34 前日譚 帰れない 0

 待ち合わせから店選び、そして満足いくまで堪能した焼き肉食べ放題。一学期の終わりに相応しい締めを迎えられた一日だった――と思ったが、最後の最後でトラブルに見舞われた。


「あー、もう。ビショビショよ」


 葉那は肩をすくめながらボヤいた。


 美少女がこんな言葉を公共の場で吐くのだ。妄想力豊かな不埒ものなら、思わず股間が膨らんでしまうだろう。でも今の葉那の状態は、言葉以上の意味はない。文字通り、雨でびしょ濡れになっているのだ。それは俺もまた、同じである。


 焼肉店に入るまでは、雨脚こそ強かったが風は全然だった。それが店を出る頃には、豪雨に加えて強風のコンボに進化していたのだ。駅からたった五分の距離で、横風でずぶ濡れというわけだ。


「やっぱ台風がヤバくなったな」


 半壊した傘をなんとか折りたたむ。


 駅ビルの階段を下りながら、葉那は深い息をつく。


「足元くらいは覚悟してたけど、ここまで酷くなるとはね」


「家に着く頃には全身ずぶ濡れ確定だな、こりゃ」


「服がまとわりついて気持ち悪いわ」


 葉那は自分の服装を見下ろす。白のティーシャツにデニムのショートパンツとシンプルな格好だ。濡れた服が肌に張り付いて、身体のラインが出てしまっている。


 葉那の存在に気づいた男たちは、すれ違い様にみんなチラチラと目を向けていた。


「気づいてるか? 男ども、みんなおまえを見てくるぞ」


「知ってるわー。向こうはそれを、気づかれてないと思ってやってるのよ」


「俺もティーシャツ一枚じゃなかったら、上を貸してやれたんだが」


「気にしてないから大丈夫よ。このくらいの目線、美人税だと思って収めてるから」


「割り切ってんなー」


「ま、十四年も男として生きてきたからね。今の自分が、いかに扇情的な姿かくらいわかってるもの。これで下着が透けて見えようものなら、私で抜いてくださいって言っているようなものよ」


「自分を客観視できていてなによりだ」


 不埒な目で見られて、本人が嫌な思いをしていないならなによりだ。かつて自分は向こう側だったからの理解力である。


 下着が透けて見えないのも、対策をしっかりしているのだろう。


 だけど、葉那のことは心配がないと言ったら嘘になる。


 夜遅くに、ひとりで買い物に行く。それに抵抗がない葉那が、性欲を自分に向けてくる男たちに、どれだけの危機感を持っているのか。


 これから夏休みだから、友達と夜遅くまで遊ぶ機会は多いだろう。そこで危機管理の甘さが、悪いものを引き寄せなければいいのだが。


 もはや保護者目線で心配していると、


「あれ、どうしたんだろ」


 葉那が遠くを見ながら不思議そうに言った。


 ぞろぞろと押し寄せるように、大群がこちら側に向かってくる。なんらかの団体やグループではない。老若男女問わない他人同士の集団が、波のように迫ってくるのだ


 呆気に取られながら、俺たちは集団に道を譲る。今下ってきた階段を、集団は我先にと上っていくのを呆然と見届けた。


 一体何事かと口を開いている葉那の横で、俺は察した。


「おいおい、もしかして電車が止まったのか?」


「え、止まった?」


「この台風で、全線ダメになったんじゃないのか?」


「嘘でしょ……」


 この集団は改札側からやってきた。おそらく運転見合わせで足止めを食らっていたところ、完全に全線運休になったのをアナウンスされ、一斉に大移動を起こしたのだろう。弱者男性時代に、同じことに遭遇した覚えは何度かある。


 集団に向かって声を投げかける。


「もしかして電車、もう動かない感じですか?」


「ああ、今日はもう動かないってさ」


 気の良さそうな兄ちゃんが通り過ぎ様に答えてくれた。


 改めて現実を目の当たりにして、喉を唸らせた。


「マジかー。やばいな」


「……ヒコの言うこと、素直に聞いとけばよかったわ」


 数時間前の自分を恨むように、葉那は肩を落とした。


「ごめんヒコ。私のせいだわ」


「俺だってここまでのことになるなんて思わなかったんだ。折角美味いもの食ったんだし、どっちが悪いとかそういうので、後味悪くするのは止めようぜ」


 ポン、と軽く葉那の肩を叩いた。


「それよりも今考えるべきは、この後どうするかだ」


「こうなったら、タクシー捕まえて帰るしかないわね」


「いや、それは無理だ」


「お金のことなら気にしないでいいわ。非常事態だし、母さんに言えば出してくれるわよ」


「それは助かるが、そういうことじゃないんだ」


 まだ途切れることなく、上っていく集団を見やる。


「同じ考えの奴が、どれだけいると思う? 初動が遅れたんだ。俺たちがたどり着く頃には、タクシー乗り場はパンク状態だ」


「げ……だったら漫画喫茶とかカラオケで、一晩過ごす?」


「高校生は、補導される時間帯は入れないからな。年齢確認されなければワンチャンあるが……」


 2020年代であれば、年齢確認はしっかり求めてくる。でも今は2000年代だ。店側のその手の意識が低かったような気もした。俺が十八歳で社会に出たばかりの頃、ネカフェの会員証作るのに身分証明証すら求められなかった記憶がある。


「あの台風の中、それに賭けて探してみるか?」


「うーん……」


「ちなみにこうして悩んでいる今も、同じ考えの奴らで近場は埋まっていくぞ」


「……うーん」


 葉那は腕組みながら、唸りながら悩みに悩んでいる。


 たった五分の距離で、傘が半壊する天気である。そんな中、入れる確実性のない一晩の宿を探し回るのは勇気がいる。後は24時間やっている飲食店か。だができれば個室で休みたいという欲もある。


「そうだ!」


 天啓を得たとばかりに、葉那は両手を叩いた。


「いい場所があるわ!」


「いい場所?」


「十八歳未満は入れないのに、年齢確認が緩そうで、個室で、ベッドもあって、お風呂まである。しかもAVが見放題らしいわ」


「そんな夢のような施設――はっ、まさかおまえ」


 そんな夢のような施設に、俺もすぐに思い至った。たしかにあそこなら、年齢確認なんてされないだろう。なにせ成人男性と女子中高生がふたりで利用しちゃっているのを、俺は沢山見てきたではないか。


 葉那は名案を誇るように言った。


「ええ。大人のホテルよ」

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