第百十八話『巨悪墜つ』其の二


『先輩ッ……!!』


 草壁が信じられなさそうに何故だと漏らす最中、松下は『暗い日曜日』から樋田を開放する。

 途端に精神を蝕んでいた悪魔の旋律がパッと鳴り止む。

 今すぐ死にたいというデストルドーもまるでそれまでが嘘のように収まっていく。

 しかし、術中で樋田が抱いた後悔と罪悪感は紛れもない本物。術が溶けたからといって、それで完全に心に刻まれた傷が消えるわけではない。

 

 口の中に酸っぱい味が滲む。

 一度目で二度と御免だと思いつつも二度目を許容したのだ。

 どうか三度目はないようにと切に願う。

 もしもう一度あの術を掛けられれば、きっと今度は心が完全にマイナスへ振り切れて最早元の自分に戻れなくなるだろう。


「さてと」


 されど、とにかくこれで死の呪いは攻略した。

 加えて入れ替わりのように少年の太い腕に黒い蛇の紋章が浮かび上がる。

 『統天指標メルクマール』。ありとあらゆる術式の制御権を奪い取る樋田の特殊体質が、不発に終わった死の呪いを己が支配下においたのだ。


 ありえないと、草壁蟻間は譫言のように呟く。

 必ず殺せるはずであった。彼は自らの術式に絶対の自信を抱いていた。

 しかし、それが打ち破られた。

 草壁蟻間は困惑する。こんなことあり得るはずがないと否認する。

 そしてやがて、想定外への困惑は怒りへと昇華する。


「……俺様の力は、無敵だ。どんなヤツだろうと言葉だけで殺せるッ!! だから、負けるわけがねえ。ましてやお前みたいな量産モブ野郎なんざにッ……!!」


 全殺王はもはや完全に冷静を失っていた。

 初めの頃の余裕ぶった態度は何処へやら。

 人の本性は追い詰められたときにこそ現れる。

 元々コイツに悪人としての誇りや矜恃などは期待していない。


「あぁ、そうだな。間に合わねえさ、何もかも。テメェにはもう、俺に殺される以外の道はねえ」


 そうして、樋田は草壁から奪った死の呪いに『天骸』を流し込む。

 右腕に刻まねた蛇の紋章が赤く妖しく光り輝く。


「自業自得だ。言葉だけで殺される理不尽をテメェも味わいやがれ」


 草壁は何やら叫んでいたが、有無を言わさずに術式を発動させた。やはりそこに派手な演出やエフェクトは存在しない。


 不可避の死を強制的に付与され、全殺王の天使体は呆気なく崩壊した。

 ヘドロのような薄汚い『天骸アストラ』が宙に溶けてしまえば、そこにいるのは何の力もないただの青年だ。暴力で法を無視することも、異能で罰から逃れることも出来ない、ただの無力な罪人でしかない。


「――――嘘だ」


 草壁蟻間は思わずその場にへたり込む。

 嘘だ嘘だと狂ったように叫びながら、何度も何度も激しく肩を揺さぶる。そこに最早翼はないにも関わらず、それだけ今の自分が無力な人間であることを認めたくないのだろうか。


 それまでコイツに抱いていたのは怒りと憎しみだけであった。

 だが、今になってふと微かな憐みを覚えてしまう。


 結局草壁蟻間には力しかないのだ。

 きっとコイツには何かこれだけは譲れないという信念も、命に代えてでも守りたいと思える大切な存在もないのだろう。だからこそ強大な力を持っていながら、無意味に人を傷付けることしか出来ないのだ。加えてその力すらも他者からの借り物なのだから本当に救いようがない。


 ザリと、殊更音を立てて一歩踏み込んだ。

 途端に草壁の身体がビクリと跳ねる。


「やめろ、近付くんじゃねえぇえええええええええええええええええッ!!」


 草壁は思わず後退る。

 それどころかそのまま後ろにバランスを崩して思わず尻餅をつく。


「畜生、なんで効かねぇんだッ……!! 早く死にやがれ、クソッ、生存と斃死ナールギァ生存と斃死ナールギァァアアッ!!」


 最早『天骸』は尽きているにも関わらず、草壁は馬鹿の一つ覚えのように死の呪いを唱え続ける。

 樋田はそんなクソ野郎の哀れな様を冷めた目で見下しながら、おもむろに天使体を解除する。ザリザリと足音を立てながら徐々に近付いていき、その目の前で不意に立ち止まる。

 

「畜生、畜生があああああああああああああああああああああッ!!」


 草壁は跳ね起き、樋田に殴りかかる。

 しかし樋田は僅かに首を傾けるだけでこれをかわし、カウンターの容量で鳩尾にキツい一撃を叩き込む。そのまま間髪入れず、顔面目掛けて全力の右ストレートを放った。ビキバキッ!!という顔の骨の折れる音と同時、樋田は勢い良く腕を振り抜き、そのまま草壁を地面に殴り倒す。

 草壁は顔を押さえながら立ち上がろうとするが、対する樋田はすぐに鳩尾を踏みつけて身動きを封じた。


 樋田可成と草壁蟻間。

 最後の決着は比較的呆気ないものであった。


 樋田は一度しまっていた黒星を再び取り出すと、無言のままマガジンを交換し始める。そこから己の結末を悟ったのか、絶対悪を名乗る小悪党の顔に明確な死への恐怖が浮かぶ。


「オイ、やめろ、待て、冷静になれッ!! そもそも俺は被害者だぞッ!! あの女に妹を殺された、たった一人しかいない大切な家族をだッ!!」


「あぁ、そうかよ。なら俺ァこう答えてやる。そんなことは知らねえってな。なあ、これがテメェの望む世界の在り方なんだろ。気に食わねえヤツは好きに殺していい。ハハッ、いいね、大賛成だ。テメェは俺の気に触った。だから死ぬしかねえ。どうだ、理解出来たか?」


「屁理屈こねてんじゃねえぞキチガイがァァァアアッ!! そんなもんこの俺様は例外に決まってんだろうが――――」


「本当ならなあァッ!! ……頭イカれるまで拷問でもしてからじっくり殺してやりてえ気分なんだよ」


 草壁の戯言を封殺するように、樋田は声の圧を強めて言う。

 怒りのあまり目を血走らせ、手を震わせながらも、ゆっくり慎重にマガジンの装填を終え、そして何かの区切りをつけるようにカチャリとスライドを引く。


「だが、テメェみてえなクソ野郎を長々嬲ることより、女の涙を拭いてやることの方が余程大切だからな」


 そうしてクソ野郎の額に銃口を突きつけた。

 樋田可成は不良だ。それでも未だ人を殺したことはない。

 そのはずなのに、自分でもびっくりするくらい抵抗感はなかった。


「だからまぁ、大変遺憾だが流れ作業でブッ殺させてもらう」

「オイ、まっ――――」

「じゃあな、クソ野郎ッ」


 これぞ正に問答無用。

 次の瞬間、樋田は迷いなく引き金を引いた。

 一瞬、草壁の甲高い悲鳴が上がったような気もする。

 しかし、それもすぐに連続する射撃音に掻き消され、飲み込まれる。

 硝煙の匂いと、鉄臭い血の匂いがツンと鼻をつく。

 一思いに七発を撃ち尽くしたあとは最早なにも聞こえず、そこにはただ顔面を風穴だらけにされた醜い死体が転がっていた。

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