11 放っておけるわけないでしょう
夏休みが終わるまで、残り一週間。
参考書を求めて、電車を乗り継ぎ大型書店まで足を伸ばした、その帰り道のこと。お店を出るなり、ポツリと鼻先に当たった水滴。空を見上げると、お店に入るまでは晴れ渡っていた空が雲で覆われていた。
帰りの電車に乗るまでは、服が濡れるのを気にするほどでもなかった。そんな雨も最寄り駅に着く頃には土砂降りとなり、駅構内は天気予報を信じたものたちが溢れていた。十五分も歩ければ各々の行くべき場所へたどり着けるというのに。いつ止むかもわからぬ雨の壁に阻まれていたのだ。
人混みの合間を抜けて、わたしは雨の壁の向こう側へ踏み込んだ。
天気予報を信じきれず、備えがあったわけではない。目的のものを手に入らなかったから、雨に晒されて困るものがなかったのだ。
十秒も経たず、ずぶ濡れとなる身体。傘も差さず、鞄をその代わりにすることもない。晴天の下と変わらぬ態度で歩を進めるものだから、すれ違う人たちは目を丸くし、こちらに一瞥をくれていた。
行き交う人たちや、あの駅に取り残された人たちと違い、わたしには濡れて困るものはない。ただ、それだけのことだった。
河川にかかる橋を半分ほど渡ったところ、ふと、足を止めた。
家を出たときは水底を覗けるほどに澄んでいたが、滝のように雨が水面を叩きつけるものだから、うねるように波立っていた。濁流と呼べるほどではないが、すべてを洗いざらい流してしまいそうな、普段では見られない側面を見せていた。
特になにかを洗い流したかったわけではない。
ただなんとなく、欄干を掴んで川面を覗き込んだ。
なにかの拍子に後ろから押されても、落ちる心配なんてない。それこそ意図的に乗り越えようとしなければ、この欄干の向こう側へなんて行くことはできないだろう。
だから急に、そんなわたしに手を伸ばされたことに驚いた。
背中を押すものではない。腕を引くものであった。
「え……?」
手を引かれるがまま振り返ると、そこには見覚えのある少女がいた。
自分と同じ学園に通う女子生徒だ。廊下ですれ違うことがある程度で、顔見知りですらなければ名前も知らない相手である。精々、隣の教室に入っていくのを見て、そのクラスを知っていることくらいだ。
同学年の生徒なんて、廊下を歩いていればいくらでもすれ違う。全員の顔なんて、さすがに覚えてはいない。それなのになぜ、彼女の顔をすぐに思い出したのか。
彼女のような人間こそ、人に愛されるために生まれたんだな、と、尊敬というよりは憧憬。憧憬というよりは、羨望を覚えたことがあるからだ。
どんな輪の中にいようと、亜麻色のボブカットがつい目に入る。いつだってその顔は太陽の写身みたい眩しく綺麗。その魅力を惜しみなく振りまくように、いつも爛漫な笑みで周囲を照らしているのだ。
そんないつも爛漫に輝いている顔が、今は切羽詰まったようだった。
用があってわたしの手を掴んだはずなのに、目が合うとハッとした彼女は、なにかを探すように目を右往左往させている。
「えっと、その……真白さんだよね?」
「はい……そうですけど」
「あの、私……あなたの隣のクラスなんだけど、上透里梨って言うんだけど」
「はあ……」
「んーっ……えっとね、あのね」
自分でもなにをしたいのかわかっていないかのように、ただ言葉を探し続ける上透里梨。ああ、そんな名前だったんだ、と思いながらポカンと首を傾げるしかできなかった。
一体わたしに、なんの用なのだろうか。
彼女ほど人に愛される人が、面識のないわたしに用ができるとも思えない。
「こんな風にいきなり降られて、いや、参ったよね。折り畳み傘があったからよかったけど、もう足元がびしょびしょだよ」
たしかにそんな小さな傘では、この大雨を防ぎ切ることは難しいだろう。わたしに伸ばした腕は、もうずぶ濡れになっていた。
「私は買い物の帰りだけど、真白さんも今帰るところ?」
「はい。参考書を買いに行ったんですけど、欲しいものが見つからなくて」
わたしは空を見上げて、ふっと笑った。
「でも、それで正解でした。この雨で濡れて困るものがありませんから」
「いや、いやいや……」
なにを言っているのかわからない。そんな顔で上透さんはかぶりを振った。
上透さんはつい口にしそうになった言葉を飲み込み、逡巡した後、
「そんなずぶ濡れじゃ風邪引いちゃうし、うちでお風呂入って行きなよ。ここからうち、近いからさ」
そんな提案をしてくれた。
本当に優しい人なんだな、とわたしはそのとき思った。
やはり多くの人に愛されるだけある。廊下ですれ違うくらいのわたしに、こんな風に声をかけてくれるなんて。
