第六十二話 『貧しい妥協』
不愉快であった。ただひたすらに不愉快であった。
目の前の陰気な男が出来もしない大望を語るたび、
そもそも初めからコイツが言うことは何もかもが気に食わなかったのだ。
何が助けるだ、くだらない。
何が救うだ、思い上がるな。
ありとあらゆる手を尽くして、文字通り死に物狂いで足掻いて、しかしそれでもどうにもならない理不尽というものが、このクソッタレな世界の中には確かに存在する。
この男は恐らくそういう本当の絶望というものを味わったことがないのだろう。
そして知らないからこそ、あんなテレビの中のヒーローに憧れる子供のような戯言をほざけるのだ。
だから秦漢華は今どうしようもなくムカついている。
所詮は今まで救いたいと思った人間を救えたことしかない甘ったれの癖に、何もかも分かったような上から目線で正義を語るこの男が心底気に食わない。それは、その隣にいる小賢しい羽虫についても同様である。
だがしかし、実を言うと秦が一番腹を立てているのは彼等に対してではなく、他でもない
目の前のこの少年ならば本当にありとあらゆる理不尽を打ち倒し、善人も悪人も関係無しに全ての人を絶望から救い出してくれるかもしれない。それが例えほんの一瞬であっとしても、確かにそう期待してしまった愚かなで甘ったれな自分にであった。
――――まぁ、いいわ。だからこそワタシにはアイツの理想を否定する義務がある。もう二度とあんな子供じみたことは言えないように、そのお花畑な思考回路に現実ってモンを植えつけてあげるわ。
だから、秦漢華は馬鹿で正義感が強くて、愚かだと思ってしまうほどに真っ直ぐな彼等に、膨大な『
「……分かったわ。そこまでほざくんなら、もう頭ごなしに否定はしないわ。だから、出来るというなら証明してみなさい。アンタのそのどこまでも甘ったれた正義に、弱者が希望を託せるだけの価値があるのだということをッ!!」
これこそが開戦の合図であるとでも言わんばかりに、二人へ向けて爆撃の術式を撃ち放ったのであった。
しかし、まるで濁流のように押し寄せる爆炎と衝撃波とを、それぞれ樋田は左に、筆坂は右に避けてやり過ごしてしまう。
続いて彼等は巻き起こる風塵に紛れて一度姿を眩ませようとする――――が、態々そんな反撃の作戦を考えるための時間を与えるほど秦漢華は甘い人間ではない。
――――また、何か小賢しいことしだす前にとっとと黙らせてやるわ。
複数の敵を相手する際には、まず弱者の方を優先して喰らうべきだ。
秦はその定石通り、まずは最早ろくに動けない筆坂を早々に葬ってしまおうと、その四方を一斉に爆破の魔法陣で包囲する。
それだけで撃破は確定、回避は不可能。
あとは一度バチリと指を鳴らしてやれば、彼女の天使体は一変の肉も残さずに爆散するであろう。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!」
「……ッ!?」
しかし、そこで早速予想外の事態が発生した。
何と筆坂とは逆方向に爆炎を避けたはずの樋田が、態々自分から筆坂のすぐ側に――――つまりは爆撃の有効範囲内へと飛び込んで来たのである。
「なっ、何してんのよあのバカッ!?」
このまま術式を発動させれば、間違いなくあの少年は筆坂狙いの爆発に巻き込まれて死ぬだろう。
ゾッとした秦はそこで慌てて前後の魔法陣をキャンセル。既に発動直前であった左右の魔法陣に関しては、そこから吹き荒れる爆炎と衝撃波を外側に流し、なんとか樋田に被害が及ばないように処理した。
――――って、あんだけカッコつけといて、こんな卑怯な戦い方とか恥ずかしくないわけッ……!?
