45 飲み放題

 結局、百合の好意に甘えて、泊まらせて貰うことになった。


 帰る術がないのだから仕方ない。これはやむを得ない緊急避難なんです許してください、とここにはいない大明神に心で拝んだ。


 食事まで頂いた上に、寝床まで提供してくれる。そんな百合に対しての感謝を行動に移すため、洗い物を申し出た。当然百合は固辞するどころか、お風呂も沸いているからお先にどうぞとまで促されてしまった。そんな百合に負けじと、これだけは譲れないという態度を見せると向こうは折れてくれた。


 そして洗い物を終えた俺は、普段見ないテレビに釘付けとなっていた。


 首都圏で起きた、倒木による電車の運休。やはりニュースでも取り上げられており、この豪雨のせいもあり明日の始発に間に合うか。復旧についてはそう論じられているから、今日はもう無理だと諦めた。


 そうやって洗い物の権利を手にしてから、かれこれ一時間が経っていた。


 廊下へ通じる扉が開く音に、ビクリと身体を震わせる。


「ごめんなさい、愛彦くん。お客さんを差し置いて、お先にお風呂頂いちゃいました」


 すっかりリラックスした様子の声音。それに釣られるよう振り向くと、お風呂上がりの百合の姿が目に飛び込んだ。


 ラッコのプリントティーシャツの上に、ロング丈のカーディガンを羽織っている。下に履いているショートパンツは、学校でもついぞ見られなかった太ももを晒していた。


 外では決して見られない、無防備な百合の姿。里梨に申し訳ないと思う気持ちと同時に、胸底から感動が込み上がってきた。


 脳内永久保存版決定である。


「い、いや……こちらこそ、家主を、差し置くわけにはいかないからさ。気にしないでくれ」


「ありがとうございます。お言葉に甘えて、ゆっくりさせて頂きました」


 その感動は動揺として表に出てしまうが、百合はまったく気づいていない。


 俺が座るソファーに百合が近づくと、いい匂いがふわりと香った。お風呂上がりの百合の体温まで伝わってくるようであった。


「どうですか、電車の様子は?」


「もうダメだな。今日どうこうじゃなくて、明日の始発云々の話をしてる」


「じゃあ、やっぱりお泊り決定で間違いなかったですね」


 背もたれ越しに立つ百合は、どこか楽しそうに手を合わせた。


 一人暮しの部屋に男を泊める。それに一切の心配を見せないどころか、嬉しそうにはしゃいでいる節すらあった。完全にお泊まり会気分である。


「愛彦くんもどうぞ、ゆっくりお風呂に入ってください」


「あ、ああ。ありがたく頂くよ」


 ドギマギしながら、「廊下を出てすぐ右の扉です」という声に従った。


 お風呂上がりの百合は可愛いを通り越して色気があった。ほんのり上気した肌は、つい手を伸ばしたくなるほどに魅力的だった。


「いかん、いかんいかん!」


 煩悩を払い落とすように頭を振った。


 全幅の信頼を寄せてくれているからこそ、百合は心配をして泊まってくれと申し出てくれたのだ。そんな百合を男の欲情丸出しで見てしまうのは、不遜であり裏切りでしかない。性的搾取するなど以ての外だ。


「煩悩退散、煩悩退散」


 そう唱えながら浴室へ入る。


 あ、バスタオルどうしようと思ったと同時に、洗濯機に上がっているそれが目に入った。どうやら百合が予め、バスタオルを用意してくれていたようだ。こんな気の回る百合の気持ちは絶対裏切らない。感謝の気持ちを捧げようとすると、すぐ側にある洗濯かごに目に入った。


 先程脱いだばかりと思わしき百合の衣類。当然そこには下着も収められており、なんなら目につく一番上にあった。どうやら里梨が来ている気分で、そこまでの配慮に頭が回っていなかったようだ。


「白……」


 ただ、目についたその色が口から漏れ出た。


 その瞬間、パンとセルフビンタをした。


「煩悩退散煩悩退散煩悩退散!」


 冷たいシャワーを頭から浴びながら、煩悩まみれの頭を冷やす呪文を唱え続けた。


 少しは頭がマシになったところで、キンキンに冷えた身体を浴槽に浸した。両手ですくった湯を何度も顔に浴びせていると、絡みつくような違和感があった。


「ん、なんだ?」


 顔についたそれを取って見ると、銀白の糸のように長いなにかだった。一体これはなんなのか、五秒ほど考え込む。


「はっ!?」


 その正体に思い至って、自らを包み込む湯に目を落とした。


 糸のようなものの正体は、抜け落ちた百合の髪である。つい直前まで、ここに百合が入っていたなによりの証拠であった。




 さて、好事家諸君。


 君たちは『ありがとう水』というものをご存知だろうか。


 スク水の股間から垂直にポタポタと落ちる水滴。その現象に『ありがとう水』という名前をつけ、ネット掲示板にその熱量をポエムとして書き込まれた。こいつは変態ほんものだと掲示板の住民たちは騒ぎ出し、まとめサイトに転載され、ありがとう水という言葉はその日限りで終わらず、後世に語り継がれることになった。


 変態ほんものはやっぱり違うなと当時は笑っていたが、今はそれを笑う気にはなれなかった。


 かつてアイドルの入った風呂の残り湯が、フリマアプリを通して十万円で出品されて、炎上した事件があった。こんなの誰が買うんだと思った一方、ヒィたんの風呂の残り湯が十万円で売られていたら、当時の俺は迷いなく買っただろう。


 届けられたそれを手にした俺は、ただただ感謝を捧げながら、


「ありがとう」


 と口にするのだ。


 推しが入った風呂の残り湯は、まさに金銀財宝に値する。これは俺が変態ほんものだからではない。推しがいるものすべてが口にしたい、胸に秘めた願いなのである。




 飲み放題。


 両手でお湯をすくい取りながら、そんな言葉が頭によぎった。


 こんな奇跡チャンス、ここで逃したら二度とない。


『大丈夫よ。どうせ気づくわけないから、相手を傷つけることにはならないわ』


 そんな悪魔の囁きが、我が人生の盟友の声で聞こえた気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る