10 俺はそれでも君たちの愛は美しいって唱え続ける

 開いた両手に思わず目を落とす。


 これが……神に至ってしまった手か。


 真白に視線を移した。そこにいるのは、あの日すべてを諦め、絶望に身体を震わせていた少女の姿はない。敬意と信頼を厚く寄せ、恩人に報いようとする気高き少女の姿があった。


 でもそこには、恋慕もなければ傾慕もない。心から望んだことを叶えようと、心にもないことを臨もうとしている。


 真白が望んでいるのは、なにもなかったことにするための清算だ。


「上透さんってさ、周りからリリィって呼ばれてるんだっけ?」


「え? あ、はい」


 突拍子もないことを聞かれて、真白は上ずった声で答えた。


「元々、お母さんに『リリちゃん』って呼ばれてたのが、弟たちに『リリー』って感染って。遊びにきた友達に『リリィ』って伝染していったんだって、里梨は言ってました」


 里梨の里は、音読みで『リ』と読む。幼い我が子を呼ぶときの名残が、今でもこうして残っているわけだ。


「ところで、スカシユリの花言葉は知ってるかな」


「スカシユリ?」


 またまた話が飛んだことに真白は戸惑った。


「注目を浴びる。飾らぬ美。あとは親思いとか、元気や歓喜ってのもある」


「は、はあ」


「普通百合っていうのは、下向きに咲く花だ。けどスカシユリは珍しく、上向きに咲くユリなんだ。注目に浴びるっていうのは、そんな姿からくる由来らしい」


「そうなんですか」


 急に衒学的に語り始めた俺に、話の筋が見えない真白は曖昧な相槌しか打てない。


「ちなみにスカシユリのスカシは、上透さんのスキと同じ漢字だ。さて、ここで問題だ。百合は英語でなんて言う?」


「それはリリィ……あ」


 どうやら気づいたようだ。真白は口元に手を当てた。


「上透さんを花にたとえるなら、スカシユリこそ相応しいだろうな」


「ええ。里梨にぴったりな花かもしれません」


 くすりと真白は笑う。


「ちなみにスカシユリには、こんな花言葉もある」


「どんな言葉ですか?」


「あなたは私を騙すことができない」


「……あ」


 口をぽかんと開いた真白は、ぼんやりとした目をした。ここにはいない少女を映しているのだろう。


「真白さん。やっぱり上透さんに全部話すべきだ。たしかに君のしようとしたことは、上透さんを悲しませるかもしれない。でもそんなのは一時のことだ」


「それは、そのとおりですが……」


「たしかに悲しんだ先で泣かれるかもしれない。でもその涙は、君の無事を喜ぶためのものだ。その涙を晴らしたいのなら、もう自分を犠牲にしない。その約束さえすれば、これまでと変わらず笑ってくれるさ」


 所在なさげに真白はうつむいた。過ちを指摘され、落ち込む子供みたいだ。


「それとも上透さんは、こんな悲しい想いをするなら聞きたくなかったって言うような子なのか?」


「そんなことはありません!」


 身を乗り出すように真白は顔を上げた。大事な人の名誉が傷つくのを許せないのだ。


「里梨はそんなこと、絶対に言わない」


「だったらなおさらだ。小さく収まったことを、取り返しのつかないもので隠そうとするなんてどうかしている。それこそバレたら、上透さんの笑顔に一生ものの瑕疵がつくんじゃないか」


「う……」


 また真白は、縮こまるように身体を窮した。


 別に俺は、彼女を糾弾したいわけではない。怒ってたしなめたいわけでもない。ただ自分を大切にできない彼女の姿が、あまりにも痛々しく映ったのだ。


 きっとこれは、恐ろしい目にあった後遺症なのかもしれない。


 幸せが崩れ落ちる瞬間を、リアルに肌で感じたからこそ、その日まで紡がれてきた幸せに固執している。どうせあのとき奪われるものだったからと、まだマシな俺に使って幸せいまを守ろうとしている。


 真白はそれこそ、目の前しか見えないほどに必死なのだ。


「上透さんのことが大切なんだろ?」


「はい……大好きです。愛してるんです……里梨のいない世界なんて考えられない」


 涙ぐむような声で、大切なものを守るように胸へ両手を置いた。


「里梨は優しくて、温かくて……初めて幸せを与えてくれた、わたしの太陽なんです」


「だったら、わかるな」


 俺はそんな彼女の両肩に手を置こうとしたが、すんでのところで思いとどまった。推しへのお触りは厳禁だから、触れない高さで両手を保持した。


「君は今、そんな太陽が陰るような真似をしようとしたんだ」


「本当に……バカな真似をしようとしました」


 俯きながらスカートを握りしめ、真白は重々しい息を吐いた。


「ちゃんと、里梨には全部話します」


 吐き出されたものは、彼女の中に巣食っていた悪夢だったのだろう。


「ありがとうございます、守純さん」


 悪い夢から覚めたように、見せてくれたその顔はどこかすっきりしていた。


 それは教室にいるときに覗ける、誰の特別にもならない横顔ではない。屋上から覗ける花のようにとはいかないが、どこか親しげな、心を許した微笑だった。


 神のみが掴むことを許された奇跡。それを手放したことを惜しいとは思っていない。


 なにせかわいそうなのが抜けるのは、二次元とAVだけだ。


 それに彼女があんな提案をしたのは、俺にも責任がある。


「気にしないでくれ。そもそも、勘違いさせるようなことを言った俺が悪いんだ」


「勘違い、ですか?」


 キョトンとしながら、はてなんのことかと真白は小首を傾げる。


「美しい百合は愛でる主義とは言ったが、君の名前を指しての百合ってわけじゃない」


「へっ!? そ、そうだったんですか? ……うぅ、わたしったらやだ」


 根本的な勘違いをしたことに、百合の顔は羞恥に染まった。


 俺は彼女たちを推してこそいるが、ガチ恋なんてしていない。推しにガチ恋はもうしないと決めたのだ。


 あなたの気持ちに一度だけ応えますと言ったのは、真白の黒歴史になったかもしれない。


「俺さ、かつて心から愛した人がいたんだ」


「守純さんが愛した人?」


「偽りだってわかっていながらも、自分を誤魔化し、百合営業をおもいあっているって信じて……俺は彼女にのめり込んでいた。一生ついていこうって決めて、人生を彼女に捧げていたんだ」


