第四話 『堕天系美少女に首っ丈』
エミネンス・ハーバー。
東京都港区内に建つその高級マンションの高さは、驚愕の地上三十階を誇る。
白の大理石で造られた玄関部の上に、黒を基調とした各階層が悠然とそびえ立つ独特のデザインは、高級住宅がひしめくここら一帯の中でも一際その存在を誇示しており――――と、一人暮らしの高校生には随分と過ぎた場所ではあるのだが、事実この
しきりに辺りをキョロキョロと見渡しながら、樋田はおっかなびっくり自室を目指す。彼の背中では現在一人の少女が静かに寝息を立てているが、今はそこまで頭を回している余裕はない。
取り敢えず今はただひらに自宅を目指すのみ。
カードキーを使って玄関を潜り、少しエレベーターで階上へ上がれば、愛しの
「……」
無言で自室のドアに手を掛け、開け放つ。
その向こう側には、今日もしんと冷たい暗闇と静寂だけが広がっていた。
ようやく帰宅を果たしたというのに、少年の口から『ただいま』が出ることはない。この家には彼以外誰も住んでいないのだから当然と言えば当然のことである。食事も掃除も洗濯も全部自分でやらなくてはいけないクソみたいな生活だが、今日だけは一人暮らしで良かったと樋田は心の底から思う。
美少女を拾ってきたので飼ってもいいかなんて爽やかに両親に宣言できるだけの根性は、残念ながら彼には備わってはいないのだから。
樋田は適当に部屋の明かりを灯しながら、そのままリビングの中へと直行する。
視界に飛び込んだのは何の面白みも無い白の壁紙と、どこにでもありそうな木材風のフローリングだ。自分で言うのも何だが、家電以外は漫画とゲームくらいしか置いていない随分と殺風景な部屋である。
そこから障子を跨いだ隣の和室に布団を敷き、取り敢えずはその上に少女の体を横にする。
「……まっ、一応なるようにはなったか」
慣れ親しんだ自室に腰を落ち着け、樋田はそこでようやくほっと胸をなでおろす。帰るまでが遠足というわけではないが、その身にのしかかる重圧からようやく解放された気分であった。
「さてとっ、そろそろ現実見なきゃいけねぇ頃合いだよなぁ……」
これまで緊張と警戒を言い訳に多くの現実から目を逸らしてきた樋田であるが、こうして身の安全が確立された以上、そろそろ今自分が置かれているこの異様な状況とも真正面から向き合わねばならない。
メインテーマは勿論、目の前で静かに寝静まっているこの『少女』の事である。
「なにしてんだ、俺……?」
樋田は客観的に己を省みて、一先ずそんな力無い一言をぼそりと吐き出す。引き返せるタイミングなんて先に幾らでもあったというのに、遂に来るところまで来てしまったという感じがする。
時計を見やれば、樋田が街行く若者に理不尽な頭突きをかましたのが丁度三十分前だ。あの後は取り敢えず少女を抱えて一目散に逃げ出し、物語は現在へと至るという流れである。
「そんなモンどこにもいねぇじゃねぇか、か……」
先程の若い男が言った言葉がふと脳裏をよぎる。
あの男は確実に、いやあの場にいた樋田以外の全ての人間がそうであった。
結論から言うならば、この少女の姿は基本的に人には
確かにそう考えてみれば、群衆の薄情な態度や、こちらに向けられた敵意の視線にも話の筋が通る。きっと彼らの瞳にあの時の樋田の姿は、訳のわからないことを叫びながら暴れている精神異常者のように映ったことだろう。
何故少女の姿は人に見えないのか。そしてそれ以上に、何故樋田にだけは見えているのだろうか。
勿論それ以外にもまだまだわからないことはいくらでもある。そもそもこの少女は人間なのかとか、勝手にこんなところへ連れてきてしまっても良かったのだろうか――――と、ぱっと思いつく分だけでも問題は山積みであった。
