閑話 『嘘つきの夜』
「今日もありがとね。希子」
「いえ、どう致しまして」
それは晴ちゃんと第三校舎の中で別れてた後のこと。
当学には全国から生徒がやって来るためか、それに比例して寮の中はかなり広い。流石金持ち学園なだけはあって、怖いぐらいに速いエレベーターに生体認証を用いたオートロックと設備の方も完璧である。
学校が終わった後は、こうしてドアの前まで希子と一緒に帰ってくるのが二人の日課であった。初めのうちは希子と同室だったのだが、訳あって個室にしてもらえるよう学園に頼み込み――――それが最近実現してようやく今に至る。
「……本当に、一人で大丈夫なんですか?」
昨日も、一昨日も、何なら隼志が一人暮らしを決意したその瞬間から、希子はずっと隼志のことをこうして心配し続けている。
また同室に戻ってきて欲しい。
態々口には出さずとも、彼女がそう切望しているのは明らかであった。
「うーん」
希子が心配するのも無理はない。
隼志紗織と松下希子は物心がついた頃から、ずっと一緒に生きて来たのだ。同じ病院に生まれ、同じ保育園に預けられ、同じ幼稚園へ通い、同じ小学校へと進学し――――最終的には同じ家に住むようにまでなった。
隼志のことを年の近い妹のように可愛がり続けてくれた希子にとって、唯一無二の親友が自分の手から離れてしまう苦しみはきっと筆舌に尽くしがたいものであろう。
「もー、だから大丈夫だって。これでも私こんな体になってからもう五年も経つんだよ」
だから、隼志はそんな希子の懸念を吹き飛ばさんばかりに声を弾ませてみせた。
「確かにまだ一人じゃ難しいこともあるけど、これから先いつも希子が隣にいてくれるわけじゃないからね。最低限一人で生活できるくらいの力は付けないと」
「いや、でもっ、松下はずっと紗織の側に――――」
「ずっと、絶対。そんな言葉は幻想だよ。この世界は本当にいつ何が起こるか分からないんだから。いついなくなるかも分からない人に、自分の全てを預けなきゃいけない怖さが希子には分かる?」
隼志のその一言で、そのたった一言で、希子は最早何も言えなくなってしまう。
下を向いて固く唇を噛みしめる彼女の姿に、隼志はちょっと意地悪が過ぎたかなと反省せざるを得ない。
「冗談。そんなに心配しないで。校舎の方はまだまだダメダメだけど、学園も私の部屋は結構バリアフリーに作ってくれたから大丈夫……うん、私は大丈夫だよ」
そう言って希子の俯きがちな頬に手を添え、気丈に微笑んでみせれば、彼女も溜息をついてようやく引き下がってくれる。
こんなやりとりを、二人はここ最近もう何日も繰り返していた。
「……なんかあったら気軽に電話してくださいね。真夜中の二時でも飛び起きてすっ飛んで行きますから」
「うん、分かった。希子がそう言ってくれるなら安心出来る」
じゃあまた明日、と最後まで名残惜しそうな様子を見せながらも、希子は最後ガチャリとドアを閉めて自室に去っていく。
やがて扉の向こうからカパカパという革靴の音も聞こえなくなり、そこでようやく隼志は魂が飛び出んばかりの深い溜息をついた。
「はぁ」
正直言って疲れた。かなり疲れた。
心がすり減る。魂が摩耗する。まるで元から気丈な方ではない精神が、薄く荒くかんながけされていくような気分であった。
別に希子の事が嫌いになったわけではない。
彼女が隼志のことを心の底から愛しているように、隼志もまた彼女のことを心の底から愛している。
今日知り合った晴ちゃんも――確かに変な子だなあとは思ったが――決して嫌いなタイプの人間ではない。あの思ったことを躊躇なく口に出せる実直な一面は、むしろ隼志が好み憧れるところでもある。
「……嫌に、なっちゃうな」
確かに希子や晴ちゃんと『止まり木』で遊び歩くのはとても楽しかった。しかしそれ以上に、大切な人の前で自分を偽り続けなくてはならない苦しみが、隼志の心の一番繊細な部分を容赦なく抉り取っていく。
それでも何とかこの陰鬱な気分を入れ替えようと、隼志はひとまず浴室に向かいシャワーを浴びた。
入浴を終えたあとは、地味な柄のパジャマを見にまとい、まだ生乾きの頭にタオルを巻き、崩れ落ちるような勢いでベットの上に横になる――――もちろんいつも通り体の右側を下にして。
「ふぅ」
その柔らかい感触に心を落ち着かせながら、ゆっくりと今日のあったことを思い返す。希子と交わした言葉の一つ一つを、互いに見せ合った表情の一つ一つを、残さず余さず精査して、何か問題がなかったか確かめていく。