初めは狙いが読めなかったが、よく考えてみれば単純なことである。
恐らく筆坂は秦が人を殺せない人種であることを既に察している。だからこそ第四位も未だ天使体を有す筆坂に限って爆撃を差し向けたのだが――――大方そんなこちらの心情を、奴等は上手いこと利用してみせたのだろう。
つまりあの少年は自ら魔法陣の中へと飛び込むことによって、言外にこう告げているのだ。「そのまま術式を起爆すれば、お前は生身の人間を殺すことになる」のだと。
――――……もしこれで私が人殺し上等なイかれた性格してたらどうするつもりだったのよ。
確かにその戦法は卑怯極まるものであろうが、自らの命を外敵の良心に托すとはある意味大胆不敵。相当肝が太いか或いは考えなしの馬鹿でなければ、思いついても決して実行は出来ない奇策だ。
実際かくして秦の持つ攻撃手段のうち、『
「……でも、アンタらこれで私をやりこめたつもりだってんなら爪が甘すぎるわよ」
だがしかし、攻撃方法ならばまだまだ他にいくらでもある。
遠距離を封じられたのならば、これまでのように近接格闘で屠ればいいだけのこと。或いは身体に直接触れてその肉体を爆弾に変えてやってもいいだろう。
まあそこらへんの判断は臨機応変にするとし、とりあえずはこの開くに開いてしまった距離を取り戻そうと、秦漢華は獲物を襲う前の肉食獣のように深く腰を下ろす――――と、正にその直後のことであった。
「オラァッ、歯ァ食い縛れ糞女ァアアアアアアアアアッ!!」
先程の爆撃によって辺り一面に巻き上がり、結果筆坂達の姿を覆い隠す形になっていた砂煙のカーテン。そのなかから突然、例のチンピラ少年が脇目も振らずにドッと飛び出してきたのだ。
その単調な動きにはなんの小細工も外連味もない。鉄管片手にただ突っ込んでくるだけのある種の特攻であった。
秦はそこに何とも言えない違和感を抱きながらも、とりあえずは彼を最短効率で無力するための手順を頭に思い浮かべる。
まずは振り下ろされる鉄管を紙一重で躱し、隙だらけの後頭部に肘打ちを食らわせる。そうして彼の脳が揺れたところを、後ろから頸動脈を締めて落としてやればいい。
秦漢華は即座にそう考え、そして考えた通りにその一連の流れを実行しようとする。
「ちょっと、いい加減にしなさいよッ……!!」
だがしかし、まず初めの肘打ちが樋田可成の体を
それは先程筆坂が用いたのと全く同じ手、つまりは『
一体どこから仕掛けてくるつもりなのか。
そうして秦の額に一筋の汗が垂れた正にその直後、全くの意識の外側からその声は飛んできた。
「抜かったなッ!! こっちだ間抜けッ!!」
突如すぐ近くにあった扉が勢い良く開け放たれ、その中から群青の瞳の天使がこちらに向かって飛びかかってきたのである。
――――なるほど、流石にそこまでは気を回していなかったわ。
秦と筆坂達が向かい合う通路の左側には、丁度彼等それぞれの立ち位置近くに扉があり、その中はどちらの扉からも室内に入れる横長の一室となっている。
つまりこの天使は先の砂煙に紛れて自分側のドアから部屋の中へ侵入。そのまま壁を一枚挟んだ状態でこちらとの距離を一気に詰め、今この瞬間秦側のドアから勢いよく飛び出したのだ。されど――――、
「……アンタ、いくら羽虫だからって態々飛んで火に入ってこなくてもいいのに」
その程度の奇襲にこの秦漢華が動揺する道理もなし。先程彼女は気を回せなかったのではなく、その必要は無いと敢えて気を回さなかったのである。
結局奇襲のアドバンテージが、その圧倒的な実力差を埋めることは叶わず。第四位は飛びかかってきた筆坂をカウンターの要領で逆に殴り倒すと、そのままその体の上に馬乗りになった。
「ぐッ……!!」
「ははっ、捕まえた」
