第百十三話『たすけて』其の二


 ピクリと秦の体がひくつく。

 それまで黙って暴力に耐え続けてきた彼女が、初めて示した具体的な反応であった。

 そして、その不自然な仕草を悪魔はイエスと解釈したのだろう。元々美形であったはずの顔が、途端に握り潰したパンのように醜く歪む。


「ハハッ、そうかそうか……そうやって黙って俺に嬲り殺されれば、それで贖罪になるとでも思ったのか……? 俺に傷付けられ、殺されれば、お前は罪から救われ解放されると……なら、つまり俺はお前に救いを施していたということになるのか……?」


 秦は答えない。答えられるはずがない。

 だから少女は顔を伏せ、ただ静かに体を震わせるのみであった。


「はあはあ、なるほどな。あぁなるほどなるほど……」


 そうして、草壁は全てを悟った。

 悪かれと思っていたやっていたことが、図らずも相手のためになっていたことを知ってしまった。


「……それじゃまるでこの俺様がみたいじゃねえかッ!! ふざけんなッ!! テメェ、絶対悪であるこの俺様に善行を行わせるなど……クソッ、これは恥辱だ屈辱だ。この俺様の尊厳に対する侵略的蹂躙だッ!! ァアア腹が立つ、殺してやりたいッ……!! いや、ダメだ。殺してはダメなのだ。殺してはコイツを喜ばすことに、ギリギリギリギリギリギリ、クソッタレ一体俺はどうすればッ……!?」


 激怒は必然であった。

 悪魔は気でも狂ったように自らの喉を掻き毟る。


 しかし、それもそう長くは続かなかった。

 次の瞬間、草壁は急に完璧な落ち着きを取り戻す。

 悪魔は最早怒鳴ることも暴れることもなく、素の涼しげな流し目がこちらを一瞥する。

 それが秦にとってはこの上なく不気味であった。


「……そうか分かった理解した。ならば、お前にはお前にとって最も苦しい罰を受けてもらう」


「一体何を……?」


 そう、秦が呟いた直後であった。

 悪魔の足元の影が突如半径五メートルほどの面積にまで拡張される。それはまるで彼を中心として突然黒い沼が出現したかのようであった。

 水のようにユラユラ揺蕩う影の表面、続いてその下から十数匹の黒蛇が一気に飛び出した。その一匹一匹全てが体長三メートルはくだらない大蛇であった。


「うっ、嘘……」


 しかし、秦が絶句した理由はそこではない。

 蛇達は皆何かに巻きつくように緩やかなとぐろを巻いている。

 いや、何かなどではない。

 秦はその螺旋の中に大体小学校中学年ぐらいの男の子の姿を認めた。それも一匹だけではない。他の十数匹も皆一匹につき一人ずつ幼い子供を抱えている。

 


「……お姉、ちゃん」



 しかし、悪夢はそれだけに留まらなかった。

 大蛇の内側より漏れる弱々しい幼子の声、その中に一つだけ聞き覚えのあるものがあったのだ。


「え……?」


 あまりの驚きに一瞬頭の中が真っ白になる。

 秦はその蛇を目玉が飛び出んばかりに凝視する。

 すぐに誰だか分かった。何故なら、その蛇が拘束している少女の髪は日本人離れした鮮やかな赤であったからだ。


「明希ッ!!」

「漢華ちゃああんッ!!」


 姉妹は共にその瞳を潤めた。

 あれだけ草壁に痛めつけられても全く出てこなかった涙が、途端にジワリジワリと溢れ出てくる。


 やはり、その子は妹の明希だった。

 生きていた、明希はまだ生きていた!


 もう見えないはずの顔が見えた。

 もう聞けないはずの声が聞こえた。

 もう二度と会えないと思っていたのに、愛する家族が、大切な妹が、今も確かにそこで生きている。


 ――――一体、何をする気なの……?


