは無いなんて言い切る自信はとてもない。それでもその瞬間の彼の心は、自分でも驚くほどに爽やかで、早朝の雪解け水のように澄みきっていった。


 そして決意の総仕上げとばかりに、樋田はズボンのポケットの中へ乱暴に手を突っ込む。


「チッ、ふざけた真似しやがってッ……!!」


 そう吐き捨てながら少年が取り出したのは、色男が残していった例の小さな紙切れであった。

 まだ中身は読んではいないし、読む気も全くもってないが、恐らくここにはヤツの連絡先か何かが記されているのだろう。

 つまりは俺に頼れ――――と、あの男はこちらにそう言っているのだ。


「……誰がテメェなんざに頼るかってんだ」


 樋田は怨念を込めるように紙切れを破りまくると、そのままそれを渾身の力で夜闇の中へ放り捨てる。



「テメェのことは、テメェでケリをつけてやらあアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」



 これが俺の選択だ、そう言わんばかりに少年は天高くに拳を突き上げる。

 東の空はまだ底無しの漆黒に包まれているというのに、何故だか夜明けはもうすぐそこまで迫っているような気がした。

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