43 悪魔の企み
週明けの月曜日、その放課後。
「えっと……お邪魔、します」
「はい、いらっしゃい、愛彦くん」
俺は人生で初めて、女の子の家に足を踏み入れた。それも
「おお……」
通されたリビングを見て感動した。綺羅びやかな貴重品が飾られているとか、ファンシーな女の子空間が広がっていたからでもない。むしろモデルルームのような、判を押したように家具が配置されていた。一介の高校生が一人暮しするには広く贅沢な部屋だが、それでも普通から逸脱しているような特異なものはなかった。
ただ、ここで百合が普段生活しているのかと思うだけで、ここではないどこかへ到達した気分になったのだ。聖域の空気が澄み渡っているように、妖精たちが集まるお花畑のような甘い匂いで満ちていた。
「なにもないところですが、寛いで待っていてください」
勧められるがままにソファーに座ると、百合は入ってきた扉とはまた、別の扉へ姿を消した。おそらくそこが百合の部屋なのだろう。
ひとり残された俺は、コートを脱ぎながら落ち着きなく辺りを見渡した。
恋人に内緒で、女の子の一人暮しの家に招かれる。俺たちは男と女。そこになにも起きない訳はない。そう期待して、土曜日からずっとこの瞬間を待ち望んでいた。これから繰り広げられるだろう夢のような時間に思い馳せたのだ。
というわけではない。
NTRあり背徳感マシマシ終わり辛めが抜けるのは、二次元とAVだけである。里梨に内緒にした理由には、そんなトッピングはコールされていない。あるのは甘々でキュンとしてしまうような、百合の想いである。
明日に控えたバレンタインへ向けて、協力を仰がれたのだ。
と言っても、チョコ作りの補助を求められたのではない。与えられたのはただの味見役であり、第三者の自信が持てる言葉が欲しいようだ。
「お待たせしました」
二分もかからず、百合は部屋から戻ってきた。コートを脱いだ制服姿で、買い物袋を手にしている。
「今日は愛彦くんに話を聞いてもらえてよかったです」
買い物袋を見せてくるように、百合は持ち上げた。
普段のお弁当作りを見るに、百合はダークマターを生成するような特異属性は持っていない。よっぽどのポカをやらかさない限り、順当に美味しいものができるだろう。つまり俺は百合の手作りチョコを食べられるという、ただの役得を手にしたのだ。それ以上の役に立てることはなにもない。
そう思いながら昼間に、百合がどんなチョコを作るのか聞いていた。
「へー、バームクーヘンとクリームチーズを混ぜるだけで、土台のケーキになるのか」
「後はそのケーキ生地を型で切り抜いて、湯煎したチョコでコーティングするだけだから、失敗はないですけど……ちょっと、手抜きすぎますかね?」
「いや、こういうのは気持ちだからさ。張り切りすぎて難易度あげて、直前に失敗するよりよっぽどいいさ。恋人ができて初めてのバレンタインだから、ちゃんと送りたいんだろ?」
「はい。折角だから、手作りで送りたいなって」
「ホワイトチョコを使った、白とピンクの彩りだろ? 絶対に可愛いって喜んでくれるさ」
「そうだったらいいな」
「けど、その作り方だったら、カカオ効果を使っても面白そうだな」
「カカオ効果?」
「カカオ分が多い分、滅茶苦茶苦いブラックチョコだ。好きもの以外には罰ゲームみたいな味だが、ケーキにまとわせる分にはいいアクセントになりそうだなって」
「愛彦くん、それです!」
百合は手を合わせ、目を輝かせた。どうやらレシピ本に捕らわれて、ブラックチョコを使う発想がなかったようだ。百合の家を訪れる道中で、一緒にお店を訪れこのチョコだと教えたのである。
「一時間もかからないので、愛彦くんはテレビでも見て待っていてください」
袋片手にキッチンへ向かう途中、百合は言った。
テレビなんかよりも、百合が頑張ってる姿を見るほうが百万倍面白いし心が豊かになる。心に栄養をあげるチャンスを、逃す手はなかった。
「折角だ。作るところを見学していいか?」
「見学と言われると、ちょっと恥ずかしいですね」
「昼みたいにさ、第三者の目だからこそ気づくこともあるかもしれないし」
「わかりました、どうか見守っていてください」
面映ゆそうに百合は承諾してくれた。
後に続いてキッチンに入ると、百合は壁にかけていたエプロンを装着した。キョトンとしたリスの顔の上に、
エプロンのデザインはともあれ、目の前には制服エプロンの天使が降臨していた。加えゴムをしながら後ろ髪を束ねる姿に、心で合掌しながらありがとうございますと唱え続けていた。
これを見ただけで、今日来たかいがあったというものだ。
「土台になるケーキはもう、朝のうちに作っておいたんです」
手際よく準備をしながら百合は言った。
「じゃあ、後はくり抜いたケーキを、チョコを浸すだけなんだな」
「そこに飾り付けもしますけど、やることは概ねそれだけですね。溶かして浸して冷やして完成です」
人差し指を振りながら、百合はリズムを刻んだ。
作業も特筆することがないほどに、手際よく行われていく。ハート型にくり抜かれた一口大のケーキを、溶かしたチョコに浸し、刻んだドライフルーツやアラザンなどで飾り付け、後はそれを冷蔵庫で冷やした。予定になかった黒色が追加されたことで、白とピンクが一層映えると百合は喜んだ。
「冷えたら味見、お願いしますね愛彦くん」
「任せてくれ。女の子の手作りチョコなんて初めてだから、しっかり味あわせてもらう」
「初めてなんですか? じゃあ今までのバレンタインは?」
「……母ちゃん以外から貰ったことないな」
