第七十四話 『高度百五十メートルの死闘』

 

 また後でな。

 そんな素っ気ない言葉だけを言い残して、樋田可成は足早に二人の元を去っていく。

 秦は名残惜しそうに彼の背中を目で追うが、それもすぐに見えなくなってしまった。


「本当、何もないといいのだけど……」


 正直、心配であった。

 確かに彼は短気で粗暴なチンピラ崩れであるし、とても正義のヒーローなどと呼ばれ、称えられるような存在であるとは思えない。


 だが、秦漢華はたのあやかは知っている。

 彼が自分という巨悪を打ち倒した二週間前、いや、本当はその遥か前から知っているのだ。


 樋田可成という少年が、本当は理不尽に苦しめられている人々を放っておけないようなお人好しであることを。

 そしてなにより、そんな人達を救うためならば、たとえ自分がいくら傷付いても仕方がないと思っている――そんな彼のひどく愚かなところも、秦漢華は他の誰よりもよく知っているつもりだ。


 ――――無茶なんて、したら許さないわよ。


 出来れば今すぐにでも彼のもとに駆けつけたい。

 しかし、秦はそんな衝動をなんとか理性で抑え込む。


「お兄さん、大丈夫ですかね……」

「……ヨシくん」


 今の自分には傍の少年を、ダエーワの魔の手から守り切らねばならないという使命がある。


 だから、信じて待とう。

 彼ならばきっと上手くやってくれるはずだ。

 そう決すると少し心が楽になったような気がした。

 そうして彼女は再び先程のような笑顔を作り直し、隣でやけに不安がっている少年の肩に優しく手を置く。


「そう心配しなくても大丈夫よ。確かに私と比べたらまだまだだけど、アイツもアイツで結構根性座ってるとこあるから……っと」


 気付けば時刻は二時を少し回った頃。

 そこで秦は微妙に小腹が空き始めたことにふと気付く。


「ねぇ。ただ待ってるのもアレだし、一緒にアイスでも食べに行かない?」


 確かこの建物のちょっと上にサーティーン・ワンの店舗が入っていたはずだ。

 しかし、そんな秦の提案に、ヨシくんは慌てて体の前で手を振る。


「いえいえ、そんな悪いですよ」

「もー、子供が遠慮なんてしてんじゃないわよ。ほら、いいから黙ってついてきなさい」


 本当に小学生か? ってくらい恐縮する彼を半ば無理矢理連れてく形で、秦はかの有名アイスクリームショップの中へと入っていく。

 そのままヨシくんに普通のアイスを、そして自分用に四段アイスを購入し、二人は空いていた端っこのテーブル席に腰掛ける。


「あっ、ありがとうございます」

「別に良いわよ。ほら、溶ける前に早く食べちゃいなさいな」


 そうして少年がアイスをちょっとずつチビチビ食べる一方、秦はバクバクと四段アイスをものすごい勢いで消化していく――――しかし、その間二人の間に一切の会話はない。


 ――――子供の相手しろとか言われても何すればいいのよ……。


 とりあえず「子供はアイス好きじゃね?」という安直な発想でここまで来たが、正直ここから先のことは何も考えていない。

 それどころか、目の前の少年と一体何を話したらいいのかも、不器用な秦には皆目見当がつかなかった。


 ――――明希あきは一緒にプイキュアの話してあげれば喜ぶんだけどね。


 一応秦にも明希という十歳の妹がいるが、当然男の子にプイキュアの話を振って食いついてくれるとは思えない。

 うん? 相手が男の子ならば、自分の好きなゲームの話とかしてもいいのだろうか? メダルギアとか龍の如くとかバトルグラウンドとか……いや、多分ダメなのは秦にも何となく分かる。


「あの、一つ聞いてもいいですか?」

「ん、何かしら?」


 そんな不毛なことを考えていると、おもむろにヨシくんの方が話しかけてきた。

 しかし、何か言い辛いのか中々次の言葉が出てこない。秦がうん? と小首を傾げるなか、ようやく少年は続きを口にする。


「えぇと、その、お姉さん。なんでそんな暗い顔してるんですか?」

「んっ……?」


 思いかげない方向からの疑問に、流石の秦も思わず一瞬口ごもってしまう。


「……別に心配してくれなくていいわよ。顔が陰気臭いのは生まれつきだから」


「そういうことじゃないですよ。だってお姉さん、さっきお兄さんがいなくなるまでは、すごく楽しそうにしてたじゃないですか?」


「はあ?」


 最早口ごもるを通り越し、思わず間抜けな声を上げてしまった。

 個人的には普段通り振舞っているつもりであったのだが、まさか側から見ると今の自分はそんな風に見えるのだろうか?