この女が何をしたかったのかは分からない。だが何か具体的な作戦があるというならば、それを実行に移す前に潰して仕舞えばいいだけのことだ。
「私にこれだけ殴られてもまだ死なないなんて羽虫は羽虫でもまるでゴキブリね。でも、残念でした。アンタはここで脱落よ」
そうして秦は自らの権能たる『殲戮』を発動させる。
第四位の右手が一瞬で何か赤黒い幾何学模様に包まれたその直後、彼女は力任せに筆坂の首根っこを鷲掴みにする。
その幾何学模様は二人の接触点を通じて、瞬く間に筆坂の全身を駆け巡り、その肉体をまるごと起爆物に変換していく。
「……ッ!!」
「ハッ、なーに黙り込んでんのよ。ゴギブリならゴギブリらしく哀れに惨めにカサカサ逃げてみようって気概はないわけ? 本当アイツの隣にいるぐらいだからどれほどのヤツかと思えばまさかこの程度とわね……もういいわ、雑魚が混ざると決闘の純度が下がる。これ以上足手まといを晒す前にとっとと消えなさい」
「……ぇだッ!!」
「ハア? 何ッ、それこそ虫の息ってヤツなのかしら? 喋りたいならハッキリ喋りなさい。そんな小さい声じゃ何も聞こえはしないのだけど――――」
しかし、そこで筆坂晴はその苦しそうな顔に、何故かしてやったりと言わんばかりの笑みを浮かべると、
「げひゃひゃひゃひゃひゃッ!! 分からねえかボケナスッ!! ここで死ぬのはテメェの方だっつってんだよオオオオオオオオオッ!!」
そのまま自分の上に馬乗りになっている秦の体を、両足で抱え込むようにガッチリとホールドしたのであった。
――――何がしたいのコイツ……逃げられなくて困ってるのはそっちの方じゃないの?
いや、そんなことはどうでもいい。
それよりも秦は今の筆坂に確かな違和感を感じていた。
この少女、どことなく様子がおかしい気がする。
確か彼女の笑い方は「くはは」とか「ふはは」とか何かそういう如何にも傲慢な感じではなかっただろうか。少なくとも今のような下品かつ獣じみた笑い方をしていた覚えはない。
それによく考えると、なんだか口調も違うような気がするし――――と、そこで頭に思い浮かびつつあった仮説が確信へと昇華した。
「まっ、まさかアンタッ!?」
「ぎひッ、ヒヒャヒャヒャヒャシャハァツ!! ご明察、だが気付くのがおっせえんだよこんのクソマヌケがアアアアアアアアッ!!」
途端に筆坂晴の――――いや正しくはこれまで筆坂晴だと思っていた別人物の輪郭がブレる。
それはまるで映りの悪いテレビ画面のようであった。不安定となった少女の体にはノイズが入り、最早それが『顕理鏡』によって生み出された映像であることは疑うべくもない。
そして映像が完全に掻き消えたその下では、樋田可成を名乗る陰気な少年がギロリとこちらを睨みつけていた。
「クソッ、やることなすこと趣味が悪いわねッ……!!」
恐らく彼等は先程の砂煙で一度秦の視界から消えた隙に、樋田には筆坂の、筆坂には樋田の映像を被せて、こちらが勘違いするように仕込んでいたのだろう。
マズい。こちらは未だに天使体が健在な筆坂だからこそ、爆破の術式を使っても構わないと思っていたのに、これでは本当にこの少年を殺してしまうことになってしまうではないか。
そうして秦は慌てて『殲戮』の術式を解除しようとする。
「……ちょっと、どうなってんのよコレッ!!」
だがしかし、何故かそれでも樋田の体を這いずり回る紋様は消えない。
いや、むしろそれらは二人の接触点を介して、みるみるうちに秦の体の方へと逆流してくる。その逆転劇に有した時間は僅か数秒、気付けば全身を爆弾にされたのはこちらの方であった。
「……へははっ、ようやく俺にも運が回ってきたようだぜ。まさか一回こっきりのぶっつけ本番がこうも上手くいくだなんてな」
「ちよっと、なにッ、アンタ一体何をする気ッ……!?」
一つ最悪な想像が脳裏を過ぎり、秦は思わず感情的になって問いかける。