 涙を流して共に再会を喜びあいたかった。

 怯える妹を抱きしめて、もう何も怖がらなくていいよと言ってあげたかった。


 されど、今の秦漢華にそれだけの力はない。

 この悪魔が妹に何をしても止めることが出来ない。

 明希と会えて心の底から嬉しいはずなのに、それを更に上回る底無しの恐怖が少女の心を蝕む。


「お願いッ、お願いだから明希だけは殺さないでッッ!!!!」


「人聞きの悪いことを言うな。まだ殺すと決めたわけではない。全てはお前がお前自身で決めることだ」


 そう言って草壁は両手を左右に開く。

 その動きに従い、黒蛇達は明希を抱える個体とそれ以外で左右に分かれる。


 この上なく嫌な予感がした。

 秦は恐る恐る草壁蟻間を見上げる。

 悪魔――――いや、その悪魔以上に最低で最悪なクソ野郎は、晴れ晴れとした爽やかな笑みを浮かべて宣言する。



「さあ、選べ。お前の妹と残りのクソガキ十三人。一方を見捨てるなら、もう一方は生かしてやってもいい」

「ッ……………………!!!!!!!!!!!」



 血が冷水に変わる。

 後頭部を鈍器で力一杯殴られたような衝撃があった。

 あまりのショックに、眼に映る色彩が逆転したような錯覚すら覚える。

 

「……ふっ、ふざけないでよッ!! そんなこと決められるわけ」

「黙れ、お前の事情など知ったことか。早く決めろ。決めなければ十秒ごとにガキを一匹ずつ殺していく」


 青年は無慈悲であった。

 少女の願いなど聞き入れられるはずがなかった。

 当然であった。そもそもこうして彼女を苦しめることこそがこの悪魔の目的なのだから。

 そうして、すぐに悪夢のようなカウントダウンが始まった。


「十、九、八……」


「漢華ちゃん、私のこと選んでくれるよね……?」


「ね、ねぇ、お願いちょっと待って」


「七、六、五……」


「やだ、助けてくれ。オレまだ死にたくないッ!!」


「いや違う。だって、そんな、おかしいわよ……復讐したいってんなら、私を殺せばそれでいい話じゃないッ!?」


「四、三、二……」


「いやあああツッ、お母さん、お母さぁあああんッ!!」


「待てって言ってんでしょッ!! なんなのよアンタァアアッ!!」


「一、――――零」


 静寂がその場を包み込む。

 先程まであれほど泣きじゃくっていた子供達も、今だけはしんと静まり返る。

 きっと、皆怖いのだ。

 今回殺される一人に選ばれるのが怖いのだ。

 本当は今も泣き叫びたいだろうに、それでも少年少女は恐怖を抑えて静まり返る。



「さぁ、殺せ」



 そうして、裁きが下された。

 秦漢華の優柔不断の罪は一人の幼い命をもって償われた。


「やめてッ!! こっ、来ないで――――グギュ」


 蛇の一匹が、その身に抱える少女の上半身を一呑みにした。そのまま黒蛇は首ごと少女の体を持ち上げ、逆さ吊りにする。

 それでも彼女はまだ生きていた。

 蛇の体内からくぐもった叫び声を上げながら、足を忙しくバタつかせる。

 されど、無意味。そのまま少女はゆっくりと蛇の大口の中に沈んでいき、やがて完全に姿を消した。


「あぁ…………」


 漢華も明希も残りの十二人も、皆一人の例外もなく言葉を失う。



「十、九、八……」



 悪魔がそこにいた。

 とても同じ人とは思えないほどに非情であった。


 明希を含めた全ての瞳が一斉に秦を見据える。

 ドクンと心臓が大きく跳ねた。

 四肢が小刻みに震え始める。


 やめて、見ないで。

 決められるわけがない。

 切り捨てられるわけがない。


 しかし、そんな秦の声なき声が届くはずもなかった。

 子供達も実際に人が食われる様を目の当たりにした。

 自分達にこれから降りかかる災厄がどのようなものなのか、具体的に理解してしまったのだ。

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