 ――――そんなまさか……ね。


 いや、ヨシくんの言葉はきっと正しい。

 正直彼と今日再会したときから、或いは三週間前のあの日から、自分が絶対に浮かれていなかっただなんて断言する自信はない。


 ――――……本当、私はなにを甘ったれているのかしら。


 そんなどうしようもなく身勝手な自分に、秦は思わず吐き気がするほどの嫌悪感を覚える。


 確かに可成くんならば――かつて秦漢華のヒーローであった彼ならば――今のこんな自分のことも救い出してくれるかもしれない。


 だが、今の秦にその資格はない。

 苦しい悲しいと不幸ぶり、まるで自身が悲劇のヒロインであるかのような幻想に酔い、彼というヒーローに縋ることなど到底許されるはずがないのだ。


 だというのに、能天気にこの状況を楽しんでしまっている己自身が気持ち悪くて仕方がない。

 彼と再び会えたことを嬉しく思うなど、そんな押し付けがましい期待を今も捨て切れていない何よりの証拠ではないか。

 ズキリと手のひらに痛みが走る。見ると拳を力強く握り過ぎて、肉に指の爪が深く食い込んでいた。


「大丈夫ですか、お姉さん?」

「……ごめんなさい。ちょっと頭の中がこんがらがってしまってね」


 そう尋ねてくる少年の声は先にも増して不安気であった。

 その反応を見るに、恐らく随分と怖い顔で考え込んでしまっていたのだろう。


「まぁ、とにかく。私は別に悲しんでるわけでも、落ち込んでるわけでもないわ。むしろ今はアイス食べれてとっても幸せな気分になってるぐらいよ。だから――――」


 再び無理に笑顔を作り、適当な言葉をもってはぐらかす。

 しかし、そこで少女の赤い瞳にギラリと緊張の色が走った。



「伏せてッ!!」



 秦は叫ぶ。

 その直後、フロアの中央部分、一階へと続く階段付近がドッと弾けた。

 凄まじい衝撃に、轟々と巻き起こる砂煙。続いてその破壊の中心から、無数の異形がゾロゾロと這い出てくる。


 人の体に、ヤギの頭に、蝙蝠の翼。

 間違いない。それは総勢五〇体を越すダエーワの群れであった。


「いつのまにこんな数ッ!?」


 秦は腹立たしそうに舌を打つ。

 本来彼女のように優れた天使ならば、異能を用いる者から漂う『天骸アストラ』を感知することで、ある程度事前に敵の接近に気付くことが出来るはずなのだ。


 だというのに、今回の敵はあまりにも唐突に現れた。恐らく彼等は、こちらが『天骸』を感知出来る範囲の外から一気に距離を詰めてきたのだろう。


 ――――ただの雑魚の群れじゃなさそうね……。


 そのことは即ち、このアクシデントが単なる遭遇戦ではなく、事前に計画された奇襲作戦であることを意味する。

 個々のダエーワにそれだけの知能はない以上、恐らく彼らを率いる指揮官のような者がどこかにいるに違いない。

 

「『神の炎ウリエルアーツ』ッ……!!」


 しかし、今はとにかく目の前の脅威を排除するべきであろう。

 然して、秦は即座に天使化した。途端に少女の赤い髪はまるで炎のように燃え上がり、その左肩からは翼長二メートルにも及ぶ巨大な隻翼が出現する。


「ヨシくん、下がって」


 そのまま彼女はダエーワの群れに叩き込む術式を組み立てつつ、背後の少年を庇おうとし、


「んッ」


 しかし、そこで違和感に気付いた。

 咄嗟に背後を振り返ってみると、ついさっきまでそこに座っていた少年の姿がない。


 まるで心臓を直で握り締められた気分であった。

 秦の全身という全身から一瞬で血の気が引く。


「そんなッ、一体どこにッ……!?」


 慌てて周囲を見渡すが、やはり少年の姿はどこにもない。


 そうこうしてるうちにも、ダエーワの出現によってフットタウンの中は酷いパニック状態に陥っていった。

 一般人に悪魔の姿は見えないが、当然その破壊行為は彼等の目にも映る。それこそ一般の人々には、大規模なポルターガイストがフロアの中を駆け巡っているように見えるに違いない。


