第百二十一話『神の言葉』其の一
大海獣マザンが唐突な死を迎えたその瞬間から、時は幾らか過去に遡る。
そこは床に壁に柱、その全てが石造風のコンクリートで象られた建造物の中であった。材質だけならば如何にもな人工物であるにも関わらず、暗く、静かで、厳かで、まともな人間ならば思わず居住まいを正さずにはいられない神秘さがそこにはある。
しかし、残念ながら今現在においては「本来ならば」という枕詞がつく。
理由はたった一柱の女悪魔、この女がいるだけで最早その神秘空間はなんかもう情緒もへったくれも無くなっていた。
「ラン、ラララランランラン、ラン、ラララ、ラーン♪」
天使という存在の頂点に立つ十三王の一角であり、そしてありとあらゆるダエーワの産みの親でもある悪魔の女王。
そんな彼女がこんなところで何をしているのかというと、踊っていた。小脇に一体の仏像を抱え、ときにはそれをダンスの相手に見立てながら、一人で意気揚々と踊っているのである。
彼女はとにかく上機嫌であった。
それもそのはずで、アズは既にヴェンディダート七大魔王の出産を終え、なによりダエーワの最終兵器である大海獣マザンを産み落とすことにも成功した。
戦力の供給は最早これで充分。
あとは愛しの
「えっ」
しかし、それはあまりにも当然のことであった。
アズは小脇に抱えていた仏像を思わず取り落とした。
にも関わらず拾おうとしない。それどころか落としたことに気付いてすらいない。それだけの衝撃的な事実をたっぷり数十秒かけて咀嚼する。
先程までの上機嫌な様子は何処へやら。アズは目を涙に潤ませ、心底悔しそうに口元を一文字に引き結ぶと、
「いやああああああ、蟻間くんが死んだァア〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッ!!!!」
業魔王は草壁蟻間の死を確信する。
何か具体的な根拠があるわけではないが、なんとなく分かってしまうのだ。
恐らくは彼のことを心の底から愛していたからなのだろう。愛しているから、互いが運命の赤い糸で結ばれているから、だからこそ分かってしまうのだ。
されど――――、
「よーしッ、切り替え完了☆ そうと決まれば、早速新しい恋を探しに行かなくちゃッ!! ふふふッ、今度はアタシ、一体どんな人をどれだけ好きになっちゃうんだろ〜〜ッ!?」
湿っぽい表情はほんの一瞬だけであった。
最早アズの脳内から草壁蟻間の存在は完全に消え失せている。
当然のことだ。相手が死んでしまったのならば、これ以上叶わない恋に気持ちを回す意味はない。だから全くこれっぽっちも悲しくはない。むしろ、これでもっと良い男の人と巡り合えるかもしれないと思えば、これからの期待に気分は花咲くほどである。
そう、確かに気分は花咲くほどであるのだが――――、
「……うーん、あんま空気読めない人は好きじゃないけど」
にも関わらず、アズの笑顔が不意に固まる。
その瞬間、唐突に得体の知れないものを感じたのだ。
ここら一帯は完全にダエーワ軍の勢力下にある。こちらと敵対している人間や天使が攻めてくるはずはない。にも関わらず、何者かがこの領域に足を踏み入れた確かな気配を感じたのである。
「ふふふっ、なになに〜? もしかして〜、早速新しい白馬の王子様が来てくれたのかな〜〜〜〜〜ん♡」
扉のない門を潜り、半ば舞いながら建物の外へと出る。
その先に広がっているのは足元一面に石畳が敷き詰められているだけの開けた空間だ。そして、その石畳の上をカツカツと音を立てながら歩み寄ってくる一つの人影があった。
「ど〜ちら〜様〜? 男の子だったら〜、お名前と年齢と身長と学歴と年収とアソコの大きさを教えて〜。でも〜チビ、デブ、ハゲ、ブス、粗チン、おっさん、ジジイッ!! 一つでも当てはまってるなら、そこで今すぐ死んで頂戴な☆」
謎の人物からの返答はない。
しかし、近づいてくるごとに段々とそのシルエットが明らかになっていく。
人数は一人。そして中々に奇妙な人物であった。
夜で暗いのも理由の一つだろうが、一見男なのか女なのか判別がつかない。中性的な顔立ちに茶色の長い髪、男装の麗人と言われれば納得出来るが、男の娘なのだと言われても違和感はない。
黒のマフラーに、裾の長い茶の羽織り。横に膨らんだシルエットは西洋チックであるが、全体的なイメージは中東チックなファッションである。
そのまま彼我の距離が二十メートルになったところで、そいつはおもむろに顔を上げた。
「業魔王アズ=エーゼットか」