「畜生ッ、つうか何で連れてきたんだよ。放って逃げちまえばよかったじゃねえか……」
損得だけで考えるのならば、あのまま気を失った少女を見捨て、知らぬ存ぜぬを通するのが最善だったはずなのだ。彼女の事情は全くもって分からないが、あんな首無しの怪物達を一方的に嬲り殺せるような存在と関わったって、碌な目にあわないに決まっている。
「……って、頭じゃ理解してるはずだったんだけどな」
確かに彼女の姿を見ることが出来るのが樋田だけである以上、彼女を助けることが出来るのもまた樋田しかいないだろう。恐らくはそんな特殊な事情も手伝って、ついつい見捨てることが出来なかったのかもしれない。
この世界は優しい奴や真面目な奴から苦しむように出来ているというのに、一時の気の迷いとはいえ随分と馬鹿なことをしてしまったと思う。
「つーか意味不明なことが多すぎんだよなコイツ。テメェの常識が信じられなくなりそうだ」
まるでそこに何かの答えを求めるかのように、樋田は少女の顔を覗き込む。裏路地の時はあたりが暗くてよく分からなかったので、彼女の姿をしっかりと見るのは実質これが初めてであった。
身長は百四十センチちょっとで体格は痩せ型。
歳は精々小学生の高学年か、ようやく最近中学生になったというところだろう。
艶のある蒼みがかった黒髪は腰の辺りまであり、その一部は耳の上で可愛らしいハーフアップにされている。
服装の方に目を向けてみると、彼女が身に纏っているのは純白のガウンの様な衣であった。
ところどころに血痕や損傷の跡が目立ってはいるものの、樋田のような高校生でも一目でわかる程度には良い材質が使われている。
「……って、あんま女の子ジロジロ見んのは良くねぇな」
全体的に見ても明らかに幼い雰囲気を漂わせている少女であるが、その服の裾からチラリと覗く生足が妙に艶めかしい。樋田でも流石にJSは守備範囲外だが、全く欲情しなかったと言ったらそれはそれで嘘になる。
「……助けた理由か。うん、こりゃ性欲だな。性欲しかねぇよ。本能のせいなら仕方ねぇわ」
そして空から降ってくる系ヒロインの例に漏れず、この天使もまたとんでもない美少女であった。
乾いた返り血に塗れていても、その顔が異常なまでに整っていることは一目でわかる。
肌はまるで白絹のようにきめ細かく、童顔ながらよく通った鼻筋の下に形の良い唇が凛と咲く。今は閉じている瞳も当然のようにぱっちりとした二重瞼で、その可憐さはロリコンでもペド趣味でも何でもない樋田が、うっかり惚れそうになってしまう程で、
「いやっ、ねぇよ。流石に自重するわ……さて、こうして幼女攫ってきちまった以上は、きっちり紳士の義務を果たさねぇとな」
幸い少し寝かしただけで、少女の顔色は随分とマシなモノになってくれた。唇には生気が宿り、頬にも薄っすらと赤みが差し出している。
彼女は気を失ってはいるものの、特に怪我をしているわけでも熱があるわけでもない。具体的に何をすればいいのかは分からないが、樋田のような役立たずでも彼女のためにしてあげられることの一つや二つぐらいはあるはずだ。
ある日突然意識を失って、再び目を覚ましたとき、自分だったらどうされたいか――――そう己に問いかけてみれば、自ずとやるべきことは見つかるだろう。
「まあ、寝ている間も意外と水分は減るって聞くし、まずは飲みモンだろ。後は体力つけるために簡単な食事もあったほうがいいかもしれねぇな。食欲無くても食えるようにお粥とか林檎のすりおろしとか……あぁあと、血だらけでクソ汚ねぇから風呂も沸かさねぇと」
樋田の慣れた手つきによって、テキパキと整えられていく幼女介抱態勢。
側から見れば随分な世話焼きに見えるだろうが、彼は別に優しいわけでも特に情に熱いわけでもない。言うなればそう、拾ってきたペットの世話くらいきちんと出来なければ恥ずかしいというだけだ。