 今はまだダエーワも暴れ回っているだけだが、このままでは彼等が近くの人々に襲いかかり始めるのも時間の問題であろう。


「……仕方ないわね」


 秦は決断した。

 少年を探すことはひとまず後回しにし、今この場にいるダエーワの殲滅を最優先とする。


 これが計画的な奇襲ならば、当然向こうもこちらの戦力をある程度把握しているはずだ。

 だと言うのに、この秦漢華に差し向けられたのは、数こそ多けれど殆どが雑魚。恐らくはここで秦を足止めしてるすきに、一人で孤立している樋田の方を殺す算段なのだろう。


「悪いけど、流石に私も畜生相手に慈悲なんて持ち合わせていないからね」


 ならば、尚更時間はかけられない。

 然して、綾媛百羽りょうえんひゃっぱの第四位は、その莫大な『天骸』を無数の起爆式へと変換し、


「皆殺しよ。一分保つだなんて思い上がりは、今のうちに捨てることをオススメするわ」


 その周囲で揺らめく炎とは対照的に、まるで氷のように冷たい声色を以って宣言した。




 ♢




「こん、畜生がああああああああアアアッ……!!」


 自らの体にのしかかる数多の瓦礫を押し退け、樋田はなんとかその場に立ち上がる。


 そこは東京タワーの長く赤い階段を最後まで上った先、俗にメインデッキと呼ばれる展望台の中であった。

 蛇竜の突撃による被害はこちらの方まで及んだようで、周囲はまるで爆撃でも喰らったかのように酷い様相を呈している。

 窓ガラスは砕け、床はめくり上がり、破壊された壁や設備の山が展望台の中を所狭しと埋め尽くす。

 こんなふざけた威力の攻撃をまともに食らっていたら――――そう思うと、とてもゾッとせずにはいられない。


「……クソがッ、今ので死んでたら確実に地縛霊コースだったぞ」


 つい先程の悪夢のような光景が脳裏をよぎる。

 突然空から現れた蛇のような竜に強襲され、あのとき樋田の立っていた階段はものの見事にへし折られた。

 当然樋田自身も無事では済まず、率直に言うと


 正直、それからあとのことはあまりよく覚えていない。


 確かそのまま残りの上半身がメインデッキの中に吹き飛ばされたあと、無我夢中に『燭陰ヂュインの瞳』の力を使ったような覚えが微かにある。

 まあ何はともあれ、今こうして樋田が生きているということは、上手く時間を巻き戻し、腰から下を取り戻すことに成功したのだろう。


「仕方ねえとはいえ、早速一回使っちまったな……」


 だが、状況は未だ最悪を脱してはいない。


 簒奪王の『天骸』を使い切った今の樋田では、『燭陰の瞳』の使用は精々三回が限界だ。

 だというのに、今の一回とこれまでの『顕理鏡セケル』の行使によって、既に全体の四〇パーセント近い『天骸』を消費してしまった。


 そしてなにより、樋田を一撃のもとに葬った蛇のような竜、あの巨大極まるダエーワもまだすぐ近くにいるはず――――と、そのときであった。


「なんだ地震かッ!?」

「とにかく伏せろッ!!」

「オイ、何がどうなってやがんだッ!?」


 ここからそう離れていないところで、恐怖に駆られた人々の悲鳴が上がる。

 そうだ、ここは観光客の集まる東京タワーメインデッキ。たとえあの竜の姿は見えなくとも、あれだけの凄まじい衝撃が走れば、人々の中にパニックの一つや二つが巻き起こってもおかしくはない。


 ――――クソモブ共がッ、このままじゃ確実に巻き込んじまうじゃねぇかッ……!!


 大人しく物陰に身を隠してくれれば、それでいい。

 だが、彼等が下手にこの場から逃げ出そうとすれば、ほぼ確実にあの竜に見つかり、そして殺されてしまうだろう。

 これより巻き起こるであろうパニックを止める方法はただ一つ。それは恐怖に駆られた彼等を更なる恐怖で束縛することである。


「ごちゃごちゃうるせえぞクソモブ共オオッ!! 次、妙なことしたら全員まとめてブッ殺してやる。死にたくねえならそこで大人しくしていやがれッ!! 」


 樋田はそう叫んで、威嚇射撃と言わんばかりに、黒星ヘイシンを天井に向けて数発撃ち込む。


 その直後こそ、幾らか人々の中から悲鳴が上がったものの、それで彼等はすぐに大人しく物陰へと引っ込んでいってくれた。

 今だけは生まれ持ってのガラの悪さに感謝したい気分であった。平時ならば演技だと勘付く人間もいるかもしれないが、この混乱下でそこまで頭が回るヤツがいるとは思えない。とりあえずはこれで、一般人を巻き込まないための努力は充分に出来たであろう。