しかし、対する樋田は苦痛にその顔を歪めながらも、ヘラヘラとこちらを小馬鹿にするような笑みを浮かべて言う。
「……考えてみりゃあ簡単なことだぜ。俺等の刃じゃテメェの鎧は貫けねえ。だが、それがテメェの刃ならどうなんだっていうだけの話だ」
その回りくどい言い回しと、目の前で起きている怪奇現象を照会し、秦は何となく樋田の有する謎の能力の正体を予測する。
それは恐らく手で触れることによって発動する術式の乗っ取り能力。
幾ら何でもそんなふざけた力があるかと言いたくもなるが、逆にそう考えれば今起きているこの奇々怪界な現象にも大体の説明がつく。
なるほど、確かにそんな便利な力があるならば、この秦漢華を撃破することも可能かもしれない。されど――――、
「ちょっ、アンタもしかしてワタシのこと道連れにするつもりッ!? バカなことはやめなさいッ!! 天使体が崩壊するだけで済む私とは違って本当に死ぬのよッ!!」
秦漢華は最早胸底から沸き立つ焦燥感を抑え込むことは出来なかった。
こちらの予想が正しければ、コイツはここで秦を道連れに自爆するつもりなのだろう。事実彼はその両足でガッチリと秦の体を挟み込み、絶対に逃がさないと言わんばかりに封じ込めている。
マズい。
ダメだダメだダメだダメだダメだダメだダメだダメだダメだダメだ。
こんな展開は許せない。そんな結末は認められない。また自分のせいで他の誰かが、それも目の前の少年が死んでしまうことになるだなんて、そんな最悪な結果を許容することは絶対に出来ないッ!!
「離しなさいッ、離してッ!! なにくだらない自己犠牲に酔ってんのよッ!! ハナから命まではとらないって言ってるじゃない。アンタがこんなことのために死ぬだなんて間違っている……だから離して、離せッ!! 離せって言ってるでしょオオオオッ!!」
「……ハッ、なーに一人で明後日の方向に妄想働かしてんだ。寝惚けたこと抜かすんじゃねぇ。誰が悲しくてテメェと心中なんざするかよ」
「へぇ……?」
だがしかし対する少年の答えは予想外なものであった。
一瞬秦の頭に疑問符が浮かんだ隙を突き、樋田は突如左の眼窩へと指を突っ込む。
「ちょ、ちょっとなにしてんのよッ!!」
「がああああああああああああああああアアアアアアアアアアッ!! ……クソッ、畜生、なんで俺はいっつもこんなゴミみてぇな役割ばっかなんだよッ!!」
そうして彼はその白濁した光を帯びる摩訶不思議な眼球を取り出すと、躊躇なく後方へ向けて投げ捨てたのである。
「ひひ、ひひゃひゃひゃひゃッ!! だが、これでいい。マジであとは頼むぞ晴ええええええッ!!」
そのまるで獣じみた咆哮こそが、少年がこの世界で口にした最期の言葉となった。
『殲戮』――――発動。
秦の全身からボワリと赤黒い光が生じた直後、総量62キログラムの人間爆弾が起爆し、半径十メートルをそのまま焦土と化すほどの大爆発を引き起こす。そして、その爆発からほとばしる熱と光と衝撃波とが、樋田の肉体を一片の細胞すらも残さずにこの世界から消し飛ばした。
♢
「……ん?」
「おほっ、もう起きたのか。観たところ精神状態も比較的良好。前回と比べて大分生き返り方がスムーズになったな。うむうむ、やはり努力は人を裏切らん。死に慣れるのは、良いことだ」
それは生き返るというよりも、まるで悪い夢から目が覚めたような感覚であった。
ようやく朧げに意識を取り戻した途端、何だか全体的に頭イカれた戯言が聞こえた気がしたが恐らくは気のせいであろう。
そして、そこで樋田はようやく己が置かれた状況に気付いた。
どうやら自分は今横になっているようで、ついでになんか頭の後ろがふかふかと柔らかい。つまり、これはもしや俗に言う膝枕というヤツなのではないのかと――――?