でも、彼女のような人の時間を奪うのは申し訳なかった。
「ありがとうございます。でも、後五分くらい歩けば家に――」
「いいからいいから。遠慮しないで」
上透さんはわたしの声を遮って、その腕を引いたのだ。
その強引さに戸惑ったけれども、抵抗する気は浮かばなかった。
自分なんかのために、彼女は小さな傘の半分に入れてくれた。それまで守られていた部分をびしょ濡れにしてまで、わたしを気遣ってくれたのだ。その優しさを踏みにじるような真似をすることができず、わたしは引かれるがまま彼女の家に連れて行かれた。
◆
「お風呂、ありがとうございました」
脱衣所から出て、キッチンを横切った先にあるリビング。ソファーに腰掛けていた上透さんは、わたしに気づいて立ち上がった。
「ちゃんと身体の芯まで温まった?」
「はい、温まりました」
「うんうん、それならよし」
座ってと言うように、上透さんはソファーに手を指し示した。
言われるがままわたしはソファーに座ると、それと入れ違えで上透さんはキッチンへ入っていった。
ひとり知らない世界にぽつんと取り残されたかのよう。
所在をなくしたわたしは、ただ目の前の光景を眺めていた。
ゲーム機が置かれたローテーブル。さっきまで誰かが遊んでいたかのように、コントローラーが乱雑に置かれていた。そんなローテーブルを囲うL字のソファー。わたしが座っていない側の背もたれには、男物の服が何着かかけられていた。
そんな日常の名残。
わたしが見たこともない家族の世界に思いを馳せた。
「ごめんねー、散らかってて」
キッチンから上透さんが戻ってきた。その手にはグラスがひとつずつ握られている。
「いつもいつも、やりっ放し脱ぎっぱなしにするなって言ってるんだけど……あいつら、そのまま遊びに行っちゃってさ。私が片付けるのも癪だから、帰ってきたら片付けろって叱るつもりだったけど……こういうときに限って、お客さんは来るものだね」
上透さんは腕でコントローラーを払うと、そこにグラスを置いた。透明のグラスに満たされている茶色い液体。おそらく麦茶かもしれない。
「……その、ごめんなさい」
「ああ、こっちこそごめんね。そういうつもりじゃなくて。うちの弟たちはだらしないってだけの話だから」
上透さんは両手を振りながら、わたしの隣に座った。
「弟さんがおられるんですね」
「双子のね。だから他所様の二倍やかましいの」
やれやれと言うように首を振る上透さん。呆れているところはあっても、負の感情は一切込められていない。仲がいい姉弟なのだろう。
上透さんはグラスに口をつける。テーブルに残されたグラスに手を差し向けられたので、一口分だけ喉を潤しテーブルに戻した。
「でも、よかった。帰ってきたら入るつもりで、お風呂を沸かしておいて」
「あ、ごめんなさい。わたし……」
「いいのいいの。それより服、サイズ大丈夫だった? わたしのほうが、ほら、大きいから。ちょっとゆるいんじゃない?」
手のひらを自分とわたしの頭の上を行き来させる上透さん。
わたしより上透さんの目線は、額の広さ分くらい高かった。
「たしかにちょっと大きいですけど、気になるほどではないです」
用意してもらったのは、可愛らしいラッコのプリントTシャツにハーフパンツだ。外出着としてはともかく、この余裕あるサイズ感はルームウェアとしては丁度いい。事実、上透さんの部屋着なのだろう。猫の肉球がシャツにプリントされている以外は、格好に差異がない。
大きい分には問題なかった。だから気になったのはその逆で、胸元に手を置いた。
「ただ、こっちがきつくて……伸びてしまわないか心配で」
「あらあらー、それはごめんなさい真白さん。私の小さなもので、とてもとても大きな悩みを抱えさせてしまったようね」
「へ……あ!」
よそ行きのような高い声で、ニコニコする上透さん。その笑顔の裏の意図に気づいて慌てた。
「ご、ごめんなさい! そういうつもりじゃ……!」
「冗談冗談。怒ってない怒ってない」
ニヤニヤしている上透さん。
「真白さん、さっきから謝ってばかりだね。同じ学園に通う一年同士なんだから、もっと気楽にしてくれたほうが、私は嬉しいな」
背もたれに身体を預けた上透さんは、白い歯をこぼしていた。廊下でよく見られる、爛漫な笑みを向けられた。
気楽に、と言われて逆に固まってしまった。
いつもそうだ。沢山話しかけてもらっても、なにを返せばいいのかわからない。下手な返し方で、相手の気を悪くするのを恐れるあまり、会話のテンポが遅れて噛み合わない。それでいつも話しかけてくれる相手を戸惑わせてしまう。