後はそれに加えて自己保身などその他諸々。そう、これはあくまで体裁という己の社会的地位を守るための自己防衛行動に過ぎないのである。
「粥の作り方とか普通に知らねえわ。まあ、白飯に水ぶっかけてレンチンでいいだろ……って、あぁ?」
そう適当に自己完結し、超絶適当な粥作りを始めようとした丁度そんな時であった。
規則正しい時計の針の音に混じって、部屋のどこかから「あぅあぅ」と微かな吐息が漏れてきていることにふと気付く。
声が聞こえてくるのは少女を寝かせている和室の方角――――間違いなく、それは彼女の声であった。
「マジかよ。随分と早ぇご起床だな」
バタバタと足音を立てながら、樋田は慌てて和室へと駆け戻る。障子を開けて部屋の中を覗きこんでみると、確かにその可愛らしい声は少女の口から漏れ出していた。
彼女はしばらくの間寝苦しそうに蠢いていたが、やがておもむろに目を覚まし、
「……っ?」
丸くて大きな対の群青が光を仰ぐ。
それはこちらが想像した通りのパッチリとした大きく可愛らしい瞳であった。
ただ一つだけ違和感があるとするならば、やや蒼みがかったその瞳に光が宿っていないことくらいだ。俗に言う死んだ魚のような目というほどではないが、子供特有のキラキラとした純粋な輝きの様なモノが、彼女の瞳からは一切感じられないのである。
「……目ぇ、覚めたか?」
出来るだけ自然な笑顔を志してはみるも、樋田は不自然に眉がひくつくのを抑えられない。
生まれて初めての美少女とのコミュニケーションに戸惑っているというのもあるが、こんなファンタジーが服を着て歩いてるような存在、距離感が掴めないどころの話ではないのである。
「……」
しかし少女はそんな樋田の苦悩はおろか、その存在すらもまるで気にも止めていない様子であった。
鳩尾の辺りに手を当てながら苦しそうに眉を潜めるが、それもほんの一瞬のこと。彼女は怪我人らしくゆっくりと布団からその身を起こすと、飛んでる蚊でも追いかけるかのように辺りをきょろきょろと見渡し、その視線はやがて樋田の顔へと収束する。
「なっ、なんだよ」
「キサマ、もしやワタシの姿が見えているのか?」
勝手に一人で動揺している樋田を差し置いて、少女はどこまでも無感情にぼそりと呟く。
声自体は年相応のハイトーンボイスなのに、声色は冷静で口調は無駄に尊大。しかしそこにすかしているような嫌味ったらしさは一切なく、むしろ心に凛と一本の筋が通っているような力強さすら感じさせられる。
「あっ、あぁ? まぁそういうことになるな」
「……そうか」
ハキハキとした物言いを前に思わずきょどる樋田。しかしそれに対する天使の返答は鋭く、そしてどこまでも冷たいモノであった。
ある程度は予想していたが、あまりこちらの感触はよろしくないようである。樋田は慌てて次の言葉を紡ごうとするが、その声が少女の耳に届くことはない。
その理由は至極単純。次の瞬間、少女の姿が何の前触れもなく、樋田の視界から
「はぁ?」
あまりにも唐突な出来事に、何が起きたと頭の中が真っ白になる。そしてその直後、
「ガハッ!!」
五本の指が食い込みそうなその感覚は、掴むというよりも抉ると言った方が正しいだろう。圧倒的な握力を前に喉仏は悲鳴をあげ、最早息を吸うことすらもまともに出来はしない。
苦痛に血走る樋田の瞳を、真下からこちらを見上げる少女の視線が冷たく射抜く。つい先程まで無防備を曝け出していた大きな瞳は、今や明確な敵意を以って少年を睨みつけていた。
そこで樋田はようやく彼女があの瞬間こちらへと飛びかかり、その右手で自分の首を絞めたのだと理解する。
――――オイ、冗談だろ……!!