「枕高えと首が痛くなるな」
「なんじゃそれ、ワタシの足が太いとでも言いたいのかッ!!」
「いってぇッ!! 流石に自重しろ、傷口開くわボケェッ!!」
そうして頭上よりポカポカと降り注ぐ晴の拳から逃げるように、樋田はそこでガバリと体を起こす。
「……ついさっきまであの中心に居たんだと思うと、頭がおかしくなりそうだな」
すると、少年の視界にはすぐに、凄惨な破壊の爪痕が映し出されることとなった。
人間爆弾が起爆したあとの制御室前の空間については、それはもう酷いものであった。その爆発のあまりの威力に床はクレーターと化し、壁は飴細工のようにブチ抜かれ、今もそこらで真っ黒な炭と化した何かがチョロチョロと危なげな炎を称えている。
樋田は確かにこのふざけた威力の爆発を至近距離で食らった。その肉体が細胞の一つも残さずに完全消滅したことも紛れもない事実だ。
だがしかし、少年は今もこうして生きている。
その理由は秦の体が大爆発を遂げるその直前、樋田が『燭陰の瞳』の宿る左目を晴の元へと投げつけたことにある。
例えその他三十七兆の細胞が隈なく焼却されたとしても、『
この時を操る神権代行は、樋田と『天骸』を共有した晴にも発動させることが出来る。つまり彼女は樋田が投げ捨てた『燭陰の瞳』を回収し、そして少年の体が跡形もなく爆散したその直後、唯一残った左目を基点に彼の肉体の時間を巻き戻してみせたのである。
――――まぁ、一度知っちまったら二度とやろうとは思えねえがな……。
秦を倒すにはこれしか方法がない。
確かにそう覚悟した上での苦渋の決断であった。
だが、例え最後には生き返ると分かっていても、やはり一瞬たりとも死ぬことは酷く恐ろしい。爆発によって自らの命が尽き、晴によって再び肉体が再生されるまで僅か数秒と言えば……いや恐らくあの感覚はどれだけ言葉を尽くそうとも、一度死を経験した者以外には伝わらないだろう。
「……オイ、本当に大丈夫かカセイ?」
「あっ、ああん? 別にこれぐらいどうってことねぇよ」
最初はくだらないことをペラペラと話していた晴であるが、気付けば心配そうにこちらを覗き込んでいた。その顔を真正面から見るのがなんだか気恥ずかしくて、樋田は反抗期の子供のようにプイとそっぽを向いてしまう。
また無用な心配をかけてしまった。晴がこのような顔をするのも至極当然である。
樋田が一度死ぬことを前提とした一か八かの大博打。それに彼女も最終的には協力してくれたものの、始めのうちは断固として首を縦に振ろうとしなかったのだから。
「痛ッ、本当マジで容赦ないわねこのクソ羽虫ッ……!!」
「……ッ!!」
後ろの方からガサリと音がして、樋田は慌ててそちらを振り返る。
そこでは折り重なる瓦礫の隙間を縫う形で、秦漢華が力無く床に倒れ伏せていた。その天使体は最早完全に崩壊しており、目を凝らしてみれば生身の肩や太腿にもいくつかの銃痕が確認出来た。
この女の変則高速体術は例え生身であっても充分な脅威となる。恐らくはそう判断した晴が、樋田が目を覚ます前に二、三発撃ち込んでおいたのだろう。
「……どんなトリックを使ったかは知らないけれど、アンタなに普通にピンピンしてんのよ。ムカつく。本当にムカつくわ。そんな卑怯な手でたまたま勝っただけの癖に、これで自分の方が上だなんて思わないことね」
生身に鉛玉を撃ち込まれたというのに、それでも秦漢華は気丈にこちらを睨みつける。しかし、そこで彼女は「だけども」と一度言葉を切ると、