ひとつの答えを求めるときは、あんなにも人と接するのが簡単なのに。相手との共通認識を失い、取り留めのない話になった途端、わたしは他人に追いつけなくなってしまう。
そんなわたしが間を埋めるためにできるのは、問いかけることだけだった。
「その……なんで、ですか」
「なんでって、なにが?」
「わたしたち、クラスも違えば話したこともない」
なぜここに呼ばれたのか。その疑問だ。
「そんな顔見知りですらないわたしを、なんで家に呼ぼうと思ったんですか? わざわざお風呂まで貸してくれて……」
腕を引かれるがまま、わたしはこの家に連れてこられた。家は近いと告げたのに、お風呂に入りに来なよと言われた。
面識もない相手にそこまでする、上透さんの行動原理がわからなかった。そこまでしてもらえる理由が知りたかった。
「放っておけるわけないでしょう」
「え?」
「土砂降りの中、傘も差さずに川を覗き込んでるんだもの。このまま帰しちゃいけないなって、思ったわけ」
「……あ」
そういうことかと、上透さんの意図がようやくわかった。
たしかにあの状況は、身投げしようとしている風に見えたかもしれない。
「そんなつもりで覗いていたわけじゃなかったんです。勘違いさせたようで、ごめんなさい……」
「じゃあ、どういうつもりだったの? 後、謝るの禁止」
上透さんの人差し指が、わたしの唇にピタッと張り付いた。そうすることで謝罪の言葉が口から出るのを封じるようだ。
「まさか流されている子猫でも見つけた?」
「いえ……」
「じゃあ飛ばされた傘でも追っていた? それだったら早とちりしたこと、謝るけど」
「傘は持ってきていなくて……いつ、止むかもわかりませんでしたし、家も遠くないので、いいかなって」
「うーん……」
理解に苦しむように、上透さんは目頭を摘んだ。
「色々言いたいことあるけど、続けて」
「駅に行くときは、あの橋は必ず通るんです。家を出たときは、川の流れが全然違うなって」
「それで覗き込んだわけ?」
「そのまま、ボーッとしちゃって」
「はぁ……」
「ごめん――」
「それ、禁止」
上透さんの人差し指がまたピタッと、謝罪が漏れ出る唇を封じた。
「真白さんさ、最近なにか嫌なことあったわけ?」
「嫌なこと、ですか? いえ、特にそういったことは」
「本当? 真白さんが取っていた行動は、普通のそれじゃない。悩みがある人のそれ。それこそノイローゼを疑われるレベルだよ?」
「ノイローゼって……」
人様に心配をかけたとはいえ、そこまで言われることだろうか。
さすがに失礼ではないかと開こうとすると口は、人差し指が遮った。
「言っとくけど、真白さんを見つけたのが警察だったら、問答無用で保護されて家族や学校に連絡が行くんだから」
「そ、そんな大事になるん、ですか?」
思わず怯んでしまった。それが本当なら、見つけたのが上透さんでよかった。
「それがわからない時点で、なにか抱えている証拠だよ」
上透さんはグラスに口をつけ、喉を鳴らした。
「こういうのは大抵、人間関係のトラブルが原因。それも親しい相手とのね。家族や友達相手となにかあって、思い悩むようなことでもあったんじゃないの?」
そうしてまた、上透さんは問い直す。
わたしがあんな行動に出てしまうほどの嫌なこと。それが必ずあることを、上透さんは疑っていないのだ。
「いいえ、やっぱり思い当たりません。だって――」
でも、そんなものは本当にないのだとかぶりを振った。
「なにかあって思い悩んでしまうような、親しい相手なんていませんから。わたしには」
上透さんが想定するような相手は、わたしにはいないのだ。
上透さんは目を丸くしながら、なにかを考えるような顔をした。
気まずいような空気が流れる。まるでわたしたちの間に流れている空気が止まったみたい。どうやらわたしは言葉の選択を間違えたみたいだ。
いつもはこうならないよう、言葉を選んでいる。選んでいる間に話のテンポは遅れていき、いつしか噛み合わなくなっていく。そうしてこれに近い空気が流れ、相手に戸惑わせてしまうのだ。
それが今日に限って、上透さんがどんどん言葉をかけてくれるから、つい調子に乗ってしまった。それでもたどり着く結果は変わらずだ。
やっぱり、わたしは人と関わるのに向いていないみたい。
気遣ってよくしてくれた上透さんには悪いことをしたと自己嫌悪に陥りそう。
これ以上、上透さんの時間を奪うのも申し訳ない。今日のところは暇を告げ、後日改めてお礼をした後、彼女とはそれっきりにしよう。そう思ったら、
「わたしね、ちょっと今、傷心中なんだ」
ぽつりと上透さんは話しを始めた。
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