「今日も、ちゃんと誤魔化せられたかな……?」
隼志はまるで自分に言い聞かせるように独り言ち――――しかし、すぐにありえないと首を横に振る。
最近希子の様子がおかしい。いや、正しくは接し方が変わったと言ったところであろうか。
確かに彼女は昔から面倒見が良すぎるところはあったが、このところは輪にかけて隼志に過保護になっているような気がする。
――――やっぱ、よく見てるよね。昔から希子はそうだったもん。
隼志は生まれつき引っ込み思案だったので、小さい頃はあまり自分の意見を言うことが出来なかったのだが、そんな時はいつも希子がこちらの気持ちを察して代わりに言いたいことを言ってくれた。
それだけ希子は隼志のことをいつも気にかけてくれているのである。
隼志紗織が松下希子の変化に気付いているように、きっと松下希子も隼志紗織の異変に気付いているのだろう――――いや、気付いていなければおかしい。
自分よりも自分のことを知っているような唯一の親友を相手に、隠し事など出来るはずもないのだから。
「助けてよ、希子……」
希子に泣きつきたい。
彼女に手を差し伸べてもらいたい。
まだ幼かったあの頃みたいに、相手の気持ちなど考えもせず、ただ助けてと無邪気に縋りたい。
だが、それはダメだ。
例え彼女が自分の異変に気付いていてくれたのでしても、それだけはダメだ。
だって隼志紗織が救いを求めたら、希子は必ずどんな手を使ってでもそれを成し遂げようとしてしまうから。
本来の彼女なら決してしないようなことにも手を染め、そうして自分を傷付けることも厭わず、その責任の全てを背負い、そして最後には潰れてしまうから。
だから言えない。
彼女に助けを求めることだけはできない。
もう隼志はこれまでに充分希子を傷つけ、その小さな背中に途方もないものを背負わせてしまったのだから。
「あれ、おかしいな……?」
気付けば洗ったばかりのシーツがしっとりと濡れていた。そこでようやく彼女は自分が泣いていることに気付き、すぐに一番苦しんでいるのは希子なのだと固く両目をつむる。
きっと希子はもう既に何かしらの行動を起こしてしまっているのだろう。
彼女が何か間違った方向に進んでいることだけは分かるのに、それを止めることも、正しい方向に導き直す術も隼志紗織には存在しない。
その残酷な事実がこの甘ったれた心をどうしようもなく焼き焦がし、そして燃やし尽くすのだ。
「あっ、また増えてる……」
ふと生じた視界の端の違和感に、隼志は涙で顔に張り付いた自身の髪を手に取ってみせる。
その明るい茶髪の中に、最早誤魔化しきれないほどの白が混ざっているのを、彼女はまるで他人事のように見つめていた。
♢
「チッ、一体どうなっていやがるんだ」
カセイが先に寝るとリビングを出ていく前、せめてもの気遣いとして淹れてくれた一杯のほうじ茶――――そのとっくの昔に冷めきったカップを傾けながら、筆坂晴はガンと力強く机に拳を叩きつける。
現在の時刻は驚きの午前三時。
確かマンションに帰って来たのがちょうど八時だったから、風呂と夕食の時間を除いても、軽く五時間以上は『作業』に没頭していたことになる。
「……それにしても、随分と厄介なことになってしまったな」
そう物憂げに呟く晴であるが、一応本日予定していた作業は全て終わったのだ。
綾媛学園の隅から隅まで、全二百五十八箇所に仕掛けた『
晴ははじめ自分の体に刻み込まれた術式の正体を暴き出すに当たり、『
三日前の晴と今の晴を比較してみても、新たに術式を刻まれた痕跡は発見出来なかったどころか、『
次に晴は綾媛での編入試験の時に術式を仕掛けられたのかと思い、一週間前のデータを引っ張り出したがそれも外れ。
続いて縋るような気持ちで、自身が人間界に堕天する直前のデータを持ち出してみたが、結局結果は何も変わらなかった。
つまり、晴が件の術式を刻み込まれたのは、彼女が人間界に堕天してくるよりも前。晴がまだ
「
結局最後まで自身の体に刻まれた術式の正体は分からずじまいであったが、それでも晴は最終的に一つの結論を導き出すことに成功した。そしてその事実こそが、晴の心にアイデンティティの喪失とも言うべき衝撃を与えたのである。
私立
その日は間違いなくアロイゼ=シークレンズが粗製濫造の
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