第百二十四話『理想よりも大切なもの』其の二


 瞬間、目にも留まらぬ速さで繰り出された悪魔の手刀が、男の腹のど真ん中を貫いた。

 想像を絶する痛みに男は絶叫するが、悪魔の非道はその程度に留まらない。

 腹の中に突き入れられた右手が、男の内臓を乱暴に掻き回す。しまいには腸の一部を掴みとり、無理矢理体内から引き摺り出そうとし――――、


「は……?」


 何故か、唐突に痛みが消えた。

 見れば穴を穿たれたはずの腹に一切の傷はなく、赤く染まっていた戦闘服すら完全に元に戻っている。

 まるでいきなり時間が戻ったような錯覚に襲われる。

 残っているのはあの瞬間の耐え難い恐怖と激痛の記憶だけ。その記憶だけが、先程の地獄が紛れもない現実であったことを思い知らせてくる。


「俺の力は時を操る。たとえ首を撥ねようが、胸を突こうが、俺が望みさえすれば何もかもがなかったことになる」


 そして、そいつは男の顔を間近で覗き込むと、


「今やったことを、あと繰り返す」


「…………は?」


「そのままの意味だ。もし一万回はらわたブチ抜いて、それでもまだ組織に忠義を貫くってんなら、そんときは敬意を表して見逃してやるよ」


 二、という一言と共に悪魔は再び手刀を腹の中へ突き入れた。

 先程と同じように内臓を掻き回し、先程と同じように傷口から腸を引き摺り出される。想像を絶する激痛に男は思わず気を失った。しかし、すぐに頬を叩かれて覚醒する。目を覚ますと、また腹の傷は何事もなかったように消え去っていた。

 しかし、脳に刻まれた阿鼻叫喚の記憶が確実に精神を破壊する。

 時を置かず、男は嘔吐した。まるで子供のように号泣し、ズボンの裾からはタラタラと汚物が滴り落ちる。


「三」

「待ってくれ、もうやめてくれぇえええええッ!! 頼む、知ってることはなんでも教える、から……」


 男が叫ぶと、悪魔は直前で手刀を止める。

 そして、もう一度同じ質問を繰り返した。


「アンタらが上と連絡を取る際、合言葉やらコードやら、何かしらのルールがあるなら教えろ。吐けばお前の命だけは助けてやる」


 悪魔は空いた手で男の髪を掴み、乱暴に引き寄せながら重ねて言う。


「嘘をつけば殺す。人質はお前だけじゃない。二人の答えが一致しなけりゃ、問答無用でブチ殺す」


 男は生唾を飲む。

 恐らく最初に消えた原田はこの瞬間のために拐われたのだろう。

 頼むから正直に吐いてくれと、そう心から天に祈る。


「連絡を入れる際は、まず此方まるまると部隊名を名乗る。あとは敵のなりすましを看過するため――――――」


 男が話している間、悪魔は何も口を挟まなかった。

 目を閉じ、耳に手を当て、どこからかの通信を聞いているような素振りであった。

 男が吐き終えると、やがて其奴はおもむろに目を開く。

 元から凶悪極まる眼光が、今は更に明らかな怒気を帯びていた。


「……もう一人と言っていることが違うが、まさかお前」

「違うッ!! 俺の言っていることが真実だッ!!」


 瞬間、心臓が冷たくなる。

 唾を撒き散らそうともお構いなく、男は縋るような声で叫んだ。

 反射的に青年のズボンの裾に縋り着こうとするが、即座に顔面を蹴飛ばさせる。倒れたところを上から踏みつけられ、そのまま地に縫い付けられる。


 それでも男は叫び続けた。

 何度も何度も嘘は付いていないと繰り返し、もう一人の男は信用ならないとひたすらに主張する。


「そうかよ」


 必死の訴えが通じたのか、悪魔はおもむろに男から足を退けた。

 其奴は男の腕を引き、座らせる。そしてまるで親が子を諭すように、男の頭にポンと手を置いて言う。


「冗談だ。ああ、分かってる。アンタは正直もんだ。ほらいい子だ、いい子」


 その言葉に、男は思わずホッとする。

 実際悪魔は男の頭から手を退けると、そのまま後ろの方へ歩き去り――――、


 後ろ手に振るわれた翼の剣が、男の首を横一文字に跳ね飛ばした。



 ♢



「松下」


 碧軍数十人を瞬く間に殺し尽くした悪魔――――樋田可成ひだよしなりが名を呼ぶと、裏路地の陰から銀髪の女子中学生が姿を現す。

 松下希子。彼女は鮮血に塗れた樋田の姿を一瞥するや否や、やんわり唇を噛みしめる。しかし、それでも樋田は構わずに続けた。


「ツールは無事確保した。通信のルールについても、まぁ、あの様子じゃ多分嘘はついてねえだろ」


 樋田は松下に自らのスマホを投げ渡す。

 先程の一連のやり取りは、アプリを使って携帯の中に録音してある。


「悲鳴やら切羽詰まった声色やらのサンプルも充分に取れた。これであとはお前が良い仕事をしてくれりゃあ何も問題はねえ」


 有無を言わせない威圧的な声色であったが、松下は首を縦にも横にも振らなかった。

 暫し気不味い沈黙が続く。

 やがて、それまで冷酷を装っていた樋田の表情が、徐々に崩れていく。乱雑に頭を掻き回し、自らに失望するような深い溜息をつく。

 だがしかし、それでもやはり、樋田可成は自らの覚悟を貫徹する。


「確かにお前をこんなクソみてえなことに巻き込むのは不本意だが、俺はもう手段は選ばねえと決めた。アイツを救い出してやるためには、どうしてもお前の力が必要になる」


「それは……」


 それまで沈黙を貫いていた松下が、おもむろに口を開く。

 彼女は今度こそ顔を上げ、真正面に樋田を見つめながら問う。


「それは、お願いですか? それとも……強制ですか?」

「百パーセント強制だ。だから、お前に逆らう選択肢なんてハナからねえんだよ」


 間髪入れずに吐き捨てる。

 しかし、松下は怯まない。

 怯むどころか、内側より溢れ出す不愉快を隠しもしない。


「……うっざ、本当に腹が立つ。そういうのッ!!」


 松下は一歩進み出ると、そのまま少女は樋田の胸倉を鷲掴みにする。


「勝手に見損わないでください。先輩は私の一番大切なものを守るために命を張ってくれたじゃねえですか。なら、私も先輩が大切なものを守るために泥を被るのが筋ってもんでしょうッ!!」


 一思いに言いたいことを言い切り、松下は樋田の胸倉からやんわりと手を離す。樋田を下から見上げるその瞳は、怒気をはらみながらも、気高い優しさに満ちていた。


「だから、強制なんかじゃありません。これは、あくまで私の選択です」

「……そうかよ」


 本来は礼を言うのが筋なのだろうが、樋田はぶっきらぼうに吐き捨てる。

 自分から協力を頼み、受け入れられたにも関わらず、彼の表情は複雑だ。


 それほどまでに今回のことに松下を巻き込むのは、樋田にとって苦渋の選択であった。

 松下希子は極端な性格だ。今はなんとか日の当たる場所に立ってはいるが、なにかきっかけがあれば、瞬く間に闇へと落ちてしまうような、そんな危うさを有している。


「それじゃあ、始めるとするか」


 鮮紅に染まった翼を翻す。

 樋田可成は最早正義の味方と呼べるような存在ではないだろう。

 寂しさはあったが、後悔はなかった。

 世界の敵となってしまった秦漢華を救うため、樋田可成は正義の味方であり続けることを諦めたのだ。


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