「私は本当に負けたのね。正義は必ず勝つ。まさかこのクソッタレな穢れた世界に、まだそんな夢見がちな子供の幻想みたいな法則が生きてるだなんて……、ふふっ、あはッ、あははははははははははははははははははははははははッ!!」
そうして突如まるで人でも変わったかのように笑い出したのであった。
「凄い、本当にやってみせたわッ!! 有言実行、例え目の前に立ちはだかる理不尽がどれだけ強大でも屈さず、救うと言ったものを言葉通りに救ってみせる。まさかアンタが本当にそんな殊勝な存在になってるだなんて思いもしなかったッ!! 十数年ぶりに顔見たときは明らかに成長の方向性を誤ったのだと思ったのだけど……認めてあげるわ。確かに未だ形は歪だけども、アンタは間違いなくヒーローと呼ばれて讃えられるべき人種だってねッ!!」
だがしかし、そこで再び秦漢華から感情の色が消える。それはまるで激しく燃え上がった薪の炎に、バケツ一杯の水をいきなりぶっかけたかのようであった。
「……もういいわ。殺したければ殺しなさい。愚かにも悪に手を染めて、それで正義の味方に負けたとなれば、もう何をされても文句は言わないわ」
そう何かを諦めたように吐き捨て、秦漢華はその虚ろな瞳をどんよりとこちらに向ける。
――――コイツ一体何を……?
その瞬間、樋田の頭の中にとある仮説が浮かびあがる。いや、正しくは『叡智の塔』で初めて彼女と拳を交わしあったときから、その事にはもう薄々と気づき始めていたのかもしれない。
もしかしたら秦漢華も松下希子と同様、自ら進んで学園の悪事に手を貸していたわけではないのではないか?
或いは何かこの綾媛学園の手駒とならざるを得ない事情があるのではないか?
彼女が根っからの極悪人でないことは最初から明らかなことであった。
そうでなければ一度『叡智の塔』の中で打ち倒した樋田を態々見逃したり、戦術的には足枷にしかならない不殺の信念を貫いたりはしないだろう。
「……クッソ、まさかその程度のことにも気付けなかった癖に、一人で何もかも救った気分になってたとはな」
秦漢華は悪人ではない。
だというのにそれを敵だとあっさり切り捨て、有り得たかもしれない可能性から目を背けることが、果たして本当に正義だと言えるのだろうか。いや言えるはずがない。
そうして樋田は何か見えない力に引き寄せられるように、秦の元へと歩み寄ろうとし――――、
「チッ、なんだよ」
しかし、そこで晴に後ろから肩を掴まれた。
「オイ、カセイ。目的を見失うな」
「いや、でもよ」
「オマエの言いたいことは分かる。だが、そんな悠長なことをしていられるほどワタシ達は暇ではない。今は目の前のことだけに集中しろ、寄り道をしたせいで松下との約束が果たせなくなってもいいのか?」
「ギッ……」
正論も正論のド正論であった。
しかもこれが普段通りの高圧的な物言いではなく、柔らかな口調でまるで諭すように説教してくるから、樋田はもう何も反論をすることが出来ない。
「分かったな。それでは先を急ぐぞ」
「……あぁ」
晴の言うことはいつだって正しい。
こちらはあくまでこの『叡智の塔』に潜入している身なのだ。それに秦の言葉を信じるならば、最低でもあの化け物よりも更に強い天使がまだ三人もいる事になる。その三人のうち誰か一人とでも接触して仕舞えば、その時点で樋田達のゲームオーバーは確定だ。然らぱ、こんな八合目でいつまでも時間を無駄にするわけにはいかない。
