09 一回だけの恋人になにを求む
一回だけ、気持ちに応えるだと?
咄嗟にその意味を理解できなかった。フル回転した灰色の脳細胞が、稼働率百パーセントを超過しスパーク。その飛び散った閃光は桃色に輝いていていた。
俺は彼女に恋をしていると思われている。その前提からどのように気持ちに応えてくれるのか。胸のドキドキが止まらない。
「お気持ちに……応える?」
「一回、だけでしたら……守純さんの、恋人になります」
「恋人に!?」
真白は恥じらいから逸らすように目を伏せた。
一回だけ恋人になるとは、一体どんな言葉だ。そこにどんな意味が込められているのか。
落ち着きを取り戻した俺は、その意図にたどり着いてしまった。
「もしかして……恋人同士がしちゃうようなことを、一回だけって、ことか?」
「……はい。一回だけって、お約束してくださるなら」
「それは、その……」
俺は神に祈るようにして、胸元に手を組んだ。
「一回だけこんな風に、手を繋いでくれるってことか……?」
「……へ?」
「あの真白百合が、俺と恋人繋ぎで手を握ってくれる……そう考えて、いいのかな?」
キョトンとする真白を前に、俺はただ震えていた。
推しの手を握れる。それも手を絡ませた恋人繋ぎで。
まさに奇跡を握りしめるようなものである。
「何秒だ」
「え?」
「何秒、握ってくれるんだ?」
「えっと、その」
真白は狼狽していた。まるで清水の舞台から大人の遊園地に飛び降りたつもりが、
一体何秒手を握ってもらえるのか。……いや、何秒求めていいのか考えた。
アイドルの個別握手会はたしか、五秒くらいだと目にしたことがある。
感謝を押し付けるつもりはないが、俺は推しのピンチを救ったのだ。十秒くらいは保証されてもいいはず。……いや、もっと求めてもバチは当たらないだろう。
「真白さん」
「は、はい!」
「俺はさ、君に恩義を押し付けるつもりはないし、求めてもいない。だけど……それでも恩を感じてくれるなら……一分、握ってもらっていいかな?」
欲張りすぎなのはわかっている。結局恩を盾に求めているのだから、断れるわけがない。こんな頼みはもはや、彼女の尊厳を無視した暴挙である。
それでも彼女なら、笑って許してくれるのではないか。その可能性に縋ったのだ。
「えっと、手を握るくらいでしたら好きなだけ……」
「好きなだけ!?」
「それこそ毎日でも――」
「毎日!?」
つい推しの言葉を遮って叫んでしまった。
なんだこれは。ここは本当に現実なのか?
推しの手を握る権利。握手会の価値が俺ひとりのせいで暴落するのではないかと、思わず恐れてしまった。
「本当にいいのか、真白さん」
「本当にいいのかって……手を握るくらい、大したことありませんから」
「手を握るのを大したことないなんて言わないでくれ!」
思わず立ち上がり、そんな彼女に詰め寄った。
「なんで君は、自分の身体を大切にすることができないんだ……」
その両肩に手を置こうとしたが、推しへのお触りは厳禁である。五センチほど浮かしたところで、置こうとした手を保持した。そんな俺の姿に、真白は圧倒されたように呆然としている。
これは助けられたお礼という名目の口止め料である。いくら愛するものを悲しませたくないとはいえ、好きでもない男に毎日手を握られるなんて……。
「だって、わたしが考えていたことと比べれば、手を毎日握ることくらい……」
「待て、なにを考えていたんだ君は」
「……えっと、その……もっと凄いことです」
「もっと凄いこと!?」
もっと凄いことって、一体なんだ。
推しの手を握る以上に、凄いことがこの世にあるのか。
灰色の脳細胞が桃色のスパークを放つと、ひとつの答えにたどり着いた。
「もしかして……」
「はい……」
「ぎゅってしてくれるのか?」
震える身体を抱きしめた。
聞いたことがある。推しと手を握る以上の接触が許されるイベントのことを。
ハグ会だ。推しと抱擁することを許される、これ以上の接触面積が望めないイベントである。
たしかに恋人を持つ身で、男と抱き合うなんてことは許されない。相当の覚悟をもって望まなければならないだろう。手を軽く扱う彼女の気持ちがよくわかった。まさに一回だけなのも納得だ。
でもそんなのは、地下アイドルのやることではないか。
推しと抱き合える奇跡を喜ぶ以上に、自分の身体を大事にできない彼女のあり方が、ただただ悲しかった。だってそうだろう。文字通り口止め料として、好きでもない男に抱かれようとしているのだ。
「えーっと、それなら毎日とはいきませんけど……」
「待て。待ってくれ。……一回だけじゃないのか?」
「週に二、三回なら――」
「週に二、三回だと!?」
目眩で後ろに倒れそうになったのを、なんとか堪えた。
推しを定期的に抱ける喜びに打ち震えたのではない。彼女は一回だけ恋人になることを想定して、口止めをしようとしたのだ。真白にとってそれと比べたら、ハグは軽いものとして扱っているのだ。
「もしかして君は、更にもっと凄いことを想定していたのか? それと比べたら、ぎゅっとするくらい、大したことないと言いたいのか」
「……はい」
彼女は首肯した。
一体どんな凄いことを想定していたのか。
「まさか……ほっぺにちゅーか? ほっぺにちゅーしてくれるつもりだったのか」
「そのくらいなら……一週間に一度でしたら」
たたらを踏んでよろめいた。崩れ落ちそうになったところを、テーブルに手をつき支えた。
ほっぺにちゅーを、週一でしてくれるだと?
