44 帰れない
試食したチョコケーキは、忖度抜きで美味しいものだった。味もさることながら、目で楽しめるほどに可愛らしい。これをトリュフケースに収め、ラッピングしたら市販品と遜色ない。義理だと知らずに貰ったら勘違いしてしまう。
そう太鼓判を押すと、百合も安心したように喜んでくれた。
里梨の反応が楽しみだと、明日への期待を高めていた。
そうしてチョコの味見が終わったら、はい、解散。というわけではなく、六時が過ぎた今でもまだ家に残っていた。
お礼に夕飯をご馳走したいと、前もって言われていたからだ。
「どうぞ、召し上がってください」
「いただきます」
心からの感謝を込めながら手を合わせた。
百合が作ってくれたのはオムライス。チキンライスを薄い卵で巻いた、家庭のスダンダートタイプだ。付け合せにはレタスにポテトサラダ、ブロッコリーにミニトマトと彩り豊かである。そこにポトフまで付いていた。
これが推しの手料理だというだけで泣けるのに、オムライスにはケチャップでハートまで描かれている。百合が天然なのはわかるが、それでもこの夢のような一時にいつまでも浸っていたい。そう思えるほどの多幸感に包まれていた。
スプーンを入れるのすらもったいない。そう思いながらオムライスを口にした。
「美味しい」
「本当ですか?」
「うん、お世辞抜きで美味い。料理を初めて半年経ってないとは思えないよ」
「よかった」
俺の反応に安堵した百合は、自分の分を口にした。頷いでいるということは、納得できるものに仕上がったということだろう。
推しのオムライスを食べる日がまた来るなんて、夢にも思わなかった。ファミレスコラボのときに注文した、ヒィたん萌えきゅんオムライスアクリルスタンド付き(三千円)の何十倍、いや何百倍も美味しかった。
「卵の包み方も綺麗だし、中のチキンライスもいい味出してるな」
「この味を出すために工夫しましたから」
「ケチャップを炒めて、水分を飛ばしてるんだろ? そしたら酸味も飛ぶし、ご飯を混ぜたときベチャっとならない」
「……正解です」
わかりますか? という目で挑戦状を送られたので、受けて立ったら当たっていた。ズバリ答えられてしまい、百合は目を丸くした。
「愛彦くん、普段からお料理されてるんですか?」
「基本、休みの日だけはね。やることなくて家にこもってる日は、なるべく俺たちで作ってるんだ。母ちゃんの負担もそれで減るしな」
「俺たち?」
「葉那のことだ。夜はいつも、うちで食ってるからさ、あいつ」
家事スキルゼロであるにも関わらず、葉那は中学卒業後、寮を出て一人暮しを始めた。実家がすぐ側にあるにも関わらず、わざわざうちのマンションで一人暮しを始めたのは、身体の問題で家族と距離を置いていたからだ。
引っ越してきてから俺に正体を明かすまで、葉那は外食と弁当ばかりを食べてきた。それを見かねた母ちゃんが、だったらこれからはうちで食べなと言ったのだ。
それ以来、母ちゃんの手伝いをしながら身につけた料理スキルで、土日は食事の用意をしている。ちなみに俺は一人暮しが長いので、元々料理スキルは身についていた。
「本当に仲がいいんですね、ご飯まで毎日一緒なんて」
「ま、朝は一緒じゃないけどな。あいつは朝弱いから、俺に合わせるのは無理だってさ」
だから葉那の朝は、うちで食べずに簡単に済ませている。
「でも、愛彦くんは偉いですね。お母さんの負担を考えて、自分からご飯を作ってるなんて」
「母ちゃんには、いつまでも元気でいてほしいからな。甘えるところは甘えさせてもらうが、楽できるところは楽させてあげたいんだ」
ポトフに一口つけた。温かくて優しい、染み入る味だ。
「なにせ母ちゃんは、いて当たり前の人じゃないから。そんな相手が当たり前のように面倒見てくれることに、感謝だけは忘れたくないんだ。間違いなく今の俺は、幸せものだからさ」
小学生にして母ちゃんを失った人生を送ってきたからこそ、常々そう思っている。
親戚に引き取られたときも、飯はたしかに黙っていても出てきた。でも、ここは自分の居場所ではない。居心地の悪さを覚えながら過ごす生活は、子供の俺にはあまりにも生きづらい環境だった。
そんな経験を経たからこそ伸び伸びと、そして活き活きできるこの環境がどれだけ恵まれているのか。母ちゃんがいる生活がどれだけ幸せなのか。痛いほど身に沁みるのだ。
百合はふっと、優しく微笑んだ。
「座右の銘を、有言実行してるんですね」
「そういやハルやん相手に言ったのを聞かれてたんだったな。なんか恥ずかしいな」
「いいえ。とても立派なお言葉ですよ。今度ハルやんさんに会ったら、仲間にいれてもらえないか頼んでみます」
「百合までカルトに染まるのは止めてくれ」
どこまで本気で言っているかわからず苦い顔を浮かべた。それが面白かったのか、百合はくすくすと笑った。