短気な樋田にしては珍しく、その脳内に浮かんだのは怒りではなく困惑であった。
わからない、なぜ、どうしてだ。そんな数多の疑問符が頭の中で溢れかえっては、思考へと至る前に泡となって消えていく。
確かにあんな酷い出会い方をしたのだから、多少の面倒ごとに巻き込まれるぐらいの覚悟ならば出来ていた。しかし、まさか介抱したはずの少女に、問答無用で襲われる羽目になるとは夢にも思うまい。
しかし、そうして惨めに後悔する時間すらも少女は樋田に与えてはくれなかった。
ふわりと唐突に足元から重力が消えた次の瞬間、少年の体は首根っこを掴まれたまま力任せに背後の壁へと叩きつけられる。
「ィ……ギッ……!!」
激しく肉を打つ鈍い音と共に、神経を直接抉られたような鋭い痛みが背中を劈く。想像以上の激痛に思わず悲鳴をあげそうになるが、少女の圧倒的な暴力の前ではそれすらも許されない。
――――何っ、考えてやがんだ、このクサレ幼女ッ。
頭に酸素が回らないのも相まって、思考回路が全くもって仕事をしない。あまりにも全てが唐突な状況の中で、樋田が理解できたのはたった一つの残酷な事実だけであった。
――――このままじゃっ、殺されるッ。
なぜ彼女が自分を襲うのか、そもそも彼女は一体どのような存在であるのか。目の前の少女に関して一切の無知である樋田でも、それだけは身に迫る危機として実感していた。事実彼女がこのまま手を放さなければ、五分もしないうちに樋田は窒息死するに違いない。
死。
ふとその恐ろしい言葉が頭をよぎり、たちまちに心臓を素手で掴まれたかのような恐怖が胸の奥より湧き上がる。
死の恐怖に対する免疫が薄い現代人、それも未成年の樋田にとって、それは堪え難い苦しみであった。
――――死にたくねえ、死にたくねぇ、死にたくねえッ。ふざけんな、こんなくだらねぇところで死んでたまるかってんだよッ……!!
なんとか首枷を外そうと必死にもがくが、万力のように喉元へ食い込む少女の指は文字通りビクとも動かない。指を一本ずつ引き剥がそうとしても無駄、やけになって暴れてみても疲れるだけで何も状況が好転することはない。
「クソッ、たれが……」
体内に残っていた酸素が底をついたのか、段々と意識が遠のいていく。
最早樋田には首を折られて死ぬか、窒息させられて死ぬか、どちらかの選択肢しか残されていないというのだろうか。
「ふん、まぁこの程度で良いだろう」
唐突に訪れた解放のきっかけは、そんなあっさりとした少女の一言であった。
最早こちらに抵抗する術が無いことを確信したのだろう。
彼女は軽々しい口調でそう呟くと、ボロ雑巾でも扱うように樋田の体を適当に放り捨てる。
「――――――――――ッ!!」
一、二分ぶりの酸素にまるで肺がひっくり返ったような苦しみが胸を劈く。窒息状態の反動で軽い過呼吸に陥ること約三十秒。樋田は嗚咽を漏らしながらなんとか息を落ち着かせようとするが、すぐに少女によってその胸倉を掴まれた。
「オイ、答えろ人間。キサマは一体何者だ。
氷のように冷たい視線と共に、少女の押し殺した声が耳元へと注がれる。
どうやら彼女には何かこちらから聞き出したいことがあるようだ。仮にそれが自分の知っていることであれば、樋田は命惜しさに喜んで全てを洗いざらい吐き出したことだろう。
されど、そもそも彼女が何を言いたいのかが全くもって分からない。
クアドロエースはまだ何となく意味が分かるが、ヘキグンにヒソーテンなんて言葉は生まれてこの方一度も聞いたことがない。
素直に分からないと言うべきか、そう樋田が一瞬言葉に迷った次の瞬間であった。
「があああああああああああああああっ!!」
黙秘への制裁とばかりに、少女が樋田の手の甲を力任せに踏みつける。小柄で華奢な体付きからは想像も付かない馬鹿力に、骨は軋み肉は悲鳴を上げる。喧嘩で痛みには慣れている方だと思っていたが、それは今まで受けてきた暴力とは桁違いの激痛であった。
「そうか、答えぬか。まぁ、よい。ならばこちらで勝手にキサマの敵性を測らせてもらうぞ」