ハグと比べれば接触面積こそ少ないが、唇が頬に触れるなどもはや性的接触だ。そんなのはもう、地下アイドルのやることではない。夜職の営業ではないか。
ほっぺにちゅーが一回きりではないと言うのなら、一体どんな凄いことを彼女は想定していたのか。もうわけがわからなかった。
「ほっぺにちゅーがそのくらいだって言うなら、一体君はなにを許してくれるつもりだったんだ」
「それは――」
「まさか服の上から胸でも触らせてくれるつもりだったと言わないよな?」
「そのくらい――」
「それすらもそのくらいだというのか君は!?」
服の上からとはいえ、推しのおっぱいを触るとか流れ星を掴むようなもの。手を伸ばしても掴めないから、人はそれに願って夢を見るのではないか。性的接触を上回る、まさに不純異性交遊だ。
そんなのはもう、夜職の営業でやることではない。頭の悪いJKユーチューバーのやることではないか。
そして彼女はまだ、そのくらいなんて言う。
「一体なにを……なにを一回だけ、応えてくれるつもりだと言うんだ……」
「……守純さん、もしかしてからかっていますか?」
ムッとした顔で、真白から抗議の眼差しを送られた。自分の決めた覚悟をからかわれたのを不快に思う目であった。
そんな目で見られても、本当に心当たりがないのだ。
からかっていたつもりがないからこそ、彼女の覚悟を察せられない自分を恥じた。
「ごめん、本当にわからないんだ」
「本当、ですか?」
「うん……なにか覚悟を決めたっていうのはわかるんだけど、それ以上は」
「そう、でしたか」
大きな目を見開く真白。驚いてこそいるが、俺の察しの悪さに不快感などは抱いていないようだ。
そして、ふっと口元を綻ばせた。
「ごめんなさい。気持ちに応えられない代わりに、せめて思い出をと思ったんですが……守純さんの心はとても綺麗でした」
「思い出?」
「あの日、助けてくれなければ奪われていたものを差し上げます」
綺麗な笑顔を真白は浮かべた。
恥じらいなんてものはない。そこには覚悟なんてものすら浮かんでおらず、ただただ俺への敬意と感謝を込められていた。
あの日、助けてくれなければ奪われていたもの……?
そこに一度だけ恋人になる。その意味が結びついた。
「まさか……」
「放課後……わたしの家で、お礼をさせてください」
推しの家でのお礼だと?
まさか手作りの夕食でもごちそうしてくれるのか……なんて、思い違いはしていない。彼女の決めた覚悟がようやくわかった。
あの日、伊藤が彼女にしようとしたこと。それはもう、不純異性交遊なんて言葉では片付けられない。最上級の男女の営みだ。そんなのはもう、まるでエッチではないか。いや、マジでエッチなのか。
推しとのエッチなんて、もはやおとぎ話の世界、宝くじを当てるようなものだ。それでも現実として、その奇跡がこの世界にあることは知っていた。
舞台の上で光り輝いていた
ファン感謝企画。
それに等しい奇跡が、俺の上に堕ちてきたのだ。
真白は握った手を口元に添えると、ちらっと目を逸らした。
「それで、その……わたし、初めてなので……優しくしてくだされば」
初めて、だと?
推しの初めてになれるなんて、それこそ異世界転生を望むような、二次元の中にしか起こり得ない絵空事。そんなのはもう奇跡でもなんでもない。ただのファンタジーではないか。
この世界の常識を覆すほどの、ありえないことが……そうだ、俺はタイムリープしていた。俺という存在は、まさに世界の常識を覆す奇跡を超えた奇跡の体現。百合ヶ峰の神にまで祀られた存在である。
まさに人の手にあまる、神のみに許された奇跡を掴んでしまったのだ。
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