「さぁてどこ行きやがった。あの三股クソトカゲ野郎はよぉッ……!!」


 樋田はまるで獲物を探す猟犬のように、周囲をグルリと睨め付ける。

 いくら自由に空を飛び回るとはいえ、向こうはあの図体だ。そう簡単にどこかに身を隠せるとは思わないのだが、



「ギギャガガガガガガガガガギャギャアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!!!!!!!!」



 悲鳴をあげる余裕すらなかった。

 先程樋田がこの展望台に投げ込まれた穴から、突如蛇竜が頭を突っ込んで来たのだ。


 樋田の胴体目掛けて大口が迫る。

 既に多くの人間を喰らったのか、鼻が腐るほどに濃厚な血の臭いが殺到する。


 しかし、そこで彼は無理にかわそうとせず、咄嗟の判断でワザとバランスを崩した。

 自然その場に倒れこんだ樋田の頭上を、すんでのところで巨大ダエーワの牙がグルンッ!!と通過する。


「げひゃッ、遅っせえッ!! こっちだノロマァッ!!」


 頭上より降り注ぐ蛇竜の唾液を掻い潜る形で、樋田はひとまず距離を取る。

 そのまま黒星を再装填し、牽制を兼ねて弾丸を射出。しかし、効果はなし。巨大爬虫類の堅牢な鎧に、傷はおろかヒビすらも入らない。


「チッ、クソッタレが」


 こんな豆鉄砲では至極当然。そう樋田が舌を打った直後、蛇竜が力強く吠える。

 そう、ただ吠えただけだ。しかし、当のダエーワは軽く見積もっても全長二十メートル。その巨体から繰り出された咆哮は嵐のような衝撃波を巻き起こし、樋田の体は再び大きく背後へ吹き飛ばされる。


「ゲハッ……!!」


 背中を強く叩きつけられ、肺の中の空気が丸々入れ替わる。口の中に血の味が滲む。骨こそ折れなかったものの、頭が酷くフラフラする。


 当たり前だ。

 そもそも、たかが身長一七六センチの小兵が、こんなデカい生き物に勝てるはずがないではないか。

 たとえ気力は尽きなくとも、人間としての本能が先に敗北を認める――――しかし、それでも樋田は膝を屈しはしない。


 ――――だが、ここで俺が引いちゃあ、誰がコイツと戦うってんだよオオオオオオッ……!!


 確かに樋田一人だけならば、上手くこの戦場から逃げることも出来るかもしれない。だが、それはこのメインデッキにいる全員を見殺しにすることと同義だ。

 それにここでこのダエーワを逃せば、コイツはこれからも樋田の知らないところで悠々と人を喰い続けるのだろう。


「ざけんじゃねえッ!! 酒に漬けんぞクソトカゲがアアアアアッ!!」


 そんなこと、とてもこの樋田可成に認められるはずがない。


 然らば、彼に残された選択肢は初めから二つだけだ。

 一つは、樋田の持つ術式の中で最大火力を誇る『破滅の枝レーヴァテイン』で、この蛇竜の翼を上手く焼き切ること。

 もう一つは、『燭陰の瞳』や不動系の術式でなんとかダエーワの攻撃を耐え凌ぎ、いつか秦が駆けつけてくれることを待つことだ。


 ――――切り札切っちまった方が楽だが、もし外したら『天骸』切れで確実に詰む。やっぱここは堅実に漢華ちゃん頼みしかねえかッ……!?


 失敗するかもしれないギャンブルに、他人の命を賭けるなど言語道断。

 そうして迷いなく後者を選択した樋田は、ひとまず再び牽制に黒星を放とうとする。



「ッ……!?」



 その瞬間、いきなり後ろから袖元を掴まれた。

 反射的に敵だと思った樋田は、すぐさま背後の何者かに黒星の銃口を向ける。


「ひっ」

「なッ……!?」


 あまりに意外。

 樋田は驚きのあまり、思わず銃を取り落としそうになってしまう。


 そこに立っていたのは敵などではない。年の割にやけに大人しそうな小学生の男の子、即ち先程秦に預けた例の少年であったのだ。


 何故彼がこんなところにいる? しかし、そんな疑念が思い浮かんだ直後、それを遥かに上回る激情が瞬時に頭の中を焼き尽くした。


「……んでんなとこにいんだよクソガキがアアアアアアアアッ!! ざっけんじゃねえぞテメェ、死にてえのか馬鹿野郎オオオオオオオオオオオオオオオッ!!」


 頭が沸騰するがままに任せ、乱暴に少年の胸倉を掴み取る。

 何故だ? 秦は一体どうしてこの子を一人にしたのだろう? そしてなにより、あれだけダエーワを怖がっていたこの子が、何故こんな如何にも危険な場所に態々やって来たのだろう?