少女が恐ろしい。その圧倒的な暴力が恐ろしい。
そして何よりも、次に何をしてくるのかわからないその異常性が恐ろしくて堪らない。
「クソッタレ、やっぱ人助けなんてするもんじゃねぇわッ……!!」
どうやら樋田は予想以上にとんでもないモノに首を突っ込んでしまったらしい。何故、何故こんな目に合わなくてはいけないのだと、声に出ずとも心が叫ぶ。
元々はちょっとした気の迷いだったのだ。
形だけでも命を助けられた借りを返そう。そんなもっともらしい理由を言い訳に、つい手を差し伸べてしまっただけだったというのに。
嫌いな己を少しでも変えられたかと思った矢先にこのザマだ。やはり自分のような弱い人間には、正義のヒーローの真似事など務まらないというのだろうか。
「ハッ、なに夢なんか見てんだっつーの。そんなモンっ、最初からわかってたじゃねぇか……!!」
軽く自暴自棄になりながら、樋田は血が滲むほどに硬く奥歯を噛みしめる。
そのとき、後悔と絶望に打ちひしがれる少年の頭上に、ふと巨大な影が差した。彼は何だと恐る恐る視線を上げ――――そして、絶句する。
「嘘だろ……おい」
『変身』なんて生易しい言葉で片付けるにはそれはあまりにも生々しい。言うならばそう、それは『変異』としか形容出来ない代物であった。
つい先程まで人の姿であったはずの少女の体、その顔の左半分がみるみるうちに人ならざるモノへと変貌していく。
艶のある蒼みがかった黒髪は瞬く間に鮮やかな金髪へと生え変わり、スクリーントーンのような細かい四角片と化した肌が、ボロボロと顔から剥がれ落ちていく。その下に覗くのは陶器を髣髴とさせる無機質な白肌、そのあまりにも神々しい姿を前に樋田は思わず言葉を失っていた。
先程までの彼女を可愛らしいとするならば、今は美しいと、そう表現するべきであろう。
ベース自体は幼い少女のまま変わりはないが、容姿以前にその身に纏うオーラの格が違う。樋田は絶望することも後悔することも忘れて、思わず少女の美しさの前に陶酔してしまっていた。
しかし、彼女という一つの芸術の前では、その容姿すらもただの前座に過ぎない。少年の心を最も揺さぶった最高の美は別にある。
「なんだよ、これ……」
それは
いいや翼としか形容できない何かといった方が正しいだろう。
少女の左肩の下から肌を食い破るようにして生える白の翼。樋田の頭に浮かんだのは羽毛というよりも、今まさに蛹から羽化しようする麗しき蝶のイメージだ。
翼自体は先程も見たが、遠目から眺めるのとこうして近くで相対するのとでは、正しく肌が感じる神秘の格が違う。
最後に少女の全身から迸る細かな光の粒が、頭上に銀河を思わせる鮮やかな天輪を形成し、そこでようやく『変異』は終了した。
その姿は雄大で、その姿は壮麗で、その姿は神聖で、その姿は高尚で、その姿は慈悲に満ち、母性を宿し、愛に溢れ、森羅万象凡ゆるモノを受け入れてくれそうな圧倒的な包容感がそこにはある。
彼女のその神秘的な様を一言で言い表すとするならば、きっと誰もが同じ言葉を口にするに違いない。
「天使……」
天使。
そう少女は紛れもなく天使そのものであった。
翼や天輪といったわかりやすい特徴以前に、樋田はこれほどまでにその言葉に相応しい姿を想像することができない。
まるで譫言のような樋田の呟き、しかし天使はそこに一切の反応を示しはしなかった。ただでさえ無表情な顔を更に無機質にし、その虚ろな瞳は既に少年のことを捉えてはいない。
最早言葉は必要無いと言わんばかりに、天使はその隻翼を以って少年への返答とした。
「なッ……!?」
温かな母性を彷彿とさせる天使の隻翼。そのただでさえ薄く細長い羽根の全てが、捩れ、まるで削れるようにして瞬く間に危うい鋭さを増していく。
その禍々しい姿が、元々道徳を愛する天使の翼であったとはとても思えない。いっそ百の刃を埋め込まれた一種の処刑道具とでも言われた方がしっくりくる。
「オイ、冗談だよなッ……!!」