「お相手のことを愛さずにはいられなかったんですね。でも……」


 胸を痛めたかのように、真白の顔には影がさした。不穏な前置きがあったからこそ、この先にあるのは穏やかなものではないと悟ったのだ。


「ああ。それがある日突然、裏切られた。思いつく限り最悪な形でな」


「守純さん……わたし、なんて言ったら」


「気にしないでくれ。もう終わった話だ」


「でも、お辛かったんですよね」


「そうだな。脳が破壊されるほどに……守純愛彦って人間は、一度あの日死んだんだ」


 あの日、俺は脳破壊されて命を落とした。


 やり直す機会を得た俺は、同じ過ちは繰り返さないと決めた。


「だからもう二度と、信じないつもりだったんだがな」


 決めたつもりだったのだが、


「俺はこの学園で、本物の百合あいがあることを知ったんだ」


 ふっ、と真白に微笑みかけた。


「それが君たちふたりだ」


「わたしと里梨が……本物?」


「見つけたのはたまたまだった。でも、ひっそりと百合を咲かせているあいをはぐくんでいる君たちの姿はあまりにも綺麗だった。俺は偽物しか知らなかったから、本物の百合あいはこんなにも美しいのかって心から震えた。君たちを推そう。そう決めるほどに」


「推す?」


「君たちの愛の形を応援したいって、心から思ったってことさ」


「あ……」


 ぽつりと感情を漏らす真白。突然のことに、どう現実を受け入れればいいのかわからないかのよう。でもそこに負の感情は込められていない。誰にも褒めてもらったことのない子供が、初めて人に認められたことを、どう受け止めていいのか戸惑っているようだ。


「真白さん。俺にとって君たちは、ふたりでひとつの花。俺に本物の百合あいを教えてくれた、この世界で一番美しい百合の花なんだ」


「一番美しいだなんて、そんな……」


「人が生きていくためには、ただ食べればいいというわけじゃない。心を豊かにする栄養が必要だ。そして世の中には、百合を愛でることでしか得られない栄養もある。君たちの愛は、俺のような人間の心を豊かにするなによりの源なんだ」


「守純さん……!」


 感極まったように、真白は目を潤ました。


「たしかに君たちの選んだ愛は、多くの人には受け入れられないかもしれない。それが知られたとき、心無い言葉をかけられるかもしれない。だからこそ覚えておいてくれ」


 ポン、と真白の頭に手を置く真似をする。頭上五センチほどでその手を止めた。


「たとえ大手は振れなくても、彼女を愛しているって気持ちには胸を張っていいんだ。周りがなんと言おうが、俺はそれでも君たちの愛は美しいって唱え続けるよ」


 慈しむように真白の頭上の空気を撫でた。


 潤んだ真白の瞳。その目端に溜まった雫は、留まることができず頬を流れていった。それがまた一滴、一滴と流れ続け、ついには決壊したダムのように溢れ出した。


 真白はその手で涙の雨を拭うことなく、


「わたしたちを認めてくれる人がいるなんて……思わなかった」


 頭上の俺の手のひらを包み込むようにして掴んだ。


 柔らかく、そして滑らかな女の子の手。推しの体温が手のひらを包み込んでいる。その熱はまるで、幸福を直接注ぎ込まれるかのようだった。


「人の目から隠れないと、里梨の側にいれない。それがずっとずっと、もどかしかった」


 ヒィたんはヴァーチャルな存在だから、その手を握る機会はなかった。だから同じCDを何枚も買い漁るドルオタの気持ちなんて、ついぞ理解できなかった。


 でも、今なら彼らの気持ちも理解できる。


「なんでわたしたちは、堂々と手を繋げないんだろうって……みんなに認められないのが当たり前なのが、すごく苦しかった……」


 推しに手を握られる喜びを知ってしまったのだ。


「わたしはずっと、あなたのような理解者が欲しかったんだって……それが今、わかりました」


 それこそ推しの言葉が頭に入ってこないくらい、その甘美な喜びに陶酔していた。もはや酩酊状態である。


 そんな酔いから覚めると、


「お願いします。どうかこれから、あなたの隣にいさせてください」


「え……?」


 唖然とした。


 なぜ俺は、推しに告白されているのだ。


 この短い時間になにがあったのか。涙しながらも喜びに満ちたその顔は、それこそ屋上から眺めてきたものである。全幅の信頼を置くものへ捧げる、心からの笑顔であった。


 わけがわからなかった。


 もしかして、タイムリープの後遺症で時間が飛んだのか? 実はあれから一年とか経っており、色々とあって百合はもう枯れた後。色んなものを乗り越えて、心を通わせ、俺たちの間に恋の花が芽生えた。


 まさに今、桜が咲こうとしているクライマックスなのか?


 そんなことがないのはすぐにわかった。


「守純さん。わたしとお友達になってください」


 推しかのじょは誰もが恐れ多いと辞する、神の隣に並び立つことを望んだのだった。

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