61 分水嶺
動き始めた頃には、葉那は露店が立ち並ぶ雑踏に紛れ、その背中を見失っていた。走り続けるのは難しいが、早足で人と人の間を縫うことぐらいはできる。葉那の姿を探しながら、通行人と何度も肩をぶつけながら前に進んでいく。
「気をつけろ!」
「すんません!」
何度目かの接触。謝罪をした視界の端で、見覚えのある背中が見つかった。
まるで祭りの喧騒から逃れるかのように、葉那は露店と露店の隙間を縫っていった。それを追いかけると今度は、路地へと入っていく姿がちらっと見えた。
人混みから脱して走り出したわけではない。その背中を今度こそ、視界内に収めた。ただどう声をかけていいか迷ってしまい、しばらく距離を空けて、ストーキーングするようについていく。
あれだけ賑やかだった喧騒が、ちょっと道から外れただけで遠ざかる。
小さな公園に、葉那が入っていく。未だ掛ける言葉がみつからない不甲斐なさが、その入口で足を止めた。ぐずぐずとしていた俺が、ようやく中へ入ろうと決めたのは、感情が溢れ出した音が届いたからだ。
すべり台の滑りきった先に葉那は座っていた。体育座りのような姿で、両膝の上に顔を伏せている。鼻をすすりながら、喘ぐように喉が鳴らしていた。
近づくと、葉那は顔を伏せたまま、盗み見るようにこちらの足元をチラッと伺う。
「……涼瀬たちは?」
「話を聞けたから、満足してたぞ」
「……そう」
納得しているのかいないのか、わからない気のない返事だった。
かける言葉を持たないままここまで来た。だから沈黙に耐えきれず、中身のない言葉が漏れてしまった。
「その……元気だせよ」
「元気だせって、なんのことよ」
「なんのことって……その、頑張ったじゃねーか」
「頑張ったって、私はなにを頑張ったのよ。なにも頑張ってなんてないし。普通だったし。元気出せって言われるほどのことなんてなにもなかったし」
まるで見当違いを責めるように、葉那はまくし立てる。
「むしろ笑いを堪えるのに必死だったわ。涼瀬の奴、廣場が今どうしてるかわかるかって、本人相手に聞いてくるのよ? おまえの質問に答えてるって、喉元まで出かかってさ。これ以上は笑っちゃうから無理だって、つい撤退しちゃったわ」
おかしそうにしている声を、葉那は必死に絞り出した。
言い訳なのは明らかだ。言い訳した本人ですら、きっと俺が信じるとは思ってはいないだろう。だから信じたふりはできなかった。その優しさはときに、憐れみとして受け取られるから。余計に相手を傷つけてしまう。
「私は……大丈夫だから」
だから放って置いて、と言葉の裏で葉那は言った。
その望みと逆を行くように、葉那へと歩み寄った。
「なにが大丈夫だ。辛いときはな、素直に辛いでいいんだよ」
「辛いって……なにが、私は辛いのよ」
「あの輪の中に、マサとして戻れないことだ」
「っ……!」
心の内を正確に見抜かれている。それを悟った葉那は肩を震わせた。
あいつ、今頃なにやってるんだろうな。
自分は目の前にいるのに、そんなことを口にされた。楽しかったその輪には、涼瀬たちの知る自分としてはもう戻れない。その現実はわかってはいたが、目の前で突きつけられるのは痛いほど心に刺さったのだ。
廣場花雅はどこかで生きている。涼瀬たちにそれを伝えることはできても、廣場花雅として彼らの前に立つことはもうできない。そんなのはもう、死んでいるようなものだ。
十六歳が受け入れるには、あまりにも辛い現実である。
こんなときだからこそ、誰かが支えなければならない。
「おまえの気持ちは、誰よりもわかってるなんて言うつもりはない。ただ、俺の前でくらいは我慢するな」
葉那の肩に手を置いた。
辛いなら辛いと、我慢しないで吐き出していいんだ。
そう伝えるつもりで置いた手が、思い切り払われた。
「だから違うの!」
一番欲しくないものを与えられた葉那は、取り乱すように叫んだ。
ずっと伏せられていた顔が、こちらを向いた。
目の端に滲んでいる雫が、線を引くように頬を伝った。
「違う、違うの……違うのよ」
見られたくなかったものを隠すように、葉那は手の甲で涙を拭う。でも拭った先からボロボロと涙が零れ落ちてくる。
「あんなことくらいで、泣くわけないから……これは、そういうんじゃないの」
必死に葉那は取り繕う。
「私は、大丈夫なんだから」
男して築いてきた十四年間の人生を。
「同情されるようなことなんて……なにも、ないから」
こんな姿になってしまったから、沢山の物を取りこぼす結果となった。だからこそこんな姿になっても、前と変わらないままでいられる関係。それだけは失いたくないと、縋るように信じてくれと求めてくる。
まるで追い詰められた袋小路で、見逃してくれと懇願するように。
「だからそんな目で私を――俺を、見ないでくれ……」
その言葉を引き金にして、
そんな目で見られたくないとマサは嘆いた。
俺は、その痛々しい姿に胸が締め付けられるような苦しさはあった。でもそれは、マサが口にした同情からくるものではない。でも、マサは俺の顔がそう見えた。そんな風に見られたくないと必死だからこそ、微妙な表情の変化を読み違えてしまったのだ。
「……折角、ここまで上手くやってきたのに」
まるで大切にしていたものを失ったかのような慟哭だった。
「ただ、前みたいに……やってきたかっただけなのに」
こんな姿を見られてしまったら、もう取り返しがつかないと嘆いている。
「……終わった。もう嫌だ……死にたい」
それがもう返ってこないのなら、
「死にたい、死にたい……死にたい」
このまま終わってしまいたいという絶望に沈んでいく。
隠してきたすべてを、これ以上ない形で晒してしまった。
――ああ、こいつは可哀想な奴だったんだな。さすがにこれは同情してしまう。
そんな風に俺が思っている。マサがそれを本気で信じてしまっているからこそ、一時間前のような関係ではいられなくなる。
俺たちは、いつだって対等な友人関係だった。
対等とは、頭の出来や、見た目の良し悪しや、家柄などのようなものではない。引け目など一切なく、手を取り合えるような関係性だ。
俺の感情を誤解し続けている限り、マサは引け目を覚えてしまう。
可哀想な奴だからと、今までのように相手をしてもらえる。そんな同情など嬉しくもなんともない。むしろ尊厳が大きく傷つくことだ。
泣き止むのを待って、無事に家へと送り届けるだけで、今日という日が終わってしまえば、マサは二度と俺の前に姿を現さない。その確信だけはあった。
家族とすら会いたくないとマサは避けてきた。そんなマサがその先で、どんな人生を送るのか。想像がつかないなりに、そんな人生を歩んでほしくないと思った。
だから、ここが分水嶺だ。
一番の友達の人生がこの肩にかかっている。たしかに重たいけれども、今更気後れするほどのことではない。
結局、早いか遅いかの問題だったのだ。
今年中に決着をつけようと思っていたことが、前倒しになったにすぎなかった。
腹を割って向き合って、自分の弱くて痛くて酷いところをさらけ出す覚悟なんて、とっくにできている。
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