そいつの纏う雰囲気は明らかに常人のそれとは異なる。
幾度となく命のやり取りに身を置いてきたものが持つ独特のオーラ。天使かどうかは分からないが、間違いなくプロの異能者だ。個性丸出しな衣装を見るに碧軍や後藤機関ではないだろう。ならば人類王勢力か、或いは悲蒼天の手の物か。
「キャハハッ、見つかちゃったッ!! ねぇどうしてどうしてッ!? どうしてこの場所が分かったの? もしかして〜、アタシとアナタ運命の赤い糸で結ばれてる的なアレだったりして〜〜〜ッ!! キャッ、キャッ、キャ〜♡」
テンションの高いアズとは対照的に、性別不詳者の態度は冷め切っていた。
栗毛は呆れたようにため息を吐く。そうして彼(?)は今自分がいるこの場をチラリと見渡すと、
「築地本願寺。日本では極めて特異な古代インド様式の寺院だが……なるほど、確かにこの場所ならば古代インドというファクターを介し、日本仏教とゾロアスターを結びつけることも可能というわけか」
栗毛は滔々と、されどいくらか自嘲気味に語る。
「そしてダエーワの材料は大方周辺の寺院からかき集めた仏像あたりだろう。仏の一部は古代インドのデーヴァに由来し、加えてデーヴァとダエーワは視点が異なるだけで同質の存在だからな。乾燥アジアは私達の専門分野であるにも関わらず、まさかこんなことにここまで気付くことが出来なかったとは」
「ふーん、ふーん、ふーん?」
図星にも関わらず、アズの顔に焦りはない。
なにしろ彼女は全天使の頂点に君臨する十三王の一角、そこらの人間や天使程度で揺らぐ存在ではない。
「キャハハ、すごーい全部正解〜♡ でも〜、それが分かったからなんだって話だよね。部屋にゴキちゃんが沸いたら叩き殺すだけ、アンタみたいなよっわ〜い人間ちゃんが一体こんなところになにをしに来たのかにゃん?」
しかし、そいつはまるで当たり前のことを言うように、ぶっきらぼうな口調で告げた。
「私達はお前を殺しに来たんだが」
「チッ……はーい、下等生物のくせに調子乗りすぎ。綺麗にバラしてみんなの晩ご飯決定でーす♡」
やっちゃいなさいというアズの掛け声とほぼ同時、アズの護衛として寺院内に控えていたダエーワの群れが外へと飛び出していく。人間と大して変わらないサイズのものから、目測三メートルはくだらない大型種まで。そこへ更に飛行種を加えた総勢三十匹が、一心不乱に乱入者のもとへと殺到する。
しかし、それだけの危機を前にして、栗毛はただ懐から取り出した鞭を振るうだけであった。
「『
栗毛がその場で鞭を振るうと、その軌道に沿って空間に切れ込みが生じた。そのままリズムよく軽やかに鞭を振るい続け、瞬く間に虚空に十の裂け目を刻み込む。
そしてその直後、十の隙間の向こう側から一斉に手が飛び出した。
毛並みは黒で、指先には鋭い爪。肉食哺乳類を彷彿とさせる獰猛な両腕が、その狭い隙間を無理矢理にこじ開けていく。
やがて其奴らは顔を出した。
既に大きく開かれた隙間を突き破り、その奥より見目猛々しい人狼が姿を現す。体長三メートル、毛の色は赤黒い。牙や爪や体毛は明らかに狼のそれでありながら、二本の足で地に立つ様は実に人間らしい。
「ちょっと〜キャラ被りはウザいってッ!!」
視界の先でアズが何かを叫んでいる。
人狼の群れが召喚された瞬間、既に飛行タイプのダエーワは栗毛の懐まで迫りつつあった。しかし、まさに飛んで火にいる夏の虫。慌てて逃げようとするも間に合わず、狼の俊敏な一噛みに命を絶たれる。
「アッハッハッ!! 食べられちゃった面白い〜ッ!! でも、でもでもでも次はどうかな〜???」
そして次の瞬間、業魔王が産み出したダエーワと、栗毛の呼び出した人狼が真正面からぶつかり合う。
しかし、人間サイズのダエーワではまるで話にならない。
どの個体も勢いをつけて飛びかかって来た人狼に押し倒され、そのまま首根っこを噛みちぎられる。
辛うじて数少ない大型種だけが人狼と対等に渡り合っていた。
起点の突進を正面から膂力で押し返され、流石の人狼も攻めあぐねている様子だ。
しかし、その間も飛行種と中型種は瞬く間に殺されていく。今はなんとか持ち堪えている大型種も、このまま数の有利を失えばすぐに殺されてしまうだろう。
「チッ、うっぜぇー」
アズは舌を打つ。
彼女も栗毛も、手駒を代わりに戦わせる戦闘スタイルはほぼ同じ。にも関わらず戦況は向こうが明らかに有利。そのことが堪らなく気に食わないのだ。
「アタシと似たような権能ね。でも〜、でもでもでもすごく残念ッ!! だって、アタシの産んだ子供たちの方がアンタの犬っころなんかよりずっと強くてかわいいんだから!!!」