心の底から嫌な予感がする。人生でこれ程までに恐怖を覚えたのは初めてだ。この天使がこれから何をしようとしているのか、樋田は分かってしまったのだ。そして、わかっていても防ぐことの出来ない残酷な現実にただただ絶望するしかない。
「化け物がっ、やってられったかよ……」
全てを諦め、全てを放り捨て、ただただ項垂れる少年へ向けて、天使は容赦無くその槍を振り上げる。
「そう悲しそうな顔をするな人間、ワタシはただキサマのことをよく識りたいだけだ」
天使はその麗しい唇で無機質に言葉を紡ぐが、恐怖と絶望に塗り潰された樋田の耳に最早その声は届かない。
しかしそんなことはどうでもいいとばかりに、天使は「だから」と曖昧に言葉を区切り、
「――――己の脆弱性を、証明しろ」
次の瞬間、槍と化した無数の隻翼が、樋田の全身を無慈悲に貫いた。
「がああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!!!!!!!」
この世の終わりだと言わんばかりの絶叫と共に、身を焼かれるような鋭い痛みが全身を駆け回る。おびただしい量の鮮血と肉片が虚しく宙を舞うなか、樋田は自分の負った傷の深さに思わず気を失いかける。
肩にも腹にも腕にも脚にも、体のありとあらゆる場所に風穴が穿たれ、最早肉体がきちんと人の形を保っているのかすらも怪しい。どうやら急所は外してあるようだが、その刺し傷の数は優に二百を超えている。
「アっ、えッ……?」
傷口自体は燃えるように熱いというのに、身体は何故か芯の方からドンドンと冷たくなっていく。身を引き裂くような激痛もいつの間にか消え失せ――――いや違う、最早感じ取れなくなってしまったのだ。
こんな酷い状態、ただの高校生が見たって一目で分かる。これは助からない。絶対に無理だ。百パーセント確実に死ぬに決まっている。
――――まだ何もしてねぇつーのに、こんなとこで死ぬのか……。
秒単位で生の感覚が消えていくなか、樋田の脳内をそんな漠然とした後悔がよぎる。
今こうして振り返ってみても、あまりに無意味な生涯であった。誰にも必要とされず、誰にも認められず、誰かに愛されるわけでもなく、誰かにその死を悲しまれるわけでもなく、樋田可成はただ死んでいく。
どうせ生きるのならば、もっと自分を誇れるような生き方がしたかった。
どうせ死ぬのならば、何でもいいからもっと意味のある死に方をしたかった。
どうせこんな人生しか送れないと分かっていたならば、最初から産まれてなど来なければよかった。
最早死の恐怖に泣き喚く気すらも起きない。
どうせ殺されるのならば、最期くらいは思っていることを好き放題言ってやろう。
この理不尽への恨みを、妬みを、憎しみを、己の中で燻るありとあらゆる悪意をこの糞女に叩きつけてやるのだ。
容赦無く再び槍を振り上げる天使を前に、樋田はその口元を下品に歪めて冷笑する。
「ハッ、この法螺吹き野郎が……テメェのどこが天使だっつーの……先に地獄で待ってるぜ、クソッタレの悪魔――――――――――」
されど、そんな散り際の皮肉を最後まで口にすることすら、惰弱な凡人には許されない。
天使は、無慈悲に、冷酷に、何の躊躇もなく、それでいてまるで息をするような気軽さで、樋田可成の首を一思いに切り飛ばした。
――――ぁ。
最後に少年の口から漏れたのは、そんなあまりにも呆気ない空虚な譫言であった。
最早意識があるのかないのかも分からない状態で、ぐるりと視界が一回転する。そこに一瞬映ったのは、今まさに首と永遠の離別を遂げた己自身の姿であった。そのままどこか暗闇へと引きずり込まれるように、段々と気が遠くなっていく。
意識の炎が消えるその直前、樋田は何故か不思議と死が怖くなくなった。
次の瞬間、世界がふいに暗転し、少年の存在、その全てが虚無に帰る。
西暦二〇一六年四月八日。その日、間違いなく、樋田可成は死亡した。
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