そこにドカン、という轟音が飛び込んできた。
俺たちはビクリとすると互いに顔を見合わせた。ふたり揃ってカーテンが締め切られた、窓の向こう側に意識を向ける。
「驚いた……雷、ですか?」
百合がびっくりした表情を浮かべた。
どちらともなく席を立った俺たちは、窓際に向かった。
カーテンを開けると、初めて雨が降っていることを知った。このマンションを訪れたときは、どんよりとした雲が覆っていただけだったのに。
「おいおいおいおい。こんなの降るなんて聞いてねーぞ」
窓を開けた瞬間、地鳴りのような雨音が飛び込んできた。
まるで台風がいきなりやってきたみたいだ。横風が強く、叩きつけるような雨が室内に入り込んできたので窓を締めた。
「ただのゲリラ豪雨ならいいんだが……」
一体いつから降っていたのか。果たしてこの豪雨がすぐ止むのか、皆目検討がつかない。
「こりゃ、ずぶ濡れ確定かな」
この殴りつけるような横風、もし傘があったとしてもずぶ濡れ不可避である。
折角楽しい夕食だったのに、帰りのことを考えるだけで眉間にしわが寄ってしまった。
そんな俺を見ながら、百合は目をパチクリとさせた。
「ま、愛彦くん。この雨の中、帰る気なんですか?」
「さすがに一人暮しの女の子の家に、いつまでもいるわけにいかないからな」
「二月ですよ? こんな雨の中帰ったら、風邪引いちゃいます。わたしのことは気にしないでいいですから、雨が止むまでいてください」
「そう言って貰えるのは嬉しいけど、この調子じゃ、いつ止むかもわからないからさ。結局雨に打たれて帰るハメになるかもしれないなら、遅くなる前に帰るよ」
「雨が止まなかったときは、泊まってくれても構いませんから」
「いやいやいやいや……さすがにそれは、不味いだろ」
恋人持ちの一人暮し。そんな女の子の家に泊まるなんて論外だ。いくら里梨大明神がなんでも許してくれたからとはいえ、さすがにここは越えてはならないラインであることくらい承知していた。
たとえ風邪を引くことになろうとも、里梨の心を乱すような真似はしたくない。彼女の信頼だけは裏切りたくなかった。
「でも、このまま愛彦くんを帰すわけには――」
そんな心配をかけてくれる百合を遮る音が、俺のポケットから響いた。
ケータイの着信である。
「悪い、ちょっと待ってくれ」
ポケットからケータイを取り出し画面を見ると、相手は母ちゃんだった。
「もしもし、母ちゃん?」
『あー、愛彦。今どこにいるんだい?』
「友達の家。今夕飯をご馳走になってるとこ」
この予定については、昨日の時点で伝えていた。だから母ちゃんが気になっているのは、その帰りについてだろう。
「近くで雷が落ちてみたいでさ。外見たら台風みたいでびっくりしたよ」
『じゃあ、まだ友達の家にいるんだね?』
「うん。この調子じゃ、いつ止むかもわからんからさ。夕飯頂き終わったら、すぐに帰るからタオル用意しといて」
『そのことなんだけど。あんた、その友達の家に泊めてもらうことはできないのかい?』
「はぁ?」
間の抜けた声を漏らした。
今日夕飯をご馳走になる相手が百合であることは、母ちゃんには包み隠さず伝えていた。百合が一人暮しをしていることも、恋人がいることも承知の上だ。
そんな家に泊めて貰えなんて非常識、母ちゃんの口から出るとは思わなかった。
「いや、この雨がヤバイのはわかるけど、泊まってくのはもっとヤバイだろ」
『そりゃ母ちゃんだって、この雨だけなら帰ってこいって言ったよ。でも、帰る足がないってなるとね』
「帰る足がないって、どういうことだ?」
『電車が動いてないらしいんだよ』
「はぁ!?」
思わず窓の外を見る。バケツをひっくり返したような雨に変わりはない。
『隣の奥さんが言うには、うちの駅の線路内で倒木があったらしくてね。この雨だから今日中に復旧は無理だろう、旦那が帰ってくるのを諦めたって言ってたんだよ』
「おいおい、マジかよ……」
苦々しい顔を浮かべながら、なんとか帰る手段を模索する。
「じゃ、じゃあタクシーを――」
『捕まると思うかい?』
「だよなー……」
この豪雨と電車が止まったことに、困っているのは俺だけではない。みんな考えることが同じなら、この状況から捕まえられる一手は浮かばない。きっとネカフェやホテルも同じだろう。
かといってこの豪雨の中、数駅先を歩いて帰るのは現実的ではない。
他に案はないのかと考えて、詰んでいることに気づいた。だから母ちゃんも心配して、非常識な提案をするために、やむを得ず電話してきたのだろう。
どうしようもない。
「これは、もう……」
それを悟って振り向くと、そうしろと言うように百合は力強く頷いた。
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