そうだ、まだこの戦いは終わってなどいないのだ。松下希子や秦漢華を倒すことはあくまで手段であって目的ではない。
彼女ら迎撃者の試練を乗り越えたその先、この塔の最上階に辿り着いて始めて、樋田が松下希子と交わした約束は果たされるのだから。
「……あと少しだ、絶対にここで終わらせてやる」
「あぁ、今日をこの綾媛学園の閉校記念日にしてやろうではないか」
そうして樋田は、天使体が崩壊し生身に戻ったことで逆に重傷から解放された晴に肩を借り、ボロボロの体を引きずりながらも、なんとか上を目指そうとする。しかし――――、
「ちょっとアンタら何無視してくれてんのよッ!!」
先程まで呆然と二人のやりとりを眺めていた秦漢華が、突如背後から喉が引き裂けるほどの大声で怒鳴りつけてきたのだ。樋田はその声に思わず振り返り、一方の筆坂は腹立たしそうに溜息をつく。
「殺しなさいって、そう言ったのが聞こえなかったのかしら」
「……なんで勝った俺等が、負けたテメェのお願いなんざ聞かなきゃならねぇんだ」
「そういう問題じゃない、そういう問題じゃないのよ。ワタシはアンタの言う通り、この学園のクソみたいな計画に加担していた。そのせいでこの学園にいる何十、いや何百人もの女の子が確実に不幸になったわ……だから私は殺されるべき人間なのよッ!!」
秦はそう叫び散らしながら、体に風穴が空いていることなど気にもせず、無理矢理に瓦礫の下から杯出ようとする。
「殺すべき人間は殺しなさい。裁くべき人間は裁きなさい。そうしないと私みたいな悪人はまた同じ過ちを犯すわ。アンタのその甘さが、防げたかもしれない理不尽を生み出し、幸せに暮らせるはずだった誰かを不幸にすることだってありえるのよッ!!」
しかしそんな秦の必死な叫びは、そこで唐突に断ち切られた。その理由は一発の銃声。先程までずっと機嫌が悪そうだった晴が、遂に第四位の肩へ鉛玉を撃ち込んだのである。
「グッ、ギッ……、何余計なことしてくれてんのよクソ羽虫ッ!! 私とコイツの話に、アンタみたいな部外者がしゃしゃりでてくれてんじゃないわよッ!!」
「黙れクソメンヘラ。そんなに死にたいなら一人で勝手に首でも吊ってろ」
晴はそう吐き捨て再び秦の肩に何発か鉛玉を撃ち込むと、そのまま樋田の手を引いて足早に先を急ごうとする。
だがしかし、それでも秦は瓦礫の隙間から手を伸ばし、その先にいるヒーローを求め続けていた。
「……待ちなさいッ!! オイ樋田可成、無視すんなッ!! 殺しなさい、殺しなさいっつってんのが聞こえないのかしらッ!! 殺せ、殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ、いいから黙って私のことを裁きなさいよオオオオオオオオオオオオッ!!」
「……なぁオイ、アイツ」
「構うな。あまり何度も同じことを言わせるならば、その覚えの悪い頭の風通しを良くしてやるぞ」
その悲鳴のような、いや或いは慟哭のような訴えに、樋田は何度も足を止めかけてしまう。
だが、そうして彼は後ろ髪を引かれるような気分になりながらも、晴に連れられるがまま『叡智の塔』の最上階を目指していく。
しかし、どうしてであろう。
倒すべき敵を倒し、あともう少しで果たすべき約束も果たせそうだというのに、少年の心の中には上手く口では言えないモヤモヤとしたものがつっかえていた。
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