「ッ……!?」
そうアズが叫んだ瞬間、十匹の中でも一番前に出ていた人狼が即死した。
本当に突然のことであった。アズの方から急に突風が吹いたと思ったその直後、気付けば既に人狼は腹の辺りを横に両断されていたのだ。
「さぁ、やっちゃってぇえ〜〜〜〜〜サ〜ルワく〜〜〜〜〜〜〜ん♡♡♡」
アズの嬌声に応えるように、築地本願寺の中から新たな人影が姿を現す。
其奴を一目見て抱いた印象は偉丈夫。
体躯が筋骨隆々なのは言うまでもなく、軽く三メートルはあろうかという巨大な槍を軽々と担いでいる。
肌は褐色、瞳は赤。橙色の長い髪はオールバックにまとめられ、その毛先はお洒落なのか三つ編みになっている。
そんな筋肉ムキムキの男はアズと正面から向き合うと、
「ママ、オレがあいつらを全部殺したらたくさん褒めてくれるか?」
「もちろん♡ 頭いい子いい子してからぁ、首ギュゥうううってしてあげる」
「分かったよママ。よし殺そうッ!! 今すぐたくさん殺そうッ!!」
魔王サルワ。
荒ぶる風と無秩序を司るこの悪魔は、アンラ=マンユの直属ヴェンディダート七大魔王の一角でもある。アズがダエーワ軍の兵站の要であることを鑑みれば、草壁から直々に護衛を命じられた此奴の実力は折り紙付きだ。
「やはり魔王の一人や二人くらい忍ばせているか……」
それまで余裕げであった栗毛も思わず息を飲む。
それでも彼(?)は構わず鞭を振るい、一匹の人狼をサルワのもとへ特攻させる。
しかし、サルワは狼の突進をかわすことすらしなかった。
ダエーワを容易に吹っ飛ばした体当たりを喰らわせても、魔王はよろけるどころかびくともしない。
「無駄だ」
サルワの太い腕が人狼の両肩を鷲掴みにする。
あまりの握力に指は狼の毛皮を突き破り、その下の肉にすらグイグイと食い込んでいく。
「虐めるは楽しい、千切り殺すは嬉しいィイーーーーーーッ!!」
そして、サルワはスナック菓子の袋を開けるような気軽さで、人狼の体を容易く左右に引き千切った。そこから悪魔は間髪入れず、石畳が割れるほどの踏み込みをもって勢いよく跳躍する。
「刺し殺すは気持ちィイイイイイイイイッ!!」
空中で槍を構え、サルワは眼下の人狼目掛けて槍を突き出す。
勢いの乗った一撃は、容易く人狼の体を腹から背へと突き破る。わざわざ確認するまでもなく即死であった。
「ハッハッハ、やはりオレは強すぎるッ!! オレは最強、つまりは最も強いぞォオオオオオッッ!!!!」
一対一では話にならない。
そう判断した栗毛は残りの人狼を四方八方からサルワに殺到させる。
「おっ、来るか? 来いよ来いよ、たくさん、まとめて一気にッ!!」
対するサルワは頭上に構えた槍を凄まじい速度で回転させる。
たちまちに周囲を暴風が吹き荒れる。更には槍の回転が風を巻き取り、その引き裂き打ち砕く火力を指数関数的に増加させていき――――、
「まとめて殺すは楽ちィイイイイイんッ!!!!!!!!!!!!!!!」
そんな剥き出しの暴力を、容赦なく横に一閃した。
ビィイイイインッ!!!! という鼓膜が破れると思うほどの高音。あまりにも鋭利な一撃を目の当たりにし、栗毛は空間そのものが斬り裂かれたような錯覚すら抱いてしまう。
少し遅れて悪魔の周囲を血飛沫が舞った。ズルリと、人狼の上半身が下半身から滑り落ちる。直接槍で斬り付けられた個体は勿論、間合いの外にいた人狼も風刃に腹を裂かれて絶命する。
五匹をたった一振りで潰された。
人狼は最早ほとんど壊滅状態、何より今栗毛を守れる立ち位置にある個体はゼロ。そして、サルワがその好機を逃すはずもなく。先程の一閃を振り切るや否や、足元に風を起こし、列車にも等しい速度で迫り来る。
「ぬははっ、あとはお前だけだッ!! 今すぐ殺すぞ、殺して命をなくしてやるぞォオオッッ!!!!」
「……あまり使いたくはなかったが、やはり切り札を温存して勝てる相手ではないか」
しかし、男女は既に手を打っていた。
栗毛が事前に鞭で打ちつけていた場所から、突然メラメラと炎が噴き出上がる。いや、炎だけではない。その不気味な炎の内側から、まるで罪人が地獄から這い出るかのように、一人の人物が姿を現したのだ。
「……」
金の刺繍が施された軍服の上から黒の外套を身に纏い、中折れ帽を目元深くまで被った初老の男。その端正な顔はまるで死体のように白く、しかしそこには一国の王を思わせる確かな威厳がある。
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