恥ずかしいを通り越して、達観しながら答えた。
必死に生きてきた三十三年間はもちろん、人生やり直してからも一度もない。唯一女子の評判がよかった時代があった小学生のときも、バレンタイン前には距離を置けと担任にたしなめられた。
「あの、廣場さんからは……貰えなかったんですか?」
「葉那からそういうのは一度もないな」
なにせあいつは元男。いつだって貰う側である。百合たちと並ぶ美少女なだけあって、当時のあいつは美少年で通っていた。貰いすぎたものを分け与えるという、慈悲をかけてもらったくらいである。
百合は気まずそうな上目遣いで様子を窺ってくる。
「そ、そうだったんですか」
「あ、でも今年はあげるから、クラスで待っててくれって言われたな。母ちゃん以外からのチョコ、そのカウントに貢献してやるってさ」
「あ、それはよかったですね」
今年は悲しい男は生まれない。そうホッと喜んでくれる百合だが、俺としては後ろ暗い気持ちしかなかった。
なにせあいつが企んでいる、悪魔の計画を嬉々として語られたからだ。
計画はこうだ。葉那はフリーズドライの苺をチョコにしたものを用意している。ひとつずつ包装されていないから、それをクラスの男子全員に回って、ひとつずつ取っていってもらうとのこと。クラスに男子は十人しかいないから、大した労力もかからない。葉那がそうするとクラスメイトに伝えているから、他の女子もばらまき用のチョコを用意しているようだ。
義理とはいえ男子全員平等に、沢山の女子からチョコが配られる。ここだけ見れば、率先した葉那の行いは褒められるべき善行である。あいつが進んでそんな善行を積むわけがなく、当然のように裏がある。
どんな裏があるのか。俺のクラスで行われる計画はこうである。
「ヒコー。徳を積みに来たわよー」
「なんだ、なにを企んでる?」
「お母さんチョコしか貰える予定のない可哀想な友人を、救済してあげようという企みよ」
葉那はここで、開封済みのチョコが入った袋を向けてくる。
「みんなにはひとつずつだけど、ヒコは特別に二個取っていいわよ」
「俺を救済したいならせめて、こんなばら撒き用じゃなくて、別途に用意してほしかったところだな」
「ホワイトデーを期待していいのなら、帰りにいいの用意するけど?」
「相手に負担をかけないとは、いい心がけだ」
「でしょう? 私、そういうのできる系女子だから。ただの自己満にお返しなんて用意されても、こっちが困っちゃうから」
「うん。これ、美味いな」
「でしょう? これ、私がこの世で一番好きな食べ物だから。もし世界が滅びる前に食べるなら、絶対コレよね」
葉那はそんな思ってもいない嘘をつきながら、自分でも一口パクリと食べるようだ。
「日景くんもおひとつどうぞ」
「え」
と葉那は自分の唇に触れた手で摘んだチョコを、隣の席の日景に差し出すようだ。まるであーんするように、その口元まで運ぶのだ。恐る恐る口にするだろう日陰の唇に、その指が触れてしまう。
「どう、これ、美味しいでしょう」
「え、あ、うん……ありがとう、廣場さん」
そうして微笑みかける葉那に、日陰はドギマギしてしまうというわけだ。
「ということを、私に夢中な男共にやろうと思うのよ。どう?」
「ほんと救いようのない悪魔だな、こいつは」
こんな計画を打ち立てるこの悪魔は、やはり始末されてしかるべき存在だ。そんなことをされたら男たちは、ますます葉那へのガチ恋沼から抜け出せなくなるだろう。
「一応、母ちゃん以外からのチョコがひとつカウントされるだけ、マシといえばマシかな」
さすがに友人がこんな計画を立てていると言えず、百合の前では苦い顔をするしかない。
そんな俺の顔がおかしかったのか、百合はくすりと笑った。
「だったら愛彦くんは、今年は三個貰えるってことになりますね?」
「三個?」
母ちゃん、葉那、さて後ひとりは誰だと首を傾げようとしたところで、思い当たった。
咄嗟にチョコが収められた冷蔵庫を見やった。その顔を時計の秒針のように、カチ、カチ、カチ、カチとゆっくりと百合に向けた。
「愛彦くんの分も、ちゃんと作ってますよ」
百合は胸元で五指を合わせながら、華やぐように微笑んだ。
女神だ。女神が今、ここに降臨している。
「ありがとうございますありがとうございますありがとうございます」
「もう、大げさですね、愛彦くんは」
心で示したつもりの感謝が表に出てしまい、百合は少し困ったように眉尻を下げた。でもそれは一瞬で、裏表のない花が満面に咲いていた。
「ここまで喜んでくれるなら、わたしも作ってよかったです。一日早いですけど、帰るときに受け取ってください。そしたらわたしが、今年の愛彦くんの初めてです」
義理チョコというよりは、友チョコくらいの気持ちなのだろう。そして誰よりも早く渡したいというその気持ちは、俺の幸福を高ぶらせた。
「いや、俺は学校で貰うよ」
それでも、ここは申し出を断った。
みんなの前で百合からチョコレートを貰う。周りの嫉妬を煽ることで、世界ランクを上げる糧にするつもりだからだ。
「百合があげる初めては、俺が貰っちゃ悪いからさ」
というわけではない。
今回のバレンタインを張り切った理由。それがあるからこそ、守るべき順序がある。決して蔑ろにしたわけではないのはわかるが、百合にはそれを大切にしてほしかったのだ。
ハッとした百合は、その心遣いを嬉しそうに受け取った。
「そうでした。愛彦くん、もう少しだけ待っていてくださいね」
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