「馬鹿がッ!! 邪魔くせえから向こうで大人しくしてろッ!!」


 だが、今そんなことを気にしてる暇はない。

 樋田は短気な性分をなんとか抑え、少年を他の人々が隠れている方に押し出そうとする。


 しかし、そんな明らかな隙を見逃してくれるほど、かの蛇竜は温情な生き物ではない。

 しかも、此度はダエーワの三つ首がまとめて襲いかかって来た。一匹は素直に少年を狙い、他の二匹は彼の逃げ道を塞ぐ形で大口を開く。


 そんな連携攻撃を、たかだか小学生の男の子が避け切れるはずもない。瞬きをした次の瞬間には、間違いなくその全身を三つ首に食い尽くされるであろう。


「間に、合えええええええええええええッ!!」


 しかし、樋田可成にはそれを防ぐだけの力がある。

 彼は渾身の力で横に飛び、まるで飛びかかるように少年の体を抱き抱える。当然、それだけでは三つ首の大口から逃れることは出来ない。


 だから、樋田はそこで秦から貰った数多の術式の一つ、『虚空こくう』を発動させた。

 かつて『叡智の塔』で松下が使っていたこの聖創は、自身と自身が触れているものを瞬間移動させる力を持つ。


 幸いテレポートはギリギリで間に合った。

 三つ首の大口は見事空を切り、少年を抱えた樋田はそこから少し離れた地点にフワリと降り立つ。


「オラ、今のうちにとっとと行けッ!!」


 即座に少年を離し、再び蛇竜と向かい合う。

 このまま彼を庇い続けていれば、ただでさえ少ない樋田の『天骸』が保つはずがない。


「すっ、すみませんッ!!」


 そんな泣きそうな声と共に少年が走り去ると、途端に肩の荷がグッと降りたような錯覚に襲われる。

 何はともあれ、これで守らねばならないのは自分だけ。あとは秦が来るまで小細工で凌げばどうにかなる――――と、彼はそのときまで、そんな甘い希望的観測を信じ切っていた。



「――――ッ!?」



 瞬間、樋田の獣じみた本能が、背後からの殺気を感知する。

 避けきれないと判断した彼は、即座に頭部・首・背中のラインを守る形で、『盾装不動じゅんそうふどう』を展開する。

 狙い通り、圧縮させた『天骸』の盾は何かしらの攻撃を受け止め――しかし、それでも彼の体はその衝撃によって大きく吹き飛ばされる。


 直後、『鎧装不動がいそうふどう』を展開。

 多少なりとも体を硬化し、瓦礫の山の上を転がることで生じるダメージを軽減する。


「ざけんじゃねぇぞクソッタレがッ、この状況で新手とか馬鹿だろッ……!!」


 口元の血をぬぐいながら、樋田は心底忌々しそうに吐き捨てる。

 今の攻撃を許容範囲内のダメージで抑えるために、随分と術式を無駄に使わされた。


 残りの『天骸』は約五割。

 残る聖創は『破滅の枝』が一、『霊の剣』『虚空』『顕理鏡』が二、『白兵』が三、不動系がそれぞれ四。

 このままでは秦が来る前に、全ての手札を使い切ってしまうかもしれない。


 そんなことを危惧しながら、樋田は早速新たな襲撃者の方へと視線をやる。



「……………………はあ?」



 そして、直後に絶句する。

 それまで頭の中で考えていたことなど、全てが真っ白に消し飛んだ。


 ただいまの襲撃者は新手などではない。

 そいつはつい先程まで、樋田のすぐ側にいた人物であったのだから。


「あーあ、絶対今のでブチ殺せると思ったのになー。くっだらない小細工で延命とか空気読めないにも程があるよねッ……」


 そこに立っていたのは、樋田と秦で保護した例の少年――日高佳徳ひだかよしのりであったのだ。


 しかし、様子が明らかにおかしい。

 かつての礼儀正しい姿からはとても想像出来ない、人を小馬鹿にするような舐め腐った口調。

 そして何より、その頭からは雄々しいまでに立派な山羊の角が、その腰からは太く黒々しい爬虫類の尾が生えている。


「ハハッ、嘘だろオイッ……」


 ここまで来れば最早その可能性を疑うことすら馬鹿馬鹿しい。

 間違いない。かの少年の正体は、人の姿に化けた醜悪なダエーワであったのだ。

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